埃のアリア(詠唱)

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トーマス・マッケベリィ・TOMAS MCEVILLY

(群馬県立近代美術館学芸員・谷内克聡)

 アントニ・タピエスは、1923年、バルセロナの中流階級の家庭に生れた。そして二つの災いが、彼の人格形成期に深く入り込んでいった。

 一つは、披が13歳から16歳にかけて起ったスペイン市民戦争(以後市民戦争と略記)、続いてすぐに二つ目の災いである第二次世界大戦が始った。

 スペイン市民戦争において、バルセロナでは共和派勢力が入り乱れていたが、一方のマドリッドはまだファシストの手中に陥ってはいなかった。バルセロナと同様、マドリッドも王党派であったが、負けた側という意味ではバルセロナが最も際立っていた。

 そして次第にスペイン全土が、その後約10年間というもの、他国と接触を断たれたヨーロッパの辺境として、孤立した時代に入っていった。ただ実際、それ以前においてもバルセロナ周辺の地域つまりカタルーニヤは文化的にも長い間ある程度は分離していた。彼らは、自身の言葉である、それ自体が独自の文学として存在するカタルーニヤ語(それはスペイン語の一方言ではなく、ロマンス語から派生したもの)を持っていたのである。市民戦争における共和派の敗北による荒廃のなか、敗北感や孤立感、あるいは沈みがちな気分といったものが、多くのカタルーニヤ人の中に滲み込んでいった。それは今日でも、バスク地方ほど激しくはないし、より漠然としたものではあるが、カタルーニヤ分離独立運動へと繋がっているのだ。タピエスの膨大な作品群にも、この歴史的地域的状況は流れている。それは、たとえ彼が美術界において国際的な作家であるとしても、彼の作品にはカタルーニヤ的リアリティーといったものが深く根付いているからである。

 市民戦争後、すぐに勃発した第二次世界大戦は、16歳の若きタピエスを2年におよぶ重度の鬱病(うつびょう)へと押しやった。家族は彼を山へと疎開させ、そこで彼は静かで孤独な2年間を、禅の研究と自然との深い対話のなかで過ごすことになる。禅と自然への傾倒は、その後の彼の人生において、ある種の能力の不思議な源となっていった。こうした苦難の幾年かの後、肉体的にも精神的にも強くなって、タピエスはバルセロナへ戻ってきた。しかしそこには、彼の作品に観るような、永遠に刻印されるであろう、最悪のものに触れ、真実というものを知った一人の生存者が持つようなメランコリックな雰囲気が常につきまとっていたのである。

 タピエスの作品は、異なった形式と異なった時代のなかで創られてきたが、それは、全ての戦争の持つ悲惨な破壊性を体験したなら、そう珍しいことでもなくなる、ある種の枯れた感覚によって特徴づけられる。ただ、ここで私が言うのは、タピエス自身の枯渇感ではない。彼の膨大な作品には、非常に精力的で、細心な感覚が現れている。それは、戦争や政治的混乱によって消耗させられた世界の枯渇感である。タピエスは、その枯れた感覚を、単純に新しい形態の育成へと緩やかに変化させるための媒体として活用したのだ。同様の枯渇感を、サミュエル・ベケットの作品のなかに、あるいはアルベルト・ジャコメッティの彫刻のなかに、そしてその時代の幾多の現象のなかにも見ることができる。もちろんタピエスの作品は多様であり、様々な面を持っていて、ひとつのカテゴリーとして捉えることはできないものではあるが、にもかかわらず、それを見つめていると何か意味深いものを感じさせる。それはまるで墓地や亡骸のようなものを思わせる。そしてそれは同様に命の萌芽を待つ眠る大地のようなものをも連想させるのだ。

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 実際、≪紐の箱≫(1946)や≪新聞の十字架≫(1946−7)あるいは≪構成≫(1947)といった、彼が22才か23才の時に制作した、彼の最初期の作品は、老人のような作品である。これは非難ではない、いわゆるタピエスの持つ老いた精神・・・つまり年を重ねて、円熟し、老熟したものを意味する・・・に対する敬意であり、賞賛なのである。確かにベケットを含め多くの芸術家たちが、そうした精神を持ってはいた、しかし正確には、それぞれが同じ精神というわけではない。

