年譜と作品

1925

 5月22日、カトリック系の夫婦、シャルルとジャンヌの一人恵子としてスイス、フリブールに生まれる。

■1927

  一家はパーゼルに移る。

■1939

 この頃、森で水車にたくさんの空き缶をくくりつけて遊ぶ。

■1941(16歳)

1925-1947

 ショーウインドウ・ディスプレイの見習い職人としてデパートに勤める。パーゼルの美術工芸学校の授業に顔を出すようになる。同校のユリア・リスのクラスでは、鉄や木を素材にコラージュを手がける。「動き」を制作に取り入れるきつかけをつくつたのもリスであった。

 戦中戦後は思想書、特にステイルネルを耽読し、左翼思想に染まる

■1943(18歳) 

 就業態度に問題ありとの理由でデパートの見習いを解雇される。室内装飾の職人ヨウス・フッターのもとで修業を続ける。

■1945(20歳)

  シュヴィッタース、クレー、シュルレアリストたちに傾倒する。戦後の数年聞はフリーランスのデザイナーとして働く。

■1948(23歳)

 パリの共産党婦人協会パヴィリオンのショーウィンドウの仕事で、動く仕掛けつきのディスプレイが注目を浴びる。

■1951(26歳)

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 美術工芸学校で知り合ったエヴァ・エップリと結婚。長女ミリアムが生まれる。50年代初期にダニエル・スペーリと出会う。

■1952

 パリに移住。

■1954(29歳)

1952-1954

 パリのアルノー画廊で初の個展。『メタ・メカニカル・レリーフ』メタ・マレーヴィチ』など機械彫刻を展示。第9回「新現実展」にも出品。

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■1955(30歳)

1955-1956

 ブランクーシなど美術家たちのアトリエが集まるロンサン袋小路へ引っ越す。スウェーデンの美術批評家ボンテュス・フルテンの協力を得て、ドニーズ・ルネ画廊で「動き」展を開催し反響を呼ぶティングリーのほかデュシャン、カルダー、ヴァサルリ、ソトー、アガムが出品。ティンゲリーは『ドローイング機械No・1、「オートモービル」など機械彫刻でさまざまな動きを試みるRelief-m-ta-m-canique-sonore-II-Relief-m-ta-m-canique-1955

 「新現実展」の出品作において、初めて音の要素を作品に取り込む。イヴ・クライン、ニキ・ド・サンファルと知り合う。

■1957(32歳)

 自動車事故で重傷を負う。

■1958(33歳)

1958

 6月9日、イリス・クレール画廊にて育と視覚によるパフォーマンス『私の星−7つの絵画のためのコンサート』を開く。イリス・クレール画廊でイヴ・クラインとの二人展「純粋な速度とモノクロームの安定性」。

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■1960(35歳)

1959

 3月17日、ニューヨーク近代美術館の中庭で、巨大な機械彫刻が自壊するパフォーマンスに「ユーヨーク賛歌』を行い一躍有名となる。批評家ピエール・レスタニーが、ティンゲリーとイヴ・クラインを中心にヌーヴオー・レアリスムのグループを結成ニキとアトリエを共有し、同棲生活を始める

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■1961(36歳)

 アムステルダムの市立美術館で開催された、キネティツク・アートの展覧会「動かされた動き」に28点を出品。6月20日、パリのアメリカ大使館にて、ラウシ工ンパーク、ジャスJト・ジョーンズ、ニキ・トサンファルなどとともにパフォーマンスFコンサート』を開催。パリのリーヴ・ドロワット画廊にて「パリとニューヨークのニュー・リアリズム」展0ニューヨーク近代美術館の「アッサンブラージュ芸術」展に出品。

■1962(37歳)

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 3月21日、ネヴァタ砂漠にてハプニング「世界の終末のための習作No・2』を開催

 5月4日、ケネス・コツチの劇「ボストンの建設』にラウシェンバーク、ニキ・ド・サンファルとともに出演。

 6月6日、イヴ・クラインが心臓マヒで死ぬラウシェンバーク、ニキ・ド・サンファル、ダニエル・スペーリ、ウルトヴェットなど6人の作家による合同のプロジェクト、「DYLABY」をアムステルダム市立美術館で実現

