ジャン・アルプ-1

 そもそもアルプがこうした世界へ最初の一歩を踏み出したのは、パリ、ベルリン、ミュンへンやミラノ、それにモスクワなどのアヴァンギャルドが目覚ましい活躍をとげ、革新的な成果をもたらした激動の十年問がすでに経過した後だった。

 1915-16年頃から、アルプはチューリヒで独自の芸術路線を作品にも表わしはじめるが、それはそれまでのロダンの流れを汲み取る裸体画習作や後期印象主義的な絵画とは明らかに一線を画すものだった。アルプのこうした初期のインクドローイングの出発点としては、カンディンスキーの作品の影響が認められるかもしれない。しかしアルプの場合、求めていたのは「芸術における精神的なもの」よりも、完全な抽象化へ移行した後での絵画の要素に新たな価値を見いだそうとすることだった。無駄なものがいっさい省かれた、いくつかのフォルムのみが表わされている絵画や、初期のレリーフ作品は、かたちに明確さと単純性を与えており、その一貫した平面性は、不規則に宙に飛び交うようなカンディンスキーの構成よりも、むしろマチスの流れと共通しているかのように見受けられる。アルプはその後もキュビスムや抽象の手法であくことなくさまざまな芸術上の実験をくりひろげていったが、結果的にそれは、彼独自の生物形態的(バイオモーフィズム)な表現を見いだし形成することにつながったそしてこの生物形態的な表現こそ、生涯、アルプにとって重要な意味を持つことになったのである

 また、カンディンスキーの場合、「精神的なもの」が抽象化の結果として生じることが求められたのに対し、アルプの場合は同じ抽象化でも、様々なモチーフが分解され、レリーフ状にちりばめられた世界に到達した。ただし、それらの作品に一見うかがわれる明るさや無邪気さは、あくまでも表面的な観察に過ぎないのである。すでにカール・アインシュタインが、アルプの初期のレリーフ作品を取り上げ、そこに映し出される世界の分裂化の悲劇的な一面について鋭く言及しているように。

 このようにアルプは、戦前に芽生えたアヴァンギャルドが打ち出す理念を、つねに自分に合った方向で生かし、またその方向へ導こうとした。アルプとダダ運動が結びついたのも、こうした背景を踏まえると自然の成り行きだったといえる。彼がアヴァンギャルドの楽観性を決して単純に信じ切っていたのではなく、第一次大戦の経験と認識を通して常に何らかの懐疑的な姿勢を貫き続けていたからである。シュヴイツタースが旧大陸ヨーロッパの破滅を、キュビスムによる視覚の分散化を更に一段階エスカレートさせ、画像を崩壊させることで表わしたのと同様、アルプもまた戦争における人間の尊厳軽視に対し、一見夢想的な作品で応じたのだった。ただ、そこでは危機と救済とが詩によって隣合わせの状態なのが、多くの人には見過ごされがちではあったが。また、近代の発展が破壊的な傾向を帯びてきたのに対し、アルプが抱いていた批判性は、後期における彼の作品のなかでいっそう明確に現れてくるようになる。

 しかし実際にはそれがアルプの全作品に一貫して流れている点で、アルプが必ずしもアヴァンギャルドー辺倒の枠に当てはまり切らない理由もみえてくるのである新しい形態言語を求め、独自にそれをつくりだしていったアルプだったが、作品に登場するかたちの内容的な意味性は最終的に完全に失われることなく存在し続けた。たとえ、そこから関連性のあるイコノグラフィー的な言葉を演繹することが容易なことではなかったにしても。 アルプの作品に登場する、例えば、卵、へそ、アンフォラ(古代の壷)、森、鳥、雲や星といったものは、起源や宇宙といった概念の集合を連想させる。また、繁殖、成長やメタモルフォーゼはいずれも一方から他方への移行を可能にするものだ。しかし、やはり似たようなモチーフを扱ったクレーなどと比べても、アルプの作品のモチーフにはどこかもっと単純明解で直接的な性質が感じられる。そして同様のことがアルプの作品のタイトルにも当てはまるのである。短く、意外な組み合わせで単語が並ぶタイトルは、クレーの、どちらかといえば気分によって誰もが独自に解釈ができるタイトルとは、全く質を異にするものだ。いってみればアルプの詩情は、とらえどころのない曖昧な中間地帯からかもしだされるのではなく、はっきりとした具体的なかたちとなって現われる。まさに画家と彫刻家、それぞれの分野における特有の法則の相違の表われでもあるだろう。それでもクレーとアルプとは、自分が以前つくった作品を切り分けたり、分解することによって新しい作品を創り出したという点で、共通の結びつきはあるのである。ただし、アルプはこの手法をすでにロダンのドローイングにおいて見出していたという。

