「リアル」の探求

ジェレミー・ルウイソン

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 家族から授かったもの

 晩年の7年間、ベン・ニコルソンはドローイングに熱中した。縞柄の水差しを精確に写実的に描写するにしろ、ホワイトレリーフのなかで円や四角を彫りこんだり描いたりする精密な輪郭線にしろ、あるいは抽象化された静物を縦横に滑っていくリズム感のある自在なHB鉛筆の緑にしろ、ドローイングはつねにニコルソンの芸術を支えていた。1914年、彼の父ウイリアム・ニコルソンは、おそらくフォーヴィスムの画家や初期キュビスムの作品の影響を受けて息子が振れた形を描くのを見てびっくりし、[1]息子に手紙を書いた。

 私は(お前の絵について)ずいぶんいろいろ考えたが、お前を助けるのに何を言えばいいのかまったくわからない。お前の絵柄にはずいぶん驚かされた。まったく普通じやないし、私には色も形も訓練を受けていない者の眼で描かれた仕事に思える。おまけに何か気がめいるような特徴がある。けれど、・・・物事のこの段階では・・・普通の正確さが身についていればいいのだが、と思つている。もしもお前が本当にひときわぬきんでているのなら、その方面の訓練も必要ない。わかっているだろうが、直せるものではないのだ。

 すぐれた絵描きになりたければ、どんなことでも俎上(まないたの上)に挙げられなければいけない。だからおまえのなすべきことはまったくはっきりしている。ドローイングドロイングーただドローイングすることだけだ。

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fig.1ベン・ニコルソン《1979.422(象牙)》油彩、フェルトペン、ポープイツツウイリアム美術宵理事会、ケンブリッジ

 若いベンがきちっと焦点の合った写実的な技法で対象を描くことこ戻ったところを見ると、ウイリアム・ニコルソンの忠告は彼の耳に届いたに違いない。ベンは間違いなく刻苦勉励してドローイング技術を完璧にしていった。ドローイングは、彼の作家としての実践の礎であり、同時に最後の信条表明でもあった。老齢になると、意識するしないにかかわらず、若い頃に夢中になった主題をふたたび取りあげたり、時が過ぎ行くにつれて急ぎ足でアイデアを紙やキャンヴァスに託したりしながら、作家はしばしば自らの生涯や画業を振り返る。こうした性向のもっとも名高い例はおそらくピカソだろうけれど、ニコルソンの晩年の作品(fig1)も同じような経緯を示している。斑模様の水差し、縦溝模様が入つたグラス、キャラフ、それに壜が、まるで誰もみな昔とは違う話を語ろうとする古い友達が最後の挨拶をするかのように、幕間めの登場を果たしている。詩人T.S.エリオットはこう言っている。「私の始まりに私の終わりがある」そして「私の終わりに私の始まりがある」[3]と。

 ベン・ニコルソンは、画家ウイリアム・ニコルソンとメイベル・ニコルソン(旧姓プライド)の息子として、ヴィクトリア女王の統治末期の1894年に生まれた。両親がロンドンの美術界に身を投じていたことは感じやすいティーンエイジャーに強烈な刺激を及ぼしたに違いないが、彼の育ちは授業料の必要なプライヴエート・スクールでの教育というかなり月並みなものであった。ニコルソンの書いたものを読むと、両親は家で客をもてなすときにかなり長いこと芸術談義に耽っていたが、いったん客が帰ると、母親はそこで行われた、気取った会話を拭い去ろうとするかのように食卓をごしごし擦るのであった。後になるといつもニコルソンは、母親譲りだと言いながら理論嫌いを口にしている。もっとも1930年代にはすっかり理論上の論議に巻き込まれていた。

 家族が絶えず引っ越しをするようになってからはそのような家庭環境はなくなってしまったが、ニコルソン家が子どもたちを育てた家庭はボヘミアンの雰囲気を伴った中流階級のものであった。ウイリアム・ニコルソンは、社会的地位のある人の肖像画を描く画家にふさわしくこぎれいな服を着たきびきびした男だった(†ig.2)。

