ミロの仕事場

 ミロの仕事場 ある宇宙の肖像  

ジョアキン・ゴミス(Joaquim Gomis 写真家) 鈴木重子訳

バルセロナはミロが生まれ、そして埋葬されることを望んだ街である。子供の頃から青年時代まで住んでいた街、教育を受けた街、お祭りや文化、美術館や広い意味での芸術を見出したのもここである。初期の頃の親友と巡り会い、公民意識に目覚め、近代性のための闘いを始め、そしてなかでも、彼の最も重要な遺産となったジョアン・ミロ財団、現代美術研究所(ミロ美術館)を残したのもこの街である。

 戦争によって、そしてナチズムによって余儀なくされた亡命逃避等の出来事の後、バルセロナに帰ったミロは、少しずつ画家としての活動を再開し、また街のアートサークルともコンタクトを取り始めた。そんなときゴミスは、いつもカメラを携えて側にいて、眼に映るすべてのものを撮っていった。それは時にはデッサンであったり、スケッチやメモ帳であったり、さらには紙切れや新聞の余白にミロが描き記した創作上のアイデアであったりしたが、他にも、バサッチヤ・ダル・クレデイト小路のアトリエの雰囲気や、ミロの絵の制作過程がゴミス(Joaquim Gomis)の被写体となった。ミロは、制作の過程のある段階で絵筆を止め、一旦作品をアトリエの隅の壁に立てかけ、そして何週間か何カ月、あるいは何年か後になって再び、その作品の制作を続行することがよくあったからである。

 ここにある写真は、当時はカラーフィルムで仕事をするには材料が不足していたうえに値段も高く、また欠陥も多かったために、基本的には白黒で撮影されているが、今やこれらによってのみミロの世界を理解出来ることを考えると、その価値は測り知れないものがある。ゴミスは彼固有の方法に基づき、単にミロの作品を撮るばかりではなく、その作者を表現することに努めたが、そこにはミロの決定的な瞬間の表情や、ミロ自身が1919年あるいは1937−1938年に描いた自画像に見られるような、彼独特の強い眼差しがとらえられている。

 ゴミスは、バルセロナのミロ家のあった周辺の風景や通りに対しても同じ様にあたかも、それらのミロをとりまく世界を正確に分析するかのように撮影している。なんとなくイタリアの回廊を思い起こさせるような鍛造の素晴らしい鉄柵、帯状に装飾がある縁取りや組紐模様付の手すり子がついているファサードやバルコニー、(ガス灯の時代に作られた)吊し街灯等があって親密な感じを与えるバサッチヤ・ダル・クレデイト小路、あるいは今世紀初めまでこの街で最も重要な通りとして一流の店舗が集中し、いまだその優雅さを留めている荘重な感じのフェラン通り……。