 アルプが用いたこの技法を、特別なケースであるにしろ、モダニズムにおける典型的なコラージュテクニックの範疇に属するものとして人はとらえがちだ。しかし、コラージュが、本来芸術とは無関係であるはずの材料をそのまま作品に取り入れたのものであるのに対し、アルプの場合、作品のためにわざわざ自らの手でつくったものを使用した点に決定的な違いがある。従ってアルプのコラージュの場合、切ったり分けたりといった作業は、主に目的を達するための手段としてではなく、純粋な芸術上のコンセプトと見なされるのである。こうした作品の遊び的な性質にもかかわらず、そこにはある種の暴力的、破壊的な要素が認められ、それがアルプの「ちぎった紙片」を通して完全に独自のやり方となったのである
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 1930年頃になると、アルプはちぎった紙片を組み合わせたコラージュを手がけるようになる。アルプはシェルレアリストたちとは逆に、本来相反する性質の材料同士を重ね合わせたアッサンブラージュの技法も用いようとはしなかった。 このようなアルプ式のコラージュを用いることこそ、彼にとってはシュルレアリスムに対する返答を意味したのではないだろうか。

 というのも、本人の自覚する以上に周りは彼をシュルレアリスムと結びつけようとしたからである。当時のパリで、アルプはさまざまなグループの一員として活躍していた。そのグループのひとつが、具体的な芸術を熱心に提唱した「セルクル・エ・カレ」だった。アルプの妻、ゾフィーもここに加わり、深く影響を受けたようだ。それは、その時期である1915年頃から、彼女の作品は新たな抽象絵画の試みと分析が中心となっていることからも察せられる。アルプは抽象のアヴァンギャルドが目指す路線、すなわち新しい形を成しつつ、一見圧倒的な勢力を得ていたシュルレアリスムに対抗することを、文筆家としてだけでなく、展覧会活動を続ける芸術家として熱心に取り組んだ。こうしたところに、アルプ独自の芸術路線が特定なドグマに陥らずにすんだ原因があるだろう。そしてアルプのこうした独立性は、一見まったく異なったように見える道を、平行して同時に歩むことが可能な芸術家の立場を確立したのである。

 現に、1930年頃からアルプが手がけるようになった丸彫りの彫刻作品などは、大半が抽象というよりも、自然を模した性質のものであったように。

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 これとはまったく違った出発点、すなわち新古典主義の方向から歩み続けていたピカソなどの場合は、1920年代の半ばからボリュームのある女性の頭や裸体の彫像と取り組むようになり、そうすることによってそれまでの彼が立体に用いていたコラージュ原理から離れたのであった。ブランクーシは、シンプルな幾何学的なかたちをもとに、そこから人の頭や鳥などを引き出そうとした。アルプの場合は、その彫塑の過程自体を、外見上の自然の法則と重ねあわせ、あたかもメタモルフォーゼであるかのように解釈したことで異なった展開を見せるに至ったのである。

 紙を素材としたアルプのコラージュ作品において、破くといった行為が次の何かを生み出す生産的な意味を持つとすれば、彼の彫刻作品において、かたちをたゆみなく変え続ける、寄せ集める、切り刻む、組み合わせる、といった行為もやはりそれと同じような意味を持つといえる。凝縮と拡散、作品とプロセス、完成と着手の間の、破壊によって生まれた対比のなかから、アルプは立体彫刻の新たな領域を開拓することに成功したのである。それは、単なるアッサンブラージュでもなければ抽象でもなく、具象でもなければバイオモーフィズム(生命的形態論〕のみに属すとも言い切れない、格別な領域だった。流れるような、時には空想的なエネルギーをかもしだすレリーフの形成を、アルプは戦後、更に立体的な基盤に移行させた。

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 それが次第に宇宙的なシンボルヘと多様な広がりをみせるようになり、その中での人間はいっそう変化したかたちとして間接的な役割を演じるようになった。彫刻の表面がむだなく引き締まり、かたちも自然物を想起させるものであるため、彫刻は具体的な存在感を一見かもしだすにもかかわらず、すぐにそれはその存在の中心、あるいは重心がアルプの手によって不思議なほどにあいまいに打ち消されており、次の瞬間にはその具体的な存在感も宙に浮いてしまうかのようだ。アルプの彫刻作品を前にして味わうこの不思議な感覚はまさに詩的であり、ここに、詩人でもあるアルプの個性が映し出されているといっていい。アルプの作品は、静的でありながら動的であり、また具象的でありながら空想的であることから、二重の意味で中間に位置するといえるだろう。そして、われわれはアルプの彫刻が一概に従来のモダニズムに属するといえなくなることに気づかされるのである。このように、アルプの彫刻作品は展開を続けるプロセスを感じさせるものだが、これは単なるかたちのヴァリエーションを意味するものではない。ましてやアルプは芸術のメカニズムを解き明かすために彫刻作品の限界に挑んでいるのでもない。彼にとって重要なのは、主体と対象、それに主体と感情という二重の両極端の間でのかかわりあいを生み出すことにあるのだから。

