5-2.生涯と作品-1

音楽に満ちた家庭で感性を育んだ幼少年時代

9p-(1879-1897) 9p-10歳

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 スイス中央部にある首都ベルンは、歪曲するア-レ川の深い谷に三方を囲まれた美しい中世都市である。クレーは1879年12月18日、ベルン郊外のミュンヘンブーフゼーという小さな町の教職員宿舎で生まれた。ドイツ人の父親ハンスが当時、教員養成学校で音楽教師を務めていたからである。

 翌年、一家はベルン市内に移住。両親はともにシュトウツトガルトの音楽学校に学んだ仲で、家庭がいつも音楽的な雰囲気に包まれていたことは想像に難くない。小学校入学と同時にクレーはベルンのヴァイオリニストに入門する。10代前半でベルン市管弦楽団の非常勤団員となるほど腕を上げたが、この〝技能〟は後年、無名時代のクレーを助けることになる。

 母方の祖母が幼児期のクレーに絵の手ほどきをしたと伝えられるが、はたして画家クレーの誕生と密な関係があるかどうかは不明だ。クレー自身が当時の絵を20点余、自作の作品目録に登録しているのは事実だが。

 クレーが画家を目指して南ドイツの一大文化都市ミュンヘンへ旅立つまで。クレーが画家を目指して南ドイツの一大文化都市ミュンヘンへ旅立つまでの、幼年期から思春期までを過ごしたベルン時代、見過ごせないのはベルン高地地方アルプスとの親密性であろう。

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12歳のクレー。学校ではクラスで一番の成績だった。

画家クレーの礎となった美しきアルプスの大自然

 ベルンから汽車で半時間ほど行くとトウーンの町があり、そこから青緑色の水を満々とたたえたトウーン湖がアルプスの峰に向かって長々と横たわっている。湖畔にはオーバーホー7ェン、ヒルターフインゲンなど『クレーの日記』に登場する集落が点在し、湖畔から垂直に切り立った崖の上にはベアテンペルクの村がある。村の道を歩くとまるで身体が中空に浮いているような感覚に襲われる。クレーの絵の、どこか高みから眺める視点は、小さい頃から家族で訪れていたベアテンペルクの丘から見える風景と重なる。そして、ヒルターフインゲンの真正面にそびえる正三角形の山ニーゼンが、彼に「精神的な」図形を与えた。

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 高校時代、国語教師を椰輸した廉で停学処分を受けたとき、クレーは初めてのスケッチ旅行に出かけ、フランス国境に近い湖で精撤な鉛筆画を描いた。画家になる決心を固めたのはこのときではなかっただろうか。


10歳の少年の夏の風景 10歳の少年の夏

 

 

    目の前にはない風景を描く 少年画家クレーの企て

 人はいつ、芸術家になるのだろうか。クレーが少年時代に描いた2枚の絵は、のちに画家となったクレーの資質をはっきりと示している。最初の絵《ベルン》を描いた翌日、クレー少年は前日とは少し違った場所で、もう一枚の絵《夏の風景》を描く。この絵を描いた3月20日は、ベルンではまだ初春で、夏にはほど遠い。彼はおそらく前日の絵を眺めて季節が移り変わればどのような風景が現れるだろうかと想像しながら風景を描いたのだろう。イマジネーションは芸術家の条件だ。

「夏の風景」は、少年クレーの企てにもかかわらず、とくに夏を思わせる絵にはなっていない。イマジネーションは芸術家の条件だ。空星の風景》は、肝心なのはそこに「夏の風景」というタイトルを付けたことだ。それは、いま目の前に実際にはない風景を描こうとする創造的な心の働きなのである。

無題スケッチブック10p《無題(最初のスケッチブック)≫1889年頃 水彩、鉛筆/紙 20.1×33.8cm ベルン、パウル・クレー・センター

 スイスーのデブフリックおじさんの店母方の叔父エルンスト・フリックが開いたレストランはクレーのお気に入りの場所だった。店のテーブルの模様に奇怪な形を見つけては紙に写し、目鼻を付けて密かな歓びを覚えた。この「技法」は生涯にわたって活用され、また、グロテスクヘの執着も、クレー自身が吐露したように、少年時代に育まれた醜悪への偏愛だった。フリックの店は長続きせず、やがて人手に渡ったが、「デラ・カーサ」の名で現在も営業中。世界中から多くのクレープァンが訪れている。


12p-(アルプスの中で)

