4.イメージの遊び場

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 この作品では、線描および色の明暗による表現が試みられている。画面には、さまざまな幾何学的図形モティーフ切れ目なく平面的に配され、時おり人形(ひとがた)が挿入される。とりわけ目をひくのは、画面左下にある二段の台座のような事物その右上にある斜面をもつ台形梯子のようなものその上の人形といったモティーフである。彩色面の明暗は、地の凹凸を暗示するようにみえる。これら線と色の織りなす谷間が、画面の左下から中央右、そして左上へと、空間のうねりとなって見る者の視線を導く。

 うねりに沿って配されたモティーフが目に入りやすいのは、見なれた視点、つまり比較的正面からみたように描かれているためである。一方、十字に交差した帯矩形や多角形の箱型といった周囲の事物は、いずれも斜め上、あるいは真上から見おろす角度で把握されている。種々の図形をさまざまな角度からとらえることで、重力のベクトルは四方八方に向かい、パノラミックな透視図法的空間とは無縁の、重力感を喪失した非現実的ひとがたな空間があらわれる。人形が糸でつった操り人形のようにみえるのは、この無重力感のせいでもあろう。主線の輪郭を取り囲む細かなハッチングの線は、通常陰影や量塊感を表すために刻まれるが、この作品では図形がどちらへ向いているのかというベクトルを示したり、暗色の濃さを強めたりするためのものである。バウハウスでの講義をもとに著した『教育スケッチブック』の中で、クレーは線や次元、引力について考察しており、この画面にはそうした洞察の成果が見られる。

 「舞台」、「劇場」、「サーカス」といった非日常空間は、クレーにとって自由に想像力をめぐらせ描くことのできる場面設定であった。また、家事の合間に指人形とその舞台を手作りし、息子フェリックスと人形劇に興じたように、そもそも立体造形として彼の手指になじんだファクターでもあった。はかない仮想世界である「舞台」と、未完成で流動的な状態を思わせる「稽古」の語。作品のタイトルは、図形断片が万華鏡のように集合する、二次元とも三次元ともつかない錯視的な絵画空間のイメージに呼応する。


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 クレーはしばしば、神話や聖書の世界をもとに自由に想像をめぐらせ、そのイメージを絵画化した。《ゴルゴタヘの序幕》という画題は、キリストの受難物語のはじまりを舞台の一幕に見立てている。ゴルゴタとは、キリストが十字架にはりつけとなった処刑場のある丘の名称拷問を受けたキリストは、痛む体で十字架を背負い、嘲笑を受けながら市中を歩き、処刑場へたどり着くと礫刑に処された。父なる神へ聞いの言葉を投げかけ、キリストは十字架上で息絶える。画面にはキリストや使徒ら、この一連の物語に登場するはずの人物はだれひとりおらず、不穏な予感がよぎる。幾重にも描きこまれた線条が、組紐文様、渦巻、階段といったモティーフをとりこみながら全体として丘の形をなし、朱色の靄(もや)の中にたちあらわれる。薄紅色の地に朱、黒を同心円状に重ねた部分は、当時バウハウス教員であったクレー、カンディンスキーらの間で試みられた吹きつけの技法によるもの。場面の情感を高めるこの柔らかい彩色と、線描によるフォルムとが重層的な画面空間を形成しているコンポジションは、《舞台稽古》、≪花の神殿にて》にもみられるものである。


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 さまざまな神話に題材を求めたクレーの作品は300点を超えると言われるが、この作品もそうした一点である。

 古代ローマの花咲く自然と豊穣の女神フローラは、ローマ時代の神託集『巫師の書』に従い、紀元前238年にはローマ七つの丘の一つ、クイリナリスに彼女を祭る寺院が造られ、フロラリアと呼ばれる祝祭によって祝われた。≪花の神殿にて》には、両手に花を捧げもち、階段状の寺院らしき建物の前で舞うフローラが描かれている。

Friedrich_Wilhelm_von_Erdmannsdorff ベルリッツ

 この作品が描かれたデッサウ・バウハウス時代、クレーは、同地の東20kmほどに位置するヴェルリッツの、18世紀から19世紀初頭にかけて造園された広大な英国式風景庭園の一角に佇む〈花の神殿(Floratempel)〉(1796-98)をしばしば訪れている。イタリア古代神殿の廃墟をモデルに、建築家フリードリヒ・ヴイルヘルム・フォン・エルドマンスドルフ(1736-1800)が建造したこの神殿は、破風にフローラの浮彫を施した端正な建築で、同じ庭園内の〈ヴィーナスの神殿〉〈ニンフの殿堂〉などとともに、神話的な場を生み出している。クレーは、1925年6月26日付で父と姉に書簡を送り、「(デツサウの)近郊(盆地の緑地とエルベ川)もすばらしい。美しい公園の数々、とくにヴェルリッツ!」と記している。≪花の神殿にて》は、休日を憩うヴェルリッツの神殿に宿る女神が誘った古代神話の世界といえまいか。(F.G.)


