アントニオ・ロペスのマドリード都市景観作品

木下亮

1.ロペスの都市景観と本展の出品作品

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 アントニオ・ロペスは、年少のときから60年余りも絶えることなく制作を続けてきたにもかかわらず寡作(かさく・作品数が少ない)の画家だと考えられている。ロペスは作品の「完成」に至るまで長い時間をかけるのが常であり、また制作を中断してしまう作品も少なくないからである。2011年の夏にマドリードのティツセン=ボルネミッサ美術館で開催されたロペスの回顧展では、合わせて約130点の油彩、素描、そして彫刻が展示されたが、多くの展示作晶の極めて密度の濃い仕上がりから、画家の制作の姿勢を窺い知ることができた。その限りある作品のなかで都市の景観を描いた油彩画は、その特異な主題と点数の多さではっきりとしたひとつのグループを形成している。しかも、大型の画面に描き込められた無数の街の要素と制作に費やされた膨大な時間を考えると、画家の手がけたテーマのなかでその重要性は際立っているといえよう。

 事実、都市景観の作品群はロペスのリアリズムの本質について考えるときに、極めて多くの示唆を与えてくれるのである。目の前の静物や人物を優れた技術を駆使してリアルに再現し、また、季節の自然を自在に取り込んだ風景画を描く写実の画家を挙げることは難しいことではないだろう。しかしロペスのように、大型のキャンヴァスを戸外に置き、都市景観と長時間にわたって対峠し、それを主題とする画家はまれであり、描き込まれた街の要素の密なところは、都市の風景の忠実な描写の域を超えてどこか執拗なものがある。とりわけ高所から描いた迫真の都市景観の大画面に比肩(ひけん・同等の)される作品は、他の画家では知られていないであろう。

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 本展の都市景観を描いた作品群は、厳密にいえばマドリードの街の捉え方は様々であるものの、ロペスの20代半ばから70歳までの制作の展開を跡付けることのできる代表作が含まれている。1960年代初頭に制作された《ティオ・ビオの丘からのマドリード≫(上図)では、早くも郊外から遠く首都を一望する視点がみられる。同時期に描かれた《死んだ犬≫(下図左)では、マドリードの周辺部が背景として描かれている。

tumblr_m85yduWYyi1qbx8bgo1_r1_500 DETALLE DERECHO - MADRID SUR - 1965/85 - OLEO/TABLA - 153x244 - Conj nº 127924. Author: LOPEZ ANTONIO 1936/. Location: PRIVATE COLLECTION, SPAIN.

《マドリードの南部》(上図右)は長期にわたって制作が続けられた作品だが、都心から郊外を遠くに望む景観図も1960年代に始まっていたことが窺える。また同じころ制作が始まった《ルシオのテラス》(下図左)1970年の素描《美術修復センター≫(下右図)には、友人である画家と建築家への尊敬の念と友情が込められている。

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続いて1970年代の半ばからほぼ並行して制作された《グラン・ビア≫(下左図)と《トーレス・ブランカスからのマドリード》(下右図)は、まちがいなくマドリードを描いたロペスの代表的な2作品といえる。

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そして高所から都心を一望するというテーマの追求は、《カピタン・アヤからのマドリード≫(下図左)によって一端区切りがついたかのように思えた。しかし、1990年から再び《カンポ・デル・モーロ》(下図右)や《バリエーカスの消防署の塔から見たマドリード≫(下図)の制作が始まり、新たな意欲的な試みが最近まで続けられていたのである。

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2.マドリードの新しい建築と予期せぬ連作

 ではアントニオ・ロペスが都市を意識的に描き始めたのは、いつ頃からであろうか。初期の人物画や静物画では、故郷のトメリョソの街並みがしばしば背景に現れ、さらに1961年には《サンタ・リタ通り≫のような無人の通りが描かれる。一方、マドリードの街並みも1960年頃からテーマとなるのだが、1960年とはロペス自身が自分だけのリアリズムを模索していた時期にあたる。空を歩くふたりの女を描き込んだ《カンポ・デル・モーロ≫のように、シュルレアリスムの影響を感じさせる要素を含んだマドリードの風景も、同じ頃描かれているのである。

