故郷・Hometown

 スペインの中南部、広大な赤茶けた大地が広がるラ・マンチャ地方は、オリーブやブドウなどを栽培する農業の盛んな地域として知られている。アントニオ・ロペスは1936年、同地方シウダー・レアル県の町トメリョソで生まれた。この年に始まったスペイン内戦は、数々の凄惨な戦闘によって国土を荒廃に至らしめ、さらにフランコ総統(1892−1975)の台頭を許すことになる出来事であった。その後、フランコ政権による独裁体制が1975年まで、つまりロペスにとっては40歳直前まで、その体制が続いていたということになる。

 両親は農業を生業としていたが、ロペスは幼い頃より絵を描くことに親しんでいた。その才能をいち早く見出したのが、叔父であり画家であったアントニオ・ロペス・卜ーレス(1902−87)であった。トーレスはロペスにとって最初の絵画の先生であったのみならず現在に至るまでロペスが最も尊敬する画家のひとりである。トーレスはロペスの父に、息子には絵画の道を進ませるべきであることを説得する。そしてロペスはわずか13歳にして、絵画修業のため単身マドリードヘ出ることになった。その1年後には王立サン・フエルナンド美術アカデミーの美術学校に入学し、本格的に絵画を学ぶことになる。同級生のなかで最年少であったにもかかわらず、ロペスは数々のコンクールで受賞を繰り返すほど早熟であった。

 この章では、自らの故郷であるトメリョソへの想いが反映された作品を中心に集めた。ロペスは故郷を離れてからも、その土地の風景や人間関係を重要視し、モティーフとしてしばしば取り上げている。そこでは郷愁や追憶という情緒的な部分は極力抑えられ、むしろ自らのアイデンティティを探るかのように描かれた内省的な作品であるといえよう。

 1950年代の作品は、古代ローマ時代のポンペイの壁画から影響を受けたと思われるものがあり、この時期に繰り返し描かれた夫婦像はその典型であろう。また当時のスペイン国内で台頭していたアンフォルメル絵画を思わせるような、重厚でざらざらとしたマテイエールで描かれているのが特徴である。1960年代半ばに現実を克明に描写する方法を獲得する以前のロペスは、絵具素材を様々な方法を用いて加工しながらマテイエールヘのこだわりを示していた。


 ■故郷 | 作品解説

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■飛行機を見上げる女 1953−54

 王立サン・フエルナンド美術アカデミーの在学中に描かれた作品。ロペスは本作を美術学校の休暇中に、故郷トメリョソで描き始めた。中央の女性は、彼の従妹がモデルになっている。

 遊んでいる子どもたちに囲まれて、椅子に座り夏の午後を過ごしている女性たちが、飛行機の音を聞いてとっさに空を見上げた瞬間がここでは描かれている。中央の女性の縫物作業はその轟音によって突如遅られ、驚くあまり、縫物籠は膝の間に、リボンは左足の上に落ちている。不意に平和な空気が一変するというこの題材には、ロペスが子ども時代にニュース映画などで見聞きした戦争に対する思いが反映されている。

 制作においてロペスは様々な美術から影響をうけたことを語っている。キュビスムや15世紀のイうリア絵画、さらに古代ギリシア美術やシュルレアリスムなど、当時ロペスが傾倒していた美術が、この作品の中に混在した形で現れている。フランコ独裁政権下でのマドリードではそうした美術を直接見る機会は皆無であったため、多くは写真を通して知ったものである。

 本作は1955年にマドリードで開かれた最初のグループ展に出品され好評を博した。この展覧会は同じ美術学校のルシオ・ムニヨス、フリオ・ロペスフランシスコ・ロペス及びロペスの4人が出品しプものであった。


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■花嫁と花婿  1955

 本作はロペスが美術アカデミーを卒業する年に、マドリードで描き始められた。ロペスはモデルとして自分と同じクラスの女性ふたりを選び、一方がもう一方の膝の上に座るポーズをとらせた。そして女性ふたりの像として制作に取りかかったのであるが、ある時期からそのうちのひとりが男性像へと変わってしまう。そして結局は、花嫁と花婿へと変容していったのである。ロペスは後にこのときのことを「自分が何か危険なことをしていると感じた」と回顧している。つまり20代を迎える直前の若きロペスにとって、転機となった作品なのである。現実に味付けをしてそれを変容させることに、ロペスはおそらく自分の進むべき道を確信したのである。それを裏返せば、見たままの現実を描くということへの信頼がいまだ持てずにいた証左でもある。

