ブランクーシNo.3

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 <乳房・パプアニューギニア>は,ブランクーシ自身の1910年の作《パサレア・マイアストラ≫(頭部と首が豊かな胸の上に曲線を描いている大理石の鳥)とも類似しているため,ブランクーシの注意を引いたに違いない。そして,当時進行中で1916年にようやく現状に達した《王妃Ⅹ≫の様式化にも示唆を与えたであろう。《王妃Ⅹ≫の大まかなデザインは別にしても,一つしかない乳房の脇に添えられた手は,ブランクーシの作品群の中では他に例を見ないものであるが,アフリカ彫刻には類似した例がいくつも指摘できる。 彫られた上部と下部,およびその間の大きな木の塊からなる背の高い構造をもった1916-21年の《アダムとイヴ》の創造には,迷いや大幅な変更,組み換えがみてとれる。中間のどっしりした形態は,明らかに異なる様式でつくられた二つの異なるものを統合するという奇跡を成しえている。実際,両者は別々の時期に,原罪を犯した二人とは無関係の主題で制作されたに違いない。これら二つの形の婚姻を通じて,ブランクーシはイヴの誘惑性とアダムに課せられたものについて自由に想造力を働かせようとしたのであろう。1926年にインタヴューを行った記者に対し,ブランクーシは《イヴ≫のいくつかの形態的特徴の象徴的意味を説明している・・・・それは彼の発言の中では珍しく詳しく,他の説明と同じくらい空想的な注釈である。

アダムとイブ

イブの写真立っている女 彫り1920年

 <アダム>に結合される以前には《イヴ≫はそもそも何者だったのだろう・・・ブランクーシか。1916年の写真に,《マダムL・R・》や後の《ソクラテス≫のような一本脚で立つ完成作として《イヴ》は初めて登場している。形態上は,この作品は半球形の頭部からフランジ(つば)状の足,腕がないことにいたるまでアフリカ的である。こうした図式に関していう限り,この作品はアフリカの血をひく女性を示している。豊かな唇は,ブランクーシが《白いニグロ女性≫と呼ぶことになる,1920年の大理石の頭部の唇によく似ている。したがって,唇(口)が強調され,胸が露な黒人女性をそこにみることができる。こうした具象的な読み取りに従うと,一本脚は説明できず,長い円柱は尻と(2本の)脚が圧縮されるか覆われるかしたものに違いないということになる。

 もちろん私は,≪イヴ≫の経歴は黒人のナイトクラブの歌手の彫刻として始まったが,《アダム≫と結びつくために支えの円柱と胸の下方の曲線を放棄し,そのアイデンティティを変化させたと推測している。これらの要素を取り除くことによって,残った部分にエデンの園的なシンボリズムを付与できたと考えるのは穿(うが)ちすぎであろう。これは確かに,《パサレア・マイアストラ≫を説明するためにブランクーシがっくりだしたお伽話や,彼の≪レダ≫の説明に供されたギリシア神話の焼き直し同様,事実の後から辻褄を合せたものに違いない。それでもなお,後にイヴを黒人と考えることがブランクーシにはいかにもふさわしく思えたし,この黒人歌手のイメージをアフリカ的な方法で構想することは彼にとって適切に思われたのである。

《アダム≫に関していうと,これはもともと1920年頃に制作された彫りによる柱状の作品の下の部分であったが,ここから別れて《アダムとイヴ》の下半分となった。したがって《イヴ》同様,象徴的な位置づけは変化しているが,その形態上の場所はもとのままである。≪アダム≫の角張った形態,喉の部分の細く彫られた溝,その下の鋸歯状の部分はすぺて明らかにアフリカ的である。同時にこのイメージは,おそらくブランクーシが知っていたに違いない,エプスタインの1910年の作品《ひまわり≫を想起させる。《アダムとイヴ≫およびその他の木による作品のほとんどは,アフリカ彫刻の方式とモティーフを想起させる一方で,ブランクーシがアフリカの影響を吸収する際の洗練ぶりをも示している。こうした洗練ぶりは,フランスやドイツの同時代の芸術家がめったに太刀打ちできないものであり,とりわけ,彼の創った全作品の中で最も抽象的な《無限柱》において際立っている。