 つまり、ベケットの戦後的枯渇のかたちとタピエスのそれとの間には深い溝があるのだ。それは、ベケットの実存主義的枯渇感とタピエスの禅的枯渇感との溝ともいえる。しかしながらタピエスの作品は、感情に流されることなく、退化し枯渇したものにおいてさえも、鈍く胎動する深遠なる精神をともなって、内向的に成長していくようだ。この内向的成長という感覚は、ベケットの枯渇感の持つ永遠で救いがなく絶対的なものとは正反対の「癒す」という希望的なものを暗示しているのだ。私は、タピエスの作品が偽の希望や悲劇的な次元への盲従で満たされているのではなく、そうした枯渇感を癒す愛で満たされいると考えている0こうした肯定的側面は、救世主的なものでも、タピエス自身の行動の根幹をなすものでもなく、彼の自然観にもとずいたものなのである。おそらく、彼が孤独や病のなかで育んだ自然観や禅の世界での瞑想と言った神秘主義的なものの本質は、全ての事物のなかに内在する魂とか意識とか思想とかといった感覚なのだろう。つまり事物というもの(たとえそれがヨーロッパ文明の部分的な成果であっても)は、いずれ灰と化すことが避けられないということなのであろうが、同時にそれを再び造り上げたいという強い衝動が常に存在しているという証なのでもあろう。

 言いかえれば事物の枯渇感の内部には無尽蔵の魂が存在しているのである。その意味で、彼の作品のほとんどは何か傷のようなものを包み込もうとしているようだ。それは、戦争の傷であり、鬱病時代の傷であり、あるいはただ単に、多くのスペイン美術を貫く暴力的で生き生きとした実在についての悲劇的な意味での傷であるのかもしれない。

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 戦後(1940年代後半)、深い憂鬱癖と神秘主義的性癖を持つ20代の若きタピエスは、シュルレアリスムの魔力に魅入られていた。そして幾年かの間(1947年から52年くらいまで)は、彼を魔術的リアリストと呼んでも良いくらいな作品を制作していた。事実、当時の彼の作品は魔術的絵画と呼ばれていた。1949年の≪フルフ≫とか≪パラファラガムス≫や≪ドリアデスとこンフとハルピュイア≫(1950)といった絵画において、美しく絶え間ないリリック(叙情詩)な様子が、詩的な物語の世界を醸し出している。それはあたかも今ではすっかり寂れてしまってはいるが、かっては何かの儀式をおこなった神聖な領域のようだ。これらの作品はタピエスの最初の成功作であり、注目すべきものなのである。

 アメリカのキュレイター、ゴードン・ウォッシュボーンは、スペインでタピエスを見いだし、1950年、カーネギー国際展覧会にタピエスを招待した。そして翌年もう一度彼はタピエスを招待した。1952年、まだ30才前のタピエスは、ヴェネツィア・ビエンナーレに招待された。個展も、1953年、ニューヨークのマーサ・ジャクソン・ギャラリーを皮切りに開催されている。当時の彼の創り出す作品は、ある種の美しさを持っていて、それは彼と同じカタルーニヤ人ジョアン・ミロのようなカタルーニヤ的伝統の色濃い美であり、彼の作品の支持者は、いつまでもそうしたカタルーニヤ的伝統に心意かれる人々なのである。

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 彼がその後創ったすべての作品を見てみると、この時期の彼の作品は何か真実の彼をあらわしていないようにも思われる。この時期に、このことを理解した人間はいなかったが、注目すべきことに、唯一タピエス自身が、彼の作品の得た世界的成功に看ることなく、このことを理解していたのだ。この最初の成功の後に、彼は成功した手法を捨て去り、異なった手法の作品制作で2、3年を過ごすのである。問題は、彼の芸術がイメージ(具象性)の方へ進むのか、マテリアル(素材、もの)の方面に進むのかということだった。これは言い換えれば、何か現実離れした表象の世界(representation)へと向かうのか、あるいは現にそこにある実在の世界(presence)へと向かうのかという問題でもある。おそらく1951年のパリにおけるマルクス主義勢力との出会いも部分的には関係しているのだろうが、この時期、2年間というもの、タピエスは自然の中で瞑想に耽ると云ったような山中での禅修行に専念していった

 1954年、タピエスはほとんど具象的イメージというものを破棄し、その後の彼の作品を決定づけるような手法を準備していた。今でも彼の作品は様々なものの引用(たとえば壁と云った)から成り立っているけれども、それは文学的あるいは物語的なものからの具象的なイメージではなくて、彼が非常に神経を注いだ、徹頭徹尾存在論的リアリティーのある純粋な精神的神秘主義をともなった素材の引用なのである。既に前段でも取り上げた<紐の箱>や<新聞の十字架≫といった彼の最初期の作品の幾つかにおいて、もの(素材)の持つ絶対的神秘主義に対するこうした熱中は、シュルレアリスム運動に同調した文学者の友人たちの影響下にあった彼の魔術的物語主義の時代にも既に存在はしていたのだ。つまり1954年にタピエスは、彼の最初の芸術的方向性に回帰していったのである。この時点で、彼はその意味を十分に深く、そしてより確信していった。たとえば砂とか大理石の粉といった自然な素材を作品に付着させることで、表面に重厚感のあるテクスチュアが出来上がり、カタルーニヤ的風土から創られる土着性といったものが、モノそれ自体となって作品の中で再び主張し出すのである。同時に、作品臥「故に商店で売られているような、芸術とはとても呼べない、ありふれた物質や物体のなかに埋没し始める。そしてそこにある形と色彩は多かれ少なかれともに排除されていくのである。

