6.物語る風景

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 「ぼくはまた絵を描き始めましたが、何となく時間に追われている感じ。時間が完全に自由にならないのです。こんな具合に貴重な創造の歳月は失われていきます」(1929年9月13日、リリー宛書簡)。バウハウスでの教授職が多忙を極め、自由に絵を描く時間のなくなっていたクレーは、この頃、心に穏やかならぬものを抱えていた。デュッセルドルフ美術アカデミーから教授として招聘するという話が持ち上がり、バウハウス退職のための交渉が進むのがちょうどこの時期、すなわち1929年春から1930年5月にかけてであった。クレーがバウハウスを退職するのは1931年4月1日のことである。

 クレーの心の不安や葛藤、この時期の多くの作品に表れている。《手の不穏》(1929)という題名をもつ素描について、それが、そうしたクレーの心境を象徴的に伝える「心誌(Psychogramm)」であると指摘したのは、美術史家ユルゲン・グレーゼマー(1939_88)であった。《逃げ去る子供たち》も例外ではない。槍を持った大人に追い立てられるように逃げてゆく子供の姿にはクレーが重なるが、それは彼の心の筆記にほかならない。(F.G.)


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 夢中に絵を描くうち、気がつくと思わず踊り出していた、というクレーの制作にまつわる微笑ましいエピソードとはかなり様相を異にする≪踊りの場面》である。降参のポーズで両手を上げ、矢印が強要する方向へと歩を進めざるを得ない大人と子供たち。W.ケルステンが指摘するように、ここに表現されているのは「歓喜と攻撃性」「不安と破壊」である。

 ≪助けを求めて》に託されたメッセージもまた、同質の不安や恐怖である。この作品の描かれた1932年の夏、7月31日にナチスは選挙の結果を受けて第一政党となり、時代はヒトラーの独裁体制へと急速に突き進んでいた。≪助けを求めて〉に描かれた人物の身振りがあのナチス党の記章鉤十字(かぎじゅうじ)形(ハーケンクロイツ)」をなぞるものであるのは、決して偶然ではない。<踊りの場面》の描かれた晩年にいたるまで、クレーは幾度となく意図的に多くの作品にこの鉤十字のフォルムを登場させている。しかもナチスが推奨した健全な芸術としての古典古代の彫刻における彫塑性を一切排除した、かすれるような痩せた線のフォルムとして、である。ナチス体制に対するクレーの皮肉交じりの、そして強い批判が込められている。(F・G・)


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 クレーは生涯にわたって神話と取り組んだ画家である。十代後半の1894年から1898年に地元ベルンの学校でギリシア・ローマ古典詩や文学を学んで以来、亡くなる直前までそれらを繙(ひとも)くことをやめなかった。神話との取り組みは作品に如実に表れており、すでに1901年から没年の1940年までのほぼ全制作期にわたり、およそ270点に及ぶ作品の題名もしくは作品目録の記載において古代ギリシア・ローマ、ゲルマン、東洋の神話に登場する神々や人物などが言及されている。しかし西洋絵画の伝統が神話を物語絵の主題として絵画化したのとは異なり、クレーの場合、世界の起源と存在を語る物語としての神話は、むしろ芸術を創造する行為それ自体を神の創造行為との比喩において裏づける、あるいは動機づける方法論として機能している

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 羊の群れと牧人を守る古代ローマ神話の「豊穣と健康の女神パレス」との関連が指摘される《バレッシオ・ヌア》は、ナチス政権樹立の年に制作された。1月30日にヒトラーが権力を掌握すると、当時デュッセルドルフ美術アカデミー教授職にあったクレーへの中傷は激化し、4月21日に同校を解雇され、そしてついに12月23日には故郷スイスヘの亡命を余儀なくされた。


