作品解説

■初期絵画のファンタジー

作品解説 岡部あおみ

1-コンポジション■コンポジション-1956  ■城-1956    ■町と花の間-1955

 夢とファンタジーに満ちた初期絵画には、さまざまな出来事の思い出をつづる日記のようなタッチが見られる。作者自身が自らの作品を「自叙伝」と呼んでいるように、この頃から最近の作品まで一貫しているのは自伝的要素である。ピカソの作品も自伝的色彩が強いが、サン・ファールの場合にはシュルレアリスト約手法や無意識の闇や隠された欲望の探求といった、特に自己発見のための分析的で病理学的なアプローチがとられることが多い。フランスとアメリカにまたがる二重の国籍、母であることと表現者であることのジレンマ、女性のやさしさと男性の攻撃性の葛藤などの、二律背反したアイデンティティの迷路の旅が、In between(二つの間の中)物語として語られてゆく。

 ニキ・ド・サン・ファールは一九三〇年、フランス人の父とアメリカ人の母の間にパリ郊外で生まれた。両親と離れてフランスの祖父母のもとで三年間の幼年時代を過ごし、アメリカで青春を送り、一九歳でアメリカ人のハリー・マシューズと結婚、一九五二年に家族とパリに移住する。油彩やグワッシュを描き始めるのは一九五〇年からで、長女のローエフが生まれた翌々年の一九五三年に重い神経症にかかり、ニースで一年間療養生活を送った。その時に絵を描くことで精神の回復を得て、以後アーテリストとして生きる決心をする。正式に絵の勉強をしたことのない作者は、美術館や画廊で作品を見ながら、感銘を受けた作品を愛情を込めて記憶にスクラップし、思い出の宝箱を構成する。クレーやマティスの装飾性、インドのミニチュア画のナイーヴな景色や動物描写に似た平面的な処理が、ナラティヴ(物語風)な初期の絵画に現われ、ここにはすでに、元気に踊る少女たち、太陽、地平線、都市風景、城、庭、樹木、花、ヘビ、怪物など、将来の作品の萌芽となるモティーフがコレクションされている。暖かくヴァリエーションに富んだ色彩、オールオーヴァーなパッチワーク構成などにも、レリーフや後期の彫刻につながる構造があり、童話と日常、夢と体験の断片が風景の独創的なアマルガム(混合物)として描かれている。

■アグレッシヴな風景・オブジェのコラージュ

5-1961 4-1958

■無題−1958  ■サン=セバスチャン、あるいは私の愛人のポートレート

 初期の頃にサン・ファールがまず感動したのは、生産をかけて野外環境モニュメントを設計した建築家のガウディ、何の宮段を造った郵便配達のシュヴァル、ロサンジェルスで塔を建てたワッツなどの美術家ではないアウトサイダーの人たちの作品だった。独学のアマチュアだった彼女自身、アウトサイダーとしての自覚があり素朴で自由な表現者への共感もあった。一九五五年、バルセロナにガウディのグエル公園を訪ね、オートリーヴにシュヴァルが建てた理想の宮殿(下図)を見学した時の強烈な体験は、作者に自分の幻想宮殿を建設する夢を抱かせた。

Facteur_Cheval_-_Fa-ade_Est

 コップや陶器の破片がランダムに張りつけられた「無題」の作品には、衝撃を受けたこれらの建造物の手法が用いられている。一九五六年に初めてスイスで個展が開催された時の出品作は、石膏レリーフとアサンブラージュで、ハリー・マシューズの思い出によると、作者は53年に療養生活を送っている時に、庭で拾ったものを集めて作品にしたりした1960年にマシューズと離婚。アムステルダムの市立美術館で行われた「ムーブメント」展に出品された「サン=セバスチャン、あるいは私の愛人のポートレート」には、当時の新たな愛人との恋愛に終止符を打つための攻撃的な姿勢が現われている。男からもらったワイシャツが釘で打たれ、ターゲットとなった頭部の的に、作者と観客が投げ矢を打つ。

