5-6.線と色彩

新藤倍

 パウル・クレーほど、人間の五感を駆使して絵を描いた画家はまれである。クレーの場合、絵を描くというより絵を作るといったほうが当たっている。クレー自身がたびたび語っているように、彼にとって大切だったのは、なにを描くかではなく、どのように描くかという生成(プロセス)への視点であった。

 絵画はふつう、平面であるという約束事を前提に、イメージ(画像)を表出させる芸術だが、ある時期から、クレーの絵画作品は平面を逸脱して三次元の産物であることを意識しはじめている。「フォルムのことしか考えていなかった。他のいっさいの要素は、おのずから追随してきたのだ。ところが《他の要霊について目が開かれた途端に、創造の変幻自在に出会って大いに助けられた。」とクレーは一九一八年の日記に書いている。一九一四年にはじまった世界大戦と時を同じくして、クレーの精神のどこかで、あきらかに別の闘いがうごめいていた。十九世紀以来の写真術の発展は、絵画の概念に変革をもたらさずにおかなかったが、かつて印象派の新しいとびらを開いた。

 近代の自由な気風を糧として育ったクレーほ、ヨーロッパの歴史がはじめて経験する世界大戦の常を前にして、むしろアトリエにこもって、自己の内面を観察することに留まらなければをらなかった。 冒頭に、「五感を駆使して」と書いたのは、クレーの資質のことである。たとえば画家ホアン・ミロやマティスやカンディンスキーの絵から受ける印象は、制作者の、視覚はむろんのこと、優れた聴覚と触覚を容易に想像きせるが、クレーの絵では見て味覚や嗅覚をも思わせる。それは画家の資質で劣を示すものではない。

 クレー地に隣接して建てられて以来、内外を問わず、最初の同館所蔵品貸し出しによる『パウル・クレー展・線と色彩』(垂早大阪・ソウル)の開催にあわせて編まれた。「パウル・クレー・センター」は、それまでクレーの遺族と旧パウル・クレー財団によって保管されてきた四千点余りの作品が一堂に会した施設で、その経緯についてはA・クレーが巻頭に述べている。近・現代画家の作品で、これほど散逸を免れたものはまれである。画家自身によって「売却不可」とリストに書き込まれた多数の絵画を含み、これら膨大な個人コレクションは、クレーの死後六十五年を経て、ついに社会に寄託されたことになる。著述や書簡をつうじ、クレーがたびたび疑問を投げかけてきた「市民社会の、芸術に対する責任と自覚」が、とうとう現実に問われることになった。

 題に掲げた「線と色彩」とは、言うまでもなく、一般に絵画作品を構成する二つの要素であり、それ以外にイメージを形づくるものはない。そうした自明の理をあえてテーマとしたのは、右に触れたように、複雑な内面をもつ芸術家は、いずれどのような視点・興味から近づいてみても、一様にカテゴライズすることは不可能であり、それならば平易に、線と色彩といった絵画の必要十分条件だけに沿って画家クレーを、いま一度、創作の端緒すなわちスタンダードに還元してみたかったからである。限られた作品によって、右の企図を明らかにするねらいは、きわめて無謀ではあるが、線の発生から光の研究(色彩としての黒)へ、抽象化、技法の実験室、やがて彩色画の頂点としてのポリフォニー(重奏=音楽的帰結)へと至り、そして晩年の線への回帰、といった直線的な軌跡を想定したものである。しかし、初期の比較的分類可能な「線」と「色」の諸性質は、第一次大戦期を境に、たちまち変幻自在となって分類を不可能にしてしまう。

 描かれた絵は、さまざまな意味をもち、またメッセージを含んでいる。クレー絵画一点一点に潜む思想を、近年、記号論や認識論を援用しっつ研究者たちが分析してきたように、彼の創造の地層には数えきれないほどのアンモナイトが埋められている。 書きのこした数々のことばは、彼の芸術を理解する指標ではあるが、絵を見るものが生きる新しい時代には、新しい言語が生まれ、意味もメッセージも時代の言語で読みとらなけれぼならない。その意味で、クレーもまた二十一世紀の画家である。(日本パウル・クレー協会事務局長)