ニキ・ド・サンファール

■色彩の女 Niki_de_Saint_Phalle_by_Lothar_Wolleh

松岡和子

 うっすらと開いた上唇と下唇のあいだから細い幾筋もの水がほとばしり出ている。水に濡れたその巨大な唇は、太陽の光を受けて艶やかに輝いている。目を転じれば、虹がゼンマイになったような蛇が、天に向か  82・幻頁ってくるくる回りながら、横向きの口を芽吹きにして水を噴き出している。 ボンピドー・センターの写真は幾度も目にしてはいたけれど、初めてパリの街を歩く心細さに目を曇らせ、地図と現実の街路を見くらべながら馴染みのない通りを抜けた私の眼前に、いきなり立ちはだかった実物は、写真よりいっそう異様に見えた。まるで内臓が剥き出しになったかのように、太いパイプが無数に壁面に張りついている。

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 その様はギーガーの画面がそのまま立体化したという感じだ。建築界での評価はいざ知らず、.途方もない異物がそこにあるという第一印象を私がその時抱いたことは否めない。

 そんな違和感は、しかし、建物のふもとに目を向けて一挙に消えた。

 四角に囲った広大な水面に躍動する噴水−

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 ニキ・ド・サン・ファールとジャン・ティンゲリーとの共同作業の結実たちが水と陽の光にたわむれ、風と空を背最に嬉々としたシンフォニーを奏でていたからだ。

 噴水というものへの固定観念も水しぶきと共に飛び散り、大きな解放感が胸いっぱいに広がった。ひとりでに笑顔になるのが自分でも分かった。水に洗われ、陽光を浴びで鮮やかさを増す赤、青、黄、緑……。

H.Rbiger一九四〇年、生まれ。スイスの画家。8 5・・      ・t e Xl

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 巨きな烏をかたどり「ナイチンゲール(Le rosignol」(上図)と名づけられた自作の彫刻の前に立つニキの上半身である。

 レンズの視界の外の誰かと話をしているところなのか、彼女の顔と視線は背後の鳥のそれとは反対に向けられ、右手を軽く上げて両腕を拡げている。拡げた両腕のうしろに鳥の翼が広がっている。翼のつけ根がちょうどニキの肩のあたりにきているので、それは彼女自身の翼のようでもある。写真そのものはモノクロだが、「ナイチンゲール」をカラー写真で見た記憶と重ねると、このポートレイトのニキが極彩色の巨大な巽をっけた天使に見えてく通。

■自らを解放する「射撃」絵画 

 原色の赤や育、極彩色 −ニキ・ド・サン・ファールとその作品を語るなら、まず色彩のことから始めねばならないだろう。

 現代美術の世界に一躍ニキ・ド・サン・ファールの名を轟かせたのは、「射撃」絵画である。その第一砲が鳴り響いたのは一九六一年二月。

 不覚にも私は長いあいだ「射撃」絵画の手法を誤解していた。ライフルに絵の具を詰め、それを自作の白いレリーフに向かって発射したのだとばかり思っていた。弾丸代わりの絵の具がデコボコした白い画面に飛び散るさまを想像していた。

 ところが違った。まず板の上に様々な色の絵の具を詰めたプラスティックの袋を留めつけ、その上から石膏をたらす。こうして出来上がった「標的」を撃つ。石膏に埋まった絵の具袋に弾が当たると、中身の色がはじけるのだった。

 「射撃」絵画は翌一九六二年まで二年間にわたって作り出されたが、初期には卵やスパゲッティなども石膏の下に埋められ、二回目には絵の具の飛び散る効果を最大限に出すためにスプレー缶入りのペイントも使われたというが、とにかく弾丸はホンモノだったのだ。

 ところで一九九二年に出版されたニキの画集には、「手紙」と遺された彼女の自伝的なエッセイが載っている。自他に対する鋭い洞察を、ユーモアの漂う素直で詩的な文体に込めた数々の文章は、それ自体が文学的な魅力と喚起力を持っているが、ニキ・ド・サン・ファールの人と芸術を理解するうえで貴重な手掛かりを与えてもくれる。

