アントニオ・ロペスという画家

木下亮

1.スペイン現代美術とリアリズム

 マドリードの国立ソフィア王妃芸術センターのコレクションのなかで20世紀初頭から現在までの「美術史」を遡ってくると、その途中で<花嫁と花婿>(下図左)や《カピタン・アヤからのマドリード≫(下図右)などの油彩画と《男と女≫(下図)の彫刻が展示されたアントニオ・ロペスの部屋にたどり着く。つまりピカソ、ミロ、ダリ、さらにシュルレアリスムやアンフォルメル、そしてポップ・アートやコンセプチュアル・アートの作家たちの展示の後で、なんとも唐突に、ロペスに出会うことになるのだ。ロペスが国内外で高く評価されていることを思い出すと、改めて、現代美術のなかでのリアリズムの位置づけ、さらには具象絵画の可能性について考えずにはいられない。たしかに第二次世界大戦以降に展開した抽象美術は、作品を見る側に表現行為の根本についての考察を求め、モノと人との多様な関係を提示しようとしてきた。しかし、リアリズムにおいては画家の視点、つまり画家の目と対象との関係は前提として示されており、主題の解明がまず試みられることになる。

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 欧米の現代美術のコンテクストを想定して、そのなかでマドリードにおけるロペスの活動について語ることは難しい。ロペスの制作は、アカデミックな写実絵画や国外の50年代からる0年代の具象絵画ばかりでなく、ハイパーリアリズムとも、写真とのアナロジーとも無縁だからである。むしろロペスを取り巻く言説は、これまで現代美術の展開を蒙れて、モティーフに強い信頼と愛着を置いた即物性や寓意的表現の希薄さ、対象と作者の目とのあいだの確固たる距離感、さらにはスペイン美術の写実の伝統への言及などから形成されてきたといえよう。

2.アントニオ・ロペスの生きた時代

■フランコ時代とポスト・フランコ

 アントニオ・ロペス・ガルシアは、1936年1月6日にラ・マンチャ地方のトメリョソで生まれた。ロペスの言葉にしたがえば、トメリョソは歴史を誇る町ではなく、新しい町だという。小麦、ワイン、オリーブなどの農作物の集散地であり、ロペスの実家も農業を営んでいた。ロペスの原点は画家の叔父アントニオ・ロペス・トーレス(1902−87)にあり、叔父の作品にも、初期のロペスの作品にも、遠く地平線が見渡せるトメリョソの平坦な土地が影のない明るさのなかで描かれている。

 ロペスが生まれてから半年後に、スペイン内戦は始まった。戦後の豊かではない時代に、ロペスは13歳でマドリードに出て独り暮らしを始め、美術学校への入学準備のためカソン・デル・ブェン・レティーロにあった複製美術館で石膏像の模写を行う。この機会に、古代美術と初期ルネサンスの美術への憧憬を募らせたようだ。一方、ロペスが通った1950年代のプラド美術館は、内戦中に受けたダメージを払拭し、中世からバロックまで寄贈によって収蔵品が充実し、また1956年には展示室の増築が完了することになる。この頃ベラスケスの《ラス・メニーナス≫(下図)は、2階メインフロアの小さい部屋に飾られていた。

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 1950年、ロペスは14歳で王立サン・フエルナンド美術アカデミーの美術学校(EscuelaSuperiordelaRealacademiadeBel】asArtesdeSanFernando)に入学する。かつてピカソも、ダリも、この美術アカデミーの前身の美術学校で学んだのであった。ロペスの同期の入学者は50人から60人だったという。ロペスを教えた教授たちは、学生たちに「現実を写す」ことを求めた。5年間の在籍中、ロペスは技術において秀でた生徒で、多くの賞を受け優秀な成績をおさめたようだ

