ブッリ生成と展開

アルベルト・ブッリの芸術:生成と展開

北谷正雄豊田市美術館学芸員

 アルベルト・ブッリが生まれたのは、第一次世界大戦が勃発した翌年1915年であった。つまり、それから第二次世界大戦までの間、ムッソリーニとファシズムがイダノアにおいて勢力を強め、権力を固めていく過程と同時代にブッリは成長期を過ごすことになる。多感な青年期を全体主義的な雰囲気の中で送らなければならなかったことは、彼の人格形成にいくばくかの影響を落としたのかもしれない。実際ブッリは医学という、世のために奉仕し、人々を助ける高邁な志を実現させる道を選んだ。

 だが、戦争という、人間が引き起こした最も不条理な出来事によって彼の志は無に帰した。1940年、大学で医学の学位を取得するとまもなく、ブッリは第二次世界大戦に軍医として従軍したが、1943年、チュニジアの戦線でイギリス軍の捕虜となった。翌年にはアメリカ軍によってテキサス州ヒアフォードの捕虜収容所に移送され、そこで1年半にわたる抑留生活を余儀なくされる。この経験が彼に医学を放棄させ、芸術への道を歩ませることになった。ブッリと同じ収容所で捕虜生活を送っていたイダノア人作家ジュゼッペ・ベルトはこの頃のことを回想して次のように述べている。「人間にあきあきとし、人間など自分が診るに値しないと決め、もう医者はやらぬときっばり宣言した医師がひとり収容所にいる。これがヒアフォードの収容所に広まっていたブッリの伝説であった。…(中略)‥・この伝説は、かれがなにゆえ人生を変えたのか、そしてかれがどうしてすべてに徹底した勇気ある反抗をしめすのか、その所以を明らかにする」と「すべてに徹底した勇気ある反抗をしめす」こと、これは後のブッリの画歴を象徴的に物語っているようだが、当時の実際の捕虜生活は、ブッリにとって非常に悲観的で孤独な状況であったことも容易に想像できる。ベルトは次のようにも述べている。「YMCAが捕虜たちを慰めるために本だとか、スポーツ用具、その他いろいろなものを運び込んだとき、ブッリはカンヴァスと絵の具、そして絵筆をとった。それで絵を描き始めたのだ。何か特別な目的があったのか、それとも暇つぶしにしたのかは分からない。彼の絵は、他の連中から見るとどぎまぎして逃げ出したくなるような奇妙な形のものだった。覚えているのは、奇怪な小人、みんな似たように粗野で品のない小人が大勢いる絵だ。あれは我々のことだ。囚われの身として、同じ人生の辛酸を味わった収容所の仲間たちのことだったのだ」

 いずれにしてもこの収容所での生活がブッリにとって、何か決定的な人生の転換点となったのは間違いなさそうである。外界との接触がほとんどない収容所の生活の中で、どこにも拠(よ)って立つ基盤のない捕虜という身分の己を独り見つめなおしたとき、自分が今まで信じてきた価値観が書を立てて崩れ去っていくのが確かめられたのかもしれない。では、何を信じればよいのだろうか、その答えはどこにもない。つまり、自分自身しか信じられるものはない、ということである。ブッリの画歴はここから始まる。ブソリが捕虜収容所で描いた作品は多くは残されていないが、このごく最初期の作品に彼のその後の探究の萌芽が見られる。ブッリの最初の作品とされているのは1945年の≪テキサス≫であるが、そこには、砂漠のような大地の上に収容所のバラック、鉄条網、風車、葉の落ちた木、そして煙を噴き上げながら疾走する汽車が、赤っぽく、そして黄味がかった色彩と荒々しい筆さばきで描かれている。地平線上に点のように描かれた太陽は、その小ささにもかかわらず、大地と雲が垂れ込めたような空を同じ色彩に染め上げ、ひとつひとつのフォルムはまるで色彩に押しつぶされるかのように見える。収容所でこの絵を見たベルトは後になって次のように語っている。「…テキサスの夜明け、あるいは夕焼けにしてはありえないような狂った色彩。…(中略)…形態としてよりも色彩とそのトーンによって伝えようとする、率直であるが決して表面的なものではない彼のやり方を理解するのは難しかった」。

 この一見したところ表現主義的な色彩の用い方にべルトが嗅ぎ取ったものは、たとえそれがはっきりとしたものではないにせよ、色彩が作品の主役になろうとしていることであろう。確かにこの作品に描かれた個々のモチーフは色彩に従属しているようである。極端に単純化され、あるいは変形されたそれらのモチーフは、決して写実的に描こうとされたようには見えない。それは、素人画家が目に見えるものを本物らしく描こうとしながらも、うまく表現できない不器用さとは異質のものである。しかも主役となるべき色彩は、自然を再現しようなどとはもとより考えられていない。絵の具の厚塗りによって描かれた画面は、まさに色彩を、さらにはチューブから搾り出した絵の具そのものを見せつけているようにすら感じられる。つまり、ここには「ひとつの素材を追求することによって物質を発見」しようとする意識の芽生えがあり、そしてそこにこそ素材の探究者としての「ブッリの未来が含まれて」いるのである。