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 ≪沼の上の女軽業剛≪いかれてる》≪スガナレル》≪ライオンです、気をつけて!≫《ガラスの像たち》といったこれらの作品は、いずれもサーカスや舞台の上でのできごととして描かれている。滑稽で軽妙、ときに皮肉も含んだ寸劇のようで、人間社会に対する作者のニヒリズムがみえかくれする。

 ≪ライオンです、気をつけて!》は、サーカスでライオンが登場した場面。調教師か曲芸師か、サーカス団員と思われる三人の人物の手前に、放たれた四頭のライオンがいる。画面は方眼状に区切られ、一列ごとに色調が変化していく。水平方向には太さの異なる帯が交互に並び、揺れ動く振り子のようなリズムを生みだす。垂直方向には、まず中心軸となる白みがかった帯の上に曲芸師、丸太にのる小さなライオン、さらにもう一頭のライオンが並ぶ。このラインを起点に左右へ目を転じると、場面の中心部分は幅広の帯が並び、両端へいくにつれ、幅を狭めながら色合いを深めていく。スポットライトのあたるサーカスの演目を、さながら暗い客席から速めに見物するかのようなユーモラスな作品となっている。(R.Ⅰ.)

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 セルバンテス(1547-1616)のドン・キホーテを想起させるこの絵には、まるで御伽話か人形劇から飛び出してきたかのような一団が行列している。針金で作られたような姿をして、滑稽でありながら悲しげな雰囲気すら漂っている。

 この作品が描かれた1923年、ヴァイマルのバウハウスでは創立5周年を記念する「バウハウス展」(8月15日ー9月30日)が盛大に開催された。展覧会最初の5日間は「バウハウス週間」と呼ばれ、校長ヴァルター・グロピウス(1883-1969)の記念講演会をはじめ、シュレンマーの有名な≪三組のバレエ》と≪根株的バレエ》の上演や、パウル・ヒンデミット(1895-1963)、フェルツナヨ・ベンヴュヌートブゾーニ(1866-1924)、イーゴル・ストラヴインスキー(1882-1971)らの作品演奏会など祝祭的な催しが続いた。前年6月21日のランタン祭りに際しては、クレーは息子フェリックスとともに提灯を作り、行列にも参加している。バウハウス時代のクレーにとって、演劇やバレエはきわめて身近な出来事であり、《レールの上のパレード》もそうした体験と結びついて生まれた作品と言えるだろう。(F.G.)


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 抒情的な雰囲気が漂う愛らしい作品である。水彩絵具の繊細な青い色彩の中にいくつかの色のかたまりが浮かびあがり、その中に子どもたちの姿が描かれている。スカートをはいた女の子、シルクハットのような帽子をかぶった子、逆立ちをする子。足下にはクレー作品に頻繁に登場する烏と犬のような動物

 子どもは、クレーにとって、生命の根源、あらゆる創造物の中間領域を媒介する象徴的存在であり、重要な主題の一つであった。画面のほぼ中央を横切るように走る線の上下が半円や三角形となって子どもたちの身体を構成し、右三人の子どもたちは手をつないで結ばれているかのようにみえる。クレーは、1920年代前半から、モティーフを線で結びあわせて互いを媒介するような作品をしばしば制作している。この前年に本作とほとんど同じ構図で描いた作品には≪一繋ぎで遊ぶ子どもたち》というタイトルがつけられており、本作はそうした制作の延長上にある作品である。(Y.S.)


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 少年時代からヴァイオリンに親しみ、オーケストラや室内楽で演奏し、生涯にわたって音楽を愛したクレーは、音楽のアナロジーとしての絵画の可能性を探求した画家である。とりわけ、二つ以上の独立した声部によって構成される「多声音楽(ポリフォニー)」は、点・線・面という造形の諸要素を単声部、二声部、三声部…というように同時的かつ多層的に響かせあいながら全体へと組み立ててゆく、そのような動的な造形化のプロセスにとって重要な示唆を与えている。〈動いている大気群》、<異国風の響き>ポリフォニー絵画の典型的な作例である

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 そして同じ関心は、細かな斜線によって曲線的なフォルムを強調しながら層として積み重ね、同時的かっ多層的な造形空間を視覚化している≪名誉毀損≫とく彼女は何を聴くべきなのか!》にもはっきりと読み取ることができる。

 造形の諸要素を同時的かつ多層的に協働させるポリフォニー絵画は、絵画(視覚)と音楽(聴覚)のアナロジー、すなわち諸感覚の協働をも意味している。≪名誉毀損≫と〈彼女は何を聴くべきなのか!》は、人間の知覚器官である目と耳のモティーフを画面内に併置することによって、そのことを明確に示唆している。≪名誉段損》において、丸い二っの目に対比されているのは、まさに中傷誹謗が吹き込まれようとしている耳であり、一方は<彼女は何を聴くべきなのか!》に描かれたS字形は、耳を表す記号的フォルムとしてしばしばクレーの作品に登場する。しかもこれらの作品に目と耳のほかに口もまた強調されている。クレーは、遅くとも1935年1月、すなわちこれらの作品の描かれた翌年に、シェーンベルク(聴覚と視覚のアナロジーヘの関心に基づく独自の調和理論を数比例の応用によって展開した音楽学者ハンス・カイザー(1891−1964)と知り合い、関心を寄せていたことが知られている。