 本作は密度の高い描き込みがなされている。花嫁の左にはギターやスイカ、ワインボトルやコツニが、まるで静物画のように描かれている。そして花嫁のドレスの質感を出すため、ロペスは執拗なまでに筆のタッチを繰り返した。

 ドレスの襞やふくよかな女性の顔の輪郭は、古代ギリシア・ローマ彫刻の女神像を思い起こさせる。ぺスはまさにこの年に初めてイタリアを訪れ、古代≡術のオリジナル作品を目にしたのだった。


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■立ち話をするフランシスコ・カレテロとアントニオ・ロペス・トーレス 1959

 舞台はロペスの故郷トメリョソである。ふたりが立ち話をしているこの通りは当時エスパーニヤ・ヌエバ通りと呼ばれていたが、長らく町長を務めたカレテロの名にちなんで現在はフランシスコ・カレテロ通りと呼ばれている。画面左手前にあるのはカレテロの自宅で、現在は音楽学校として利用されている。同じ通りに居を構えていたふたりは、画家同士ということで懇意であった。

 カレテロはロペスの母方の祖母のいとこで、ロペスにとって遠縁ではあるが親戚関係にあたる。本作において、肖像画(下図)と同様、帽子をかぶり片手を挙げた様子で描かれた。ロペスによると、カレテロは非常に気高いポーズをとる人物だったようで、この仕草が印象に残っているそうである。

 トーレスはロペスの絵の才能を見出した最初の人物である。トメリョソの町中には彼の個人美術館があり、また2002年にはスペイン国内5か所を.巡回する回顧展が開かれるなど、スペインでは比的知られた画家であるラ・マンチャ地方特有の強く明るい光に満ちた風景画に、彼の特徴ある画風を見て取ることができよう。ロペスは、現在におにても最も影響を受けた画家のひとりとして、叔父の名前をあげている。

 父方の親類にトーレスが、そして母方の親類にニレテロカモおり、身近な人物にふたりも画家がいた.とが、ロペスの人生に少なからず影響を与えたとjわれる。

 本作は故郷の尊敬すべきふたりに対するオマージュとして描かれたのであろう。また1950年代における分厚いマテイエールを施した作品の代表例して、ロペスは本作をあげている。


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■フラヤシスコ・カレテロ 1961−87

 1961年、ロペスはフランシスコ・カレテロの頭の形に特に興味を抱き、彼の胸像を描くことにした。本作はその後27年もの長い年月をかけて完成されることになるが、当初取りかかった胸像部分はモデルのカレテロを前にして、数回のセッションで仕上げている。その間、屋外で制作を始めた後、秋を迎え寒くなってきたので屋内へと移り、カレテロには帽子をかぶってもらったとロペスは語っている。

 その後、胸像は50×40センチメートルほどの小品として一旦完成されたのだが、1962年のカレテロの死を契機に、ロペスは現在の構図(91.4×78.2㎝)にまで広げることを決意する。まず土台となる板に制作の完了した胸像を貼り付け、その後残りの凹型の部分に同じ厚さの板を貼り付けた。つまり支持体の面積を増やして胴体部分の継ぎ足しを試みたのである。

 その際、ロペスは亡くなったカレテロが他の世界から立ち現れるような「幻影」としての肖像画を意識したという。そしてロペスは記憶のみを頼りに四半世紀にもわたり、まさにカレテロの幻影を通し続けたのである。(26年間)

 ロペスが家族以外の肖像画を描いた例は、実は極めて稀である。家族以外の肖像は、モデルがいるにしろ、匿名であることがほとんどである。画家であり政治家であったカレテロはまさしく町の名士であった。また身長も高く威圧感もあったため,ロペスは少年時代より尊敬と畏怖の念の混交すぞ感情を抱いていたのであろう。画家にとって故郷トメリョソを象徴する人物がフランシスコ・カレテだったのである。