アントニオ・ロペスの絵画についての瞑想

Bunkamuraザ・ミュージアム・プロデューサー・木島俊介

 トメリョソ アントニオ・ロペス・ガルシアは、スペインで最も重要な現存の芸術家である。彼は1936年の生まれであり、2013年の今年には、77歳の誕生日を迎えているから、既に十分なキャリアを擁し、その作品はヨーロッパにおいてもアメリカにおいても幾度となく紹介されていて高い評価を得ている。それにもかかわらず我が国においては殆ど知られることがなかった。これほど美術愛好者の多い国においてそれはとても残念なことであるのでここに日本での最初の彼の個展が開催されることに多くの尽力がなされ、芸術家本人とその家族の凱、御協力を得ることも出来たのである。

 何故これほどの芸術家が日本に紹介されることがなかったのかについては、芸術家個人にというよりも、スペインという国がおかれていた特殊な、むしろ政治的な状況にその理由があると思われるが、ここではその間題には立ち入らないで、アントニオ・ロペスの芸術の魅力、その意義について若干の考察を加えてみることとする。

 アントニオ・ロペスは、マドリードの南方200キロメートルほどの地にある小都トメリョソ(tomelloso)に生まれた。町の四周には広大な農地が広がっている。というよりもここは、農地を耕営するためにその中心に人家が集結したかたちの凝縮した町であって、都市でもあり農村でもあるという性格を持っていた。アントニオもそこの豊かな農家の長男として生まれたのである。彼が、画家としてマドリードに住むようになっても、しばしばこの故郷に帰還したのは、幸いにもこのトメリョソが好ましい故郷として彼のうちに留められていたからであろう。このトメリョソはさらに、なんといってもドン・キホーテの活躍の舞台となったラ・マンチャ地方の典型的な町である。ラ・マンチャとはアラビア語で「乾いた土地」の意味だが、確かにこの辺りはスペインの中南部に位置し、標高も高いから風が強い。筆者は車の運転を好んでいるので若い頃からヨーロッパ全域をドライヴするという無謀な試みを続けていたが、温暖潤湿な風土に生きる私にはたしかに、この地方では、荒れた地肌の感覚が強く迫ってくる。土地は乾いた灰褐色で時には荒廃した白色を呈することもある。この感熱まさらにそこから、凝固する不動な時間の感覚へも変容してゆく。私にとっては、土の色こそスペインという国の根元の色であり、アントニオ・ロペスの色であると思われる。その褐色の広がりのなかには、薄緑の斑点をちりばめたようなオリーブ畑が見えたり、やはり乾燥した緑のブドウ畑の細長い畝が続いたりする。と思えば、突如として、裏白の風車が現れたりもするのである画家エル・グレコの住んだ町として知られるトレドからトメリョソに下る街道の脇にはカンポ・デ・クリブターナの町があり、このあたりには今も、かつては小麦を挽いた白い風車が残っている。セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』に現れたごとくそれらが、騎士キホーテの挑むべき巨人として私に現れるというのではない。青天の空と褐色の大地の狭間、地平線の上に起立する風車は、無味乾燥な単なる物質的な存在なのだ。だが日没時の、鮮血のごとく鮮やかな黄金色の光のなかにそれらが現れる時には、十分に感傷的であり、また蜃気楼のごとく非日常的、非現実的、形而上的ですらある。そのように感じられる。

 アントニオ・ロペスが好んだ故郷トメリョソは、ただの、農地のなかの町である。これは当然のことだが、それはしかし歴史のなかに、文学のなかに、宇宙のもとに存在する町でもあって、そこには凝固するイマージュと、刻々と変化し展開する生きたイマージュとが照応しつつ共存しているのである。これらすべてが、芸術家のみならず人間にとっての経験であり、彼にとっての現実である。