 これらの点から、タピエスの創作活動は同時代の芸術的流れといったものとも無関係ではないようにも思える。たとえば、使い古しのズックなどボロボロになったものを使った、アルベルトブッリの作品や、あるいは絵画の表面に深い穴をあけた、ジャン・デュビュッフェの作品においても、そして、ピエロ・マンゾーニやイヴ・クライン、ロバートラウシェンバーグ等のような、日常性とか世俗性といったものを物質化し絵画表面に貼り付けていくような作品とも、それは関連しているのである。つまり、同時代のアメリカやヨーロッパにおいて一斉に沸き上がった芸術運動にタピエスの作品は連動しているのだ。もちろん、これは彼の作品がなおも禅的な思想(おそらくそれは彼の作品の細部におけるざらついた絵画表面とか吹きさらしの自然な趣といった、日本人が持つような自然に対する感受性において)の影響にあることを否定するものではない。

 スペイン語でタピエス」とは「壁」を意味する。このアイロニーは、1960年代の一時期、壁の作品を制作したこの芸術家にとって、まんざら無縁というわけでもなかった。たとえば、≪赤い十字架のある絵画≫(1954)や≪黒い線のある灰色、No.ⅩⅩⅩⅢ≫(1955)、≪灰色の絵画≫(1956)といった作品は、印みたいな殴り書きのある、粗く、風雨に曝されたような表面を持っている。他にも≪灰色の上の黒い十字架≫(1955)や<円弧のある青い絵画≫(1959)といった作品は儚(はかな)い陰のようだ。また≪絵画No・ⅩⅩⅧ≫(1955)(cat.no.1)という作品は、幾層にもなった表面が解放性を暗示している。

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 壁というメタファーは、芸術的ジャンルにおける、タピエスの作品の曖昧な立場を暗示しているのである。タピエスの作品のほとんどが多かれ少なかれ、壁に掛けられる事を主眼としたフラットな長方形をしている限り、それは絵画として位置付けられるのだ。しかしながら、彼の多くの作品が、イメージとか描写とかをはぶいた素材そのものの持つ存在感の直接的な発露としての何物をも介さない物質そのものの質感によって、たやすく彫刻作品へとつながってもいくのである(もちろん、タピエスの後期の作品は、彫刻とも何とも言えない曖昧な作品が多い)。実際、この時期、タピエスの用いた材質は、「絵画」という分野からはほど遠いメディウムを使用した、おおよそ通常美術で用いられているような材質ではないものを使用しているのである。普通絵画で使う絵の具というメディウムは人工的な質感を持っていて、つまり絵の具それ自体の物質的特性にょって絵画は描かれるわけで、このような絵の具というものが使われる以上、描写するという事を画家があまり考えていないときでさえ、実際絵の具というものが自然の中に存在するものでなく、絵画を生み出すためだけに特に創られたものであるわけなのだから、それはタピエスの作品における「壁」が克服する以前の絵画的という意味合いを本質的に持つものなのである。また壁というメタファーは、彼の作品と建築との関係よりも、より重要なものとして「場」という意味合いを持ち合わせている。それはシュルレアリスト時代の彼の作品に描かれているなにか儀式的なものを暗示させる空間では全くない、表象されたものというよりも存在感によって仕切られた場なのだ。この具体的な場の構築は、描くという行為がもうほとんど失ってしまった今ここにある場所というものを「超えた」場を明確に指し示そうと云う意味を持っている。つまり、この壁というメタファーは、タピエスの作品を街へと運び出すのである。そこは、壁にいわゆる通常の絵画が掛けられているであろう美術館という場所の外にある場であり、単に壁のあるさびれた小さな街なのだ。