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彼がちょっと遊び人風なところがある小粋な男だったのに対して、妻のメイベルは、やはり著名な画家ジェイムズ・プライドを兄弟とし、スコットランドの家系の出で、彼女の実際的な現実感覚は夫の派手な性格と釣り合いがとれていた。

 1911年に、ベン・ニコルソンはロンドンのスレイド美術学校に入学したが、ヘンリー・トンクス教授指導する写生の厳しさに耐えかねて、1年足らずしか在籍しなかつた。スレイド美術学校在学中に交友し、1946年に亡くなるまでニコルソンの友人だったポール・ナッシュは、写生の授業に対するニコルソンの一風変わった態度を語つている。モデルを見ながら描くにあたってニコルソンは、「鉛筆で一種マネキンのような、ぜんぜんモデルと似ていない小さな黒い人物を描いた。それはもちろん、特徴を捉えた彼なりのモデルの同等物だった。とはいえ、あえて付け加える必要もないだろうが、モデルと同等だと認められるようなものではなかった」。[4]この時期についてのニコルソン自身の言葉によれば、彼は「絵画世界の中にいてそこから抜け出そうとしていたし、(ナッシュは)外にいてそこに入ろうとしていた」。[5」トンクスは、ロジヤー・フライが企画した1910年と12年の、印象派と後期印象派の展覧会を声高に批判したが、ニコルソンのドローイングに関するナッシュの記述と彼の仕事の異常さに対する父親の反応・・・実際には不充分な手がかりだが・・・からすると、ニコルソンはトンクスの賛同者ではなく、むしろドローイングに対してプリミティヴではないにしても、トンクスよりもっと単純なゴーガン風の考えをもっていたと思われる。しかし、この公式的なものへの拒否反応は長続きしなかった。現存するニコルソンの初期作品・・・たとえば≪1914(縞模様の水差し)≫[不出品]や《1919(光沢のある水差し)≫[cat.n0.1]・・・は、つやのあるハイライトを用いて父親の絵に見られるきらめきのある表面を取り戻している。≪ローストフト焼きの鉢≫(1911年)(fig.3)のようなウイリアム・ニコルソンの静物画は、17世紀オランダ絵画に負うところが大きく、焦点を絞り込んだリアリズムの魅力は、父から息子に受け渡されていた。

 ベンが受けたウイリアムの感化は、生きざまのうえでも過小評価できない。ウイリアムの子どもたちとの距離の取り方は、ベンの長じてからの生き方に繰り返されたが、この父と子の愛情のうちには感情のもつれも競争意識もあった。

ニコルソンの父z NPG 3334; Gertrude Jekyll by Sir William Newzam Prior Nicholson

左図2オーガスタス・ジョン《ウイリアム・ニコルソン♂肖像》1909年油彩、キャンヴァスフィツツウイリアム美術商‡空事会、ケンブリッジ  右図3ウイリアム・ニコルソン卿《ローストフト焼きの鉢1911年油彩、キャンヴァステート

 1919年に流行性感冒でメイベル・ニコルソンが亡くなるとまもなく、ウイリアムは、戦争未亡人のエティス・ステユアート=ウォートレイと婚約し結婚した。そのようなすばやい結婚は時宜を得たときでも怒りを買つたかもしれないが、ベン自身が彼女に恋愛感情をもって愛着を寄せたので事態は複雑になるばがりであつた。息子と父のあいだには芸術へと溢れ出していくオィティプス・コンプレックス的な対抗意識があったのである。1910年代のちょうど終わりに、画家フランク・ドブソンに促されたこともあって、ニコルソンは、父のスタイルを捨て、父が紹介してくれた画廊と裸を分かち、彼自身がヴォーティシズム流と記した流儀で描き始めた。

 ヴオーティシズムと(ウィンダム・)ルイスに関係をもつたことで、私の一族が保っていた絵画の伝統から離れることができた。ヴォーティシズムについての私の解釈は積極的であったし、私の最大の欲求は身の回りに満ちていた気取りと訣別することだったので、ヴオーティシズムとの接触も、私にとつてそれ以上の作用をすることはなかった。

 彼らのあいだにあった対抗意識の関係は、まるで芸術に溢れ出していくかのようだった。彼が父から引き継いだ、凝った表現スタイルの破壊は、父親殺しの行為を昇華したものであつた。