 手紙は、スウェーデンのストックホルム近代美術館の元館長、ボンテユス・フルテンや、一九九一年八月に世を去ったニキの人生と芸術の同伴者ジャン・ティンゲリーをはじめとする親しい友人たち、そして彼女の母親に宛てて善かれている。

 フルテン宛ての二通日の「手紙」には、「射撃」絵画というパフォーマンス・アートがいつ、どこで、どんなふうに発想されたかが語られているが、私が一連の「射撃」絵画の秘密とも言うべき一面に思い至ったのは、彼に向けて書かれた一通日の「手紙」を読んだ時だ。

 ニキ・ド・サン・ファールはそのなかで彼女の少女時代を語っている。ニキは七歳の時、ニューヨークにあるカトリックの女子修道院付属学校に入ったが、その学校では毎週だか毎月、よく勉強し良い成績を取った生徒にはご褒美として赤いリボンが与えられたという。彼女は「ぜんぜん勉強しなかった」のでリボンをもらったことはなかった。そこである日、自前で赤いリボンを買い、ご褒美をもらったような顔をしてそれを身につけた。「制服は醜いダークグリーンにべージュのブラウスで、ネクタイもグリーンでした。赤いサッシュを欲しがっても不思議はありません」とニキは書いている。

 彼女はごく幼い頃から人種差別や女性差別に疑問を抱き、両親が属する上流階級の欺瞞や偽善にも反発を感じていたが、厳格なしつけに押さえ込まれてもいた。出された食事を残すのは厳禁、口応えをすれば頼に平手打ちのおしおき。 そんな少女期のニキの救いは、ベッドの下に隠した「秘密の魔法の箱」だった。凝った彫りと色鮮やかなエナメルの象俵をほどこした木の箱には、彼女の宝物が入っていた−・・・−彩色した不思議な魚、いい匂いの野の花々。

 このふたつのエピソードを読んだ時、私の頭のなかで「射撃」絵画と「色彩の解放」という言葉が結びついた。

 フルテンへの二通日の「手紙」で述べているように、ニキが「射撃」絵画のインスピレーションを受けたのは一九六一年の二月。彼女が「恋人の肖像」と題するコラージュを出品したグループ展の会場でだった。ニキの作品のそばには真っ白な石膏レリーフが掛かっていた。それを眺めているうちにピカッとひらめいた。ニキは真っ白な絵が血を流している様を想像する。 ティンゲリーにそのアイディアを話すと彼も興奮し、即実行ということになったのだ。アルジェリア戦争のさなか、パリの真ん中で銃砲所持免許もないアーティストたちが実弾を発射し、その昔を聞きっ竹た退職したお巡りさんも見物していたというのだからのどかな話だ。

 かくして、人形や飛行機の模型、怪獣やミニカー、その他もろもろの異形のものたちがひしめく色彩のないレリーフが、悲鳴をあげて様々な色の血を流す作品群が誕生する。

 彼女のライフルには、トリプティックの「射撃」絵画に顕著なように、宗教や男性支配の社会などの既成の価値を破壊する群が込められていたと言えようが、いま言ったようにそれは、白い石膏のなかに埋め込まれた色彩を解放する行為でもあった。

 厳格な無彩色の世界にあって、密かにカラフルな品々を集めていた少女時代のニキ。

 くすんだ色の制服を嫌い、真っ赤なリボンに憧れたニキ。「射撃」絵画は「秘密の魔法の箱」のベッドの下からの解放、箱のなかからの色とりどりの品々の解放であり、何よりも抑圧されていた少女時代の解放でもあったのだろう。

 破壊と解放と創造。画家:キ・ド・サン・ファールが伸びやかに生き始める。

■アーチィストへの道 

 彼女はニューヨークで少女時代を過ごしたが、生まれたのはパリ郊外のヌイイ‖シュル=セーヌである。誕生は1930年10月29日。

 サン・ファール家は銀行家の一族で父はニューヨーク支店長だったが、母親がニキを妊娠しているあいだに株の大暴落で財産も職も失った。ニキが自らを「大恐慌の赤子」と呼ぶのはそのためだ。彼女が生後三カ月の時母親はニューヨークへ行ってしまい、彼女と兄のジョンはその後三年間父方の祖父母のもとに預けられた。

