中山公男(タピエス評論)

 アントニ・タピエスの名が、まだ大戦後の暗い閉塞状態にあった日本の美術界でようやく話題の一端にのぼるようになったのは、1950年代のなかばすぎであったように記憶している。ほとんど間もなく、パリに遊学した日本の画家たち菅井汲、堂本尚郎、今井俊満たち、あるいは、批評家富永惣一たちによって、ミシェル・タピエの新しい運動、いわゆるアンフォルメル美術の動向が伝えられ、それとともに、タピエスの名も紹介され始める。しかし、実際に作品が多くの人びとの眼に触れたのは、1976年の西武美術館のタピエス展が最初の機会であった。

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 それにもかかわらず、1950年代、雑誌やカタログの図版で、彼らの活動を見ていたにすぎなかった私が、フォートリエ、デュビュッフェ、ミショー、ヴォルスたちの作品とともにタピエスの作品にも深い共感を覚えていたことは事実である。今、思い返してみると、その共感は、美学的なものでもなければ、哲学的なものでもなかったのは奇妙といえば奇妙なことである。ミシェル・タピエのいう「別な芸術」は、古典主義的、アカデミスム的な美学への明らかな挑戦であり、それじたい衝撃的であった。しかし、私はそれを衝撃と思わず、タピエスが糾合した画家たちの作品に即ちに共感を覚えた私自身にむしろ衝撃を感じとっていた。つまり、「別な」ではなく同じ、あるいは類似の経験をもつ芸術家たちが存在することに感動を覚え、そのことに衝撃を覚えたのである。

 タピエスは、私より4歳年上でしかないから、同世代といってもよいだろう。しかし、フォートリエ、ミショー、ヴォルスたちは1900年前後の生れであるから同世代というには余りに隔たりがある。また、それぞれの立場も、まだ充分に国際的な地平に向って開かれていなかった当時の世界では、異なっていた。しかし、こうした事情にもかかわらず、私は、彼らの作品に、戦中、戦後という暗い混迷の時期を共有した人間の精神的な、あるいは肉体的な表現を見出していた。

 無数の暗い袋小路で周囲は成り立っている。一方で、戦後世界が私たちにあたえた希望、とりわけ自由という名の希望は、私たちに陶酔と高揚感をあたえ続けている。理性的なもの、秩序への願望がないわけではない。しかしその願望がほとんど満されない状態での高揚感は、暗い迷路に果しなく侵透してゆくことでしか満されない。そして、至るところで壁に直面する。熱情は、その壁面を、古い記念碑的な城壁であるかのように塗り立て、その触知感に自己を体現する。あるいは筆触や色斑に、あらゆる情熱を注ぎこみ、その痕跡に自己のアイデンティティを見出す。少くとも当時の私にとっては、アンフォルメル美術とは、美術史的な、あるいは美学的な事件であるよりは、社会史的な、そして精神史的な事件であった。今、当時の運動に頌辞(しょうじ・ほめたたえる)を捧げるとすれば、その観点によるものだと私は考えている。

 あれ以来数十年、さまざまな要素を画面に持ちこみ、画風も変化を重ねてはいるが、タピエスのあの強靭な表現力、熱情には変化はない。そのことは、当時、アンフォルメルの名のもとに活動をした画家たちのその後の画風と比較するなら、きわめて明白である。この、カタルーニヤ的熱情とでも呼ぶべきものの健在を何よりも歓びたい。

 さらに、大小さまざまな視覚的経験、あるいは内的体験を根拠として作品を創造し続ける姿勢に、以前とは変らないタピエスを見るのは、もっと大きな歓びであるといいたい。

 人は、その人生のなかで、さまざまな経験を重ね、畜模し、そしてそのほとんどを忘れ去りながらも、経験の総和のなかで生きているふと見た壁の触感、壁の痕跡、それも自然の力や人工の力が残している痕跡、それらの視覚的経験も、クレーやミロ、エルンスト、タンギーたちの時代から、アンフォルメルの時代を経て、抽象表現主義、ポップ・アートの時代へと流れる美術界の潮流のなかで生きる一人の芸術家として必然的に受けとめねばならないなんらかの影響力も、一人の画家にとって重大な経験である。また、カタルーニヤの抵抗と鬱屈そして開放と自立といった政治的、社会的な事件とともに、日常の些細な視覚も、書物のなかの言葉も、すべて経験である。

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 そうした、誰もが受けとめている経験を、単なる日常や社会の文脈のなかから取りはずして、精神的な刻印として受けとり、表現の力への転化させる鋭敏さと、その文脈を新たに生みだす魔術的な創造力を、この画家はそなえている。

 カンヴァスの木枠、肉体、その一部、性器、椅子、ソファ、布の縫い目、ベッド、タオル、ドア、その枠、虫、毛髪、靴下、スリッパ、靴、浴漕、フォーク、そして文字、Ⅹ字型、十字型……それらの事物は、本シーニュ来のコンテクストを若干は垣間見せながら、謎めいた符徴となって画面に点在し、それらを、描きこまれた堅牢な画面上の、さまざまな描線、日本の書に類する太い描線、時には幾何学的な線、色斑、文字の列などがつないでいる。それらは、表現主義的な熱情と力で、象徴や符徴をかかえこみ、それらの在る空間が、浸透しがたいほど深い空間、ほとんど「虚」あるいは「無」に似た空間であることを示している。小さな視覚的イメージは、突如として意味をもち始め、内的体験であることを示唆する。

 ある種の象徴、記号、符徴は読解に容易である。しかし、大多数は、神秘と謎、宇宙的神話の記号である。おそらく、多くの監賞者は、読解しえないことに苛立つことだろう。しかし、謎は解かれるためにあるのではなく、謎であることを示現するために存在するといえば、言い過ぎであろうか。

blogger-image--117208555467AS01265arton698アントニ・タピエスの「灰色のマチェールの重ね合わせ」29

 タピエスは、中国、日本の思想、美術に深い親近感をもったとされている。岡倉天心の『茶の本』を読み道教思想、道教美術に関心を抱いたという。小墨画に親しみ、墨象の表現技法を充分にわがものとしていることは、彼の作品を見れば明らかである。時には、私たちは、日常の書に対する気持を想起することが必要なのかもしれない。それとも、私たちは、あのカタルーニヤの壁画や彫刻の超絶的な世界を想い起すべきか。さらには、ガウディ、ピカソ、ミロたちの仕事を遠景において考えるべきなのか。彼らの制作の執拗さと、生に対する直接的な姿勢こそが、かえって神秘な深淵への呼びかけとなっていることは誰にも理解できるはずである。いや、もっと古くさかのぼって、フランコ、カンタプリア地方に残る洞窟や岩壁に見出される手型、彫グラフィティり込み、引っ掻き画を重ね合わせてみるのもひとつの方法である。それらは、いずれも、現実と交わること、壁面なり粘土に、自らを刻印するが、自己表現の第一点であり、同時に生きることを確証する行為であったことを教えてくれる。

 タピエスの作品の在り方も、この世界に生きることの証しとしての刻印であると考えればよい。ささやかな経験から、もっと大きな世界体験に至るまでが、そこに描かれ、メッセージを発している。私たちは、私たち自身の経験と照応させながら、彼の造型言語に耳を傾ければよい。もし、そこに神秘や謎が残るとすれば、それは、この宇宙、あるいはこの生が内在させている神秘そのものであるのだろう。                 (元群馬県立近代美術館館長)