新しい始まり・・・実験の時代

父の魅力にさらわれてエティスを失ったベンは、その反動でウィニフレツド・ロバーツと出会い結婚した。9代目のカーライル伯の孫娘、下院議員の娘にはうってつけの、上流社会の婚礼用の上品な式場セント・マーティン教会で結婚式は行われた。ウイニフレッドもまた、画家の家系の出であった。祖父のジョージ・ハワード伯爵は画家であり、後期ラファエル前派の画家たちと友人であったし、ウィニフレツドの母親レディ・セシリアは素人の水彩画家だった。ウイニフレッドは父とともにインドに行つており、そこで光の輝かしさと色彩の強烈さに衝撃を受けていた。その彼女が、それまでは暗く威厳のある色彩に向かいがちだったニコルソンの色遣いを刺激したのである。ウイニフレツドの色遣いはもっと自然で調子の高いものだった

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左図ウィニフレッド・ニコルソン 右図(fig5)ベン・ニコルソン(静物−ヴィラ・カプリッチョ、カスタニョーラ)

 結婚式を終えるとすぐにパリ経由でイタリアに出発したが、パリには一時滞在し、モダン・アートの最新の動向を目にした。イギリス人にとってパリは、文化の豊かな街であつたし、1920年代初頭のロンドンでは、本当のモダン・アートはごくわずかしかまみえることができなかった。たとえば、セザンヌと印象派は普通に見られたが、ピカソ、ブラック、あるいはドランでさえめったに見られなかつた。だからニコルソン夫妻はパリに着くと商業的な画廊にもルーヴル美術館にも足を運んだ。パリを発つたあとは、ヴェネツィア、フィレンツエ、ローマ、ナポリなどを巡って何人ものイタリアの巨匠を見て、ちょつとしたイタリア大旅行を続けた。彼らはしばらくイタリアに暮らすつもりだったが、喘息がひどく、どの町もあまりに汚かったので、スイスのルガーノに移る決心をする。ウイニフレツドの父チャーリー・ロバーツから経済的援助を受けて、ルガーノの隣村カスタニヨーラに一軒の家・・・ヴィラ・カプリッチョ・・・を買い求めた。その後3年間、彼らは冬をスイスで、夏をイギリスで過ごすことになつた。 スイスヘの行き帰りに彼らは毎年パリに立ち寄り、たとえばサロン・ドートンヌ、ポール・ローザンベール画廊、ルーヴル美術館などを訪れ、新しい動向や昔の巨匠たちの絵を見て回つた。ルガーノにいるときは、ときどきミラノまで出かけ、プレラ美術館やたぶんいくつかのミラノの画廊を訪れている。また、・・・手紙のなかでブラックについての本に触れているように・・・美術書を手に取り、何冊かの理論書を読んだりもしている。ウィニフレツドは兄弟に宛てた書簡のなかで、フライの「ヴィジョン・アンド・デザイン」(Vision and Design)[8]を読んでいると書き送っている。ニコルソンが所持していたスクラップ・ブックからわかるところでは、彼が共感を寄せていた作家にはドラン、アンリ・ルソー、マティス、ピカソ、ウイリアム・ブレイク、ピエロ・デツラ・フランチェスカ、メムリンクなどがいる。ここに挙げたうち、多くの作家の芸術は、切れ味のよさと明晰さで特徴づけられるが、それはニコルソンがウイニフレツドに会う前からだけでなく、その後もひき続き共感を寄せていた点である。