 がらくたからすばらしい機械作品を作り出すジャン・ティンゲリーと会ったのは1955年であった。1960年の末からスイス人でジャンク・アート(廃品芸術)の達人のティングリーとパリのロンサン袋小路のアトリエを共有し、71年に結婚、その後別居したりしながらも二人は生涯のコラボレーターとなった。ティングリーと知り合う50年代後半からは、パリとニューヨークのもっとも尖鋭なアヴァンギャルドたちとの交遊が始まる。知己を得たアーティストの一人、ロバート・ラウシエンバーグは、1955年に抽象表現主義を脱却するために、日用品や剥製やベッドなどのオブジェを構成する「コンバイン・ペインティング」を開始し、彼の反芸術理論はサン・ファールに少なからぬ反響を与えた。しかしサン・ファールの作品は、絵画という常套手段への抗議を表わすデュシャンのレディーメイドの系譜を継承するアメリカのネオダダの作品よりは、ダリやミロなどのシュルレアリストのオブジェやコラージュの手法により近く、物や材料の集積と構成によって意味や雰囲気を浮上させる方法として成立している。1960年に制作された機械の部品や瀬戸物の破片や人形の手などがコラージュされたシリーズには、鉄、かなづち、ナイフ、ロープ、ピストルなど暴力と破壊を象徴するオブジェも多数登場する。暗い地平線の風景からはアルジェリア戦争をはじめとする当時の殺気に満ちた不穏な社会の空気も伝わってくる。1961年にニューヨーク近代美術館でウィリアム・C・サイツは、当時欧米で流行になりつつあった新たな傾向を、「アッセンブリッジ・アート」としてまとめた重要な展覧会を開催し、サン・ファールの作品も出品された。

■射撃とパフォーマンス

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■ジャスパー・ジョーンズの射撃−1961  ■ボブ・ラウシエンバークの射撃−1961  ■アメリカ大使の射撃−1961   ■ドラゴン射撃-1962  ■ピロダクティル‥ニューヨーク・アルプ-1962  ■家長の死−1962−72

 「真っ白な絵が血を流す」。射撃絵画のアイディアが湧いたのは、1961年にパリの「コンパレゾン」展に参加したさいに、近くに展示されていた白い石膏レリーフを見た時である。初期の頃はレリーフの中身に絵具だけではなく卵やスパゲッティなどの食品まで使われた。普通は缶やプラスティックの袋に入った液体状の絵具やスプレーを、オブジェとともに支持体にくくりつけて石膏で白く上塗りしたレリーフを作り、この射撃用レリーフを作者や観客が銃で打つと、穴から絵具がしたたり飛沫が飛び散って自動的に表面が彩色される作品である。一九六一年にパリのアトリエの裏庭に四つのレリーフをかけ、22口径のライフルで撃つ試みが行われた。この時ヌーヴオー・レアリスムの生みの親の評論家ピエール・レスタニーが参加し、サン・ファールもグループの一員として認められる。ヌーヴオー・レアリストにはイヴ・クライン、ティンゲリー、レイモン・アンス、ダニエル・スポエリ等がおり、工業化社会の新たな認識にもとづいて、現実の事物を提示することが提唱された。サン・ファールの過激でメランコリックな心象風景を表わすファウンド・オブジェ(偶然見つけた物体)のコラージュは、射撃用レリーフのかたちをとることで、エドワード・キーンホルツやラウシエンバーグやスポエリの作品と同様の立体性をもち始め、多種多様なアサンブラージュへと発展した。タンクや飛行機のおもちゃなどの材料が使用されて、主題そのものにも時折政治的で社会的な内容が示唆されるようになる。

 「ジャスパー・ジョーンズの射撃」は、ターゲット、絵筆差し、ハンガーといったジョーンズのモティーフを引用してオマージュとした作品で、「ボブ・ラウシエンバーグの射撃」とともに、サン・ファールが射撃した後に、この二人の友人が自ら射撃をして完成させた。ストックホルム、カリフオルニア、ニューヨークなどパリ以外でも観客参加の射撃絵画のイヴェントが実施され、サン・ファールはスカートからジョルジュ・サンドのような白のつなぎとブーツの射撃手へと転身し、最後に催涙弾まで使ったりする劇的で刺激的なパフォーマンスへとエスカレートした。無垢な絵が血を流す饗宴は、絵画という伝統的な古いメディアの偶像破壊であり、同時に、絵具にリアルな爆発的ムーヴメントを授ける生皮の儀式となった。静的なレリーフは、突如、爆発音、煙、匂い、カラフルな色彩の噴出とともに、生物のように動き始める。射撃絵画は、シュルレアリスムの自動記述、ポロックの行為を介した絵画に似た自動性を追求しながら、幻覚的なまでのスピード感によって一挙に作品自体の自立性と生命力を獲得する特異な手法を編み出した。そこにはムーブメントによって生き生きとダンスを踊り出すティングリーのキネティック・アート(動く芸術)への共鳴が見られる。作者と観客が忘我的興奮の中に昇華する行為の攻撃性は、死によって新たな生を誕生させる解放の契機となる。射撃絵画は作者にとって、規制された女性の枠を破壊する通過儀礼でもあった。