 おそらくタピエスは観念的というより感覚的なのだろう。もちろん彼はその両面とも持ち合わせてはいるけれども。しかしながら壁に対する彼の作品の素朴でシンプルな関係は、ローレンス・ウイナーの≪水痕のある壁≫(1968)のような非常に観念的な作品ともより密接に繋がっている。ウィナーのこの作品は、他の彼のクラシックでコンセプチュアル時代の作品とともに、彼の作品として、画廊の壁に痕跡だけが展示されていた。これに類するタピエスの作品も、純粋に描くという事以上に明噺に多くの芸術表現と関連している。と同時にそれは純 粋に描かれている絵画なのである。それは彫刻と、建築と、そしてコンセプチュアル・アートと関連しているのだ。それは、場という意味ではインスタレーションであり、サイト・スぺシフィシティーなのである。近代絵画のすべてにおいて、おそらくタピエスの作品は、単に「絵画」という言葉を当てはめることがとりあえず適当なのだろう。彼の作品が、なぜ何々の絵である必要があるのだろうか。彼の作品はそれ自体が存在する作品であり、存在を再現した作品ではない。それらは、実在の小さな街にある生活の本質的なものを切り取ったような、単なる壁であり、壁の一部なのである。

 タピエスには、扉とか窓とかアーチとかを引用した、壁のハイパー・アーティキュレイトなテーマを持つ《絵画No.LXVI≫(1957)ような作品を制作した時期がある。タピエスにとってこの時期は、厳格で教条的なアプローチの方法をとっていない。作り物ではなしい実際の壁の一部であるような印象を与える作品の持つ、効果的な存在感といったものをこの時期は欠いている。それら幻想的な扉や窓で、タピエスは何を言いたかったのだろうか。まずはじめにいえることは、それらは作品的転換点にあるテーマだという事である。つまり、それらは現実とまた別のものとの間の境界にあるものであり、転換点を形成するもの、変容の筋道なのである。

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 現代美術において、扉とか窓とかと云ったテーマは、様々な方向から転換点という問題にかかわってきた。マルセル・デュシャンは、扉と窓の両方を制作したが、そこでは一見したところ、精神性も精神的な象徴もなかった。作品自体による、あるいは作品それ自体の中にある、二つの状態の中間に存在するような状態、つまりなにか両義的なものが、精神的な変容の観念以上に、タピエスの意志というものと密接に関連しているようだ。ただ一方では、たとえばアメリカの美術家エリック・オーがエジプトの墳墓建築(特にサガラのマスタバスにみる)から引用した扉や窓の作品のような対照的ものもある。その墳墓建築とは、明らかに卓越したものを意味する、おそらくより高度な特別な体験をする領域の入口を持っている代物なのだ。

 タピエスの作品の扉や窓は、様々な方向性を示しているように私には思える。それらは幾つかの空間に対して開かれているのだ。第1段階において、彼の作品は文明の最終段階ともいえる戦後思想、つまり西洋の後期近代主義を具現化したような感覚が色濃くある。この文脈からみると、彼の作品の様々な入口は、死後の精神的な観念の上に開いているのではなく、文化全体の崩壊にともなう破壊的情景の上に開いているのだ。

 しかしこのことで、タピエスの作品が全体的に、あるいは意図的にでも破壊的圧力を有しているとはいえないようだ。作品の幾つかはこうした文明の最終段階から理想化された至上の可能性のある空間へと次第に膨らみつつある希望に満ちた逃避を意味する。その空間はくつろぎと旅立ちの希望に満ちた場所のような柔らかな天上的光に満ちたものである。言い換えれば、タピエスの扉や窓は二重の意味を持っていると思われる。

 それらは、文明の果てにある殺戮地帯と永遠の天上へと誘われる至上の輝きとの双方に対して開かれているのだ。しかじ同時にタピエスの作品の多くはそれら二つの世界の間に曖昧に位置する第三の空間へと開かれている。そこは、土着的で田園風の、半永久的で非時間的な空間であり、世界の出来事とはいっさい無縁で、木洩れ日の下、微睡(まどろ)んでいるような、時の忘れ去られた空間である。

 タピエスの作品には、平和を育む鍵があると同時に、あまり知られてはいないが、バランス感覚と分別のある閃(ひらめ)きに基づいた、努力と困難をともなう堅牢で粗野なリアリズムもある。私はタピエスを生粋の神秘的で感傷的な芸術家とはみていない。たとえそうした性質が彼の作品に存在していてもである。つまり私はタピエスを闇の幻視者としてみているのだ。彼は、すべてが破滅へと向かう閉息した状況を見つめる。彼は無情なまでにそれを描き出すが、なお何としても生き延びていく希望を、すなわち死後の世界でない、生そのものの世界を信じようとしているのである。

 タピエスは、愛すべき家庭人として生活を送っている。妻や子供たちと共に撮られた写真は穏やかな父権的雰囲気と愛情と慈しみを感じさせる。しかし彼の闇と枯渇のヴィジョンは、こうした彼の優しい側面によっても、いささかも弱体化され和らぐことはない。彼の作品がそうした人間の現実の中にある二つの極を、一方が一方を閉め出して行くようなこともなく、いとも簡単に両方を取り込んでいくことは注目すべき事である。このように彼の作品はまさに古い壁に映じる夕暮れ時の日の光のように、暖かく輝いている。同時にそれは厳格にそして無情に、過去としての過去を、そして実際には過去の一部として現在を描いているのだ。