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 一人遊びをする子、乗り物で遊ぶ子、仲良し二人組も動物もいる。樹の繁る、子供たちの大好きな遊び場だ。いつの間にか中に入り込んで一緒に遊び始めてしまう。柔らかい線は観る者の眼を果しなく物語の奥へ奥へと誘い込み、それはまるで言葉を読み解いてゆくのに似ている。

 クレーの作品においては言葉と絵画的イメージとはいつも互いに不可欠な関係にある。それらは緊張と対話を生み、観る者の想像力を無限にかき立てる。画面の下に傍線を引いて書き記された題名も、単なる添え物ではなく、れっきとした作品の一部として描かれたイメージとの積極的な関係を生み出している。

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 クレーの言葉に対する関心は、文字や記号そのものへの関心でもある。記号的な文字がフォルムとしても意味としても画面の重要な構成要素である《A》、また、描かれた詩が画面をリズミカルに分節する「文字絵」などはアルファベット文字を扱った作例である。アルファベット文字にかぎらず、象形文字(ヒエログリフ)、速記文字、あるいは≪石板の花》について指摘される先史民族の線描的な岩石画など、異なる時代や文化のさまざまな文字と記号がクレーの記憶や連想を刺戟し、彼はそれらを絵画的イメージとして作品に取り込んでいる。それらは作品を観る者の記憶や想像力にも語りかけ、時には謎の迷宮に誘い込む。

 クレーの蔵書には、ライプツィヒの民族学者カール・ヴォイレ(1864−1926)の研究書『割符からアルファベットまで』(1915、シュトウツトガルト刊行)が確認されているが、ヴォイレのみならず、それに先行する文字史研究の大著カール・ファウルマン(1835−94)の『図説文字の歴史(1880、ウィーン刊行)からクレーが示唆を得ていたであろう可能性についても、近年になって指摘されている。世界の諸民族の文字や記号の成立を図説するファウルマンの著書には、≪子供の遊び場》の随所にみられる、象形文字の事例がきわめて豊富に図説されている。この作品と≪石板の花》の描かれた1937年から亡くなる1940年まで、クレーはプリミティブな岩石画に示唆を得た作品をとりわけ多く制作している。(F.G.)


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 右手を大きく開き、親指を鼻頭に。今度はその小指に、開いた左手の親指を合わせる。それから両手をパタパタさせて「ヤーイ、ヤーイ」。誰でも子供の頃に一度はそうやって、仲良しの友達や近所のおばさん、おじさんをからかい、一目散に逃げ出した悪戯の記憶があるだろう。<子供の遊び(長い鼻の寸前)>の主役は、まさに今、すでに鼻頭に当てた右手に左手を添えようとしている。

 遊びはクレーにとって大切な主題の一つである。息子フェリックスが9歳になる1916年からバウハウス時代にかけて、人形劇の人形を手作りしてプレゼントしていることはよく知られている。絵の主題となる遊びは、子供らしい無邪気な遊びばかりではなく、ナチス時代には戦争ごっこも諷刺的に登場する。クレーにとって遊びは、大人の世界と子供の世界、現実と非現実とを媒介し、別のものに変身させることもできる中間領域的な行為であり、そのような場にほかならない。この作品に描かれている瞬間でもある。ここに大らかな線でたっぷりと描かれている者が、人間のようにも植物のようにも見え、あるいは大人のようにも子供のようにも見えるのも、クレー的な遊びの由縁であろう。(F.G.)


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 茶褐色の方形による色面構成が全体の基調となっており、そのところどころに、赤、青、緑、自で、円や三日月、半円などの小さな幾何学的フォルムが散らばっている。宝石箱をひっくりかえしたかのような視覚イメージに対して、クレーは宝物や宝石を意味する≪Kleinode》という画題をつけている。クレー絵画には、描かれているものが何であるかを判別あるいは想像させる作品と、純粋に線と色彩のハーモニーによる作品があるが、本作はその中問に位置するものであろう。画面周辺部は褐色調で、中央に赤、ピンクなどの明るい色面を配し、中央の赤い色面には小さな白いハートが逆さにぶら下がっている。画面のところどころに断片的に出現する黒い線は、面と面の境界となるのと同時に、それ自体が何らかの具象的なイメージに近づきつつあり、あちこちに散らばる「宝もの」と対話している。

 1935年に皮膚硬化症の最初の兆候が現れて一時制作数を激減させたクレーは、1937年には再び旺盛な制作意欲をみせたが、病は、次第にその表現方法を変化させていく。細部の書き込みや微視的なこだわりは徐々に減り、フォルムは大きく、黒い線はより太くはっきりとしたものになっていく。(Y.S.)


きき