 それではロペスが高所から見たマドリードを描くきっかけは、いったい何であったのだろうか。本人の言葉によれば、1960年に建築家の友人フエルナンド・イグーラス(1930−2008)の恋人であるマリレン・カルデナスが住んでいた高いビルからの眺望に魅せられたことによるという。それはマドリード中心部の北東にあたる地区のフランシスコ・シルベーラ通りとマリア・デ・モリーナ通りの交わるところにあった、バスクのビスカーヤ銀行と関連があるバンカーヤ(Bancaya)というビルであった。1949年から53年にかけて建設され、1950年代のマドリードでは突出した高層ビルのひとつだったようで、現在はイベリア航空の巨大な看板が設置されていることで市民に知られている(fig.1)。設計したのはゴンサーロ・デ・カルデナス(1904−54)であり、叔父の高名な建築家イグナシオ・デ・カルデナス(1898−1979)にも助力を求めたという。フエルナンド・イゲーラスは後にイグナシオ・デ・カルデナスの娘婿となったのである。

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 このときロペスは24歳であった。つまり都市景観は、ロペスが20代半ばからすでに関心を抱いていたテーマであり、本格的な独自の制作が始まるときから中心的な仕事として意識されていたということがいえそうだ。しかし1960年に初めてマドリードのこのパノラミックな眺望を描いていたとき、ロペスは友人の画家ルシオ・ムニヨスに「絵が弱くなっている」と都市のテーマに対する疑問をぶつけられ、ロペスは迷った未に地面を掻いている犬を描き込むつもりだと答えていたという。ところが、最終的にはその犬を描き込む必要をロペス自身が感じなくなり、物語性を排除した都市の景観だけを描くことになったのであった。

 その後にマドリードが描かれた作品は、《アトーチヤ≫(1964)のように背景に街並みを描いたもの、《グラン・ビア≫のように地面に立ったl点から通りを描いたもの、そして高所から都市を鳥撤したものの3つの視点で分類できるが、とくにパノラミックな都市景観を描いた油著作品は主なものだけでも10点を超えており、ロペスの作品でかなりの割合を占めている。ロペスによれば、マドリードを高所から描いた景観図は、作者自身も予期せぬまま1点、また1点と描いていくうちに、連作のような作品群となったという。

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 続いてロペスが1970年代に描いた高所からのマドリードの眺望は、アメリカ大通りにある高層ビル「トーレス・ブランカス」(fig.2)から捉えたものであった。これはフランシスコ・ハビエル・サエンス・デ・オイサが設計した23階建の建物で、1964年から69年にかけて建設され、ロペスが制作を始めた1974年にヨーロッパのデザイン賞を受賞している。つまりロペスは完成からそれほど経っていない話題のビルの最上階のテラスで、地上から約70メートルの視点から西に広がるマドリードを書いたことになる。画面の中央右にバンカーヤ・ビルが浮かび上がっていることから分かるように、《トーレス・ブランカスからのマドリード》では、1960年に描いた《マドリード≫と同じ方角の都市景観をさらに東に移動した位置から見つめていることになる。トーレス・ブランカスから描いた作品は、1960年の先行作を視野においても構想においても包含しているのである。画面左のビル屋上のデジタル時計は21時40分を示し、画家の時間へのこだわりが刻印されているロペスは夏の遅い夕暮れの薇細な光を描くことに集中していたのである。

 それはいまの私たちからは想像しがたいマドリードの景観だったはすだ.シベーレス広場の市庁舎(旧郵便局)の屋上から見ると、ロペスの上ったバンカーヤ・ビルとトーレス・ブランカスの2つのビルの高さが抜きん出ていたことが想像できるからだ(fi9.3)。《トーレス・ブランカスからのマドリード≫を描こうとした画家の動機には、トーレス・ブランカというマドリードの新しいランドマークに直結したものがあったとみることができ、この志向は後年のロペスの都市景観の作品に引き継がれていくのである。