 長かった抑留生活に終わりを告げ、1946年にイタリアに帰還したブッリはローマに居を定め、本格的に絵画制作に取り組み始める。当時、戦後間もない頃のイタリア美術界は、抽象主義とレアリスムの間で揺れていた。これはイタリアに限られた話ではなく、20世紀前半に生まれたさまざまな具象美術の諸派が次第に抽象に吸収され、あるいは自己破綻し、美術の表舞台から姿を消そうとしていたというのが、当時のヨーロッパ美術の状況であろう。こうした中から、その頃まだ依然として「芸術の都」であったパリを中心としてアンフォルメルが興隆してくる。イタリアにおいて状況がやや異なった趣を持っているとしたら、抽象と具象との間の論争が社会的、政治的な様相も帯びて先鋭なものとなっていたことであろう。第二次世界大戦の敗戦国であったイタリアでは、新しい価値観による国家の再建が急務の課題であり、その中にあって美術の分野でも、新しい国際的な様式としての抽象主義と社会的な主題に重点を置いたレアリスムとの間に論争が巻き起こされたのである。それはまた一面では、伝続と革新の間のあつれきでもあった。

 ブッリは、イタリアに戻った翌年の1947年には早くも最初の個展をローマのマルゲリータ画廊で開催している。この個展に展示された作品は、収容所で描かれた作品で見たような、表現主義的な色彩を厚塗りで仕上げた画面を特徴とする風景画や静物画であった机それらの作品においては、イメージを簡略化することによってできるいくつかのまとまった空間をそれぞれ色彩で満たし、それらの色彩のひとつひとつを個々の素材として表現しようと試みていたことがうかがえる。ここには当時のイタリア美術界を支配していた、抽象とレアリスムという不毛な論争の影はどこにも見られず、ブッリが自分の探究すべき道を寡黙に進もうとしている姿が表れている。1948年に同じ画廊で開いた2回目の個展で見られるブッリの新しい展開、抽象への移行も、彼の芸術が目指そうとしているものの中から必然的に起こったと言えるだろう。

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 この時期のブッリの抽象作品には、クレやミロ、あるいはアルプを思わせる有機的な要素を伴う楕円や円弧といった形態を多用し、それらが示す線の可能性を追究するような姿勢が見られる。これらの作品が示しているのは、ブッリが画面の中での構図を厳格にし、空間構成をゆるぎないものに仕上げることに、如何に意を注いでいたかということである。色彩、あるいは絵の具そのものをひとつの素材と見なし、それらを画面の上で並置しながら作品として成立させるためには、構成という、絵画の歴史においてはある意味で伝統的な要素が非常に重要な役割を果たすことをブッリは充分認識していた。それは、この時期のほとんどの作品に構成というタイトルが付けられていることからもうかがえる。そしてまたこれらのことは、この頃初めてパリを訪れ、抽象主義の二つの傾向、幾何学的抽象とアンフォルメルの流れに接したブッリが、それら二つのいずれにも属することなく、両者の問の壁を乗り越える新しい表現を模索していたことをも示している。

 ブッリが求めた新しい表現、それは「絵画の中において、素材の持つ物質性にその本来の生命を獲得させることによって」、物質としての素材そのものを作品の前面に打ち出すことであった。これは、いわゆる「純粋な」絵画を超えることであり、その意味でブッリは「素材の質感を直接的に生かそうとした最初の作家」と言われるのである。これ以降のブッリの足跡は、さまざまな素材の選択と発見、そしてそれらの素材をその本質に従いながら作品として提示するための技法の応用と発明という、生涯を通じて繰り返された彼の探究の道程として跡付けられるであろう。さらにもうひとつ忘れてはならないことは、これらの新しい素材と技法の組み合わせによって作品を成立させるにあたり、感情の赴くままにそれらを提示するのではなく、画面上の構図、空間秩序といった美的構成に対する配慮をブッリが常に意識していたことである。1940年代の末から50年代の初めにかけて、ブッリはタールやエナメル、粒子状に砕いた軽石などを油彩で描いた。画面に塗り重ねたり、あるいはカンヴァスとそれを張る木枠との間に木片や金属片を挟み込んで画面の一部を隆起させたりするような作品を制作している。1948年から始まる≪タール≫や50年代初期に制作された≪隆起≫などの一連の作品である。