 生まれてすぐに母親に見捨てられたという思い。

 その母は、ニキがおなかにいる時に夫が全財産を失い、そのうえ彼の浮気を知ったため、のちになって「何もかもあなたのせい」と度々彼女に言ったそうだ。

 自分がトラブルを抱えてこの世に生まれてきたという思い。

 だが、ニキ・ド・サン・ファールの場合、そんな心の傷のうずきは、彼女の反逆精神を鍛え、創造のエネルギーにまで昇華されたようだ。

 彼女は18歳でハリー・マシューズと駆け落ちし、結婚したが、その思い切った行動の裏にも反逆精神が働いていたことは想像に難くない。

 子供を二人もうけた11年の結婚生活のあいだに、彼女は画家としての道に踏み出すのだが、絵を描くことは激しい神経衰弱を治療する最良の手段でもあった。

 生きることと芸術が分かち難く結びついている例は、古今のアーティストの生涯を一管すれば数多く見受けられるけれど、ニキ・ド・サン・ファールの場合はその結びつきが極めて強固である。「射撃」絵画にしろ、完成間近なタロット・ガーデンにしろ、ニキ自身が言っているように、芸術創造は彼女が危機を乗り越え、精神的に生き延びるための「セラピー」という一面を持っている。「射撃をしていた二年のあいだ、私はただの一日も気分が悪くなることはありませんでした。それは私にとって素晴らしいセラピーだったのです」

 すでに述べたように、ニキ・ド・サン・ファールが「射撃」絵画を始めたのは一九六一年だが、彼女のアーティストへの道が固まり出したのは1950年代の半ばからである。その前は演劇学校に通って演技の勉強などもしていた。のちの彼女の芸術に決定的な影響を及ぼす幾つかの出会いがこの時期に集中している。五年にわたって彼女のメンターになるアメリカの画家、ヒユー・ワイスとの出会い。バルセロナを訪れた時のガウディの建築作品との出会い。これがタロット・ガーデンの発想の源となった。

 そして、ジャン・ティンゲリーとの出会い。先に紹介した1手紙」にはティンゲリーに宛てたものもあり、愛と称賛と敬意に満ちた素晴らしいラヴ・レタlになっている。ニキが二五歳の一九五五年、夫のハリーと共にティンゲリーとその妻エヴァのスタジオを訪れた彼女は、ティンゲリーの作品に一目惚れする。「ハリーと私にはあまりお金がなかったけれど、あなたの作品をひとつ写っことにしたのです」と彼女はティンゲリーに語りかけている。決定的な出会いの数々は、彼女にひとつの決意を促す。夫と子供たちと別れて暮らし、創造活動に専念するという決意である。一九六〇年のことだ。

 そしてこの年の末にはティンゲリーとの生活が始まる。

■大地母神「ナナ」の誕生

 「射撃」絵画に次いでニキ・ド・サン・ファー〜の名を高らしめたのは、ナナの登場と言っていいだろう。私が初めて実物の「ナナ」たちを見たのは一九八二年、東京のギヤ〜リー・ワタリでのニキの個展でだった。大きなレリーフのナナ、小さな青いナナ、みんなで六人のナナたちは、いずれも嬉々としてユーモラスで生命力にあふれていた。そのなかにジャン・ティンゲリーとの共同制作になるものが三点あった。ニキが像を作り、ティンゲリーが台を作ったものだ。

 ナナの像はどれもまあるい感じがする。まんまるになろうとする力が中心にある。だから、途方もない大作でも少しも1重たい」という印象は受けない。なかが空洞か否かにかかわらず、また、素材が粘土であれポリエステルであれ、形自体は外へ外へとふくらもうとしているふうだから、気球のように軽やかだ。

 そして、そこに塗られた鮮やかな色彩や稚気に富む模様が軽やかな感じをいっそう強める。ティンゲリーの台は鉄製で、錆がいい具合に出て、華やかなナナをつつましく支え、引き立てている。