 ゴミスがとらえたこのベルエポックの世界は、中産階級と職人に囲まれて当時ミロが暮らしていたこつ地区の雰囲気を理解するために大いに手芸だっている。しかしながら、本当に当蒔のミロの世界を発見できるのは、ゴミスの写真を通して、ミロのプライベートな世界に入っていった時である。ミロが住まいとして選んだ場所はどこも、その生活の仕方や周囲の創作のための環境の作i)方も含めて、特有のものがあり、そこでは民芸と芸術とが境界線を持たずに共存している。「私を取り囲んでいる物たち、それこそが私自身の絵画館」とミロが言うように、そこには田舎の素朴な品々や工芸品、ミロがたまたま見つけてきた物等があり、棚や戸棚や椅子の上には、シウレイ(訳注:マジョルカ産の白い泥人形)や、クリスマスのお祝いのためのキリスト生誕の場面の人形、子供の玩具、お面、扇子、南瓜、甲殻類の甲羅、人形、バスケット、草の根や枝、操り人形等が溢れており、それらはジョアン・ミロの興味の対象や趣味、あるいは考え方の在処を我々に示してくれる。そしてそれらは、遅かれ早かれ、やがてミロの作品の中に、反映されることになる。 ゴミスの保管資料の中には、一時期とても絵を描ける気持ちになれず筆を折っていた後に復活したミロの、19舶年頃の画やスケッチや油絵などの写真が存在するが、それを見ると、当時ミロが、まるで牛まれ変わったかのような新鮮な精神で、驚くべき豊穣さと充実度をもってカンバスに立ち向かい、その後彼を世界的な存在にすることとなる詩的表現を深めていったことがわかる。アトリエの狭さに作品のサイズを限定されながらもミロはそこで、背景のクオリティに細心の注意を払いながら、女や男、その他の人物や、鳥、星、太陽、月等を精力的に造形化していき、そしてゴミスは、ミロの創作の邪魔にならないように、仕事の合間の休憩時間を利用して、フラッシュもたかずに控えめにそして静かに、そんなミロと作品を撮影していった。 その頃の小型のデッサンや作品には、創作を中断していた時期のミロの、長い間の慣性と闘いがよく反映しており、とりわけ、非常な激しさでフランコの独裁政治による弾圧抑制に対する拒否を表現した五十枚のリトグラフを集めたバルセロナシリーズ(1939−1944)に、それが顕著である。もちろんここにも写真家ゴミスは存在し、ミロの創作の様子や、版画の摺りに直々に手を ̄Fしている場面等を写真によってつまびらかにしている。そしてこれらのコントラストの強い、テンシヨンの高い一連の写真のなかでミtその中心的被写体として、時には石向かって仕事をし、また時には刷りを調整していたりする。 ここにもう一つ、ミロを知る上でて重要な価値を持つ写真がある。ミ彼の若い頃からの仲間で友人である家ジュゼップ・リョレンス・アルテスと初めて合作した時のものであるロを陶器の世界に導いたのはこの友あり、ミロは彼と共に陶器の瓶や皿刻作品、陶版や陶版による大きな壁を制作している。リョレンス・アルガスが小村ガリファに引っ越す前にセロナに持っていた工房で、ミロはな作品を作っている。ゴミスはこのが最も盛んだった時の様子を、極め質な造形写真にして残している。 このようにミロはバルセロナにお1精力的に仕事をしたが、しかしなカ同時に彼は、太陽の光、臼然とのコクト、風景、海、空、そして大気をことしていた。そのため19弘年、閉ざたスペースや都市自体が持つ落ち着無さに窒息しそうになっていたミロもともとの彼の好みにより合致した−iを再び自らの手の内に取り戻すことすなわち、夏の間はモンロッチに、てそれ以外はマジョルカに、生きるJ移すことを決意した。

 モンロッチでのミロ

 ジョアン・ミロの生活、作品において、またその思考の中で、カンプ・ダ・タラゴナ(訳注:タラゴナ市郊外の意味)、特にモンロソテが何を意味するかについてゴミスは良く自覚していた。ミロは生涯を通して、この村とこのあたりの土地風土について、自ら次のように確信を持って定義している。「私の作品は全てモンロツチで考え出される。私がパリで為した事の全ては、モンロソテで考え出されたものだ」。「モンロツチは私を夢中にさせる。そこでは私はまるで気が狂ったように絵を描く」。「モンロソテは、私が常に阿帰すべき根源的かつ衝撃的な第一歩である」。「誓ってもいい。何処にいるときに私が一番幸せかと言えば、カタルニアの中でもよりカタルニアらしいと私が考えるモンロツチだ、と確言出来る」。「私にとってモンロソテは宗教のようなものだ」等々。この辺りにインスピレーションを受けて描かれた二、三十年代の絵のことを熟知するゴミスは、ミロの助けを借りて二人で、ミロがかつて措いた作占占を写真によって再硯しようと提案したことがある。二人で野原から村へ、村から海岸へと巡り歩きながら、ミロのインスピレーションを喚起し作品をうみだすもととなったものの全てを追跡確認しようとしたのだ。このためにゴミスは、自分の才能と写真に関する全ての知識を投人し、あらゆる手段を講じて、ミロの作品のモチーフを、写真という方法によってわかりやすく具体的に、直接的に、我々の前に提示しようとした。 五十年代に制作されたこれらの写真に注目すれば、、「モンロソテの海岸(1916リ、「モンロツチ・サン・ラモン征姻」、「シウラナ道(1別7り、「ろばのいる農蹴191軋、「椰子の木の家(191軋、「ぶどう畑とオリーブ畑(1鵬」、「モンロツナの村と教会(規則、「兎のある机(1醐」、「農家(1盟⊥1吻」、博【地(1監ヨー1醜]、といったミロの代表的な作品について、ゴミスが実に綿密な探求を行ったことがすぐにわかる。つまり、これらの写真を撮る際に、ゴミスはミロと同じ見方、考え方に立ち、ハイカルチャーと大衆文化の造形表現とは一線を画すべきであるという従来の考え方の限界を打ち破ろうとしたのである。これらの有名な作品と写真とを見比べてみると、ミロがいかに現実世界に起点を置いていたかが、そして実に細かなディテールにいたるまで、現実世界を注視しながら、それらを絵という別の世界の言語に作り換えるということを行ったかが再確認できる。ミロの作品は、それがどんなに抽象的に見えようと、そこに描かれたミロ的な記号にいたるまで、いつも現実世界の事物を指し示しており、たとえそのことに一抹の疑念を差し挟んだとしても、なにより作品のタイトルが、そのことを如実に証明している。