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 最上階のテラスで制作中のロペスとその脇に立つフェルナンド・イグーラスを撮った写真が伝わっている(fig.4)。フエルナンド・イゲーラスは、大学都市のなかに建設された極めて個性的なデザインの美術修復センター(fig.5)の設計者として注目を集めていた気鋭の建築家である。ロペスは建築の最先端で制作活動をした人々との交友関係を持っていたのであり、すでに素描(下図)によって建設中の友人の建物を描いていたのである。

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アントニオ・ロペスとフエルナンド・イグーラス 美術修復センター 

 ≪トーレス・ブランカスからのマドリード≫と1970年代の同時期に並行して描かれたもうひとつの首都の相貌が、《グラン・ビア≫である。ラン・ビアは、アルカラ通りから北側に枝分かれしたように始まり、スペイン広場に達するところで終わる、全長約1.3キロメートルのマドリード随一の目抜き通りである第二帝政期のパリ大改造に倣って、今から100年ほど前に計画されたマドリードの都市改造により、密集した旧市街を壊しながら約20年をかけて貫通した大通りである。1920年代には、アール・デコ様式の高級店や映画飼が並び、市民の格好の散歩道となっていたのだった。

 ロペスが描いた《グラン・ビア≫の遠景には、テレフォニカ・ビルが白く浮かび上がっている。テレフォニカ・ビルはイグナシオ・デ・カルデナスによって設計され、1926年から29年にかけて建設された。このビルは89メートル余りの高さがあり、1948年まではマドリードでいちばん高層の建物であった(fig.6)。トメリョソから出てきた少年ロペスの目にこのビルはどう映ったのであろうか。設計者のカルデナスはアール・デコ様式の建築をマドリードにもたらした中心的人物と考えられ、前述したようにロペスの友人フエルナンド・イゲーラスの岳父(がくふ・義理的な関係の上での父親を指す表現)でもあった。グラン・ビアは、内戦前のマドリードの古き良き時代の隠喩なのである。

 ロペスがこの絵を描き始めたのは、フランコ体制末期の1974年で、この大通りはまだ「ホセ・アントニオ大通り」と呼ばれていた。グラン・ビアと改称されるのは1980年というから、ロペスが絵を描き上げる1年前のことである。ロペスがイーゼルを立てた場所は、まさしくグラン・ビアの“玄関”ともいうべきところである。

 この絵は地面に立った視点から描かれている。画面前景左のビルの1階には高級時計店グラッシイがあり、そのビルの上にあるデジタル時計は朝の6時30分を示している。ロペスは友人の抽象の画家エンリケ・グランとともにグラン・ビアを訪れた朝の忘れがたき情景について回想している。強い感銘を受けて、その情景を描くことに決めたロペスは、向かいの銀行の支店に制作中の絵を預け、毎朝早く地下鉄に乗って現場に通う。わずか20分間だけグラン・ビアに差し込む冷たい早朝の光を描くため、7年間の制作が続くのである。《グラン・ビア》は、絵の「完成」について深刻に悩みながらも、ロペスが描き上げることのできた象徴的な首都の「正面観」である。

3.制作のプロセスと特徴

 アントニオ・ロペスは見たままを描く。しかも高いところに上ったときに受ける感慨(sensacion)をも描こうとする。ロペスは都市を自分の視覚のなかに支配し、感覚のなかで把握しようと試みる。そのために、画家は視点を固定し、常に同じポイントから都市を見続ける。そのうえで、ロペスは瞬間の光にこだわり、一日のうちの限られた時間だけ制作することが繰り返される。季節も限定されるのて何年にもわたる長期間の制作を強いられることになるのだ。

 とはいえ次第に歳を重ねていくロペスが、戸外での巨大なキャンヴァスの制作をどうやって継続させることができるのか、それは長らく筆者の疑問であった。幸運にも私たちは、2012年の9月に《カピタン・アヤからのマドリード≫と《バリエーカスの消防署の塔から見たマドリード≫の制作場所に立つことができた。そこでロペスがどのような制作をしていたのか、臨場感を持って確認することができたのである。当然のことだが、制作のたびにキャンヴァスが運び込まれ、制作途中の作品を保管する場所が確保されていたのであり、そこには年下の友人たちの協力が必要であったのだ。