 たとえば「鉄の台座の上で踊るナナ」は、ちょうどサーカスのあしかが大きなボー〜を鼻の先にのせているさまを重臣させる。再臨を大きく拡げているせいもあって、そのままふわっと空中に浮いて踊り革けそうである。台の螺旋も上昇を目指す。さすが、ニキを、ニキのナナを十二分に理解している人ならでは、と感心させられる。

 踊っているのはナナだけれど、この像と台もまたデュエットを踊っている。 このナナたちが突如として地に満ち満ち出したのは一九六五年だが、一人目のナナはその前年に誕生した。1手轡の一通、1大好きなクラリス」で始まるのは、アメリカの画家ラリー・リヴアースの妻クラリスに宛てられたものだが、そのなかでニキはこう言っている。「クラリス、あなたは最初のナナ(−トeO−ig5・巳NPnP)だから、自分を大地母神のモデルと思ってください」

 最初のナナはまだ立体ではない。一九六四年、ラリー・リヴアースは妊娠した妻クラリスのドローイングを描いた。半身になって立つ裸婦像だ。彼女のおなかは大きく突き出し、そのなかで体を丸めている胎児も描かれている。ニキはこのドローイングをもとにしてコラージュを作り、顔の部分はリヴアースが描いた。ニキが「最初のナナ」と言っているのはこの共同作品のことなのだ。

 まあるいナナたち、太目のナナたちは、だから、基本的に妊婦である。大地母神につながる女の原型である。

 女の原型というともうひとり、イヴを思い出すけれど、ニキにとってはなぜイヴではなくてナナなのだろう〜 「ナナ」が女の俗称としてフランス語のなかに定着したのはそう古いことではなく、そもそもの起源はやはりエミール・ゾラの小説『ナナ』のようだ。そもそもは「塘婦」を意味していた。

 だが、「ナナ」にはこれとは別の文脈がある。アフリカの神話体系である。

 イギリスの女性劇作家、キャリル・チャーチルの『タラウドタ』という戯曲には、登場人物たちが「幾多の名を持つ女神」「万物の始まりの女神」に呼び掛け、その名を詠唱のように大声で言う場面がある。「イニン、イナーナ、ナナ、ナット、アナット、アナヒータ、イスタール、イシス……」と。 実はこの戯曲は私が翻訳したのだが、ニキとナナの関係を考えてみるまで、そこに「ナナ」という名があることを失念していた。

 もっともニキ・ド・サン・ファールにも、ナナの時代の前にイヴの時代があったと言える。「射撃」絵画ののち、ニキ自身の言葉を借りれば1挑発をやめて、私はもっと内省的で女性的な世界へと移行しました。花嫁やハート、出産する女や娯婦など、社会のなかで様々な役割を演じる女性を作り始めました」「魔女」や1花嫁」や「出産」などが一九六三年から六四年にかけて作られるのだが、いずれも血の気の失せた気味の悪い女たちの体には、様々なものの死骸がびっしりとこびりついている。ニキ自身は「挑発をやめた」と言っているが、この時期の作品の多くはかなりネガティヴな感じがする。ユーモアの気配はあるが、まだ隠れている。現われている場合も苦味辛味がきいている。

 それが、1965年、突然こキの女たちの体はふくらみ始め、表面がつるりとなめらかになり、形も色も陽気になる。「イヴ」から「ナナ」への変容である。否定から肯定への楽しいくらがえである。そうして1966年のあの記念すべき「HON」!