《木一鉢のフォルム≫、《ダフネ≫、それに《プトレマイオス≫などは、作家のそうした意図がみごとに実った作品だといえよう。 彫刻を手がけるようになったからといって、アルプはレリーフなど、他の技法を要する作品づくりをおろそかにしたり、やめたりしたわけでは決してなかった。むしろ、コラージュや「しわくちゃの紙」を新たな手法として平面作品に取り入れるようになり、作品はますますの広がりを見せたのである。それらの作品では、もともと画家志望だったアルプのことである、絶妙な色彩感覚と独自性が、使用する紙や、レリーフを彩る色の選択で存分に生かされているのはいうまでもない。1930年前後のアルプは、まさに多作な時期を迎え、数多くの彫刻作品を完成させたが、結局これらの作品は作家の生前に鋳造されることはなかった。それというのも、鋳造するための費用も、それを売る市場もまだなかったからである。アルプの独立性は、このように芸術の戦略的立場においても、作品自体に関してもひどい無頓着となってあらわれたりしていたようだ。また、日常のわずらわしい雑事にもまったく無関心なアルプだったが、そんな彼を思いやり、様々な問題を処理してくれた妻、ゾフィー・トイベルという頼もしい存在が、常に彼の側にはついていた。しかし、1943年、ただでさえ第二次大戦中の殺伐とした時期に、妻のゾフィーは非業の死を遂げてしまう。妻の早すぎる突然の死によって、アルプは深刻な危機に陥り、四年後になってようやく彼は制作を再開する。

 ピカソは制作に没頭しながらパリで戦争に耐えぬき、モダニズムの代表的な作家たち、マックス・エルンストやフエルナン・レジェらが戦時中アメリカへ逃れたのに対し、アルプの環境は1930年代から40年代半ばまで、不安定で目まぐるしく変化し、経済的にも決して楽ではない不自由な暮らしを強いられた一度は、アメリカへ渡ることを試みたものの、不運な状況が重なり、それも結局はあきらめざるをえなかったのである。 やがて、アルプはマーゲリテ・ハーゲンバッハという新しい人生のパートナーを得、とくにその後の20年間は、彼女と共に多くの旅をした。アメリカ、ギリシャ、イスラエルなど、たいていは仕事の依頼や展覧会の機会を利用したもので、それらは様々な出会いや再会をもたらした。次第に、彫刻家としてのアルプの業績も国際的な評価と名声を得るようになり、ようやく過去のダダイズムやシュルレアリスムにおいてアルプが果たした役割の重要性も認められるようになったのである

 この時期に新たな転期を迎えたアルプは、これから新しい時代の幕を開けようとしていた世界に思考や視線を向けたのではなく、むしろソクラテス以前の哲学や神秘論に関心を持ち始めていた。そして、せわしなく変化を遂げる現代芸術に対しては、ある程度批判的で、醒めた距離を保ち続けたのである。

 逆にアルプがことに好んで取り組んだのは、ヨーロッパ彫刻の源泉や、存在の成り立ちの根源といったテーマだった。また、彫刻をプロセスと見なしていたアルプだったが、それは決して、楽観的な若い世代の芸術家たちが目指したような、芸術と生活の同等化の方向へと向くことはなかった。というのも、そうしたことに伴って生じがちな、単純すぎる解決法、一例えば、彼の生んだフォルムの原理を、単に小型サイドテーブルに仕立てて日常に取り込んでしまうといったようなことに対して、アルプは常に懐疑的であり続けたからだ。アルプの芸術の概念にこめられた政治的、あるいは隠喩的な批判精神は、戦後時代から現在に至るまで、多くの人に見過ごされがちだ。しかし、一貫して時代に左右されない普遍性こそ、アルプの芸術をここまでたらしめているといえるだろう。彼はモダン・アートで繰り広げられた戦略や実験を、歴史や社会のなかで自己を見出していく手段としてのみ理解したのではなく、それを通してまず、今世紀に人間であることがどんな意義を持つのかをとらえようとしたのだ。そして、アルプは古い因習をはるかに超えたところで、自己の提言を芸術上の現実へと移し変えたのである。そこでは、詩情が本質的な力となり、フォルムにあらわされた落ち着きが、存在を担い続けるシンボルとなっているのである。