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 クレーの作品の中でももっとも大きくモニュメンタルな一点である単純な線は一筆書きのようで、思わずその軌跡を空中に指でなぞりたくなる。水彩の明るい色彩が支持体とともに呼吸している。「結核体(Konkretion)」と呼ばれ、楕円を基礎フォルムとするここでのビオモルフ(生物形態)的な線の造形は、晩年のクレーに特徴的であり、同じく同時代のハンス・アルプ(1886-1966)、ジョアン・ミロ(1893-1983)、カンディンスキーらの絵画、彫刻、レリーフなどにも共通して見られる。結核体は、単極的な完結した円とは異なり、対置される二極をもつ楕円を基礎フォルムとする。そのため、それら二極間の内的な緊張ゆえに働く力によって、絶えず新しいフォルムが分裂して生みだされ、そのような分裂と、ふたたび統合へと向かう成長とが繰り返される。いわば無限のメタモルフォーゼである。

 オデュッセウスの物語で知られるセイレーンは、鳥の身体と娘の頭部をもつギリシア神話の妖怪で、天空のセイレーンはその美しい歌声で人々を魅了して破滅へと追いやり、冥界のセイレーンには死者の魂が追従する。クレーは、神話において自ら岩に姿を変えたとも言われるこの怪物をまさに岩場の風景をも思わせるピオモルフな形態によって主題化した。その際、画面のちょうど中心には赤と灰色の楕円の卵が二つ、象徴的に据えられた。クレーが死を目前にしてしばしば描いている生命体の胎内の卵、すなわち生命の始源・誕生、宇宙の中心などを想起させるイメージである。生命体の無限のメタモルフォーゼと神話、それぞれの起源が二つの卵としてここにある。(F.G.)


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 クレーは、長年、方形の画面分割を用いてきたが、晩年に向かって、象形文字を思わせる黒く太い輪郭線を伴う不定型な分割によって画面を構成するようになる。ここではそうした黒い線と色彩によるコンポジションが、赤いチョッキを着た人物や動物鳥の姿などの具象的なイメージを生み出している。クレーは、かつての流れるような線描とリズミカルな反復をばらばらの単位に分解していった。断続的な線描は新しし創意の一つであり、ここでは自在に描かれた線と色彩が画面の中で響きあって動きのエネルギーを生み、画面をにぎやかなものにしている。クレーの病は確実に進んで死を予感させるものになっていくが、この時期は、死を意識した恐ろしいイメージをほとばしらせる作品を制作するようになる前で、クレーらしい楽しいユーモアを感じとることができる。(Y.S.)1159


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 断片化した身体イメージは、素描も含めて晩年の作品に非常に多くみられる。クレーは、そうした身体モティーフや記号的フォルムの輪郭となる線に黒を用いることが多いが、この作品では鮮やかな赤が使われて観る者に強いインパクトを与えている。線描は分断され、断片化した幾何学形のフォルムとして個々に独立している。

 下部に描かれたフォルムが女性の乳房を想起させることによって、それは、深紅の十字架をつけた切断された女の胴体となり、その上部にあるものは、見開かれた眼孔をもつ頭部になる。破壊された人体のコンポジションは、どこか不気味であり、≪回心した女の堕落》という画題には、人間の愚かしさに対する諷刺を読み取ることができる。詩的なものも多いクレーの画題は、ときに皮肉で残酷であり、それ自体が実に多彩で豊かな表情をもっている。死へと続く運命を予感させる自身の病気や当時のヨーロッパを覆う暗雲が反映して、晩年の作品には暗い不安なイメージがあるが、「回心した女」の顔には、クレーらしいユーモラスな側面を垣間見ることもできる。(Y.S.)


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 クレーは、よく似たコンポジションの片方に《誇り》、一方には《かつての辺りの断片》という全く異なる画題をつけている。晩年のクレー作品には、象形文字を思わせる記号や太い線が頻繁に登場するとともに作品サイズも以前より大きくなっていった。≪かつての辺りの断片》はクレー作品としてはかなり大きなドローイングである。線描は、クレーが初期から描き続けてきたものであり、つねに重要な意味をもっていたが、1930年代後半には、クレーの仕事を象徴する絵画的言語となっていた。クレーの線描においては、小さな点や1本の線が、画面の中で自由に動き出して、人間や動物といった何らかの有機的イメージを創造していくことが多いが、ここでは、そうした具体的なかたちを想起させる要素は極力排されている。平行線や対角線といったかつてのクレー作品を構成していた法則的なものすら存在せず線は自由に戯れ絡み合い、自立してそれ自体が何かの姿を示すかのように歩き、踊り、物語っているo。weilandには「昔の、かつての」、gegendには「地方、地域」「付近、近辺」という意味がある。《かつての辺りの断片》とは、画家の心の奥深くにある記憶の断片なのかもしれない。(Y.S.)