 ロペスの周りには、のちに抽象の画家となったルシオ・ムニヨス(1929−98)やエンリケ・グラン(1928−99)、彫刻家となるフリオ・ロペス(1930−)とフランシスコ・ロペス(1932−)兄弟、さらに抽象に進んだホアキン・ラモ(1928−)や劇作家となったフランシスコ・ニエバ(1929−)がいた。ここには女子学生も学んでおり、アマリア・アピア(1930−)はルシオ・ムニヨスと、イサベル・キンタニーリャ(1934−)はフランシスコ・ロペスと、リア・モレーノ(1933−)はアントニオ・ロペスと、それぞれ芸術家同士で結婚することになる。「一緒に始めた」仲間との友情はその後長く続き、ロペスの娘マリアの回想では、それは単なる交友ではなく、造形作家同士の刺激を与え合う交友だったという。

 ロペスが選んだリアリズムは、物資が不足し情報が届かないという時代に、極めて限られた選択肢から選んだ道だったのである。1955年にはマドリードの文化総局で仲間4人のグループ展を開催し、そのあと同じ年に教育省の奨学金を得て、ロペスはフランシスコ・ロペスとともにイタリアを旅行をする。1958年には、さらにギリシアを訪れ、このとき古典美術のオリジナルに触れたのである。ロペスは1955年から61年まではマドリードとトメリョソで制作し、ピカソやシャガール、あるいはシュルレアリスムの強い影響のもとで、自分だけの具象絵画を模索していた。

 この頃のロペスにとって、具象と抽象は「同じことだった」。両者の対立の構図を強いて説くよりも、当時のスペインでは重い閉塞感を共有していたことを強調すべきであろう。つまり、イズムの差よりも美術の展望が持てるかどうかが重大事だったのだ。バルセロナでは、シュルレアリスムの強い影響のもとにダウ・アル・セット(活動期間1948−56)が結成された。一方、マドリードでは、フエイト、サウラ、ミリャーレス、カノガールらによってアンフォルメル系ののレースエル・パソ(活動期間1957-60)が生まれた。アントニ・タピエス(1923−2012)エドゥアルド・テリーダ(1924−2002)、そしてルシオ・ムニヨスをはじめ、若い芸術家たちは相次いでパリに行き、国外の前衛芸術の動きに敏感に反応し、それをスペインに持ち帰った。同時に50年代の終わり頃から、国際的な評価を受けるスペインの抽象の造形作家が現れてくる。多くの前衛の芸術家たちのグループが各地に誕生し、マニフェストが発表され、短期間の活動が行われたのだ。しかし、ロペスたちには、改めてのグループを作る必要が感じられなかったのである。

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 1960年から、ロペスは戸外の制作と室内の制作とを並行して行うようになる。目の前の現実を忠実に描くという制作態度は、高層ビルから見た最初の都市景観《マドリード≫(個人蔵)ではっきりと意識されるが、ロペスはそれでも現実を写すだけでなく、なにかを「加味する」必要も感じていたのである。

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 1961年にロペスは、ファナ・モルドが美術部長を務めていた、マドリードでもっとも重要なビオスカ画廊で個展を開く。そのすぐ後、ロペスはマリア・モレーノと結婚し、マドリードに定住する。家庭を待ったことから、作品のテーマは、家族の肖像や自分の生活する空間の観察から選ばれるようになる。台所、アトリエ、トイレ、浴室など、日常の最も私的な空間を客体化し、乱雑なまま取り繕うこともせずに、プライバシーを描き始めたのだ。ロペスは、頭のなかにイメージを蓄積して再構築して、一度にアウト・プットするタイプの画家ではない。むしろ職人のように根気よく日々の制作を継続する画家といえる執拗な観察と精妙な描写にとどまらず、ロペスは作者と対象との関係を固定し、視点について熟考し、その結果、たとえば至近距離から見た空間が分割されて描かれるのである

 ファナ・モルドが独立して1964年に自分の画廊を開いたときも、ロペスは彼女に作品を納め、そこからニューヨークのステンフリ画廊へのルートが拓(ひら)かれる。1965年と1968年には同画廊で個展を開き、アメリカの顧客を得ることができたのだった。ロペスはその一方で、王立サン・フエルナンド美術アカデミーの「色彩基礎Preparatorio de Colorido」の講座を1964年から1969年まで担当する。ロペスが一定期間、教職に就いたのは、これが最初で最後だった。