 ミロのモンロツチの別荘は内も外も全て、ミロがいささかフェティシズム的な思い入れをもって集めた品々に溢れていたが、それらの多くはバルセロナの彼の家から持ってきた物であり、中にはジョアン・プラツツが彼に贈り、後にマジョルカの家で再び見ることになる三編みの郁子で出来ている大きな太陽や、他にも、草木の根っ子や民芸品、何枚かの絵にインスピレーションを与えた家具等々があったが、それらは、いつの日かそれらの一つ一つが必ず価値あるものとなる事を確信していたゴミスによって、一つ一つきめ細やかに撮影された。しかしゴミスが、ミロの芸術的世界の現実をとらえるために撮った無数の写真の中の多くは、ミロの絵になんらかの形で、鮮やかに登場してくる草木や耕地、平原や丘、そして山なみのシルエットや村などであった。つまり、ある意味ではゴミスはミロと同じことをしたのだ。というのは、そこでゴミスはミロと同じように、実際に触れることのできる全ての物を、繊維かつ細心に探求し凝視する中から、それらを造形的表現に換えようとする時に不可欠な、物理的存在を超えてそれらが象徴するものを捉え、それらの物の内にある精神、つまり自然に生命を与える根源的な力を探し求めていたに他ならか−からである。

 ゴミスが撮った彪大な数の写真は、ミロのエネルギッシュな世界の創造的基盤である物象や社会的なコンテキストと我々とを、直接結びつけてくれる。それらの写真のいくつかは、ミロが自分をとりまく自然や、田舎の日常的な生活における物質文化を、自らに親しい物として同化するという、すなわち、ある人は聖フランシスコ修道士的なと言い、またある人は禅の導師のようでもあると言うミロ風の汎神論が、具体的にどんなものであるかを、我々が発見するヒントを与えてくれる。そしてこのヴィジョンこそ、当時のアバンギャルドの人々が、繰り返し主張して止まなかったものなのである。 ゴミスの写真を視ることによって我々は、ミロの内にあった人間と大地、あるいは有機物や無機物との共生や、植物、動物、鉱物がミロに与えた暗示について理解できるようになる。羊の頭蓋骨、顎骨のかけら、竜舌欄のシルエット、サボテン、木の根、ぶどうの蔓、南瓜、いなご豆の木等々……。これらはミロにとって、強力な造形的フォルムであり、そのシンボリックな形は、ミロの知的な程であり、それらの全てはミロが、いずれ作品に取り入れることの出来る要素として選んだ物たちなのだ。その意味では、これらはミロにとって、単にたまたまその辺にあった物と言うよりも、造形表現というメタモルフォーゼを経て、やがて作品へと新たに生まれ変わる芸術作品そのものなのである。

 このミロの宇宙観は、とりわけモンロソテのアトリエにおいて感じとることができる。ここにあるのは、絵画そのものよりも、ミロの小彫刻作品にインスピレーションを与えたシウレイ(訳注:マジョルカ産の白い泥人形)や南瓜、近くで見つけて拾ってきた物や木の枝、スプーンや石や金槌や亀の甲羅、そして、後に彼の最も有名な彫刻の一部となることになる熊手、といったような物たちである。 こうした物に加えて、記録として価値があるのは、ジョアン・ミロがゴミス家とプラッツ家の人達に伴われて、モンロソテの海岸で海水浴をした際の体操をしている写真である。これは単なる夏の習慣あるいは運動を写したというよりも、むしろ感覚的な問題として、ミロが、大地と水、あるいは山と水平線とが分離する場所に近づき、そんな自然を満喫している場面と取った方がよい。海岸は何かを発見するには最適の場所であり、「人や羊の足跡が星座のように残された」場所だからである。