 スイスでの生活はかなり質素なものであった。画家デイサーッド・ボンバーグはスレイド美術学校時代のニコルソンの同期だったが、活動歴はニコルソンよりずいぶんと豊富でイギリス前衛美術の主導者のひとりとされていた。[9]ボンバーグは1922年にヴィラ・カプリッチョを訪れたとき、その寒さを嘆いていたが、ニコルソン夫妻は、質素な生活を楽しんでいて、多くの時間を野外で制作したり、雪の中でスケッチしたりしていた。スイスで過ごした三度の冬は、彼らにとって研究と実験の時代であった。美術学校での正式な訓練を受けていなかったニコルソンは、彼自身の言葉によれば「短時間のうちに猛烈に実験したとても重要な時期」[10]となったこの時期に、・・・セザンヌ、ドラン、ゴーガン、アンリ・ルソー、マティス、ピカソといった・・・彼が賞賛する画家たちのスタイルを通して仕事しながら、彼らを見習つていた。ただ、この時期の作品の多くは、上にまた描いてしまうか、あるいは廃棄するかして残されていない。ニコルソンは、自分の仕事や個人的な書類資料を整理校訂する達人であった。彼の絵画への構えが変化する最初の徴候は、次の重要な3点の作品に明らかである。≪1921−22(静物−ヴィラ・カプリッチョ、カスタニョーラ)≫[不出品](fig5)、

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左図《1922(パン)≫  右図≪1921−23(コルティヴァッロ、ルガーノ)

このうち2点の静物画は、それ以前の10年ほどのあいだに試みていた、室内にしつらえたテーブル上の物品を描くというテーマの新しい扱い方を示している。≪1921−22年 fig.5(静物−ヴィラ・カプリッチョ、カスタニヨーラ)≫では、空のスープ皿とスプーンが乗っている赤と白の縞模様のテーブルクロスを除けば、室内は飾り気がない。ニコルソンの静物画では、この作品がモダニズムの作風で描かれた現存する最初の作である。テーブルは、画面に向かって前に傾いて、空間の短縮を示している。部屋の上方左の角は、空間としては曖昧で、彼のもつと早い時期の作品がニスでつやを出しているのに対し、筆の跡が強調されている。また光は、ハイライトによるよりも色の濃度で

nikolson5fig6 キリストの洗礼

示されている。この作品で画家は自分の空間を簡潔に設計している。スープ皿の力強い彫刻的な質は、1930年代の彫り込んだホワイト・レリーフを先取りするもので、テーブルクロスの赤い縞は、のちの静物画のライトモティーフを思わせる。空間の圧縮は、続く数年間に一層激しくなるものであるし、絵画表面の性質を際立たせることは、その後の彼の仕事でも持続的に現れる関心となつていく。振り返ってみれば、この作品は、大きな重要性をもった他に類のない絵である。

 それと同じように重要なのは≪1922(パン)≫である。そこでは、ニコルソンの見るからに形式ばらない絵の表面の作り方に加え、描かれるものが重なり合う、形式にこだわらない構図の実験が見られる。白い皿(あるいは布かもしれない)の輪郭が白い鉢を横切っていく、どちらかといえばぎこちない描法は、のちの作品ではもっと軽やかに、そしてはるかに滑らかに操作されるが、ニコルソンの商標のひとつになつていく。まったくキュビスム風というのではなく・・・1922年の時点ではニコルソンはキュビスムを評価していない・・・この作品はドランの静物画を手本としている。彼の道具立ては≪1921−22(静物−ヴィラ・カプリツチョ、カスタニヨーラ)》と似ているけれど、効果はまるで違う。こちらの絵には構成に明快さ、簡潔さ、明るさがあるが、《1922(パン)≫のほうは、何本かのパンが、後年ニコルソンがコーンウォールやブルターニュのものを讃えたドルメンのように直立していて、複雑で重々しく、土色の色調をもっている。

 最後に

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≪1921-1923(コルティヴァッロ、ルガーノ)≫

に触れると、この作品は、ニコルソンの仕事のなかで別の主要なテーマ、すなわち風景を示している。≪1921−22(静物−ヴィラ・カプリツチョ、カスタニヨーラ)≫のような、セザンヌとピエロ・チノラ・フランチェスカ(fig.6)に等しく敬意を払う絵で、ニコルソンはあくまで自分のものであるイメージを鍛える。また、絵画材料がそこにあるという印象を与えようとするために、軽んじられ虐げられている絵画表面の無味乾燥さや色彩の選び方に見られる寂しさのうちにも、厳格な感じがある。画家は、重要な題材である樹木を、葉の落ちた枝を表すために彫り込んだ緑で描き、絵具の物質性を利用している。このことは、最終的にはレリーフを彫っていくことになる、絵画の表面を彫ることへの関心の最初の表れである。