 タピエスの作品は、素材とか形態とかテーマとかという面で、なお常に統一的である限り、一貫性を欠くことのない豊富な可能性を持っており、美術史の周辺において、重なったり離れたりと戯れている。ある意味で、彼の作品は、その芸術的感性固有の特質を決して失わなかったといえる。ただ一方で、その作品は、いわゆる美術史的な流れの中で、ある時はその流行に沿い、またある時はそこに一石を投じ、そして時には先駆的な役割をも果たしていった。

 60年代の終わり頃と70年代のはじめに、タピエスは、その2、3年後に、イタリアにおいて、アルテ・ポーヴュラと呼ばれるようになる、美学的な分野を模索し始める。この時期の作品で、タピエスは、絵画に彫刻を加えるかたちで、あるいは単純に彫刻作品として、日常にある素材やものを少なからず利用していった。

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 素材の質感と密度を極端に対比させた作品、例えば《藁と木≫(1969)や≪机と藁≫(1970)(cat.no.12)という作品では、確固とした形態とうつろいやすい無形態との対比で、それは、1967年から1970年にかけてのヤニス・クネリスの幾つかの作品に類似している。古い戸棚の上に、おおざっぱに藁の束が置かれている≪机と藁≫(1970)は、二つの金属製のシートの間で綿の包みが圧縮されている≪無題》(1967)のような、クネリスの作品と関連がある。古い布が飾りのないむき出しの木の椅子に積み重なっている≪椅子と布≫(1970)や≪衣装箪笥≫(1973)は、ミケランジェロ・ビストレットの《ぼろ布のヴィーナス≫(1967)や≪ぼろ布の壁≫(1968)のような作品と関連している。もちろんそれらはそれぞれ異なったものを表現してはいるのだけれども。タピエスは、クネリスやビストレツトほどではないにしろ、捨てられているような素材どうしを結びつけ、手懐(てなず)けていくのだ。彼の禅に影響された感覚は、ものに対する近代のユートピア的寓意よりももののありふれた状況と密接に繋がっている

73 50年代のジャクソン・ポロックから70年代のリチャード・ロングに至る現代美術の連続性とタピエスの作品一例えば≪白い背景と足形≫(1965)や《紙の上の二つの足形≫(1966)一に、手や足の写し取られたものが頻繁に現れてくる時期とは、時期的に重なっているのだ。イーゼルを使って絵を描くという伝統では、画面に対する形という見地から、蹟(せき・あしあと)をつけて対象を描いていく。しかし別の考え方をすると、蹟をつけるということは、それ自体が実在であって表象ではないのだから、対象との関連という意味では、その外に置かれているといってよい。つまり、蹟をつけるという行為は、いかなる絵画的なるものも排除して、素材に純然たる作家の存在を刻み込むという事なのである。作品に様々な連想なり、シンボリックな意味合いなりが生じるのはまた別なレヴュルの問題である。蹟をつけるということは運動の軌跡であり、すっかりはげ落ちた壁のような、自然な時の経過を表現しているのだ。それは、まるで扉や窓においてタピエスが行ったように、人間存在ということだけでなく、人間の行為や推移といったものをも表現するものなのである。それは一般的な意味でも個別的な意味でも、旧石器時代の洞窟における、あるいはもっと以前のアウストラロピテクスの集落における古の土の上での我々の祖先の痕跡にたいする根源的な探求をもたらす。そして今またタピエスの扉や窓のように、そこに刻印された蹟は、神秘的な、宗教的なものへと連なっていくのである。例えば初期の釈迦像において、釈迦は単に一組の足跡のみで表現されている。そのいわんとするところは、彼はこの道を通って、彼方に行ってしまったという事だろう。

 70年代のコンセプチュアル・アートとパフォーマンスという芸術的流れと結び付くタピエスの仕事を特徴づけるものとして、生活と芸術の垣根を低くしようという彼の主張がある。70年代の彼の作品の幾つかは、作家的技巧が可能な限り抑えられた、素材そのものの純粋な性質と働きを示している。例えばそれは、隅に置かれた二つの石の重みで、底の方が吊り下がっている≪二つの石≫(1971)という作品において見て取れる。そこでは、芸術的幻想と全くかけ離れたかたちで、素材の重量と密度の自然な力が互いに作用しあっている。それは彫刻なのであろうか。あるいは絵画なのであろうか。それとも他のなにか、彫刻とか絵画とかいう言葉が意味するものよりも、それに手を加えていなく、素材そのものが損なわれていないなにか、言いかえればより本来のものそれ自体にちかいなにかなのではなかろうか。