 「アメリカ大使の射撃」もパリのアメリカ大使館の劇場でデイヴイッド・チューダーによって演奏された、ジョン・ケージの『ヴァリエーションズⅡ』のコンサートの舞台でプロの射撃手によって実行された。このパフォーマンスにはサン・ファール、ティンゲリー、ラウシエンバーグ、ジョーンズが参加した。サン・ファールの射撃イヴェントは、アラン・カプローを筆頭にジム・ダイン、オルデンバーグ等が繰り広げた環境と行為をテーマにしたハプニングの数々や、裸婦を筆にするイヴ・クラインの「人体測定」などのパフォーマンスとも呼応しながら、新たなアートを求めるラディカルな時代の運動を担った行為となった。

■宗教への反撃と救済・祭壇とトリブティック

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■死んだ猫の祭壇-1962  ■O・A・S-1962  ■女の祭壇-1963

 トリプティック(三連画)の「女の祭壇」には、結婚と出産を経た作者の生い立ちの記憶が語られている。作品に登場する生物には、作者自身の存在や体験が投影されていたり、「男が思いやり深ければ動物や鳥になり、ひどいと怪獣になる」というふうに、特定の人物の思い出や人間のイメージがメタファーとなっていることが多い。

 近年特にアメリカを中心に、若い作家が宗教に対する冒瀆(ぼうとく・神聖なもの、清らかなものをけがすこと)のテーマを取り上げるようになった。サン・ファールの祭壇画は真っ正面から宗教のタブーに取り組んだ先駆的な作品といえる。アメリカで厳格なカトリック教育を受けたサンファールにとって、宗教は父親に象徴される古い家族制度と同様に、深く精神を束縛するものであり、自己形成に密接なかかわりをもったキリスト教への反発が生まれた。宗教も父権制も愛にかかわる要素があるために、これらのタブーへの侵犯行為は他者への攻撃のみには終わらず、自らが血を流す危険性を冒さねばならない。射撃絵画は自分が生み出した、まるで自分の身代わりのような作品を破壊するプロセスによって、既成の宗教や社会制度にとらわれた自己意識からの解放をもたらす。

 血を流す射撃絵画のイメージは、十字架に磔にされて血を流すキリストのイメージを喚起する。サン・ファールは教会をリアルに象(かたど)ったレリーフを射撃し、まるでテロリストのような手法で制作した。それは束縛の象徴としての教会を反撃し、絵画に犠牲と受難の血を流させた後にこそ、真の救済への道が開かれると信じたからだ。人間や骸骨、動物の剥製、聖人や聖女、キリストと十字架、バラバラに切断された赤ん坊、射撃のピストルなどが奉納オブジェとして祭られた祭壇作品は、人間同士が殺し合うおぞましい現世地獄や、狂気に満ちた残酷な悪魔からの救済への祈りが込められている。流血の赤い色彩は、死と愛の隠喩を、金色は黙示録や天啓を暗示する。生涯をかけて本当の意味での信仰や神を求め続けるサン・ファールの姿勢が、作品の要素にリアルに反映している。

■心と肉体・レリーフから立体へ

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■モンスターのハート-1962    ■ばら色のハート-1964  ■赤い魔女-1963  ■ばら色の出産-1964 ■磔刑-1964

 1962-1964年のファウンド・オブジェのアサンブラージュは、精神の館としての祭壇形式や心と愛を表わすハートの形態へと発展した。同時にグロテスクな大女や子供をペニスのようにぶら下げた出産する女など、怪物的で赤裸々な女性の肉体への関心が現われる。髪の毛にローラーをつけた愚かで醜い大女も、胸部には美しい花が飾られ、外面の美観のみで女性を価値づける男性論理への挑戦が開始される。ハートには可憐な少女がうずくまる桃色以外に、憂鬱や醜悪などを暗示する灰色や白のハートもあり、心という不可視な内的風景が取り上げられている。手近な材料を複雑に組み合わせたアール・ブリュット(原生芸術)に近い表現物は、荒々しい官能性とダイナミックな生殖力にあふれている。アール・ブリュットは、精神疾患者や子供や未開人などが、無意識にあるいは本能的に作り上げた作品を指してジャン・デュビュッフェが命名したもので、西欧文化への反芸術の提示となった。サン・ファールの作品は、このアール・ブリュットの系譜に属するアウトサイダーのイノセント(純潔な。また、無邪気な)な自由と、アヴァンギャルドのラディカルな攻撃性の両極端を兼ね備えるインビットウィーンな両義性をもっている。

