ジョルジョ・デ・キリコ

 ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888年7月10日 – 1978年11月20日)は、イタリアの画家、彫刻家。形而上絵画派を興し、後のシュルレアリスムに大きな影響を与えた。

5a51823rIrving Penn ~ Giorgio de Chirico, Rome, 1944

■作品の評価

 1912年にパリの無審査展覧会で作品を発表し始めたが、アーチの並ぶ古典的な建築、古代ギリシャ風の彫刻、煙を吐いて走る機関車などを配した風景画は当時の流行とは全く異質で、すぐには理解されなかった。しかし詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールに見いだされ、のちのダダイズム、シュルレアリスムに大きな影響を与えた。カルロ・カッラやジョルジョ・モランディのような追随者も生んだ。その後古典的な作風に転じたが、晩年には幻想的な作風に回帰した。キリコは意図的に作品に間違った制作年のサインを行ったと言われているが、その意図は不明である。非常な毒舌家であり、著書では同時代の画家たちを辛辣に批評している。

■生涯と作品

1888年、ギリシアのテッサリアのヴォロス(Volos)にイタリア人の両親のもとに生まれた。父エヴァリスト・デ・キリコは、鉄道の敷設を指揮する技師であった。

1891年、弟アンドレア(のちにアルベルト・サヴィニオと名乗って画家・批評家として活動した)誕生。
1900年、アテネの理工科学校に通う。この頃最初の静物画を描く。
1905年、父死去。
1906年、家族とともに、ギリシャを離れミラノを経てフィレンツェに移住する。
1907年、ドイツのミュンヘンの美術アカデミーに入学。この頃、ニーチェやショーペンハウエルの思想に影響を受ける。
1909年、ミラノに移住。
1910年、フィレンツェに移住。弟はパリへ移住。最初の形而上絵画を手がける。

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1911年、パリへ移住。

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1912年、3点の絵画をサロン・ドートンヌに出品。

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1913年、パリのアンデパンダン展、サロン・ドートンヌに出品。詩人で美術評論家のギョーム・アポリネールに注目され、のちに親交をむすぶにいたる。初めて絵の買い手が現れる。

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1914年

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1915年、第一次世界大戦が勃発。イタリア軍に召集されフィレンツェの連隊に入隊し、北イタリアのフェッラーラに駐屯する。当時のフェッラーラは繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満する街で、その麻薬効果が当時のキリコの風景画に影響したといわれる。

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1916年、詩人トリスタン・ツァラと親交をむすぶ。

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1917年、フェッラーラでカルロ・カッラと知り合う。同年カッラは、形而上絵画の作品をミラノで発表する。

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1918年、前衛美術雑誌『造形的価値(ヴァローリ・プラスティチ、Valori Plastici)』を創刊。詩的なテクストを発表。
1919年、ローマで個展を開くが、美術史家のロベルト・ロンギに酷評される。ジョルジョ・モランディと知り合う。ルネッサンス絵画の模写を始める。

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1920年、「形而上芸術について」、「技法への帰還」などを出版。

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1921年、テンペラ画を描き始める。ベルリンの国立ギャラリーにて、大規模な「造形的価値グループ展」が開催される。

1922年

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1923年、ローマ・ビエンナーレに出品。フィレンツェ、ローマに住む。
1924年、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。第14回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。

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1925年、パリへ移住。

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1926年、シュルレアリストたちとの決別を表明。ニューヨークで初の個展。

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1927年

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1929年、小説『エブドメロス(Hebdomeros)』出版。
1931年、ミラノへ戻る。
1932年、フィレンツェへ移住。
1935年、ニューヨークへ移住。
1938年、イタリアへ帰還。ローマに短期滞在し、ミラノへ移住。

1940年

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1942年、ミラノの家を引き払い、フィレンツェへ移住。

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1944年、ローマへ移住

1945年

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1948年

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1953年

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1955年

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1958年

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1963年

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1978年、90歳の誕生日を祝う。11月20日ローマで死去。


■多視点

 絵画は その中にこれみよがしに 描く手があろうがなかろうが、 描く人を示している— 絵画は、暗示的に 視点の存在を示しているのだ— ある絵画から、 それを描いた画家がどこに立っているのかが 分かるのである。