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 アレクザンダー・イオラス画廊での個展に「ラジオ彫刻」を出品。これはラジオ受信機のダイアルを一定の速さで回していき、断続的に入つてくる音声や雑音を聞かせる仕掛けの装置であつた。

■1963(38歳)

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 2月に初来日、4月に日本初の個展を東京の南画廊で開催

 この年の末、ロンサン袋小路の芸術家たちのアトリエ取り壊しにともない、ニキとともにソワジー=シュル=エコールにある、もと旅館であつた建物「白い馬」にアトリエを移す。

■1965(40歳)

 12月22日、=ユーヨーク、ジューイッシュ美術館で上演された殺人劇『ティンゲリーの機械の神秘またはカルカの情死」に自作の彫刻3点とニキとともに出演。以後は役者として舞台に立つことはなかった。

■1966(41歳)

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 ストックホルム近代美術館にて、ニキ、ウルトヴェットとともに大彫刻「ホーン』(副題は大聖堂)を制作。

■1967

1967

 スイス政府の委嘱により、モントリオール万国博のスイスに「落ち葉のためのレクイエム』を設置。またフランス館の屋上に、ニキと共同で「幻想の楽園」という彫刻庭園を作る。

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■1968

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 フリブール近郊の村、ネイルーズにあった古い農家「黒い鷲」を購入し、新しいアトリエにする。

■1970

1970

 ミラノで開かれたヌーヴオー・レアリスム10周年記念祭のために、男根をかたどった彫刻『勝利』を大聖堂の前に設置した。

■1971

1971-1973

 ニキと書類上の正式な結婚をする。ニキ・ド・サンファル、ベルンハルト・ルジンビュール、ダニエル・スペーリ、エヴァ・エツプリの協力を得て、ミリーの森で『首』(またの名を『一つ目小僧』)の制作が始まる

■1972

 エルサレムのラビノヴイツチ公園にて、ニキの巨大な滑り台彫刻「ル・ゴレム」の制作を手伝う。

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■1973

1973-1975

 ミシュリーヌ・ジガックスとの間に息子ミランが生まれる。インディアナ州、コロンバスの市民会館のために「カオスI」を手がけ、翌年完成する。ベルギー、クノッケのネレンス家のためにニキが設計した、屋外子供部屋「ドラゴン』の建設にかかわる。

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■1977

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 バーゼルにて「カーニヴァルの噴水」の落成式。

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■1978

1978_sept

 「おとぎ話のレリーフ』制作。母の死。

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■1981

1981_juli

 動物の頭骨とキリスト教の祭祀用具を作品に組み入れ始める。 ニキの『タロット・ガーデン』のため、彫刻の骨組を組み立てる。

■1983

1982-1983

 ニキと共同でパリのボンピドゥー・センター前の広場に「ストラヴィンスキーの噴水』を制作。フリブールの名誉市民となる。

■1984

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 フリブールの名誉市民となる。フリブールで「ジョー・シフェールの墳水を制作。「地獄の首都No・1」を高輪美術館の依頼で制作、その展示のために来日。

■1985

1985

 秋、ミュンへンのヒポ銀行文化財団で回顧展が始まる。同展はベルギーのクノッケ、フムレべックのルイジアナ現代美術館へ巡回。

 冬、心臓の手術をする。

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■1987

1987

 京都のカフェ・ギャラリー「ティングリー」のために、日本製のオートバイでスクラップを材料にシャンデリアを作る。

 ヴェネツィアのパラッツオ・グラッシで回顧展が始まる。同展はトリノ、パリに巡回。

■1988

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 ミッテラン大統領の依頼で『シノン城の噴水」をニキとともに制作。

 「哲学者たち」の連作を制作。

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■1990

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 モスクワのトレチャコフ美術館で回顧展。

■1991

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 バーゼルのア小・フェアにおいて、エヴァ・エツプリ、ベルンハルトルジンビュールら、6人の友人と共同で、貨車を利用した移動可能なインスタレーション空間を作る。

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■1991

 8月30日死去。

■1992

 ミレナ・パラカルキナとの間に次男のジャン・セバスティアンが誕生。