12p-シャダウから

ニーゼン山とトゥーン湖畔芸術家クレーの原風景 

 クレーの芸術を考えるとき、後世に遺された数々の傑作や、新しい表現について述べることは当然としても、クレーという芸術家がどこから来たのか、何を見て育ったのかを知ることはとても重要だ。トウーン湖畔の村々は彼の原風景であり、クレーは時折、鳥が巣に帰るように、都会の日常を離れてここに舞い戻った。 叔母が経営するベアテンペルクの山荘には幼少期から訪れていた。青年期には、同じく叔母が所有していたオーバーホープエンの簡易宿ヒルターフインゲンの家にも頻繁に滞在し、湖の対岸に堕止するニーゼン山に心奪われていた。美しい三角錐のその山容は、30年後にエジプト旅行で見るピラミッドの形姿と重なる。 日記には湖畔での日々と青春の苦悩が事細かに書かれているが、不思議なことにニーゼンの名は一度も出てこない。しかし、山歩きの途上で見つけた化石や植物、湖面を渡る霧、天上と下界といったイメージは彼の柔らかな脳裏に刻印され、のちの創作のモチーフが培われたに違いない。

13p-クレーのノート


修行時代(18歳-30歳)

 17p-(1898-1910)

画塾、そしてアカデミーでの修業時代の始まり

 近現代画家のなかでクレーほど克明な日記を残した人はいない。『クレーの日記』は、彼が高校を卒業する1898年から第1次世界大戦終結の1918年までの、クレーの青年時代と無名時代を知る貴重な資料である。「禁じられたものにばかり気をひかれた。素描と詩作。試験にひどい成績で受かったあと、ミュンヒェンで絵を描き始めた。」と日記で回想しているように、彼は模範的な生徒ではなかった。(引用は高橋文子訳『新版クレーの日記』みすず書房より)

 高校卒業と同時に彼はドイツの大都市ミュンヘンに旅立った。父親は留学の費用を賄(まかな)うのに相当の苦労をしたらしい。美術アカデミーへの入学が許可されず、クレーは画家クニル(1862〜1944)の画塾へ通うようになる。2年後、彼はアカデミーの学生となるのだが、翌年の初夏には学校を辞めてベルンへ戻ってしまう。

 そして、その年の秋から友人を連れてイタリアに旅行。おそらく費用は 両親から借りた。その後、両親の家で 暮らしながら、再びミュンヘンへ赴く1906年まで、クレーはベルン音楽協会のヴァイオリン奏者としてわずかな収入を得た。この時期に銅版画連作(インヴェンション)が完成している。

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独学の画家として最初に制作した銅版画連作〈インヴェンション〉の第一作。ビアズリー(1872〜98)やクリンガー(1857〜1920)、セガンティーニ(1858〜99)といったヨーロッパ世紀末の版画家や画家の影響がうかがえ、イタリア旅行の成果が細部に反映されでいるが、奇妙な構図は原題であるユングフラウの山塊を下敷としている。記念すべき連作の第一作はクレーの原風景に結び付けられた。

ピアニスト、リリーとの結婚家事と子育てを引き受けて

 画家クレーを支えたのは3歳年長のピアニストのリリー・シュトウンプフだった。彼らはミュンヘンの画塾に通っていた頃に出会った。秘密の婚約を交わし、クレーがベルンに戻ったあとも度々会った。そして1906年、リリーは親の反対を押し切ってクレーと結婚した。  ミュンヘンでの新生活。若いアーティストが暮らすシュヴァービング地区は自由な気風にあふれていた。やがて生涯の友となるカンディンスキー(1866〜1944)が偶然にも隣家に住んでいた。クレー家の家計はすべて、リリーがピアノ教師で得る収入に頼られた。クレーはハウスハズバンドとなり、一切の家事を引き受ける。仕事部屋はなく、キッチンが唯一のアトリエだった。結婚の翌年には息子フェリックスが生まれ、クレーは母親のように赤ん坊に寄り添った。室内の様子、ベランダから眺める戸外、それ以外に画題は見つからなかった。クレーがようやく近郊にスケッチに出掛けられるようになるには、フェリックス3歳の誕生日を待たねばならなかった。

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18p-画学生昼と夜

昼は画塾でデッサン夜はコンサートとオペラ

 クレー青年期のヰタ・セクスアリスは、どこか穏和な人間像を想像させる彼にしてはいささか意外だ。だが健康な一青年には当然の物語であり、奔放な性はこの時代に許されたライフスタイルでもあった。 ミュンヘンに出て、昼間は画塾に通い、夜はコンサートとオペラ三昧の日々。ある晩、クレーは音楽会のヴァイオリン奏者として招かれ、ピアニストのリリーと共演する。それからリリーとの恋が始まるが、ほかに許嫁(いいなずけ)がいたリリーとの仲は微妙で、クレーは別の女友だちとアヴァンチユールを繰り広げ、妊娠までさせてしまう。それでも、クレーは美術学校を中退してベルンヘ戻ったあとも、リリーにラヴレターを送り続けた。