 70年代における美術的表現形式の他の要素は、タピエスの作品からほとんど伺い知れない。それらとは別に記述という要素が、気まぐれに染みの付けられたタピエスの作品の背景にかたちとして現れだした。繰り返して言うが70年代がコンセプチュアル・アートの時代であるという事は重要である。言語的要素が、そこかしこの視覚的芸術の領域に押し入ってきて、しばしば絵画と彫刻の厳然とした垣根を取り除いてしまったのだ。ただタピエスは、それを押し進めることはしなかった。彼は、画面を飾る、被災し、はげ落ち、えぐり取られ、風雨に曝(さら)された形状と同様の飾りである落書きとして言語や数字的要素を持ち込んだのだ。見かけ上は無作為に画面の上に染みをつけたり肌理を造ったりと、タピエスの作風は常に、ほとんど偶然と思えるほど巧みであり、確実であり、堅実であり、間違いがないのである。この点について、アルファベット化や数字化して表記する知覚行為に対する彼の組み立て方は、自然界の一見無造作に見える完全生から眼を閉じることなく、彼の作品の考古学的深層に深く沈潜していく。言語的要素は、時に聖書、その他のテキストからとられた、常に天の邪鬼的な一節(彼の持っているものを与え、彼の持たないものを奪う−Sientenste,ndono,isinote,nprenc−)があり、時に「a=b,a=−b,a=b=−b」と云ったような、数学的あるいは論理学的形式を代用する場合もある。また、「Si」とか「November」とか云った特に意味をなさないが、なにかを暗示するような断片的一語のこともある。

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 80年代に入ってタビュスの作品は、多くの芸術家が西洋世界の歴史的な問題に巻き込まれていったように、絵画のより因習的な形式に回帰していく。砂やその他の天然の物質も絵の具やニスに道をゆずっていった。1985年に彼は強烈にしかも老練に、≪自、M≫(1984)や≪トリプティツク・オブ・ザ・グラフィティ≫(1984)や≪二つの十字架を持つ頭≫(1985)といった作品に見られる新表現主義的なスタイルをその作品において披露する。しかしそこには彼独特の枯れた感覚なり、愉しげな美しさなりが、厳然として彼の作品そのもののなかに肉体的苦悩としての精神的沈滞となって存在している。タピエスがそれ自体の形状として表現した自然にできたようなしみは、彼の初期作品に見る壁の、まるで本当の街角からとってきたような印象と呼応している。様々な意味で、この時期の彼の作品の幾つかは、表現主義的傾向に再接近し再定義した80年代後半のジュリアン・シュナーベルのような若き新表現主義の作家たちの作品と密接に関連しているのだ

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 他の芸術的現象に対するタピエスの作品の年代的な関連性は、興味深い反復性を持っている。フランコ時代、スペイン以外の世界的美術状況を知ることは、スペインではかなり困難だった。しかしながらタピエスは、その時期、招待を受けることでパリやニューヨークに行くという旅行の術を心得ていて、外国に出ることで時代の流れから取り残されるようなことはない立場にあった。フランコ時代の後、タピエスは、その時々の芸術的実践の展開を詳細に検証し、しばしば自身の作品の中の、欧米的嗜好からの環境的影響と、同じように、芸術的発展の胎動に対する超自然的な感覚を理解していった。

 タピエスの作品が、ピレネーや大西洋を越えて、時流に反映していった場合が幾つかある。これは、彼が芸術的な流行に自身を合わせていこうとしたのではなく、彼が基本的に孤立していたことから、世界の美術状況と相互に関わり合いを持つようになり、そしてその事によって、彼の視野は拡がり豊かになっていったことを意味するのである。

金属のシャッターとヴァイオリン

 例えば、彫刻に転じた彼の作品は、かなりアルテ・ポーヴェラに似ているが、彼が彫刻作品に転じた時期は1970年頃であり、その時期アルテ・ポーヴェラはまだ表立った芸術運動にはなっていなかった。芸術において日常の変化が普遍化していくことは、タピエスが初期に制作した素朴な壁のような、タピエス自身の自然な延長作業というようにも理解できる訳で、実際、アルテ・ポーヴェラ的な要素が多分にある作品展開としては、既に例えば《金属のシャッターとヴァイオリン≫(1956)のような初期作品のなかにそれは明確な形で存在しているのだ。1980年代のアメリカの新印象主義とタピエスの相互作用としては、同時期ということも考慮すれば年代的にも二重の類似性が見られる。1984年の作品≪自、M≫や、この作品の延長にあるような他の絵画作品はすばらしいの一語に尽きる。それは既に作品的に評価の定まった年長の芸術家が、同時代の若い傑出した才能と互いに教えたり学んだりしているような絵画作品なのである。しかしながら、ここで今一度アルテ・ポーヴュラと同じような比較を新表現主義においてしてみると、新表現主義の一般的様式の特徴も、≪落書きのある白≫(1957)や≪灰色と紫≫(1960)のようなタピエスの初期作品において、既に存在しているのである。