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 《カピタン・アヤからのマドリード》には、マドリードの北部に広がるモダンな新しい商業地区が描かれている。ロぺスの立った場所は、カピタン・アヤ通りにある23階建てのビルの屋上である(fig.8)。正面の大きなビルはホテル・メリア・カステイーリヤで、絵の奥に見える高層ビル群のなかの一番高い白いビルはトーレ・ピカソである。ここでは午後の光が西からさす一瞬を描いている。時間の経過のなかで常に目の前にある「今」を描こうとするロペスの制作態度は、本作でも徹底しており、現実の建物の改修に合わせて絵を変更していったという。画面左の斜めに広がるホテル・メリア・カステイーリヤの屋上が、ある年に緑色から赤に塗り変えられ、ロペスも合わせて絵のその部分を赤に描き直したという。またロペスは、マルメロの実や静物を描くときのように、都市の風景も紐と助手を使って計測したという。遠くの建物を、まるで至近距離にあるモティーフのように描いているのである。そして184×245センチメートルの描きかけのキャンヴァスは、屋上にある機械室に保管され、描き終わったときには屋上から絵を吊るして降ろしたという(fi9.9)。一方、《バリエーカスの消防署の塔から見たマドリード》では、さらに正確に都市の眺望を措き込むための制作の方法が徹底していく。本作は都市景観シリーズの最新作というよりも、集大成というべきであろう。ここには、正午の光が存在する。ロペスは建物にかかる影の移動を見て、ある窓に影がかかったときにその日の制作時間の終了を決めていたという8。4メートルを超える巨大なキャンヴァスに描かれたマドリードの全景に、北のカステイーリャ広場から南に向かってアトーチヤ駅を抜けていく都市を縦断する南北10キロメートルにおよぷ長さの軸が、画面の中央を右から左に横断しているのである。狭い塔の上での戸外制作のために、絵を塔の上まで運び上げる作業などの、友人の屈強な消防隊長たちによる物理的な助けがあった(figs.10.11)。ロペスは、巨大なキャンヴァスを3つに分けて制作し、最後に消防署内にある一室でひとつの画面に結合させたのである。また、天候によっては戸外での制作を諦め、写真を参考にしながら筆を入れる日もあったという。ロペスの友人の写真家は、三脚を少しずつ移動させながら撮影した何枚もの写真の中央部分だけを合成し、パノラミックな風景写真を提供したのだった。こうしたロペスの都市景観の作品は、西洋美術史のなかの都市風景とは、いろいろな点で異質であることに気づかされる。構図の特徴は、たとえば《トーレス・ブランカスからのマドリード≫のように、画面をほぼ中央の地平線で上部と下部に二分し、画面の中央に消失点をおくところにある。まるで構図を慎重に検討しないで、見たままの風景を画面に収めた、という印象を受ける。しかもロペスは、動く雲を嫌ったかのごとく、上方の空の部分に多く筆を入れることはなく、意識は下方の街並みに集中している。そのうえ点景人物を描いていないため、ロペスの描く街は常に無人(vacio)であり、日々の生活を想像させるものが存在しない。画家は「動かないものだけを描く」のだという。ロペスの描く街並みは、あたかも住人たちの現実の生活が始まる直前の重々しい沈黙にじっと耐えているかのようである。美観を誇るわけでもない乾いた無人のマドリードは、いわゆる息を飲むような絶景とは対極にある。

  ロペスの都市景観は、明らかにヨーロッパ美術の「風景画」の伝統から外れている。ヨーロッパにおいて宗教画や神話画の背景としてではなく、主題として風景が描かれるようになったのは16世紀頃、ピーテル・ブリューゲル(1525/30-69)あたりが最初であろうか。ブリューゲルがイタリアに渡る途中でアルプスから見下ろした峡谷を描いた素描は、パノラミックな雄大な風景を前にしたときの感興を伝えようとしている。ロペスはまた、フェルメール(1632-75)の《デルフトの眺望≫を引用する。静止した時間と光の輝きを捉えるという意味では共通する制作態度があるのかもしれないが、フェルメールはわずかではあるが、住民の生活を距離を保ちながら描き込んでいる。さらにロペスが都市景観を描いた画家として挙げているのは、18世紀のヴェネツィアで活躍したカナレット(1697-1768)である13。しかしながらカナレットは、常に実景の正確な描写を行っているわけではなく、ときにイギリス貴族をはじめ顧客を意識して、名所図会的にヴェネツィアの景観を自由に変換し合成している。ロペスの都市景観の作品は、忠実に無人の建築物や街路だけを主題にしているという点で、歴史的に比べるべき前例を持たないものといえる。