 アメリカで活躍したウィレム・デ・クーニングの作品が、作者に一時大きな感銘を与えたことがある。デ・クーニングやフランスのデュビュッフェは、1950年前後からパワフルで狂暴な女のイメージを描くようになった。それは絵画の伝統的テーマとして君臨してきた女性像への危機意識が高まり、新たな女性像の探求が反絵画的な動向を推進する重要な役目を果たすようになったことを示唆している。サン・ファールは絵画の枠を破壊し、従来の描写イメージを侵犯するために、アサンブラージュや射撃絵画という新たな表現メディアを駆使してきた。未知のイメージを模索する当時の実験的な時代背景のただ中で、彼女は自然に、そして次第に意識的に、女性像の独自な創出へと向かってゆく。

■花嫁と自然・初期インスターレーション

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■木陰の花嫁-1963-64  ■馬と花嫁-1963-64

 布と紙張り子材料で作った人間大の花嫁人形は、真っ白な衣裳に身を包み、まるで魂の抜け殻のように青白く血の気がない。無垢な花嫁は少女時代の至福に満ちたエデンの園から追放され、白紙(ダブララサ)の状態で新たな門出を迎えようとしている。だが周囲には、女性の社会的慣習である出産や育児を象徴する束縛のオブジェがぶら下がっている。人物の背景となるワイヤー製の馬や樹木は、さりげない花嫁とは対照的にカラフルなプラスティックのおもちゃやドライフラワーで過剰に飾られ、喧騒に満ち、猥雑なまでの生命の宇宙を表わしている。樹木は神がエデンの園に植えた「善悪を知る者となる木」を示唆し、馬は死を覚悟してエルサレムへ入城する悲しげなキリストを背負うロバを思い起こさせる。木と馬のイメージはここでキリスト教のイコノグラフィッタ(図像学的)な意味に重層している。

 花嫁は世俗的な男女の結婚以上に、神と人との結婚、あるいは神への犠牲の捧げ物を思わせる。キリスト教の図像学では白の色は天上の光や神を表わし、白い衣をまとう聖人は復活や蘇生を意味する。白く塗った射撃絵画をはじめとして、白の色彩はサン・ファールにとってもっとも本質的な色であり、この花嫁衣裳の純白には特に救済の祈りが込められているように思われる。ユングによれば、結婚とは人格形成と個性化の過程における、女性の無意識と男性の精神の和解を象徴する。サン・ファールの花嫁の作品は、これまでの作品とは異なり、静かで穏やかな雰囲気に満ちている。まるでかつて作者の内面で激しく対立していた女性的な要素と男性的な要素が和合に至ったかのようだ。結婚を象徴する花嫁の作品を経て、作者の分裂した異質なアイデンティティはある平和な統合に至り、この後、全人格的でよりユニヴアーサルな女の像が展開してゆくことになる。

■罪人の顔

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■車輪のある頭部−1964 ■ジル・ド・レ-1964

 「ジル・ド・レ」はおびただしい数の少年を、自己の快楽のために無残に殺した実在の歴史的人物である。彼は子供を貪る残虐の典型なのだが、サン・ファールが親しみを感じるのは、許しがたい反社会的行為者でありながら、自らの情熱を徹底して追求した極端な自由人であるからだろう。身体から切り離された顔のモティーフには、断頭台やさらし首といった罪と自責と死のメタファーが課せられている。表現者として生きるために、子供を普通の母親のようには育てられず、わが子に犠牲を強いたことへの自責の思いが現われているとも解釈できる。最初の夫ハリー.マシューズは作曲をヨーロッパで勉強してのちに小説家になった人で、彼らはアメリカの文学者や評論家などと親しい交流関係をもっていた。精神や欲望の深淵へと降りてゆくジル・ド・レやサドなどの存在への共感は、サン・ファール自身の豊かな文学的資質と素養とも関連している。ヴィジュアルなアートを手がけながらも、つねに語らずにはいられないナラティヴ(物語)な欲求がほとばしるのは、作者の文学的感性の現われである。