 ロペスは、さらに1970年からマルポロ画廊と契約する。1970年代には、都市景観の作品が制作のなかで大きな意味を持ち始め、視覚により忠実な制作が徹底される。この時期に《グラン・ビア≫(下図左)《トーレス・ブランカスからのマドリード》(下図右)を並行して描いていることは示唆的である。制作の遅さからか、生活の営みの描かれていない無人の都市へと作品は変容し、一方でモデルを確保することが難しい肖像画が消えていくのである。1970年代に、ロペスはヨーロッパ各地で作品を発表する機会を得ている。1975年のフランコ体制の終焉は、ロペスの作品に目立った変化をもたらしてはいないようにみえる。

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 やがてマドリードでも、具象絵画への評価の変化の兆しが感じられるようになる。1980年代にはヘレル画廊など、リアリズム作品を扱う画廊がリアリズムのグループ展を開催するようになっていた。また1982年には国際アートフェア「アルコ(ARCO)」が発足し、定期的な作品発表の場が確保される。

 1985年はロペスの人生にとって重要な年であった。まず国内では24年ぶりの個展が、ラ・マンチャ地方の都市アルバセテの美術館で開催された。またロペスはアストウリアス皇太子芸術大賞を受賞するさらにユーロパリア85エスパーニヤにおいて、カタルーニヤ出身の画家タピエスとバスク出身の彫刻家テリーダとともに現代スペインを代表する造形作家に選ばれ、ブリュッセル近代美術館で個展を開催したのであるロペスにとって国外では初めての本格的な個展であった。

 1990年には大型の画集が発売され、ブレンソンによるロペスヘの長時間のインタビューが収録された。1991年には日本においてスペイン・リアリズム展が開かれ、アントニオ・ロペスの作品が知られる契機となった。マドリードでリアリズム絵画の評価が本格化するなかで、日本の展覧会はある意味で先駆的な企画展といえた。

 1992年はバルセロナ・オリンピックとセピーリヤ万博が開催され、スペインに国際的な注目が集まったときであるが、「もう一つの現実。マドリードの仲間たち」展が開催され、文化総局長ハビエル・トゥセルが好意的な論評を展開した。一方、バレリアノ・ボサールはスペイン20世紀美術の概説のなかで、リアリズムの展開に期待と戸惑いを見せていたのであった。

 1992年に公開されたビクトル・エリセ監督の「マルメロの陽光」は、たわわになったマルメロの実にあたる一瞬の陽の光の美しさを描こうとするロペスの姿を半年にわたって追いかけた作品であった。(上の映像)この映画はカンヌ国際映画祭「審査員賞」ほか、様々な受賞の栄誉に輝いた。この映画を通して多くの人々に広まったロペスのイメージは、描こうする対象と長時間、一緒に過ごすことをなによりも大事にしながら描く画家というものであった。

 ロペスはまたこの年に、国立ソフィア王妃芸術センターの常設展示のなかに現代リアリズムの作品が含まれなかったことに抗議して、予定されていた個展をキャンセルするという意思表示をし、館長マリア・デ・コラールヘ抗議の手紙を送っている。しかし紆余曲折を経て、1993年春、国立ソフィア王妃芸術センターでのロペスの大規模な個展が開催され、カタログによれば油彩89点、彫刻21点、素描る0点の計170点が出品された。これに先立つ同年1月、ロペスは王立サン・フエルナンド美術アカデミー会員に選出される。アントニオ・ロペスの国民的な画家としてのイメージは、1993年に定着したといえる。

 この1993年の大規模な個展から2011年までの回顧展のあいだは、彼の人生で新たな時代を意味する。1995年にはヴェネツィア・ビエンナーレに招待作家として出品し、一方で、ロペスは1998年から2009年まで、プラド美術館理事を務めた。2006年にはベラスケス造形美術大賞を受賞し、副賞として回顧展開催の権利を得る。またこの年、マドリード議会のために《バリエーカスの消防署の塔から見たマドリード》(下図)を完成させたのであった。