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 1928年12月から翌年1月にかけて、クレー協会の援助を待た画家はエジプトとイタリアヘ旅した。途中、シチリア島のシラクーザで古代ローマ円形劇場ヤギリシア劇場とともに訪れたのが、古代の石切り場ラトミア(ドイツ語Latomie)である。ラトミアは、そもそも古代奴隷の罪人を罰として働かせた場所で、シラクーザには複数のラトミアが遺されている。さらに1931年9月夏にも、クレーは妻リリーとともにデュッセルドルフからベルン経由で再度シチリアを訪れ、この時も彼らはシラクーザに立ち寄り、何ケ所かのラトミアを見学している。旅の途上、リリーは息子フェリックスに宛て、「シラクーザは素晴らしい印象を与えてくれました。一番素晴らしいのはギリシア劇場とディオニュソスの耳(註:人造洞窟)のあるパラデイソのラトミア。

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 カップッチーニのラトミアも実に見事です」(1931年9月20日付)と記した書簡を送っており、二人の感銘ぶりが窺える。

 そのような石切り場は、すでに若い頃からクレーを魅了していた。20代の頃には繰り返しベルン近郊オスタームンディゲンの石切り場を描いている。大地から石の層を切り剥がす石切り場のエネルギーや、切り出された後に岩肌に残る幾何学的な模様は画家の連想を掻き立てたにちがいない。乾いた石色をして、画面全体に柔らかな凹凸のある≪ラトミー》は、ラトミア訪問から10年近くを経た晩年のクレーに蘇ってきた風景である。(F.G.)


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 晩年、クレーの線の身振りには内面から突き上げてくるような激しさが増す。人間も天使も植物も静物も、抽象的な形象さえも手を上げ天を仰ぎ、身を振り、あるいは途方にくれている。特徴的なのは、単純化された大きな眼をもつ相貌と身体とがまるで一つに溶解し合うように互いを抱き込み、身振りそのものが相貌化していることである。そこには魂の叫びと肉体の苦痛、死の不安、恐怖が報っている。

 題名の通り、頭部も身も自らの中に包み込むこの≪包摂》は、そうした晩年のクレーにおける相貌化した身振りをよく伝えている。(F.G,)


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 「おや、それではぼくたちは、諺の文句そのままに、うたげ〈祝宴の席もはててから〉、のこのこと遅れてやって来たというわけか?」-プラトンの対話編『ゴルギアス』の冒頭、弁論の第一人者として名を馳せるゴルギアスの弁論術披露が終ったばかりのところへ到着したソクラテスが、政治家カリクレスに対して発する第一声である。その慣用的な一節「祝宴の席もはててから(Post festum)」をクレーはこの作品の題名として引用している。

 今となってはすでに過ぎ去ったかつての時を主題とし、それを擬人化した姿に表現するというクレーの関心は、この作品より一つ若い作品番号をもつ≪偶像》(1939,901(ⅩⅩ1))をはじめ、とりわけこの作品の成立した翌年、つまりクレーの没年に制作された24点の線描画連作≪エイドラ》に相通じている。ギリシア語エイドロンeidolon(複数形エイドラ。eidola)は、冥界へと追放された死者の魂の似姿、偶像を意味するが、音楽家や芸術家の姿をしたクレーの《エイドラ》は、かつての人間の姿へと変容しつつある死者の魂の像として、自ら死を目前にした画家の手から生み出された。

ひだりきき

 ところで、クレーは左利きの画家であった。生前の制作中の様子を撮影した写真には、思索的に左手を動かす画家の姿がとどめられている。人生という祝宴も果ててから、ほかならぬ左手を示して静かに内省する「忘れっぼい」偶像にはこの画家の姿が重なる。そしてその、肩に羽のようなものをつけた偶像は、人間と神との中間的な存在としての天使の姿をも想起させずにはおかない。(F.G,)