■ナナたちの宇宙

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■ブラック・ロジ-1963-66  ■ワルダフ-1965 ■ミス・ブラック・パワー -1968 ■ブラック・ナナ-1968-69

 ナナのインスピレーションは、パリのアトリエの隣人で友人の画家ラリー・リヴアースが、妊娠していた妻のクラリスをモデルに描いたドローイングがもとになった。1965年にパリのイオラス画廊ではじめての「ナナ」展が行われた。彼女たちの身体は紙粘土で作られ、皮膚の表面は編み糸や布などの素材や、小花やハートの模様で飾られ、後期のナナと同じように、走ったり、逆立ちしたり、踊ったりするアクロバティックな活発な姿態で表わされた。開放的なポーズは作者によれば、「あらゆる方向に動くことのできる女の能力を示すため」であり、新たな世界へ旅立ちつつある自己の可能性のマニフェストでもあった。1969年に初めての回顧展「ナナ・パワー」がアムステルダム市立美術館で開催され、ナナに託された女性の強力な肉体のイメージは、70年代に起きる女性解放運動に先がけたデモンストレーションとなる。ナナたちの中には黒人がかなり登場する。黒人のナナは作者が子供の頃に接した陽気な料理女の思い出につながっており、人間解放の歴史的な意味も喚起している。

 フランス語では「ナナ」という言葉は、男や情夫を指す「メック」に対して、女二般や情婦を意味する卑近で俗っぽい呼称として用いられる。エミール・ゾラの有名な「小説デナ』では、マゾヒスティックな男性を翻弄する宿命の女、一人の娼婦が主人公となっており、ゾラの友人マネは、ふてぶてしいまでに美しい娼婦の裸体「ナナ」を描き、スキャンダルを起こした。サン・ファールのナナたちは、豊満で不完全で醜いことで、男性が描き続けた古典的な理想の女性像を嘲笑し、自由で巨大で自立していることで、娼婦としての性的従属や性的崇拝からの解放を表わす。制度化された女の典型が破られ、太古の地母神や古代のヴィーナスのように豊顔をになう始源的な女性像として、新たな女の躍動的なカオスとして創造されている。天真爛漫なエロスたちは、だれにでも親しみがもてる大衆的な用語でナナと呼ばれた。

 一九六六年、ストックホルムの近代美術館で館長のボンテユス・フルテンの提案で、ティンゲリーとスウェーデンのベル・オロフ・ウルトヴュツトとの共同制作にょり、長さ二八・七〇メートル、高さ六・一〇メートル、幅九・二且メートル、重さ六トンの仮設の「ホーン」(スウェーデン語で彼女)が完成する。観客は寝そべって足を開いた女性の性器から入場して楽しい体内めぐりを経験する。この大規模なインスタレーションはサン・ファールにとってはじめての巨大な建築的作品の実現であり、初期に抱いた夢に一歩近づく体験となった。

 「ホーン」は六〇年代の記念碑的作品であるとともに今では伝説的名作であり、ナナの生みの親のサン・ファールの存在を一躍有名にした。サン・ファールは「イースターエッグに色をつけるように」、「ホーン」の膨脹した立体の表面に色を塗った。ナナのシリーズ以降は、衣裳や刺青のように、軽やかで明るい色彩世界が展開する

 1965年から使用し始めるポリエステルによって、野外彫刻や建造物が可能になるとともに、滑らかなポリエステルのテクスチャーで作られたナナたちは多種多様な立体キャンヴァスを提供する。かつての反絵画の前衛的な衝動の中で抑圧された描くことの喜びが、ナナとともにあふれ出す。作者はやっと彫刻家でありながら、画家としての天職を取り戻すのだ。

 サン・ファールは若い頃に演劇学校に通っていたこどがあり、映画や演劇といったトータル・アートの分野における彼女の多才な活躍も忘れてはならない。たとえば一九六六年にはドイツの演出家ライナー・フォン・ディエズの依頼で、ドイツのカッセルで上演されたアリストファネスの『女の平和』の舞台セットと衣裳のデザインを担当し、同年ローラン・プチのバレー『狂気賛歌』を、六八年には再びカッセルでディエズと一緒に『イッヒ(私)』という芝居の脚本を書いて舞台装置も手がけている。

■幻想の楽園

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■花、水浴者、逆立ちするナナ、ナナの木-1967 ■太ったナナ-1967 ■やさしい動物-1967 ■赤ん坊のモンスター-1967