■マドリード

 アントニオは農家を継ぐべき長男であったが、子どもの頃より絵を描く才能を発揮した。これに気づいたのが叔父のアントニオ・ロペス・トレスで、彼はトメリョソの地方画家であった。つまりアントニオの故郷トメリョソは農地のなかの町だが、地方画家を擁するほどの小都市でもあったのである。そしてまた、彼の両親が、叔父の勧めがあったとはいえ、長男アントニオの画家の道への希望を許したのはその家庭にゆとりのあったことを示しているのであって、これは、この芸術家の資質と作品の品質を理解する上で重要なことと思われる。ともあれ彼は、13歳の時にマドリードに出て、王立サン・フエルナンド美術アカデミーに入学すべく準備を進めることとなる。1950年、マドリードきってのこの美術アカデミーに14歳で入学を許された少年アントニオは、ここにおいて、生涯にわたって交際の続く多くの友人を得た。後に彼と結婚することとなる画家のマリア・モレーノもそのひとりであった。

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 第二次大戦後のマドリードは、われわれが推測するよりも遥かに閉鎖的な社会であった。同じスペインにあっても、フランスに近い都市バルセロナよりも、この首都は大変特殊な事情下におかれていた。普通にスペインの現代美術という範疇を考えるとき我々は、どうしてそのようなことがという疑問に囚われるであろう。なぜなら、20世紀の美術を考えるとき我々は自然に、ピカソに始まり、ミロ、フアン・グリス、ダリという、歴史のなかの高名を思い浮かべるからである。しかしながら、アントニオ・ロペスが画学生であった、重要な1950年代には、マドリードの美術界は上記の芸術家たちから断絶していた。こういっても過言ではない。フランスに住んだピカソは、スペインに入ることを拒否していたし、マドリードの政権の中枢からは拒絶されていた。ミロとダリは、1948年にスペインに帰国することとなるが、ミロの住んだバルセロナやマヨルカ島、ダリの住んだフィゲラスやボルト・リガトはともにバルセロナ文化圏であったし、この地で彼らの制作が行われていたとしても、展示展覧会は、パリやニューヨークだったのである。彼らの次世代のスベイン画家にはアントニ・タピエスがいるが彼もまたバルセロナの画家であり、パリに住んだ。スペインにおけるマドリードとバルセロナの関係は、日本における東京と大阪の違いを遥かに越えて、我々には推測できないばかりに深刻な別次元の世界に属しているのである。

 しかしながら、マドリードのこの断絶は、アントニオ・ロペスにとってはむしろ幸運であったといってもよい。というよりもむしろ、この状況のなかでロペスの才能はポジティヴに建設的に展開したというべきであろう。もちろんマドリードにはプラド美術館もあるわけだが、美術アカデミー時代のマドリードでは、私たちが戦後、フランスの美術やアメリカの美術を夢中になって導入したごとくには、外国の美術の現状を把握することは困難だったのである。ロペスも確かに、マドリードの外の美術に関しては粗末な複製によって情報を得てこれを模写したと語っている。それらの印刷物は南米のアルゼンチンからもたらされたものであったという事実にも我々は驚かされるであろう。美術アカデミーの授業もまた、当然というべきか、守旧的で、いわゆるアカデミックなものだったのである。ロぺスと彼の仲間たちはやがて「Madrid Realist」あるいは「SpanishRealist」などと呼称されることとなるが、これはもちろん彼らが自称したものではない。ここには、美術の抽象化が主流をなしていた20世紀美術の動向のなかにあって、「リアリスト」、そして「リアリズム」の芸術作品が旧式で珍しいという外からもたらされた認識が働いているのである。あるいは、1940年代末のバルセロナで起こった「Dau al Set(骰子(さいころ)の七目)」グループの、ダダイスムの影響を受けた反芸術的な活動、これは後にマドリードにも影響を与えて「EI paso(歩み)」グループを誕生させることになるのであったが、こ のような、第二次大戦後の反芸術的傾向、事物の即物的な提示とその伝統的意味の否定との試み、このような動向に対して、マドリード・リアリストたちは自覚的に距離を隔てていたということなのである。