 スウェーデン語で「She」を意味するこの大女は、ボンテユス・フルテンの委嘱によりストックホルムの近代美術館に作られた。なかは「大芸術遊園地」とも言うべきもので、出入口は大きく開いた股のあいだの性器だから、まさに胎内回帰ごっこの体内巡り。こキの色と形、自由な発想とオブセッション、そして遊び心の集大成である。

■ニキ芸術の集大成「タロット・ガーデン」

 ニキ・ド・サン・ファールの創造活動を山脈にたとえるなら、要所要所でバレエの舞台装置や衣装のデザインをしたり、映画の製作・脚本・監督主演をしたり(−九七三年の『ダディー』は日本でもスペース・ニキで上映された。「父親」という存在が「男性」を代表し、女の愛憎相半ばする男性観が、主人公ニキの少女時代からの様々な記憶や夢想を通して描かれ、男の権威や酷薄さが椰輸される)と多様な峰が現われるが、突出した高峰は「射第腿−82図撃」絵画、ナナの登場、そしてタロット・ガーデンと言えるだろう。

 ガウディに影響を受け、タロットカードの22枚の寓意札の一枚一枚に対応する二二の作品を配した彫刻庭園だ。個々の彫刻は建物の機能も果たしている。 ナナがアフリカ神話の女神のひとりであることはすでに言ったが、タロットカードもその源をたどれば、もともとはナイル河の満ち干を予め知るために使われたものだそうだ。

 厳格なカトリック教育に代表されるキリスト教世界の価値観に反発し、男性中心のヨーロッパ・アメリカ社会の道徳観に反逆してきたニキ・ド・サン・ファー〜が、自2の内部のそれらの根を壊し、ナナやタロットカードという異教的なものを採り入れてゆく過程は、彼女が世界を肯定してゆく過程と軌を一にしてはいないだろうか。

 タロットカードには一枚ごとにいろいろな言葉が付されているが、そのなかに1二律背反の統合(DuP音Integr芳d)」というのを見つけたときには思わず「あっ」と声を出しそうになったものだ。また、「対立するものの合一」とか「反対物の均衡」といった寓意を持つカードもある。イヴの時代を通過し、ナナの時代に到達、今夕ロット・ガーデンの建設に全身全霊を打ち込むニキ・ド・サン・ファールは、一貫してこの境地を目指してきたと言えるだろう。

 女と男、生と死、昼と夜、正と邪、善と悪、天と地−ニキ・ド・サン・ファールの世界はタロットカードの世界そのままに、二律背反や対立や反対物をまるごと豊かに包み込んでいる。人も動物も辰星も、すべてが統合・合一・均衡する一大宇宙である。

 そのスケールの大きな具体化が、イタリア、トスカナ地方の丘陵地で一九七八年に着手されたタロット・ガーデンだ。

 大地と空を背景とした「自然と彫刻が対話する」彫刻庭園はニキの生涯の夢だった。

 建設資金はすべて自費というほとんど常識はずれの大プロジェクトを、実現まで持っていっただけでも驚嘆に値する。その上現場に寝泊まりするうちに慢性関節リウマチは悪化し、歩行困難となり、手が変形してものも持てない状態になったのだ。それでも彼女は再生を目指す。身体的・精禰的な危機を「変容」によって乗り越えてきたニキ・ド・サン・ファールはあらゆる意味で強靭な精神力の持ち主だ。

 悲観的にも否定的にもならない。その意味で彼女の人格と作品は完全に一致している。「楽天家にとっては、不可能に思えることは何もない」

 相当な「問題母」だったらしい母親に宛てた「手紙」ですら、結びの言葉はこうだ−「ありがとう。あなたがいなければ私の人生はどんなに退屈だったことでしょう」

 ニキ・ド・サンファールの全作品、タロット・ガーデンに集約されるその総体は、世界の頭上の大空に色鮮やかに描かれた「Yes」である。(評論家)


 

 松岡 和子(まつおか かずこ 1942年4月17日- )は、日本の翻訳家、演劇評論家。旧満州新京生まれ。東京都立豊多摩高等学校、東京女子大学英文科卒業、東京大学大学院修士課程修了。元東京医科歯科大学教授。国際演劇評論家協会会員。テレビドラマや映画の英語翻訳家だった額田やえ子は義理の従姉にあたる。
イギリス文学戯曲の他、小説や評論の翻訳を手がける。シェイクスピア全作の新訳に取り組んでおり、彩の国さいたま芸術劇場での彩の国シェイクスピア・シリーズ企画委員のひとり。1982年から東京医科歯科大学教養部英語助教授、教授となったが、1997年翻訳に専念するため退任した。