4.ロペスとマドリード

 ロペスの都市景観の作品からは、画家が住むマドリードヘの愛着が強く伝わってくる。ロペスは弱冠13歳のときにマドリードに来ているので彼にとっては60年間以上も住んだ街ということになる。その間、画家は下宿生活、美術学校の授業、兵役、結婚、さらに何度かの引越しを経験するが、マドリードも発展をとげ、それをロペスは「4倍も5倍も大きくなった」と表現する。確かに人口は1950年代から比べると、160万人から320万人へと倍増している。カルポ・セラリエールが指摘するように、ロペスはその拡張したマドリードを東西南北のどの方角からも俯瞰して描いてきたという。

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 1962年から28年間かけて描かれた《ルシオのテラス≫(上図)では、時間の経過が美しく結晶化している。抽象の造形作家ルシオ・ムニヨスはロペスの親友であり、やはり画家である妻のアマリア・アピアと生まれたばかりの息子ルシオとともにマドリードの西アルグエリエス地区の近くに住んでいた。ロペスははじめ、家のテラスにいるルシオー家と友人の画家エウセビオ・センぺ−レの肖像を描くつもりだったのだ。しかし理由ははっきりしないまま、制作を中断してしまう。後年、改めて制作を再開したときには、ルシオの一家はもうそこには住んでいなかったのだロペスは新しい住人に頼んで、誰もいないテラスを描き続けたのである順に上、左、上下と4枚の板を継ぎ足しながら拡大されていった画面からは、時間の経過の跡をたどることができる。しかしそこに曇ることのない輝きは失われなかった。逆説的な表現が許されるなら、そこには静止した時があるのではなく、永続する瞬間があるのである

 大きくひび割れた手前のコンクリートの壁と、初々しく花を咲かせたバラの絡まる後ろの壁のコントラスト。画面に描かれるはずであった友人の画家夫婦。親友の不在は、かえって彼らの若いときの友情を強調する。彼らが共有していた人生への期待と不安、希望と諦観が交錯して、不可視のままに画面に定着しているのである。

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 ロペスがマドリードに住んだ時間は、《バリエーカスの消防署の塔から見たマドリード≫(上図)にすべて注ぎ込まれているのであろう。大画面に向かって、画家は強迫観念に取りつかれたように、マドリードの全貌を克明に描き込んでいく。その画面からは、ロペスが長年住んできた都会を視覚的に我が物にしたいという強い意志が伝わってくる。画家は目の前に広がる眺望を、まるで静物画のように描いていく。もはやロペスは、目と対象との距離に悩まされることはなく、モティーフを至近距離から描く静物画のように都市の風景を描いているのだ。それは、ロペスの目の強さの証左であり、他の画家の追従を許さないロペス独自の制作の仕方である

 人間が一度に捉えられる視野を超えて、できる限り視野を拡張していったかのようなマドリードの眺望である。遠く空と街並みの境界線に浮かび上がるのは、年代を追って建設された歴史的建物であり、首都のランドマークとして順に話題を集めたデザインの高層ビルである。画面を見る私たちは、歴史的なモニュメントや個性的な現代建築を識別していき、画面を愛おしむように首都の街並みを同定していくのだ。それは2011年のティッセン=ボルネミッサ美術館で開催された回顧展でまさしくマドリードの市民がロペスの都市景観を見たときに共有していた反応であった。筆者が目撃したのは、作者ロペス、展示した学芸員、そして鑑賞者が、マドリードに対する感覚を等しく分かち合った瞬間だったのである。

(昭和女子大学大学院生活機構研究科教授)