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 1993年以降のロペスの制作の変化で特筆すべきは、作品の巨大化である。実物大や等身大にこだわっていたロペスが大きな尺度で制作を始めたのである。2008年には、コレクターからのロペス作品の寄贈を機にボストン美術館で大規模な個展が開催される。担当学芸員の証言では、ロペスはエジプト美術の部屋で長い時間を過ごしていたという。また同じ年、孫娘に想を得た、3メートルを超えるブロンズの頭像《昼≫と《夜≫をマドリードのアトーチヤ駅に設置した。さらに2010年には、高さ5メートルの上半身の像《コスラーダの女≫をマドリード近郊の町コスラーダの広場に設置した。そして2011年、ティツセン=ボルネミッサ美術館の回顧展では、1993年以降の近作と初期の作品合わせて約130点が展示され、評価を不動のものとしたのである。

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3. ロペスのリアリズム

 1961年の個展以降の国内での長い沈黙の後、1985年のブリュッセル、1993年の国立ソフィア王妃芸術センター、2008年のボストン、そして2011年のティツセンの展覧会によって、やっとロペスの全貌を窺い知ることができるようになってきた。なぜなら、ロペスは自分の制作方法や作品について自ら理論的に説明する画家ではなく、これまで残された断片的なインタビューや対談の記録からそれを知るほかはなかったからだ。しかもロペス自身は、言葉を通して絵を語ることの限界を表明しているのである。

 アントニオ・ロペスは、テーマにおいても技法においても、自ら制限を設けることはしない。完成と未完成の境界で蓬巡し、常に並行した制作に追われているからこそ、いわばポリフォニックな開かれたリアリズムを貫いてきたのである。技法に関しては、本人自身が意識しているように油彩、素描、彫刻をどれも偏りなく制作している。ロペスは油彩画にとりかかる前にほとんど習作を描かず、直接油彩画を描き始める。一方、素描は、準備素描や習作としてではなく、自立した技法としてとらえ、高さ2メートルを越える巨大な素描作品すら描ききる。彫刻においては、ブロンズ、石膏、木彫など素材を限定せずに取り組み、さらに浮き彫りや彩色彫刻も手がけている。また、多くの作品はないが、リトグラフも制作しているのである。ロペスの作品を長期的に見ていくと、各時期を代表する特徴的な作品を挙げることができるが、それはバランスを取りながらシステマテックに主題や技法を選んだ結果ではないことがわかる。

 ロペスがテーマを選ぶときの自由さは、本展覧会の出品作品から窺えるとおり驚異的なものがある。しかも初期にはシュールで夢幻的(onirico)なテーマや、例外的ではあるが、海原やニューヨークの摩天楼を備轍した巨視的なヴィジョンを描いた作品も知られている。

 ロペスのリアリズムの特徴は、静物や肖像の場合のように近くにある対象を描く視点、人工の灯りやその反射に意識を集中させながら室内の空間自体をモティーフのように描く視点、そして遠くからマドリードの景観を描く視点と、異なった視点を自在に使い分けられるところにある。言い換えれば、モティーフや対象が目からどんな距離にあろうとも、見たものを忠実に自在に描くことができるのである。

 加えて、ロペスは光を追求する。ロペスの制作方法は、光の追求にしたがってより厳格になっていったといえる。特にマドリードの景観を描くときは、一日の限られた時間の光だけのために制作するという姿勢が貫かれている。だからこそ画面から「瞬間」を感じるのである。しかし制作が長期にわたればわたるほど、「瞬間」をとらえようという企てには矛盾が生じる。ロペスは、彫刻のための習作や身近にいる孫たちの像を例外とすれば、モデルを必要とする肖像を描かなくなったのである。

 意匠の美と繊細な仕上げを高く評価してきた日本の美術から見れば、ロペスのリアリズムにはどこか突き放されたような感覚がついてまわるのである。目の動きに忠実であろうするためか、画面の周辺部に筆が加えられないまま制作が終わってしまうことすらあるのである。ロペスのリアリズムは、描かれた対象を直に認識させると同時に、抽象美術が問いかけてきたように、制作姿勢から表現行為の根本的な意味について、さらに視点の置き方の厳格さからモノと人との関係について、私たちに再考を迫るものなのである。         (昭和女子大学大学院生活機構研究科教授)