 スイス滞在は中身の濃いものであった。ニコルソン夫妻は互いに刺激し合ってより大胆になり、少なくともベンが結婚前に選んでいたほとんどありきたりの方法よりもっと確かな表現方法を展開させる根拠を自分たちの境遇に求めようとしていった。1910年代の絵画で彼は非常に達者なところを見せていたが、自分の絵には真実に触れる肝腎なものが欠けていると感じたのは間違いないだろう。とくに10年前には、多〈の画家たちと同じようにニコルソンも、いわゆるプリミティヴな文化が生んだ芸術に、手わざの気取りや技巧に犯されたり中和されたりすることが少ない、より直接的な表現があると認めていた。そうした芸術に対する彼の関心は、ロジヤー・フライの著作を読んで確実に高まった。フライはその著書「ヴィジョン・アンド・デザイン」で、「ブッシュマンの芸術」「黒人彫刻」「古代アメリカ芸術」といった章を設けている。さらに、初期ルネサンス芸術へのニコルソンの興味は、その純粋さや精神の簡潔さ、あるいは構造上の強さに対する関心を示してもいる。フライは、モダニスト芸術家に古い時代の規範を見直すよう促した批評家たちの陣頭に立っていた。

 サム・スマイルズとステファニー・プラツトの共著にはこうある。「ルネサンス芸術は、モダニストの語法で再創出されていた。つまり、厳格な構成、明快な意匠、形態の簡潔化、造形感覚、対象を大きく量塊として捉えることの探求、それらはすべて、それらを内包する芸術作品から取り出され、独立した価値をもつにいたったものである」。[11]ニコルソンはもちろん、そうした芸術に関心を抱いた唯一のイギリス人芸術家ではなく、ほかにもスタンリー・スペンサー、ウィニフレツド・ナイツ、エドワード・ワッズワースらがいる。それは、いくつかの芸術運動や相互の境界を横断して現れる関心であった。

 1920年代、30年代のニコルソンの作品には、宗教的な純粋さのようなものがあり、彼を評価していた何人かの人はそれをよくわかっていた。たとえば、H.Sイードは、自分が所有していた《1924(ゴブレットと二つの梨)≫[不出品]に、受胎告知の場面と比喩的な意味で等しいものがあると認めていた。また同じくイードのコレクションに含まれていた《1925(壷とゴブレット)≫[cat.n06]には、ルネサンス絵画では通常聖母マリアの衣裳となつている赤と青の色調が地上と天界の色として繰り返され、やはり宗教的な感じが湛えられている。現在ではニコルソンの宗教への関心は資料的にもよく裏付けられている。ウィニフレッドはクリスチャン・サイエンスの信者で夫にも信仰するよう誘っていた。[12]彼は、きわめて熱心な信者というわけではなかったが、それでも哲学的な視点から興味をもっていた。外見の装いの下に隠れた内在的な現実を信じるクリスチャン・サイエンスの信仰は、対象を描出するニコルソンのやり方の基本となるものであつた。ニコルソンの関心は、自然主義的な描写をすることにはなく、対象の本質を捉えることにあり、ひとりの人物を徹底的に知ろうとするのに似た、本質の追求にあった。彼の静物画は、描きこまれた品々 【その多くは一生涯自分の手元に置かれていた・・・が、いく度も描かれ、そのたびに違った特徴を見せて、まったく肖像画というに相応しいものとなっていった。