 ≪タール》に見られる絵の具の厚塗り、あるいはタールやエナメル、軽石などの上塗りには、ブッリが初めてパリを訪れたときに見たフォートリ工やデュビュッフェなどの、素材の質感を強調する作品との関連も見えるが、彼らとの違いもまたはっきりとしている。フォートリエやデュビュッフェに見られる厚塗りを用いて素材の質感を強調する描き方は、画面に描かれた形象を強調することに重点が置かれ、下地とその上に描かれる画像という伝統的な絵画の様式をはみ出してはいない。一方ブッリの作品にはそのような区別は見当たらない。ブッリ意外素材を重視した作家たちが「素材を用いて作品を制作した」のに対して、ブッリは「素材を作品にした」のである。

例 (金属・タール・土・ビニール・木)

 1948年の≪黒1≫は、この時期におけるブッリの探究の方向性をよく示している。カンヴァス全体を厚いタールの層が覆し、、画面右上の育と左中ほどの染みのような赤い部分のみが漆黒の闇から逃れている。タールで塗られた部分は光沢のある部分、ツヤが消された部分、そしてひび割れた部分からなり、素材の質感を充分に伝えるとともに、育と赤のアクセントとあいまって画面構成に秩序を与えている。また、そのアクセントとなる育と赤のタールが塗られていない部分が窪んで見えることから、逆に厚塗りの層が強調され、タールという素材がひとつのオブジェとして知覚される。

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 ブッリはここで、まさに素材を作品として成立させようとしているのである。この素材のオブジェ化は、ある意味では平面である絵画を三次元の空間に存在する物質として提示しようとする方向であろうが、実際にカンヴァスを三次元に成長させたのが≪隆起≫である。表面では他の作品と同様にタールや軽石などの厚塗りで素材の存在感を示しながら、さらにカンヴァスと木枠の間に詰め物を入れて画面を前方へ押し出すことによって、その一部を隆起させている。ここにおいてはカンヴァス自体も知覚可能なオブジェとなり、支持体と表面の区別すら失われている。この時期のブッリの作品で明確になってくるのは、作品における素材の在り方を追求する中で新しい素材の物質性そのものに関心を持ち、さらには作品自体をもひとつの物質として成立させようとする彼の姿勢である。

 これは作品のタイトルにも示されていることで、ブッリは制作に用いた素材や色彩、あるいは手を加えた画面の状態をそのまま使用している。そこからは、自分の作品は素材そのものを純粋に美的な配慮のもとに構成したものであり、そこに何か象徴的なニュアンスを含んでいると解されることを拒もうとするブッリの強固な意思が伝わってくる。

 こうした素材の厚塗りや表面の三次元化によって得られる、素材のオブジェ化、あるいは作品の物質化は、1949年の《SZl≫による実験を経て1950年から本格的に始まる《袋≫のシリーズによってより明快な形となって現れる。≪SZl≫では白く厚塗りされた画面に、星条旗の縞と星や文字がプリントされた使い古しの麻袋がコラージュのように貼り付けられ、それらを囲むように黒く太い線が描かれている。ここで注目しなければならないのは、この黒い線が画面に貼られた麻袋を縁取るだけでなく、麻袋を区切るようにも、白の部分を囲むようにも引かれていることである。これは、ブッリが厚塗りされた白い絵の具と麻袋を画面の上で等価なものと考えていたことを示している。つまり使い古しの麻袋が絵の具という素材と同じように作品を構成するひとつの要素となり得ることをブッリは確認したのである。ここにおいて、ブッリの素材に対する認識は一段と深まったと言えるだろう。

 ≪袋≫において画面全体を占めるようになった麻袋という素材は、それ以前の作品で厚塗りの中に用いられていたタールやエナメル、軽石といった素材とは性質が異なる。後者は絵の具とともに、あるいは絵の具のように用いられ、仕上がった作品にもまだ絵画「らしさ」が残っていた。しかし、麻袋に覆われた表面にはどこにもそのようなものは見当たらない。かつて穀物類を運搬するのに用いられていたであろう使い古された麻袋が存在するのみである。そこでは麻袋という生のままの素材が絵画のふりをしているのである。このような素材の提示の仕方は、かつてなかったことである。しかも画面に貼られた麻袋は切り裂かれたり、あるいは縫合されたりして素材の物質としての存在感が強調されている。ただ、見逃してはならないことは、それらの切り裂きや縫合が≪黒1≫で見た育と赤のアクセントと同じように、素材のオブジェ化を促すとともに、画面全体の構図の中で果たしている役割である。ブッリはここでも空間の秩序というものを忘れてはいない。