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 ここにおいてタピエスが流行に流されたかどうかということは、もはや問題ではない事が理解される。つまりタピエスの初期の作品には既に問題になっているような主題や様式が存在している訳で、そのことがこうした懸念を払拭しているのである。むしろ、彼がいかに作品を創り上げていったかという事を見ていくことが重要なのである。70年代や80年代の若手芸術家の仕事に対する彼の反応は、彼にとって一種の回春剤であったとも云えるであろう。しかしこの回春剤(中年、老年の者が若さを回復させる薬剤)が、外からの影響を受け入れること以上に、タピエスの作品自体にある、若い頃の作品感覚を復活させていったのである。これは、年代というものが二つ存在するということを示している。過ぎ去りし時の刺激が、彼の仕事が若く、まだ完成してはいなかった頃へと直接彼を引き戻すのだ。

 そして同時に、おそらくこの同時代美術とのつながりは、同時代美術との明確な関連性を彼がその作品に意識することで、彼のおこなってきたようないわゆる美術的主流の外に彼自身がいたと思いこむことからくる孤立感を和らげてもいったのだろう。結局これも作品のうちなる感覚なり意味なりとの接触を決して失うことなく、様々な様式と構成で彼自身の作品を発展させてきたタピエスの職人的技巧のなせる技なのである。

 1980年代になって、60才代という、ほとんどの芸術家が自己の初期の作品の偶像化に拘(かかわ・こだわる)る年代になっても、この芸術家はひたすら自らの作品を深く広く追求していった。新表現主義の作家たちの絵画と彼の作品を並べると、彼は新表現主義とは全く別の絵画をつくっていたことが分かる。≪手のある大きな白≫(1985)は、多くの学ぶべきところがある、素朴なイメージの作品である。そこでは、ありふれたモティーフでリキテンシュタインのような皮肉なパロディを喚起している。それは1980年代ギリギリに押し込まれた彫刻的要素でもある。

 またそれはコンセプチュアル・アートの方向性と言語を持ち、と同時に伝統的な後期近代主義のモノクロームな画像に近いものも持っている。≪赤いしるし≫(1985)は、意味の種子が底抜けの陽気さで発芽していくような豊穣な闇を表現している。加えて、≪ニスと黒≫(1982)<目と十字架≫(1985)、あるいは≪ニスの背景≫(1989)といった、この10年間に制作された多くの作品は、日本や中国における禅の墨跡といった、明らかに西洋以外の世界からの引用がある

 禅それ自体は、絵画的な様式との繋がりと同様、二十世紀の西洋芸術の歴史において重要な位置を占めていた。そして、禅はその注目すべき力を様々な場で実践していくのである。それは、道教と禅の無や空の概念を形而上学的なモノクロームで表現した抽象表現主義のアド・ラインハルトから、基本的にはダダ的でぁり、知的で喜劇的で神経症的なジョン・ケージにとっての禅や、北斎の土着的で粗野な禅と「無と描かれた書に見るような優雅で洗練された禅とを内包するタビュスのより鬱的で情熱的な禅までと幅広い。

 芸術における禅の影響は、今もって西洋に受容された幾つかの共通要素なのである。例えば、禅は芸術制作のランダムな実践の導入を説くものとして、また時にそれは、平凡な世界に注意を向けたり、物質を平坦化することを勧告するものとして一般に理解されている。

 彼らの作品は明らかに異なったものであるにもかかわらず、ケージとタピエスは、ともに自身の運命を受け入れ、単なる物質に対して畏敬の念を持ち、そして双方とも基本的にはある禅の教えに共鳴していた。それはぁる老僧が若い僧にたずねられた、若い憎が死ぬ間際、側にいる人にかける最後の言葉についての話である。老僧は日く「彼らに言いなさい、ここにある」と。そして老僧はしばし押し黙り、そして付け加えた「さあ気をつけて歩みなさい。なぜならあなたは尊いものを持ち歩いているのですから。」タピエスの、ショッキングで無節操な影が太陽の打ちつける壁の上に直にふりそそいでいる作品は、ケージが使用したラヂオの雑音や街の雑踏のように、瞬間に対する注視を具現化している。ふたりとも、それぞれの生活と仕事において禅を受け入れる西洋的意味合いを活発に展開していったのである。