 1967年には念願の建築的規模をもつ「ナナ・ハウス」が、南フランスのマーグ財団に設置され、カナダのモントリオール万国博覧会では、フランス政府から依頼を受けて「幻想の楽園」が制作された「幻想の楽園」はティンゲリーの六個の作品とサン・ファールの蛍光塗料の塗られた九個の作品のコラボレーションで、フランス館の屋根の上の二〇〇〇平方メートルの展示空間に展示された。万博終了後に、バッファローのオールブライト・ノックス・アート・ギャラリーとニューヨークのセントラル・パークに巡回し、一九七〇年、最終的にはストックホルムの近代美術館の庭園に設置される。

 カーニヴァル風な祝祭の雰囲気に包まれた彫刻群は、ナナという人体のテーマだけではなく、初期絵画にすでに見られた植物や動物や怪獣といった、童話的な不思議なファンタジーの世界へと広がっている。サン・ファールの動的でヴァラエティーに富んだボリュームと、ティンゲリーの線的な機械のメカニズムの組み合わせが、男性と女性の補充作用のように機能し、環境にとけ込みつつ環境を異化する。パラダイスの空間は形態の自由な連関によって、開かれたリズミカルな宇宙を表わしている。彫刻の配置を含めるこうしたダイナミックでユニークな空間構成の手法は、一九八二−八三年にティンゲリーと共同で行われたボンピドー・センターの「ストラヴィンスキーの噴水」にも引き継がれ、ここでは流れる水の音と光が詩的な要素として加味されている。

■日常の情景と人物構成

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■父の埋葬-1971  ■牧場の盲人-1974  ■あるカップル(表)-1978 ■あるカップル(裏)−1978 ■いただきます-1980 ■貪る母親-1970 ■ティー・パーティー、あるいはアンジェリーナの家で−1971 

 70年代のサン・ファールの作品に転機をもたらせたのは1972年に農作し、七三年にカンヌ映画祭で上映された『ダディー』という映画である。七一年の父の死に発想を得て製作されたこの映画は監督のピーター・ホワイトヘッドとの共同製作で、サイケデリックかつ幻想的なシーンに登場する少女のアニエスの名はサン・ファールの実名によっており、非常に自伝的性質が強い映像である。『ダディー』の製作は埋葬された辛い過去を明るみに出し、その暗闇を精神分析的な執拗な手法で追求することで、自己透視を試み、新たな解放への出口を探し求める。初めての異性である父との間の性的葛藤や愛憎が、コミカルで残酷なタッチで描かれ、家長の権威を失墜させることで父系社会の家族制度への嘲笑と否定が表現されている。この映画を見ると、家族のテーマが人間にとって鬱屈した病的エネルギーの源となり、タブーであることがわかる。『ダディー』で奔放に表現された思い出への攻撃と皮肉と風刺とは対照的に、七〇年代の作品には記憶のシーンを振り返るペーソスに満ちた内省的な眼差しが登場する。動物と人間、または人間同士の心理的な関係性が立体の場面に現われ、サン・ファールのいわばポストモダンな記憶の旅は、七〇年代の末頃からアートシーンをにぎわせるようになる絵画とイメージの復興の視線にも交差してゆく。

■象徴世界への旅

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■証人-1970-71  ■ディアナの夢  ■愛の大鳥-1974  ■月-1985-92

 色彩はますます華やかで鮮明になり、変化に富む立体形態の展開とともに、色彩と形態は象徴的次元を獲得するようになる。射撃絵画や祭壇画のアサンブラージュでは、猫、こうもり、リス、鹿などの剥製は死のメタファーとして使われ、形態の意味はおもに現実の人物や情景のアレゴリーとして用いられていた。彫刻のテーマが自由になり、フォルムとカラーの相互関係が悪意的になると、作品は記号的シンボル性を帯びるようになる。たとえば鳥。インドの半人・半鳥のシンボルは、太陽神に結びついており、アフリカ美術では力と生命と豊饒の象徴である。このように異なる文明がさまざまなシンボルの起源をもつ。サン・ファールは作品を具体的に形象化する時に、神話や占星術や悪魔学などを含める広がりのある複数の象徴を取り入れるようになった。ナナの時代に自伝的な要素は女性一般の形象化へと転化したが、さらに人類や動物の太古からの目に見えないシンボル性を探求することで、形態と象徴の原型的な生成の秘密を探ってゆく。過去へと時代を遡る70年代の眼差しは、こうして隠された精神史へ、古代文明や美術の図像に秘められた謎の解明へとそそがれてゆく。