 「リアリズム」という言葉をここではひとまず「写実主義」あるいは「写実的な表現」というほどの意味に訳しておこう。

 スペインの美術は、伝統的に他国の美術から強い影響を受けた。ひとつはイタリアのルネサンス美術であり、他のひとつは北方フランドルのルネサンス美術であった。だがこの地において、その影響の本源が突き詰められてゆくこととなるとそれは極端なまでの、究極的といっていいほどの境地に至る。これこそ、スペイン的な本性、本質といってよいものだろう。美術史家パノフスキー教授が「ヤン・ファン・エイクの眼は顕微鏡と望遠鏡として同時に働く」と述べたほどの、フランドルの細密描写、グラッシの技法を駆使して半透明の薄い絵具を丹念に塗り重ね、絵具を独立した物質に見せることを完壁に避けて、それを描写の対象となる物質の姿に完璧に転化させてしまうこのリアリズムは、スペインにおいてはサンチェス・コタンにおける静物画のリアリズムとして、ひとつの極致に達する(fig.1)。

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 それぞれの物は、その表層と体積として完壁に捉えられ、その物自体以外の何者でもあり得ない。画面のなかで、それらの物たちが、外からの印象も感情も受け付けないほどに充分にその物自体であるところの物たちが、孤立しつつまた互いに照応しあって、形而上的という以外に言いようのない静認さと存在の永遠性へと転化する。このような秘儀的な次元は、17世紀のスルバラン親子や、18世紀のルイス・メレンデスの静物画のなかにも認められるものである。

 他方、スペインの思想家オルテガによって「地中海人にとってもっとも重要なのは事物の本質ではなく、その存在、現存性なのだ。つまりわれわれは、ものよりも、それが生きた感覚を愛好するのである」(佐々木孝訳)と言わしめたいわゆる「印象主義的」リアリズムは、ヴェネツィアの画家ティツィアーノからベラスケスを経てアントニオ・ロペスに至り、さらに若い世代のエノク・ベレスに至る(fi9.2)。

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 「DaualSet」や「EIPaso」の即物性もまたこの流れのひとつの帰結であったのかもしれない。これは技法上のことだが、この印象主義的表現法は、ときに絵具の絵具である物質性を露にして見せて、事物のイリュージョンであるべきその表現を単なる絵具という物質そのものにしてしまうこともあるのだ。当然のことながらここでは、光を強く反射させる不透明絵具が多用されることとなる。しかし私たちはここで、このようなスペイン的伝統が現代に影響を与えたことを強調しようとしているのではない。誤解を避けるために言うならば、美術史にとっては、現代の作品の直接な観照から、逆に歴史を照射し、未来に向かう想像をたくましくすることが重要なのだ。これは、ベルクソンによって照射された「「現実性」のあるべき姿である。

 アントニオ・ロペスももちろんこのスペイン的伝統の流れのなかにいる。彼は若い時代に、ギリシアの古代彫刻から影響を受けたと言い、また、ポンペイの壁画から影響を受けたと自ら語っている。それはいい。しかし私たちは、ロペスの彫刻作品や絵画作品がギリシアやポンペイのそれらとはいかに異質なものであるかを知っている。それはもちろん当然のことだ。私たちは、ルネサンスを知ってしまったのだ。オルテガの言葉を借りるならば、ガリレオの物理学もライプニッツの天文学も知ってしまったのである。あらゆる解釈に先だって存在する事物の「物質性」とその事物の「意味」とは、かつてのごとく共存的に立ちあがるとは限らない。近代においては、自然の世界と価値の世界の分離が運命づけられてしまったのだ。物質的な強度とそれに意味を付加しようとする自意識の強度とが時には強烈な反発を生みだすこともあれば、それらが形而上的な照応を生みだすこともある。さらに重要なことは、ひとつの作品のなかにおいて、上記の反発と照応とが、それを観る者の意識のなかでということはむろん、画家の意識のなかでということに他ならないわけだが、交錯しつつ現れるということである。そして、この交錯の次元にもまた、形而上的な界域が生じる。これこそ、アントニオ・ロペスの本質ではないか。