 禅の作品の多くは、動きという観念を強調している。そこでは芸術的特徴が、厳然としたモニュメントではなく、アメリカのアクション・ペインティングの作家がおこなったような、束の間の動き(ムーヴメント)の跡として表現されているのである。たとえば、北斎は鶏の足に墨を付け、そして紙の上を歩かせ、その形、その完成度において単なる自然な動きが、芸術的に充分なものであるという事を示した。事実そこには芸術が求めて止まないものが全てあったのである。タピエスの≪垂直な印象の小さな白≫(1963)という作品は、こうした芸術的アプローチに対する一つの純粋な実例と言うことができる。そこでの主要な跡が意味するものは、生命の再覚醒であり、自我の実感である。そこにおいて形ははみ出さんばかりに動き、消え去る。しかしその曳航(えいこう)の跡、質感の跡、実在と不在の跡は残されたままである。そこでタピエスが常に強調するのは実在と不在という禅的なものであり、あるいはパルメニデスが根源的な不可思議さを憶(おぼ)えるところの存在の耐えられない現実という何かである。タピエス作品にみる現代的枯渇感、その太古性、その静けさとともに、彼の作品には忍耐という言葉がにじみでている。それは、あたかも粉々になった断片を再度寄せ集め、そして全てを丁寧にやさしく復元していくような、我慢強い忍耐である。

 タピエスの作品における枯渇感というテーマにみるように、その作品に再三取り上げられるようなテーマもまた土着的なものの一部なのである。それはまるで草花が大地へと帰り、そして再び萌えいずるような、そのテーマ自体を時間あるいは永遠の中に溶け込ませていく歴史的循環である。と同時にそこには多くのタピエス作品にとっての考古学的名残がある。作品が作り上げられるや否や、それらは古ぼけた感じ、あるいは太古性とでも云って良いようなものを帯びてくる。それらは、地中深くあるいはタピエス自身の中から注意深く掘り出された失われた文明の遺物のようであり、そしてその時、タピエスは、デミウルゴスのように、作品の埃を吹き飛ばし、その同じ息で作品に命を吹き込むのである。

 そうした特徴は、実質的にはタピエスのすべての作品に現れているのだが、特にそれらの中には、感傷的に集められ、何らかの不可解な理由で秘蔵された全くのゴミのようなものもある。たとえば≪屑のついた大きな結び目のある布≫(1971)という作品は、頭のおかしな乞食が街で集めてきた屑か、名も知らぬ奇妙な鳥が集めてきた、今では使われていない巣のための屑のようだ。それは、迷ったり、誤解したりした生き方の、ひとつの名残なのである。

 「ここにある!」と云ったような単なる説明不能な存在の強調は、表現するものが何もないという考えの代わりに、他の哲学的コンテキストをも利用するという、いわゆる禅問答へと導いていく。その根底にある姿勢は、同一性という基本的な自己認識であり、物事はそれ自体として同じであるといった、単純で議論の余地のないトトロジーなのである。これはタピエス作品における基本線のひとつのようにも思える。それは、素材の同一性に対する彼の素朴で控えめな知識であり、ものの性質に対する彼の受け入れ姿勢であり、そしてそれぞれの物質における「ここにある!」的な物質性と直接性と緊急性の自己同一性という事である。そこには時に形而上学的な抽象性(transcendentalism)の糸口なるものもあるが、それは、一瞬の色彩や決してすべてを現しはしない感情のように、ただ焦らせて苦しめるだけの糸口にすぎない。はち切れんばかりに膨らんだ形而上学的な抽象性(transcendentalism)は、真にタピエスの埃と砂の自己同一性を達成するためにはあまりに優雅すぎるのだろう。挨や砂はそれ自体の持つ沈黙を引き合いに出さなくても、そのもの自体によって十分真に迫っている。

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 実際、沈黙というテーマは、枯渇とか自己同一性とかというテーマと密接に結びついている。タピエスの作品は、沈黙というものなしに表現するものは何もないと声高に主張しているようにも思える。埃はオペラを歌う必要はないのである。作品は、枯渇の後の沈黙と生の後の埃によって構成されるのだ。それは、沈黙の持つ意味の具現化。それは、これまで逢ったこともないようなおぞましい出会いの後に来る沈黙、人間経験の降伏、枯渇の後に来る沈黙、沈黙の成果、そして最後の戦いの後もう一度埃に命を吹き込み、今一度の主要な痕跡の制作をはじめる。それは沈黙と埃から生命に息を吹きかける世界へと姿を変え、その胎動は眠れる肥沃な大地を目覚めさせ、枯渇の後の新たな生命力と思想と感覚の短めきで、想像力に再び火をつけるのである。そしてもう一度なにかが始まる。

日本語訳:谷内克聡(群馬県立近代美術館学芸員)TranslatedbyKatsutoshiTaniuchi(TheMuseumofModernArt,Gunma)