 1969−71年には南仏にライナー・フォン・ディエズのためにリヴィング・ルーム、台所、トイレが別棟になった住居としての作品が初めて建造された。一九七一年、イスラエルのラビノヴィッチ公園に三つの滑り台のついた子供の遊び場「ル・ゴレム」を製作し(七二年に完成)、七三年にはベルギーのコレクターのために、ノック・ル・ズットの庭園に「ドラゴン」と呼ばれる子供の家を完成する。この二つの野外モニュメントの怪物的形態は、一六世紀、イタリアのボマルツオにオルシーニ家のために作られた「モンスター・パーク」の系譜を引くものといえる。

■やせっぽちスキニーズ・線形彫刻

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■言葉の散歩-1979  ■月の女神-1980  ■新しい男が来る-1980  ■青い女-1984  ■巨大な頭部-1988  ■愚者-1990 

 空間に平面的に描かれたような線形彫刻スキニーズは、粘土板に彫られた古代の文書、ヒッタイトの形象文字、特に古代エジプトの石碑に残されたヒエログリフの簡潔で美しい曲線形態を想起させる形態と象徴の関係はスキニーズによって、より言語記号における音と意味の悪意的な関係に近くなる。長年親しんだ膨脹したフォルムから、その正反対の線形への移行は、サン・ファールがつねに勇気ある冒険者であることを表わしている。インタヴューの中で表現の移行の理由を、作者はポリエステルで痛めた肺を治癒するために空気が重要な要素だったこと自然の眺望を巨大なマスでさえぎらない透明な彫刻を作りたかったためだと説明している。線形彫刻は光が当たると美しい影を作る。閉鎖したミクロコスモス(小宇宙)の究極性をもつ巨大な作品形態のおごりが消えて、自然環境に溶け込み、自然の美しさに謙虚な、いわば「さとり」の作品が生まれたといえるかもしれない。

 1978年からサン・ファールはトスカナ地方のガラビッチョに環境彫刻の集大成ともいえる大規模な野外建築「タロット・ガーデン」に着手しはじめ、線形彫刻の展開はこのユートピア・モニュメントの実現と並行している。「タロット・ガーデン」は古代エジプトに起源するタロットカードを形象化した彫刻群で、神秘主義やカバラや錬金術にまつわる象徴を秘めている。

■参考資料 <ナラティブの定義>

なぜ自分の人生について述べられたことが「物語」として捉えられるのか。この点に関して重要なのは、人生についての描写が、「私はあのとき~の経験をした。それからこういう人に出会って~。そして、それがきっかけになって今~している」といった形で、時間軸に沿って表現されるということである。それは「私は今、机の前に座っている」といったある一時点における自分についての描写ではない。さらに、自分の人生についての時間軸に沿った記述は、単に出来事を年代順に羅列した歴史年表的な記述ではないという点にも注意しなければならない。むしろそこには、現在に至るまでの一定の「筋立て」があり、なぜ、自分が今ある状態に至ったのかが示されている(榎本博明:『〈私〉の心理学的探究:物語としての自己の視点から』1999)。もちろん、その記述内容がどのぐらいの時間幅を持っているのかに関しては、物語によって一様ではない。しかし、いずれにせよ、自分の人生についての記述がこのように一定の筋立てに従い時間軸に沿って述べられることから、それは自己「物語」として捉えられるのである。

早川正祐:「ナラティヴ・セラピーとケア ――当事者の物語の重視とは何か――」

 サン・ファールは絵を描きながら夢見る人だとティングリーは評した形象文字の線描のような形態を採用することで、絵画以上に文字に近いナラティヴな方法で夢と想像を物語ることができるようになった月はサン・ファールにとって「知性の反映、幻想、よどみ、想像力」の象徴であり、月にさらに、さそりや犬などが加えられると謎に満ちた文章が現われる。また未知の世界の新たな男や女も登場する。シンボルは線の流れで連結し、さとりや叡智などの精神のメタファーを担った電球やランプの光がともされることで、細い線形に魔術的なエネルギーが通っていることが示される。流線の表現にめだつ紺碧の青は、ヌーヴオー・レアリスムのイヴ・クラインが使用した瞑想的な色彩であり、エジプトでは不死を表わす色である。