 絵画に視点が表われていることを 見る人の意識にのぼらせたのが ピカソの『アヴィニョンの娘』である。 この絵を見てわたしたちが感じる不安は、 「視点の不安定さ」である— そこに一つだけの視点がないのだ。 小山 [ koyama-genei ] はキリコの絵、 『街の神秘と憂鬱』の中の 多視点を浮かびあがらせる。 (図chiriko)。 この絵の中には、 じつに三つもの視点が暗示的に 示されていたのである。

[『アヴィニョンの娘』]  [『街の神秘と憂鬱』]

■作品 ピカソとキリコの多視点の比較

[分析図(小山清男による)] [消失点を一致させる(小山清男) ]

古典的民族誌は、いわば、 一視点の絵である。 ピカソやキリコのような 多視点の絵に比することのできるような 民族誌は可能だろうか、 論の残りの部分はその挑戦に 答えようとする試みである。

図 視点古典的民族誌は、いわば、 一視点の絵である。 ピカソやキリコのような 多視点の絵に比することのできるような 民族誌は可能だろうか、 論の残りの部分はその挑戦に 答えようとする試みである。

■形而上絵画

 形而上絵画(けいじじょうかいが、Pittura Metafisica, Metaphysical Painting)とは、1910年代前半に、ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888年-1978年)により始められた、絵画の様式。アーノルト・ベックリン(Arnold Böcklin; 1827年-1901年)やマックス・クリンガー(Max Klinger; 1857年-1920年)の影響を受けたとされる。デ・キリコの典型的な作品に則して述べれば、形而上絵画の特徴としては、主としてイタリア広場を舞台にしつつ、画面の左右で、遠近法における焦点がずれている。人間がまったく描かれていないか、小さくしか描かれていない。

 彫刻、または、マネキンなどの特異な静物が描かれている。長い影が描かれている。作品によっては、画面内の時計が示している時刻と影の長さの辻褄が合わない。例えば、時計は、正午に比較的近い時刻を示しているのに、影がひどく長い、など。
画面内に汽車が描かれており、煙を出しているので、走っていると思われるのに、煙はまっすぐ上に向かっている。などが挙げられる。

 これらの特徴の結果、作品を見る者は、静謐、郷愁、謎、幻惑、困惑、不安などを感じることが多い。形而上絵画を描いた者としては、他に、カルロ・カッラ(Carlo Carra; 1881年-1966年)やジョルジョ・モランディ(Giorgio Morandi; 1890年-1964年)が挙げられる。さらに、デ・キリコの弟であるアルベルト・サヴィニオ(Alberto Savinio (本名:Andrea de Chirico); 1891年-1952年)や、マリオ・シローニ(Mario Sironi; 1885年-1961年)、フィリッポ・デ・ピシス(Filippo de Pisis; 1896年-1956年)などの一部の作品が挙げられることもある。これらの画家をまとめて、形而上派(Scuola Metafisica)または形而上絵画派(Metaphysical Painting Group)と呼ぶこともある。

 アンドレ・ブルトンは、デ・キリコの形而上作品を、それが引き起こす感覚ゆえに、高く評価し、シュルレアリスムを創始するときの1つの源泉として位置付けた。また、マックス・エルンスト、ルネ・マグリット、イヴ・タンギー、ポール・デルヴォー、ピエール・ロワなどへ、強い影響を、場合によっては決定的な影響を与えている。
デ・キリコ、カッラ、モランディといった作家は、いずれも、1910年代後半から1920年代にかけて、形而上絵画から離れ、特に、デ・キリコは、(ピカソのキュビスム時代のあとのように)一転して古典的な画風の作品を描くようになり、これに対しては、ブルトンからは、否定的な評価がなされている。

 また、デ・キリコは1920年代以降も、古典的な画風の作品とともに、形而上絵画と呼べるような作品を、多数制作した(特に1910年代の作品とまったく同じ題材の作品を多く制作している)が、ブルトンが高く評価しなかったこともあり、1910年代の形而上絵画作品のみが優れているという評価をされることも多い。なお、デ・キリコの形而上作品は、1910年代だけで、100点以上存在する。