 スイスにいないときニコルソンは、チエルシー地区にアトリエがあったロンドンか、ウィニフレツドがもともと両親と暮らしていたカンパーランドに住んだ。ロンドンではキュビスムの方法を使った試みをして、コラージュ技法による少なくとも3点の抽象作品を制作した。《1924(最初の抽象絵画一チエルシー)≫[不出品]がその最初で、続いて《1924(絵画・・鱒)≫[cat.no6]がある。ニコルソンは、この2点の絵画で、静物を抽象に翻訳する練習を行い、とくに後者の絵では、ブラック、ピカソの「パピエ・コレ」と関連した平面性とその重層という側面が示される。[13]一連の平坦な形は、以前のニコルソンの静物画に用いられたゴブレットやマグカップや鉢などのまとまりとして処理され、≪1924(絵画・・鱒)≫では、画面上方に青と土色の縞模様のモティーフが現れ、1914年の出発期の作品にあ縞模様の水差しを思い出させる。これら3点のキュビスム風の絵画は、その後廃棄された作品とともに、ニコルソンが、当時の新しいイギリス美術の足取りを知っていたこと、とりわけフライ、ダンカン・グラント、ヴァネッサ・ベルらから近々10年ほどの美術情報を得ていて、自分のやっていることがいくらか時代遅れだったにもかわらず、自分にとって根本的だと思いこんだ絵画スタイルによて仕事をしていたことを明かしている。自然に倣(なら)った表現よりも純粋な形態のほうが、「芸術家の至高の感情と知力」[14]を引き出すににあたってもっとも重要だと考える、フライとクライヴ・ベルの「意味を表す形態」という概念に、ニコルソンはおそらく感化を受けいた。

 1920年代にこうしたキュビスムの実験を進めるにあたってニコルソンはまったく孤立していたわけではなかった。この時期にやはパリを訪れていたセドリック・モリスも同じような流れのなかで仕事をしていたし、現在ではしばしば見落とされてしまう作家シドニーハントもそうである。ニコルソンのキュビスムが静物の品々に応用されたのに対して、モリスは風景に基づいてキュビスムを実践した。ベルとグラントの抽象は、もっと装飾的で、室内デザインと密接に関わっていた。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/EnglandCumberlandTrad.png カンパーランド

1923年にべンとウィニフレツドがハドリアンズ・ウォールに住居購入していたカンパーランドでは、風景画と素朴な静物画に戻った。バンクス・ヘッドと呼ばれた住居は、アーシング川の谷を見ろす簡素な石造りの家であった。スイスでと同じく、バンクス・ヘッドでも、ウイニフレツドのささやかな収入はあったが、質素な生活送った。静物画がそのことを明かしている。贅沢さを発するもの何もない。水差しはどれも手造りで、丈夫で実用的イングランド器である。台所や茶の間から持ってきたもので、食事室備え何の食器といったものではない。そうした品々は、前産業化社会を呼び覚まし、失われたイギリス工芸の無垢な世界をふたたび打ち立て、戦争の恐怖、工業化、大量生産の知識で条件づけられた世界である現在と、お茶とゲームでくつろいだ子どもの頃の思い出から喚び起こされる過去との溝を埋めようとする願いを表している。これらの作品では、アトリエの論理が生活の論理を打ち負かしいて、全般的に厳格さが湛(たた)えられている。≪1925(水差し、マグ土プ、カップ、ゴブレットのある静物)≫[cat.no.8]では、自分の場を求めてひしめき合っていたマグカップ、水差し、ゴブレットが、あるものは綜合的キュビスム絵画に見出されるような特徴、とはいっても実際には、その物それ自体から引き出された特徴を付されがら、絵具を擦り取ったり剥ぎ取ったりしてほとんど画布の繊維見えるほどのむきだしの背景をもって並べられている。画布の表面は、実生活で使われる台所の食卓の表面と同じように傷をつけられていて、表現というよりむしろ表示といったものになっている。こ

のような作品は、ブルームズベリーの画家たちの地中海的な多彩な色を駆使した作品の豊かさとはまったく異なったものである。食物も人物もニコルソンの作品には目立って少ない。国民全体が長い喪に服していた戦後の時期、ニコルソンの作品は、その時代の寂蓼感を漂わせ、不在感と、何かイギリスのピューリタニズムのようなものを感じさせる。

 ニコルソンはそれまでもつねに、シンメトリーを崩した構図を好む傾向があったが、1920年代になると、とくに多くの品々が並ぶ静物画でその傾向を助長させた。≪水差し、マグカップ、カップ、ゴブレットのある静物≫やピンクの色味をもった皿が構図の均衡をこわしている≪1929(静物一水差しとトランプ)≫のような作品には、一種の不安定な感じがある。この時期のニコルソン自身の生活もどこか不安定であった。結婚生活は幸福そうだったが、彼はかなり多くの時間を妻と離れて暮らした。彼ら夫婦は苦心してなんとか家計の帳尻を合わせていた。ニコルソンの作品はわずかしか売れなかったし、展覧会は当てはずれだった。彼らを取り巻く経済状況は時とともに絶望的になり、1929年にはついに大恐慌にいたる。経済的不安を抱えたなかでしか作品は制作できなかった。C.F.G.マスターマンは、戦争がもたらした経済上の帰結によって中流階級の生活が崩されたという見方を示すために静物のイメージを使って、1922年に戦争前と後のイギリスの顕著な違いを説明している。