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 今世紀初頭のルーマニアの指導的画家の一人で,ブランクーシの友人でもあるセシリア・クチェスク=ストルクは,1966年に回想録を出版し,1909年にブランクーシのアトリエで,《無限柱》の「第1作」と「斜めに切断された木の幹の部分をいくつか」見たと述べている。ブランクーシの研究者バルブ・プレジアヌはこの言葉を文字どおりの意味に受け取り,これに加えて,ブランクーシと親しくしていた頃に描かれた,モディリアーニの1911-12年の《ポール・アレクサンドル博士の肖像≫という作品が,画面を縦に横切る《無限柱≫に似たモティーフを含んでいるという点,またそれがそこにあるということが,《無限柱》の1909年制作説を裏付けるという点を指摘している。

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 この分析は二つの問題点を抱えている。第1点は,盲目的愛国主義,すなわちロダンを除いてブランクーシにルーマニア以外のいかなる影響をも認めることを回避しようとする態度である。こうした態度の結果生じてくるのは,いつもながらロダンを除いてすべての影響はブランクーシから発したのであり,ブランクーシへの影響はないという信念である。第2点は,ブランクーシが《無限柱≫の制作年を(正確に)1918年としているという事実にあり,我々は同時に,彼がこれに先立つ2,3年のうちに《無限柱》に取り掛かったことをみてとることができるのである。1914年以前のブランクーシのアトリエの写真には《無限柱》もそれ以外の木彫も全く写っていないし,また1910年の数枚の写真では,アトリエにカメラの視界を越えて「木の幹の部分のいくつか」や≪無限柱≫のような抽象作品が隠れているようにはみえない。1909−10年が《トルソ》,《鏡をのぞく女≫,《男爵夫人R.F.≫,≪眠るミューズ》,≪ナルキッソス》,《接吻≫(モンパルナス墓地)・・・木による《無限柱≫と同時代とは信じがたい石や大理石による再現的な彫りの作品・・・の時代であることを思いだしていただきたい。

要するに,ストルク女史の記述を受け入れることはできないが,それに説明をつけることはできる。彼女は,6年後に第1作の形で現れた作品がアトリエにあったとして叙述したのであるが,それはブランクーシのアトリエを初めて訪問してから60年近く後のことである。彼女は別の時の訪問か,ひょっとすると別のアトリエの記憶と混同しているのであり,その点では,ロンサン小路のアトリエ内部を(多くの場合その写真を見て)モンパルナス街のアトリエ内部を取り違えた,ブランクーシ初期について回想している他の人々と同様だったのである。

立っている女

それでは我々はモディリアーニの肖像画の中のモティーフをいかにして説明すべきであろうか。このデザインに関して何か,アレクサンドル家に知られていることがないか尋ねたところ,1968年の初めに私はジョルジュ・プレフォールから,自分では手紙を書くことができない彼の母,即ちアレクサンドル博士の娘が提供してくれた情報の記された手紙を受け取った。「垂直の帯とその上のモティーフを描く際に,モディリアーニが,アレクサンドル博士の肖像を描いた頃,博士の住居にあったモロッコかアフリカに起原をもつ壁掛け,あるいは掛け布に着想を得たという可能性は大いにあります。モディリアーニがこの壁掛けを気に入っていたとしても不思議ではありません。

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 ブランクーシがエプスタインをアフリカの影響のことで激しく攻撃したずっと後,1930年代後半の≪王の中の王≫において,彼は鋸歯状のモティーフをいくつか,新しい目的のために用いている。背の高い柱のような姿は,円形の鋸歯状のものを頭に戴いているようである。彫刻の中央にはうね状の列が−まるで横向きに立てた洗濯板のように重直に並べられており,これと直行する面には同じようなうねの列がこれよりよくみかける水平方向についている。また底部近くのねじ状のデザインにおいても,このモティーフがさらに別の形をとって現れているとさり」言えるかもしれない。こうした鋸歯状ないしギザギザのモティーフという同類の特徴を徹底して用いている点や,はっきりとした分節によって,≪王の中の王≫はアフリカ的な性格を与えられている。この作品ほど抽象的でないが,1940年代初めの等身大より大きい《カリアティード》は,1915年に試みられた主題を堂々とさせ,またはるかに単純化したヴァージョンである。この像はアフリカの影響を示すブランクーシの最後の彫刻といってよいが,その垂直性,左右相称性,部分間の形態上の区別,喉の部分に繰り返し彫られた溝,単一のふくらんだ胴,「膝を曲げた」立ち姿勢,そして台座に固定しなくとも,この背の高い作品が安全に立っていられるほど分厚い足(あるいは足部)で終る,二つに分かれた脚などにそのアフリカの影響がみてとれる。

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