 ミロが「農場」を制作したのは、細密な絵を措いた時期に相当すると、しばしば言われてきたが、確かにこの作品の構成要素を決めるのには非常に長い時間と注意を要したとミロは繰り返し言っていた。ゴミスがこの作品を写真に残そうとした時も、同じような根気と粘り強さでもって撮影を行ったに違いない。つまりゴミスは写真家として彼なりのやり方でミロの「世界」の「ミロ風」のヴィジョンを、すなわちミロが彼の絵の中に用いた要素の全てを写真のなかに一つ一つ丹念に収めていったのである。ここで、ゴミスが探し求めたのは、自然をそのまま模倣するのではなく、むしろ雰囲気を掴むことによってのみ為しうる「詩的錬金術」、あるいは現実の世界と想像の世界との魔法のような結合と言われたこの時期のミロの作品の中にある、「現実とそれを変換する際の基準」そのものにスポットライトを当て、その理解のための一つの価値軸を提示することであった。

 ミロは、彼の人生に対する世界観においても同じだが、全ての作品において、確かさの尺度を、感情を持ち世界を認識する主体である人間においている。それ故、彼の絵においては、人間的な要素というものが、細部の象形にいたるまで表現されている。彼の絵によく出てくる動物の多くは家畜であり、植物は人が栽培するものであり、そこかしこに見え隠れしている物体は、人が日常生活で使用するものである。ゴミスはミロの世界を記録するにあたって、これと同じ考え方を適用している。

 ミロのことを、当時ドイツで盛んだった、新客観主義の近くに位置づける人もいれば、主観、無意識、幻想、夢といったものを最も強調するシェルレアリストの圏内に入れたがる人もいるが、ガスクが1929年にある記事で説明しているように、ミロは「客観と主観の融合」をなし遂げており、そのことが、植物に目や耳をつけたり、また人間に植物のシンボルをつけるといったことを可能にした。事実、ミロ自身ピエール・マチスヘ宛てた手紙(1937年1月12日)の中で次のように言明している。「現実が持つ完結性から解き放たれて、新しい形と、幻想的でありながらも生命と確かさに満ちた本質によって、新たな現実を創り出すこと……。物事の、深く詩的な現実を、描いてみようと思う」。パルマ・デ・マジョルカでのミロ マジョルカも、ミロの生涯で重安な位置を占める場所の一つである。母方の家族が当地の出身であり、1〔棚年にはパルマで初期のデッサンを描いてもいる。またミロの妻のピラルもパルマ市の出身であり、「星座」もここで描き上げられている。また19弘年、ミロが常日頃欲しがっていた念願のアトリエが、建築家J.L.セルツの設計によって建てられたのもこの地である。ミロにとってマジョルカは、空の青さを発見し、また、未だ大衆と結びついている文化と再び出会った場所であった。またそれは、漁船であれ、風車であれ、シウレイ(訳注:マジョルカ産の白い泥人形)やエンサイマダ(訳注:マジョルカ名物のパイ)であれ、ミロが幼い頃から、祖父母を訪問した時に見知っていた場所であり、まさしく空と光と海とがぴったりと融合して、彼の中に強烈な魅力を植えつけた場所である。それは、彼の人生の軌跡が刻み込まれた、想像のなかの天国の一部のようなものであり、ミロにとって、その全てが、決して頭から消え去ることのない場所となった。

 1956年、ミロはバルセロナのバサッチャ・ダル・クレデイト小路にある家を売り払い、最終的にパルマ・デ・マジョルカに移ることに決め、同年秋には、街の郊外にある、カラ・マジョー湾を見下ろす丘の上の、ソン・アプリネス荘に居を定めた。そしてミロはその家のすぐ隣に、以前より彼が夢見ていた、広々として明るい地中海風のアトリエを、セルツに設計してもらい、そこでようやく、自らの作品をあたり一面に広げて、イーゼルでは為し得ない大作にもとりかかることが出来、また、彫刻・陶芸・版画等に必要な物を一カ所に置くことができるようになった。さらに1959年には、地続きにある十七世紀末の旧家、ソン・ボテー荘を買い入れ、以後、彫刻と版画の創作活動は、この拡大されたテリトリー、ソン・ボテー荘に移され、ソン・アプリネス荘の方は絵画専門のアトリエとなった。