■エジプトのインスピレーション

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■ギルガメシュ-1991  ■緑の女神-1990   ■トエリス-1990  ■ホルス-1990 ■予言者-1990

 サン・ファールはクレオパトラのような髪飾りを好んで身につけていた時期がある。古代エジプト彫刻には、現存した女王をカバの女神に模した彫像が残されている。左足をやや前に出すポーズ、垂れた乳房などの形態はこのエジプトのカバの女神からの引用であろう。古代エジプトでは雌のカバは豊饒の象徴として崇められ、多数のイメージや彫像や護符として寺院に祭られた。犬や猫などの動物も神に擬されて尊重され、古代エジプト社会における女性の位置は非常に高かった。愛と敬意を相互に表現する睦まじい男女のカップルの彫刻も多数存在し、母権社会の理想を抱くサン・ファールにとって、古代エジプトはひとつの理想社会のモデルとなったにちがいない。

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 家具のような彫刻はまず舞台装置として制作され、一九七二年からは彫刻のエディションが行われた。一九七五年には映画のセットのための家具も製作している。三体のブロンズ彫刻の中で、ナナの系譜を引く重厚な肉体派のカバ女神「トエリス」とは対照的に、烏神の「ホルス」と犬神の「アヌビス」は、頭部がめだつ内臓のないネガティヴな椅子彫刻として表わされている。鳥は古代オリエントでは死者の魂を象徴し、エジプトの死者の書でも、死者の魂は鷹にたとえられている。ジャッカルや犬面をした「アヌビス」も死者やミイラの神で、犬面は光に敵対するものを破壊し、聖地を守る役目を負うシンボルとしてエジプトのイコノグラフィーに数多く登場する。おしゃれで老檜(ろうかい)な全能者「トエリス」に仕える二体の聖獣には、近年エイズで亡くなったサン・ファールのコラボレーターの男性たちへの追悼の思いが感じられる。

■生と死をめぐる思索・鏡の彫刻

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■不思議なきのこ-1989  ■骸骨-1988  ■理想宮-1991  ■オベリスク-1992  ■賢人−1991−92

 「理想宮」は高さ16メートルの建造物としてニームに建てられ、「タロット・ガーデン」ではじめて使用されたセラミックやカラー・ガラス、鏡がモザイク状に豊富に使用されている。野外彫刻の場合には保存と耐久性の点でマテリアルに制限ができる。光を反射する鏡はイメージの迷路を構成するマジックなマテリアルだが、同時に装飾性に陥りやすい。作者は危険を覚悟で、ブロンズや鏡やカラー・ガラスなどキッチュ(「けばけばしさ」「古臭さ」「安っぽさ」)になりがちな材料に挑戦している。タロットのレッスンに耳を傾け始めた近年の作品のテーマは、生と死をめぐる思索、知恵に至るスピリチュアルなメディテーションへの傾向が強いが、表現は戯画的で形象は再現的になっている。オベリスクの形態は、エイズ・キャンペーンのための本を描いた時に、ペニスの形から発想したもので、豊饒と魔力と幸福のシンボルとして作られている。

■予言と思い出の手と神

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■手-1983  ■ダンス-1993  メタ・ティングリー-1992

 原始キリスト教においては、世界の創造を司る父なる神を絵に描くことは避けられ、神の力の印として手だけが雲の中から出ている図が描かれた。手は作者によれば、神的な知恵と創造力を象徴する。サン・ファール自身、自然に手が動いて何かを作ってしまうという、生粋のクリエーターの手をもつ人である。手は顔と比べると感情表現にはとぼしいが、過去を描き未来を予言する占い線のキャンヴァスでもある。

 嘆きや苦痛などの感情を表わす文字やイメージが記された「手」は、日記帳や思い出のアルバムのようであり、作者の文学的感性が発挿された作品といえよう。『分けて下さい永遠の命を』や『愛』などの独立した本も出版しているが、作者は苦から個展のカタログなどに、純真な少女が語りかけるような独特な詩的文章を書いている。

 1968年の心臓病で奇跡的なカムバックを遂げたジャン・ティンゲリーは、惜しくもその五年後の1991年に亡くなった。鎮魂の作品「メタ・ティングリー」にも、神の手が、そして魔術師のように物を創造するティンゲリーの手が描かれている。グルグル回る車輪はティンゲリーのキネティック・アートのメタファーであり、サン・ファールが初期の頃から幸運の車輪として用いたモティーフでもあり、輪廻と転生の象徴であろう。(美術評論家)