■(花嫁と花婿≫

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 ロペスの初期作品である《花嫁と花婿≫(上図)は極めて重要である。この作品の制作は、ひとりは他の女性の膝に腰を下ろしているふたりの女性のモデルから始められ、ふたりは笑っていたのだとロペス自身が述べている。その制作の過程に何かが起こって、女性のひとりを男性に代えて、そこに「結婚式のさなかの花嫁と花婿」という明確な主題性を与えることになってしまったのだと。そしてさらに述べている。「今、私がこの作品を見ていると、私は、人生を発見しつつあったのだということを知らされる。ここには激しさと歓喜とがある。私は、なにか危険なことをしつつあったのだということを感じる」。

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 この作品にポンペイの壁画に描かれた夫婦の肖像《パン屋の夫妻(テレンティウス・ネオとその妻)≫(fig.3)の影響などを見ていても意味はないし、花嫁のウエディング・ドレスの表現にギリシア彫刻の影響を指摘してみても仕方ない。ロペスの言葉に含まれている「歓喜 rapto」はほとんど「Extasis」に近い言葉でむしろギリシア人のいう「神がかり的な恍惚」を言っているのである。ロペスの意味しているところ、いやむしろ、ロペスがここに直観していることは何なのか。それが問われ なくてはならないだろう。

 絵画は生きた人間、モデルを物質化することで成立する。物質化するというとき、この現象のなかには二重の意味が含まれている。モデルという対象の生命を物質化するということと、制作中の画家の生命を物質化するということである。この現象のなかにはそれゆえ常に、相互に越えられないふたつの実体の間の、いかんともしがたい深淵のあることを、画家という者は意識しているか、直観しているのである。ふたつの実体とは、人間の外側にあるものと、人間の内側にあるものである。外側にある物質世界は空間として処理されると思われるのに対して、生命、精神生活という内側の世界は持続する時間のなかに場が与えられなくてはならない。両者の間のこの埋めがたい溝を埋めるという秘儀を画家が成就させたとき彼は無上の「歓喜」に襲われることとなるのだ。

 花嫁も花婿も、婚衣という物質に包み込まれることによって、日常的な生を変容させつつある。大理石のごとく現わされた花嫁の衣裳、化石のごときレースの手袋が、オルテガの言う「存在性」を強く主張する。婚礼の伝統というこの非日常性によって変容を迫られる日常の生が、物質化されたこの空間のなかに定着されて永遠の時間を獲得する。これは確かに画家の秘儀テクネーであり、「なにか危険なこと」でなくして何であろう。

 ルネサンスを知ってしまった私たち、という言い方をした。この次元ではひとま果物質的存在は空間のパースぺクティヴのなかに場を得るのである。だが人間の生は?持続する時間は?

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 1950年代の末から、60年代の半ばにかけてリアリスト・ロペスを襲った問いかけは、おそらくこれであったに違いない。そこで彼は、日常の空間のなかに、騎士キホーテの巨人を登場させる。1962-63年の作品《食器棚≫(上図)に典型的に見られるように、日常的な三次元の空間のなかに、次元を超えたイメージが現れる。宙に浮遊する妻マリ(マリア)の顔、火のともった燭台。リアリズムのパースぺクティヴを超えるゆえに、これらは幻影であり、その登場はまさに「見えるべくもなきものの顕現 theophany」であるが、この物質的現象の世界に降誕する偶像は、神話や宗教世界のなかに位置を占めていたそれらのごとく、時間と空間との限定された境域を超越するのである。これらは、物質的なパースぺクティヴのうちに持ち込まれた生のドラマである。