 半年に及ぶイタリア旅行、それに続く解剖学教室での観察がクレーに与えた影響は計りしれない。最初の成果が銅版画連作(インヴェンション)である。その第一作炎乙女(夢をみて)》の奇妙な構図は、その原題 「Jungfrau(ユングフラウ)」と同名のベルン・アルプスの名峰の形姿そのものだ。


20p-静かな日々

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21p-光のフォルムクレーは、終生、光を探求し続けた画家であった。水彩による「たらし込み」の技法を用いたこの作品では、色彩面によって光を再現しようと試みた。たっぷりと水を含んだ水彩絵臭が、偶然と作為の問にある興味深い結果をもたらしている。色彩画家への第一歩をも思わせ、初期の制作過程で重要な意味をもつ作品とされる。


22p-31-39歳

才能ある仲間に触発され画家として目覚める

 アインミラー通リ32番地での、主夫クレーの生活は続く。自分を素描家と見なしていた彼は、線画作品を出版社に売り込みもしたが、採用されることはなかった。

 知人の紹介で知り合った画家アルフレート・クピーン(1877~1959)が、クレーの素描を高く評価して作品を購入したのは1911年1月のことで、9月には高校の同窓生で画家のルイ・モワイエ(1880〜1962)を通じてアウゲスト・マッケ(1887〜1914)の知己を得る。13歳年上のカンディンスキーと出会うのも同年の出来事で、彼が主宰する「青騎士」(ブラウエ・ライター)グループにクレーも参加した。

 この頃、画家はベルンの実家で子ども時代の絵を偶然見つけ、年代順に作品番号を付けて日録を作成し始めた。「父は度を超えた整理魔で……」と息子のフェリックスが回想している通り、クレーのこうした姿勢は、作品目録によく現れており、これは終生続けられる。そのため後世の研究者たちは、作品がどの順序で描かれ、いつ誰に幾らで売られたかまで知ることができる。

 だがそこに落とし穴がないわけではない。実際の制作順とは異なるのではないかという疑問が指摘されるからである。そこからは人々を煙に巻くかのようなクレーの性格が垣間見られる。

第一次世界大戦の不幸が用意した成功への階段

 1914年春、クレーはモワイエ、マッケらとチュニジア旅行に出掛けた。この旅で画家は色彩画家への飛躍を記した有名な言葉「色彩は私を、永遠に捉えた」を日記に記すことになるのだが、実はこの一節もあとから書き加えたとする意見が今日では大勢を占めている。これはクレーの自己演出的な行為であろう。自分の存在やその作品世界をドラマチックにアピールすることは、画廊と契約をして販路を求める近現代の画家にとって必要なことだった。

 第一次大戦はクレーの運命を変えた。開戦後すぐにマッケが戦死、その2年後には、クレーが信頼を寄せていた「青騎士」の中心人物、フランツ・マルク(1880〜1916)も戦場で銃弾にたおれた。二人の画家の死は、現代絵画の旗手としてクレーをドイツ画壇の表舞台に引きずり出すことになった。 23p-1911-1919


24p-ガンディード

クレーを魅了したヴォルテールの世界

 1906年1月の日記に「読書もした。しかも、極めつきのl冊。ヴォルテールの『カンディード』だ。」とクレーは書いている。09年の秋になって挿絵の計画を思い付いたクレーは、その2年後に制作を開始。日記には苦心の連続だったと綴りながらも、同年には完成させたようだ。その後出版社に持ち込むが、体よく断られ、クレーの挿絵26点入り『カンディード』が出版されたのは1920年のことだった。最初の出会いから出版へ至る14年間は、クレーが画家として成功するまでの時期に重なっている。

 フランス革命を精神的に支えた思想家ヴォルテール(1694~1778)は、イギリス亡命中に本書を著したが、革命を見ずしてこの世を去った。主人公 カンディード(天真爛漫の意)の荒唐無稽な冒険物語をクレーはよほど気に入ったのか、クレー評伝の著者たちに資料として提出した読書リストにも入れていた。

 「『カンディード』には私を惹きつける何かさらに貴いものがあるのだ。フランス語の、貴重で、簡潔で、的確な表現」(クレーの日記865)