 一度境界線を越えてしまうと、後は溢れ出る創造力の赴くままにブッリは実験を続けた。1950年代の後半には、≪木≫《鉄≫≪燃焼≫のシリーズが立て続けに発表されることになる。≪木≫《鉄≫ともに≪袋≫で示された素材の提示の仕方がそのまま受け継がれているものの、≪木≫では画面に貼りつけられた木片がより平面的な広がりを示すような構成で用いられており、一方≪鉄≫で重ねて貼られた鉄の板の端がまくれあがったり、接合された部分が盛り上がったりして、かつての≪隆起≫のような三次元化を志向している。してこれら二つの作品群に共通しているのが「火」の使用である。

 《木≫では木片が炎によって焦がされ、≪鉄≫ではバーナーによって溶接された鉄板が酸化し、変形、あるいは変色している。素材を燃焼させる行為はすでに1950年代の前半に紙を対象に試みられ、《袋≫のいくつかの作品にも用いられていたが、≪木≫《鉄≫においては作品を制作するにあたっての重要な要素となっている。そして、燃焼させる行為そのものを作品としたのが≪燃焼≫である。そこに使われている素材ま最も「可塑的」な物質といえるプラスチックで、焦がされ、炭化した素材も、その物質としての本質を余すところなく伝えている。さらに、炎によって穿(うがつ・突き通す)たれた丸い空間は、構成に秩序を与えるアクセントという役割を超えて、一瞬の炎によって溶かされたプラスチックが変形し、収縮し、やがて固まっていくという時間の概念すら呼び起こす

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 素材が作品として成立する過程の時間という要素を、制作の手段としてよりはっきりと示しているものが≪亀裂≫であろう。これは、カオリン(磁土)、ヴィナヴィル(接着剤)を混合した素材を画面に厚塗りし、それが時間とともに乾燥する過程で生じる亀裂を作品に取り込んだものである0作品の表面を覆うように走る無数の亀裂は、それまでの作品に見られる鋭い切り裂きや穿たれた穴のイメージと重なるが、ここではその性格を異にしている。素材の混合の割合や、厚塗りの加減で生じる亀裂の大きさは作家がコントロールしているものの、亀裂自体は素材の収縮作用で発生するもので、ブッリはこの作品で、カオリン(粘土)やヴィナヴィル(Vinavil酢酸ビニル樹脂エマルジョン接着剤)という素材の性質を考慮した上で、時間という技法を使いながら素材を自立させている。

 だが一方で、ブッリは作品制作における作家の役割を放棄したわけではない。≪亀裂≫の作品の多くには、円や直線という厳格でしかも雄大な、ある意味で古典的な構図が見られる。それらの円や直線があるときには大きく、またあるときには小さく用いられながら、画面の中心と周縁を、あるいは上下を区切るものとして空間構成をゆるぎないものにしている。

 バーナーを再び絵筆に持ち替えたブッリが最後に到達したのが《チェロテックス・木材繊維質を膠着剤(こうちゃくざい)を用い、高温・高圧下で固めたもの≫である。タイトルは、常に変わらず、彼が用いた素材を表している。木材チップを糊で固めた工業用資材であるチェロテックスは、すでに初期の頃からいくつかの作品の支持体として用いられていたが、この《チェロテックス≫では素材として画面に登場し、表面を削られたチェロテックスが凹凸のある素材感を十二分に伝えている。だが《チェロテックス≫の本質は色彩と構図にあるとも言える。鮮やかで澄みきった色彩は、単純化されたフォルムと緻密に練り上げられた構図とともに、作品に静詮な透明感を与えている。そこには、絵筆を持ち始めた頃の色彩の荒々しさは微塵も感じられがブッリが生涯見失うことのなかった、色彩と素材、そしてそれらを秩序づける構図に対する探究のひとつの極みを表していると言えよう。さらに晩年には、画面の色彩は黒と金、あるいは黒一色となり、ある種の絶対性すら帯びてくる。それらを支配しているのは、限られた色彩で画面の空間秩序を構成しようとする、構図に対する強固で明確な意志である。

 ブッリは、第二次大戦後の抽象美術の開花期に、それを一歩も二歩も前に押し広げて予期せぬ方向へと導いた。だが思いも付かぬ素材を彼が用いたのは、決して新しさだけを追究したためではない。≪袋≫から≪チェロテックス≫にいたる流れは一貫している。ブッリは、素材を通して自身のヴィジョンを表現しているのである。それは理性に根差した、彼の現実、あるいは人間に対する眼差しとも言えるだろう。戦争という非人道的な出来事でブッリが経験したのは、現実の秩序を創り出すのも、破壊するのも人間であるということであった。1996年、彼が没した翌年にローマで開催された大回顧展を企画したクリストフ=バカルジフの次の言葉は、このことを非常によく語っている。「彼は…(中略)…理性を超えた領域にあるものは破壊だけだということを知っていた芸術家であった」。見破壊的な行為とも思えるブッリの素材の扱い方の背後には、新たな秩序の再生が隠されている。