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 批評家たちはこの時代のロペスの作品に「魔術的リアリズム」などという意味ありげな名称を与えたし、これらをまた、シュルレアリスム的魅力として賞揚したから、例えば、エドゥアルド・ナランホのごとき追従者を排出させることとなった(fig.4 )しかしながら、ロペスの成さんとしているところは、日常性というものの真の姿を掴みとることであり、個々の事物の写実的な再現でもなく、現実を超える幻影の写実的な描写でもない。人生のある瞬間を留めおきたいという芸術家の熱望はしかして、もちろん制作中の彼はそのようなことなど決して意識してはいないのだが、制作という行為の強烈で不思議な経験のなかでいっそう高められ、美という物質的で形而上的なリアリティーのなかに閉じ込められる。美術作品は基本的に物質なのだが、ここでは、過去、現在、未来といった時間の流れはひとつに凝縮されて、始まりも終わりもない。ベルクソンのいう生命の歓喜、魂が本源的に求めている平穏。それがここにおいて永遠の時間を得るのである。マドリード・リアリストたちの特質は、彼らが徹底的に素描の研貸を行ったところにあった。鉛筆やコンテによる素描は技術的には明暗の把握に他ならないが、この鍛錬は実に、光に対する人の感覚を研ぎ澄ます。色彩というものはいかんともしがたく人の感情を触発するが、モノクロームの画面はいっそう純粋に光に対する人の知覚を高め深化させるのである。

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 アントニオ・ロペスの卓越した素描力には定評があるが、彼の親しい仲間のひとりで、私見によれば、サンチェス・コタン、スルバラン父子、ルイス・メレンデスと続く、最も厳格にして純粋なリアリズムのスペイン静物画の伝統を現代に継ぐイサベル・キンタニーリヤの素描《グラス》(fig.5)、そこにも見られるごとく、マドリード・リアリスト達はこぞって素描による光の把握に熟達していたのである。

 人間の意識の働きのなかで時間の観念が与えられるための絵画上の基本は空間を知覚させ、光を知覚させることである。空間による時間の知覚は理解しやすいであろう。絵画上のある一点から他の一点へ私たちの視覚が移動するとき、その距離に沿うかたちで時間を知覚することができる。ルネサンスの遠近法はまさに、その知覚を厳密に規定しようとしたものであったし、明暗法、陰影法もまた、事物の立体性と容積を暗示することにおいて、事物を取り巻く時間を穏やかに知覚させたのである。自然科学や論理学は空間について語ることはできるが、生きられる持続としての時間については語り得ない。時間は内的に直観されるしかないとベルクソンは記している。だが美術は光の表現においてそれを可能ならしめているのではないか

 では、光による時間の知覚とはどのように現象するのであろう。先に空間による時間の知覚について記したが、空間の知覚、空間を満たす物の知覚は、そこを光が照射することによって可能となるということは、語るに及ばぬ事実である。しかしそれだけではない。レオナルド・ダ・ヴインチがモナ・リザの顔の表面に駆使した「煙のごとき」スフマートの陰影技法は、卵型の人の顔の皮膚上をゆっくりと光が巡ることを示している。この穏やかさがなくては、モナ・リザのなかのあの魂の安らかさは失われて、あの作品の魅力の多くが失われてしまったであろう。

 ここでは、光の象徴的性格には立ち入らない。しかしながら、16世紀の神秘家セバスチャン・フランクが「大気がすべてのものを満たし、あるひとところに留まっていないように、陽光が地上のすべてにあふれながら、地上のものではなく、とはいえ地上のすべてを生い茂らせているように、神はすべてのうちに宿り、すべては神のうちに在る」、このように述べているような満たされた世界は、神の名を語るまでもなく私たちもなお実感することができる。天上より降り来る光が地上のすべてのものを満たすと、地上のすべてのものはそれぞれ自身の魂の光を返して、天上の光と交錯する。そのように感じられる。光のこのエネルギー、満たされることの平穏のなかに、私たちも静認で温和な時間を持つことを得る。

 だとすればアントニオ・ロペスも、彼の画面のなかにもはや幻影のごとき偶像を持ち込む必要はない。光こそが彼の生きた時間を、彼の魂の歓喜と平穏を証拠だてるものだとすれば、彼の扱う対象は何であってもかまわない。粗末な芸術家のアトリエ、みすぼらしい浴室、冷たいトイレット(下図)、故郷トメリョソの郊外、マドリードの市街。即物的に捉えるならば、これらはみな、マドリードの、スペインの、みすぼらしい日常的な事実の姿である。