 それ以来、記録作家としての使命を自覚していたゴミスは、マジョルカのミロのアトリエに、以前にも増して頻繁に足を運ぶようになる。バルセロナから直行することもあったし、やはりセルツの設計による、彼のイピサの別荘から行くこともあった。この頃の写真にはまた、周囲の環境に溶け込み自然と対話をする、セルツの建築に対するオマージュの要素も含まれている。如何にもセルツらしいモジュールの使い方、明かり取り窓付きの考蔭、斜め格子のはめられた窓や、彩

色された軒蛇腹と、それとコントラストを醸し出す白壁、あるいは各階の間の繋ぎ方や、石とタイルと化粧漆喰の組合せ等は、GATCPACの時代から、ゴミスがよく知っていたものであり、それらが一つ一つ、写真に収められている。 当初この新しいアトリエは、ミロにとって若干大き過ぎ、また冷たく思われたようだが、少しずつ自作の絵や、いろいろな物で満たしていくことによって、ほどなく、以前ゴミスがバルセロナやモンロソテで見出したのと同じような、ミロの世界に相応しい密度が、作り上げられていくこととなる。様々なオブジェや道具の多くは、以前住んでいた家やアトリエにあったものであり、更に木の根や幹、石、貝、シウレイ、椰子の枝、エンサイマダの箱、昔ながらの耕作機械や民芸品等が、彩りを添えることとなる。

 そして1959年を過ぎる頃には、絵が壁やイーゼルはもとより床の上にまで氾濫し、新しいアトリエを埋めつくしてしまつた。この時期のミロの絵は、漸次赤裸々になっていくのが特徴で、絵の表面の表情やその処理の仕方が極めて大切な要素となっていくのだが、ゴミスはそれを詳細に、写真に記録として残している。ともかくミロは、ここに至って、制作中の作品を自分の手元におき、それを身の回りに立てかけて休ませながら、それらが最終的に熟成するのを待つという、ミロの永年の望みを叶えられることになったのである。しかも、このマジョルカの広い仕事場では、それまでずっとしまってあった彼個人のコレクションを、様々な種類のカンバスやデッサンや、プランを書きつけたメモや、ノート等が入っていた箱を全部開けて、忘れていた作品を見つけ出したり、それらの多くを反袈したり、あるものは反故にし、またあるものは描き直しをするという、彼自身のもう一つの夢も実現されることとなった。

 ここでもまた、ゴミスのレンズ・アイを通して、我々はミロの世界に足を踏み入れる辛ができるのだが、今度はセルツ設計の建物がもたらす広々とした視野のお蔭で、場の雰囲気の細かいニュアンスまでがひしひしと伝わってくる。住居部とアトリエとを分けている外壁に寄せかけるようにして、荷車の車輪と錨があるのが見えるし、内部には、既にモンロソテで見かけた椰子の菓を三編みにして作った太陽、ワインを入れる皮袋、イースターのお祭りに使われる踪欄の菓、整然と並んでいる仕事道具、ロッキングチェア、土器の水差し、熊手、くびき、アイロン台、瓢箪の他、後日ヒメノ・イ・バレリヤダ鋳鉄所で製作され、彫刻作品として出現することになる鋤の刃等がある。これらの物に囲まれて、特にミロが気に入っていた作品が二つある。一つは、1937−1938年にかけて描いた細密画の上に重ね描きした、「1960年作の自画像」で、この絵には画家の人生の中での二つの重要な日寺期が集約されている。もう一つは、「トリプテイカ、青、㈵−㈵㈵−㈵㈵I」である。この制作にあたっては、ジョアン・ミロは熟慮に熟慮を重ねており、この「青」の大作を実現するためにミロは、「描くこと自体はそれほどではなかったが、考えを練る方が大変だった。私が望んでいたとおりの、飾り気のないむき出しの感じを出すのに、非常な努力と内的な緊張を必要とした」と、後に繰り返し語っている。