 戦前期の文明化された生活水準をなお維持しようとする人々の 努力は大変なものだった。しかも一般的な印象は、ひとかどの市 民たちの一団全体が、神の手になるか人間がつくつたか悪魔がつくったかした掟によって底知れぬ深淵に滑り落ちていくという 感じである。あたかもテーブルが突然斜めに傾けられて小さな人形やマリオネットが床に滑っていくかのようだ。ある者はテーブルの端にしがみつき、ある者は曲がった部分や割れ目に足を かけ少しのあいだ支えていられるが、抵抗もむなしく塊全体は、この世界の底に向かってばらばらと落ちていく。[15]

 一度確立された世界が崩壊したか、崩壊しつつあつて、従来の規範は戦後10年ほどの混乱のうちに壊されつつあった。マーク・ガートラー、ダンカン・グラント、エドワード・ワッズワースらの手になる1920年代の静物画に描かれる回復された秩序ではなく、しっがノと位置が定まっている物はひとつもないニコルソンの静物のほうが、この不安定な気分を完璧に捉えているように見える。1920年代はしばしば秩序回復と再建の時代と特徴づけられるが、変化の時代とも性格づけられるかもしれない。社会の構造は、機械化が生活形態を変えたように、戦争によって取り返しのつかないほど変わってしまい、社会が適合するには時間をかけなければならなかつた。

 物体の内的本質を探るために、彼が描きだしていた物のうわベを拭い去るよう促したのは、おそらくこの不安定な状況だろう。そうすることであたかも真実の核心に等しいはずの何か錨のようなものが得られるのではないかというように。パリを訪れた際にキュビスムと初期のマティスに向き合って、そこからいわゆるプリミティヴ美術に関心を抱いていたニコルソンは、グノストファー・ウッドとともに、1928年セント・アイヴスで漁師にして画家のアルフレツド・ウォリスを発見し、すぐさま、大洋に漁に出た記憶を描くウォリスの直接さに感応した。ウッドは、マックス・ジャコブやピカソを含むパリの芸術家グループに属して、パリの美術界への有益な導き手であった。実際に彼が、1930年にジョルジュ・ベルネーム画廊で展覧会をやらないかとニコルソンを招暗する労を取つた。さらにはニコルソンとウッドは、相携えて、あるいはウィニフレツドもー緒に仕事をしながら、活気があって新鮮な、そしてウォリスの直接的だがむしろ子どもじみた流儀を消化した風景画、人物画を描く方法を新たに展開した。ウォリスは厚紙の切れ端や不規則な形に切ったボードに絵を描いていた

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彼の画材は船や家を塗装する塗料で、その絵は、ニコルソンの眼からはオブジエと見えるもので、額に入れて掛けるよりも壁に釘で留める類いのものだった。

 ウッドとウォリスの二人の感化でともかくも、ニコルソンは内心に抱える子どもらしさに応えるためにひとつの方法を手に入れた。それはまた、1927年に息子のジェイクが、1929年には娘ケイトが誕生したことも刺激になったに違いない。家庭で使う小箱であれ、子どもたち用のおもちやの戸棚であれ、物を作ろうというニコルソンの気晴らしは、他からの影響と自分の状況とが混じり合った結果だったのだろう。

 だが、ニコルソンのスタイルが次第に純真素朴になったことについては、人類学や子どもの美術への関心など、もっと広い文脈のなかで見ていかなければならない。何年ものあいだアンリ・ルソーを賞賛していたり、ニコルソンの風景のなかにときおり見出される人間に似た樹木を描いたフアン・ゴッホを賛美していたりもするが、それだけでは、ニコルソンのスタイルの変化を説明できない。