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■《グラン・ビア≫と《マリアの肖像≫

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 彼の代表作《グラン・ビア≫(上図)がここから誕生する。マドリードの中心を東西に貫くグラン・ピア大通りは20世紀の初頭にパリのシャンゼリゼ大通りを意識して開かれたむしろ新しい街路だが、ここは今もマドリードの随一の繁華街である。アントニオ・ロペスが学生時代を過ごした王立サン・フエルナンド美術アカデミーはグラン・ビア大通りの起点からほんのすぐのところにあり、プラド美術館からも近いから、この大通りは画家にとっては熟知している世界であった。優れた画家というものは形体や色彩に対する並外れた観察力と記憶力を備えているから、この繁華街の車道の中央分離帯にイーゼルを立てたロペスにとっては、長年にわたって見つめてきたグラン・ビアの姿の経年の変化は当然、彼の記憶のなかに鮮やかに残っていたであろう。そこには、様々な感情が働くはずである。しかるにロペスは、夜明けの時間の20分間だけ、ここにイーゼルを立ててこれを描いた。

 画家が眼にしている対象が、光の効果によって刻々と変化してしまうことについての画家の苦悩は、コンスタブルによっても、モネによっても書きとめられている。一日に僅かな20分という間とはいえ、画家が対象を見つめ、それを描くということはどういうことであるか。写実主義の画家がこの刻々と変容する世界で物を見るとはどういうことであるか。

 激しい感情に捉えられているゆえに、事物を誤って知覚することもあり、様々な観念に取り憑かれてしまうゆえに形や色彩を歪めてしまうこともある。逆に感情を欠くゆえに事物を正確に知覚することもある。では、正しく知覚するとはどういうことか。これは実は、19世紀イギリスの思想家ジョン・ラスキンがターナーの風景画の分析を試みたときに発した疑問である。当然のことながらここには20世紀美術の変貌ぶりは念頭になかった。19世紀には、クールベの「「realiste 現実主義者」も、ゾラの「naturalisme 自然主義」も、そしてモーパッサンの写実主義の標語「humble verite 地味な真実」もあるわけだが、ラスキンはそれらの外に立っていた。そのラスキンは「正しく知覚する」という言葉をごく簡明に「who perceives rightly」と記している。「right 正しく」という言葉にたとえ道徳的な意味合いが加えられていたとしても、これはごく普通の日常的な言葉である。仏教の観法の長い歴史を持つ私たちの国には「実相観入」という言葉もある。現実の相に観入る。単に視覚的に見るのではなく、心を物に入れて観るということであろう。つまるところそれは、画家がその対象を好んでいるかどうかという平凡な真筆な行為に帰着するのである。アントニオ・ロペスに関してもこのように説明するより他に言葉を見つけ出すことができない。

 だがさらに、画家の表現上、好んでいるとはどういうことか、私たちも普通に、故郷の町を愛しているなどと語ることがある。この感情は言葉によってならとりあえず相手に伝わるだろう。ではこの感情は、絵画の画面上のどこに現れるのか。その形にか? 色彩にか? 格別、グラン・ビアのような多種多様な建物の形体や色彩を、主題として扱おうというとき、好みにせよ愛にせよこの日常的感情を画家はどこで表明できるのであろうか。