 二人の絆 ゴミスとミロの間柄は、根本的に友情に根ざしているものであり、これは、お互いが相手に対して示した、数々の心遣いに窺い知ることができる。初期の頃から、ゴミスはミロの作品を全面的に擁護し、展示会開催のために協力したり、度々旅行についていったりしたが、その他にもゴミスとミロは、家族ぐるみで親しく付き合う仲でもあった。ゴミスは、ミロの作品を始め、彼の本や写真ヤクリスマスカード、そして献辞やちょっとした手書きの文書にいたるまで、若い頃に始まり、そして生涯続いた深い友情の印として、常に保管していた。この信頼があればこそ、ゴミスはミロの家ヤアトリエに行った際に、大変興味深い時間を過ごす辛ができたのである。ゴミスはそんなミロとの時間のことを、いろいろな機会に写真の撮影と直接関連するエピソードとして語っている。例えば1948年に、ミロがモンロツナのアトリエで仕事をしている時のことだが、ゴミスによれば、ミロはゴミスが写真を撮ろうとしたとき、「アツ、ちょっと待って」とゴミスを呼ぶと、床からチョークを拾いあげ、そのまま一気に粘土の床に鳥の絵を措いたという。「太陽の鳥」の形象とコンセプトが生まれた瞬間である。これをもととして、ミロは後に彫刻作品を二点制作することになる。その内の一つはブロンズで、もう一つは白い大理石の大作であるが、後者は、現在バルセロナのジョアン・ミロ財団(ミロ美術館)に展示されている。ゴミスはまた、1弧∃年に鋳造された彫刻作品、「熊手」の誕生にも関与している。こちらの方は、マジョルカのソン・ボテー荘のアトリエでのこと、上の階へ行く階段を上りながら、ミロはゴミスに「ここから向こうの方を、写真に撮って欲しいんだけど」と言って、下に降りると、床に鉄製のアイロンと、三角形のトイレの蓋と、大きな熊手と鶏の餌箱とを置いた。この様にして、ミロの最も有名な彫刻作品のうちの一つ、後年、サン・ポール・ドゥ・ヴァンスの、マーグ財団の中で、象徴的な位置を占める大作「文字の前に」が構成されたのである。

 ジョアン・ミロは自分の言ったことをよく覚えていたが、彼の彫刻作品 「人と鳥」に関連して次のようなエピソードがある。ミロがゴミスにリョレンス・アルテイガスのアトリエで作った、一連の小さな陶器の作品を見せていた時、ミロは、作品を前にして満足気に、「いずれ将来はこの作品を、お前が楽にこの下を歩いて通れるぐらい大きな、アーチのようなものに創り換えたい」と話したが、これに対して背の高いゴミスは、背が低 いミロに若干のアイロニーとユーモアを 込めて、「是非そうしてみたいものだね」と応えた。それから二十年後、そのとき の僅か36×22cmの小さを彫刻は、粥0 ×粥Ocmの、石をはめこんだセメント造りの巨大な彫刻となり、ミロがマーグ財団のために制作した作品の中で、最も際立つものの一つとなった。同財団のオープニングの日に、ミロはゴミスの腕をさりげなく取って彫刻の所に行くと、昔の話を彼に思い出させながら、「さあ、一緒にアーチの下をくぐろう」と誘ったのだった0ミロとゴミ・スそしてセルツとの間の強い友情の杵は、たとえ距離的に離れているような場合においても、決して断ち切られるようをことはなく、ミロのアトリエが、パルマで建設された時にも、セルツがスペインまで旅をするのが困難なことを知ったゴミスは、建設中の建物の様子を写真に収めて、セルツが工事の進捗について逐一わかるようにしたという。

 ミロとゴミスは互いに深く通じ合うものがあり、これが、いくつかの著作や展示会において、彼らに緊密な協力体制を取らせるもととなった○ミロは作品集を出す際には、ゴミスが撮った写真を載せるのを好み、時には、「金の羽根のとか 例の本の第一版でしたように、それを コラージュの形で作品中に使うこともあ つた。共同で開催した展覧会の代表的な物としては、1拠8年の、ミロがパリのマ」グ画廊で行った初めての展覧会、あるいは、1985年のロンドンでの現代美術館研究所の展覧会等が挙げられる。

 他にもミロは、二人の友情の深い絆を作品でもって不朽のものにしたいと考え、「ジョアキン・ゴミスのための壁画」として知られている大作を措いている。この作品は、バルセロナのゴミス家の食堂の壁一面を飾る絵として、1948年の4月から5月にかけて、大きなアトリエセ制作されたもので、1.25×2.馳mのファイバーセメントの灰色のざらざらした表面に、ミロが、正にミロ的なフォルムと色彩を、非常に簡潔なラインでもって結実させたものである0「星座」の一部が拡大されたかのような感もあり、ある人はそれを偉大な絵と呼び、またある人はそれをむしろ壁画と呼ぶが、いずれにせよ、大いなる友のための、大いなる作品である。