 象徴主義に道を譲らぬかぎり、長い美術の歴史のなかで、それが可能な唯一の道は光の表現においてであって、その他にはない。

 《グラン・ビア≫この驚くべき作品においては、その描かれた形体の複雑さにもかかわらずそれぞれの形体、それぞれの色彩、それらを満たす光の描写において全く破綻がない。ロペスはこの作品に7年の歳月をかけたと言っている自然と人間の心とは常に協調的に働くとは限らない。また一瞬の感覚印象は恒なることから外れることもある。それゆえ、ロペスの長年の観察は多くの実相の重畳から観入の一瞬を捉えたといえるのである。この世界には移り行く瞬間がある。その本質を描く」とセザンヌは言ったが、その本質を捉えるには忍耐強い観察が必要であった。ロペスとしばしば対照されたイギリスの画家フランシス・ベーコンもまた「いつの日か、人生のある瞬間を最大限の美のなかに閉じ込めたい」と語っている。光の描写においてロペスの画面には破綻がないと先に述べたが、それに留まら坑そのまったき光の表現は写真の平明な光、自然科学の一律の光の現れとは異なる。細部を見つめてみるならば、光と影とが、明と暗とが、複雑な差異を持たされていることがわかるであろう。画面に発する光はその画面の、部分部分のマテイエールの質に多くを負っている。画家はここで先述した「印象主義的」描写法を不透明絵具の多用な使用によって実に繊細に展開させている。ここから、ロペスの光は、あまねく在りつつ深さを持つ。「ただひとつに発する神の光は地上にあまねく満ちて」。ひとつの光によるすべての統一、深きところへの浸透、これがなくしては、好みも愛も表現することはできない。これこそが正しいリアリズムの真実である。ここでは愛については立ち入らないが、とりあえずそれを共存的リアリティー実存、ともに生きることへの切望としておこう。

 何処か限りのない遠方に発した朝の光が、グラン・ビアの正面の建物にあたって、ゆっくりとこちらに近づいてくる。画家もその光によって満たされる。これほどの幸せがあるだろうか。この幸せなくしては、好みも愛もない。満たされてゆく時間、これは画家の魂のうちにまでゆっくりと入りきたる。画家の魂はそして満たされつつ内なる光をまた穏やかに輝かしく彼の外に返してゆくだろう。

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 光と愛とはそのように人間の外側にも人間の内側にも留まる。この≪グラン・ビア≫の風景と、愛娘を描いた《マリアの肖像≫(上図)とを並べてみてみよう。マリアの魂に発する光は彼女の外に現れる。レンブラントの肖像画を知っている私たちは、その事実を疑わない。オランダの巨匠の自画像に発する光は暗黒の背景から出立して私たちに脅迫的に迫ってくるたぐいのものだ。しかし愛娘マリアの肖像は暗黒の聞からではなく優しい薄明の光に満たされつつ彼女の内なる光を、父のもとに穏やかに返す。その光は父から発しているからだ。そのように感じられる。ここには彼らが生きていることのリアルな証拠が立ち上がり、ただ、ある満ち足りた時間だけが存在する。

 アントニオ・ロペスの生きたスペインの日常は、決して輝かしいものではない。50年代から60年代のそれはむしろ貧しいものであったし、卑小な俗事の騒擾の上には、重くのしかかる政治があった。70年代に入ると、冷たくけばけばしい工業製品が家の内外に侵入してきた。ロペスの絵画を注意深く見るならば、このような現実のすべてがそのなかに形跡を留めていることがわかるだろう。人々もまた、退廃期のローマ人が「taediumvitae 生の懈怠(けたい・かいたい)」として嘆じたような無気力を強いられていた。というよりも、彼ら自身を強靭にもそれに馴れさせていたといったほうがよいであろう。心ある者はここに苦悩したはずであるし、人生の悲愁を感じたとしても不思議はない。現代人の心の深層にべシミズムの影があることも認めなくてはならないであろう。しかしながら、ロペスのうちにたとえペシミズムがあったとしても、このペシミズムは決して人の心を絶望の淵に沈潜させることはない。それどころか、その陰翳はかえって、人の心を優しくいたわるものだ。人々の魂の翳りのなかに、人生に対する静かな変の光を点火する。この清浄な境地から彼が、風景を描写し、人の表情を包むほのかな翳りや明るさを描きだすとき、光は遥かなところから発して精妙な語調を生みだし、その語調のなかを時間は穏やかにゆっくりと歩んで永遠へと向かう(Bunkamura ザ・ミュージアム プロデューサー)