 ゴミスと「フォト・スコープ」 ゴミスはその生涯にわたって常に、先進的なヴィジョンを持っていた。実際、彼の考え方は、常に一時代分ほど先行しており、だからこそ、当時のインテリヤアートシーンと、非常に直接的な親交を持ちうることが出来た0ゴミスは、国際レベルでのアートシーンの動向に詳しかったし、また諸外国を流しをがら、写真の技術や表現における進歩に関する研究にも怠りがなかった。もちろんこのよう刺青熟的な知的な向上心こそ、彼を写真の世界へと導いていったものではあるが、同時にゴミスは、そのことによって当時が、今まさに消え去ろうとしている世界と、そして、同時代的なものとして彼自身が参画した、今新たに生まれつつある世界とが、共存した時代であったことを、正しく理解していた。

 ゴミスは、長年に渡る表現としての写真に関する体験を積み重ねた後、1鎚0年に、友人であり同志でもあるジョアン.プラッツ(1891−1970バルセロナ生まれ)と共に、「フォトスコープ」と彼らが名付けた表現方法を考えだした。これは、あるテーマを、それを巡る連続写真によつて、すなわち考え抜かれたリズムとシークエンスと章立ての構成によって表現する本で、これらの写真による視覚的ナレーションとも言うべき本は、全て、ジョアキン・ゴミスの撮影した写真を、ジョアン・プラツツが、ゴミスの協力の下に編集したものである。そして、この「フォト・スコープ」の方法を用いて、ジョアン・ミロに捧げる本が、合計四冊作られている。

 フォト・スコープを制作する際にゴミスが使った方法的要素は、主に視点と光の動きとフレーミングであり、これは知的な理解者を目ざした、独自の方法であり、映画の撮影に固有な方法と、その後近代的な視聴覚に使用されることになる方法を先進的に採用したものである。ゴミスの言葉によれば、この「全体に配慮しながらも、同時に細部を決してなおざりにしか、ような視線」の最初の実験は、1949年に束見本まで作りながら出版されぬままになってしまった本のために行われたとのことだが、それは、トリックもなく、また望遠レンズも使うことなしに、部分と全体を写した「ユーカリの木」の写真であった。

 ゴミスはどんなテーマであれ、魅力を感じるものに出会うと、あたかもその中に入り込み、そしてその全てを自分の物にしようとするかのように、何百枚もの写真を、休みなしに撮り続けるのだった。ガウディの「ラ・ペドゥレラ」だけでも、結局十六冊のアルバムを作ったし、パリ亡命中の写真は九千枚に上る。セルツが「イピサ」についての本を作ろうと提案した時には、一週間で、千二百枚の写真を撮影している。彼の物を知りたいという切望、そして、生きることへの熱情のすべてが、写真のレンズを通す形で行われるのだ。ゴミスは、そんな写真を撮るために費やすのと同じ緻密さを、本のテーマの選択やその構成にも適用しているので、それを観る者は、写真とシークエンスの両方に注目しなければならない。M.リュイサ・ボラースは、「彼の作品は、基本的に芸術的な形についてのヴィジョンを与えようとするものだ。それは、単なる事実の記録ではなく、容易に見ることの出来ないような面を見せるための視在、視角、あるいはフレーミングの発見であり、また物事を明らかにするようなニュアンスや何らかの雰囲気、ムード、あるいは一つの世界を見出すことである」と書いている。だからこそ、ゴミスは1淋)年代の建築、ガウディ、タビュス、ロマネスク美術、タラゴナの大聖堂、大衆芸術、そして、何より、ミロの世界について、彼特有の、そして詩的なヴィジョンを与えることが出来たのだ。これはゴミスの、芸術というものを単に自らの外的なものとして知るに留まらず、それを内なるものとして、身をもって体験しようとする、彼固有の探求心の結果である。

 ジョアキン・ゴミスの作品は、表現における方法論としても、またその結果としての成果としても、彼が今世紀初頭のアバンギャルドたちの中にあって自らが採用した、一つの固有の選択の結果であると考えるべきである。本質的な面において彼の作品は、時が映し出す映画に対する、あるいは生を焼き付けるネガに対する「極めて繊細かつ知的な眼の記憶」に他ならない。そしてそれは、1976年にローランド・ペンローズ卿が明言したように、一つの愛、あるいは情熱、あるいは天分の証しであって、まさしく一つの、詩の創造に他ならない。