イブ・クライン

■聖なる道化芸術家〟

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東野芳明

 イブ・クラインほど,さまざまな言説にとり囲まれた芸術家も珍しい。それは,34年という短い生涯だったことも含めて,その死が一種悲劇的な天才の天折とみえたせいでもあり,また,作品がモノクロームをはじめ,いくつかの種類に分類されるにせよ,作品自体の時間的展開や変貌はほとんどなく,むしろあらゆる作品が,ほぼ同一の原理に基づいていたために,その原理をめぐっての論議の方がふくれあがっていったせいもあるだろう。また,一見奇行とみまがうがどとき,行為やパフォーマンスが必要以上にスキャンダラスな話題を呼びおこしたことも事実だが,それよりもなによりも,イブ・クライン自身が,「モノクロームの冒険」をはじめとする,マニフェストめいた文体の言説を数多く発表しつづけたことに大きな原因があるだろう。

 極端にいえば,この画家の実際のモノクロームの画面にさはど眼でふれることがなくとも,彼に関する論議や彼自身の言説を丹念に(?)読みさえすれば,この「空虚に身を投げる空間の画家」についての,もうひとつの言説をでっちあげることも不可能ではない。それは,網膜的な絵画を放棄して,見えない領域に潜入したかに見えるマルセル・デュシャンを論ずるときの,作品に密着しようのない,あのどこか頼りなげで不安定で,そのくせ知的快感を覚える体験に似ていなくもない。いやクラインもデュシャンも,伝記を換骨奪胎(他人の詩文の語句や構想をうまく利用し、その着想・形式をまねながら、自分の作としても(独自の)価値があるものに作ること。)した人間主義的批評はいうにおよばず,眼の豊潤な体験だけに淫した,作品至上主義の批評にも,また鉄槌を下しているのかもしれないのである。

 その結果,作品解読のコードがいくつにも重なって準備されざるを得ないのも事実である。トーマス・マッケゲィリーは,1957年のギャレリア・アポリネール(ミラノ)での「青の時代」展にふれて,その解読コードのいくつかを次のように列挙してみせた。「青のモノクローム自体は,内的な分化をこえた,形態の第一物質への溶解をあらわしている。一方,美術史的にいえば・それは,アンフォルメル美術へのきっばりとした(そしてタイムリーな)拒絶である。

27117-青の時代1957年

 現象学的にいえば,青のモノクロームは,“観衆”にその意味の創出に参加することを強制することによって,主体-客体という二分法を否定していることになる。また,絵が壁から約8インチ離して掛けられたという事実も,さまざまなコードを合わせもっていよう。こみとつには,薔薇十字会の観点からいえば,この事実は,重力の時代が終焉をつげ,空中浮遊(レヴィタシオン)の時代がはじまったことを指し示している。一方,美術史の観点からいえば,この事実は,現実の空間における絵画の活性を標榜し,絵を空間の中のひとつのオブジェと主張する意図に関連しているのである」

 第一物質だの,薔薇十字会だの,空中浮遊だのと,はじめての読者はなんのことやら,面喰うだろうが,それはおいおい分って頂くとして,一見,ただただ青く塗ったにすぎない画面に,いや,それだからこそ,たとえばこれだけの解読コードが列挙される,という現象の方に興味をもたれないだろうか。

 しかし,どれほどの言説に,どれほどの解読コードに囲まれていようと,ぼくらはまずただの青い画面と見えかねないイブ・クラインの作品にじかに眼差しを注ぐという行為からはじめるべきだし,いつも,その行為に,その言説化されない記憶に,たち返るという作業を惜しんではなるまい。「私にとっては絵画は今日,もはや眼に応じたものではない。それはわれわれのうちにあってわれわれに属さない唯一のもの,われわれの生に応じるものである」クライン)。

 ここでイブは,デュシャンと同じく,絵画が網膜どまりの知覚の法悦にとどまることを拒否し,「われわれのうちにあってわれわれに属さないもの」,つまり,個人だけに属した個性だの自我だのを超えた,宇宙的遍在的な存在としての独特なニュアンスの生(後述)にこそ,絵画が応ずるべきことを強調している。しかし,ぽくらは,この言説だけを読んで感心してはいられないのである。この言説を成り立たせるためには,背後に,言説化しえない見るという不分明な体験を沸き立たせる,ある秀れた画面がなくてはなるまい。それがなければ,イブの言説は,ある独特な文学的,あるいは哲学的,または宗教的断片としてだけ成立していればいいのだが,描く,あるいは塗るという行為にとりつかれざるを得なかった画家の場合,観衆は,まずは言説を一切忘れさることによって作品に眼差しをさらし,その見るという曖昧な体験で染まった身で,作者の言説に戻るという往復運動が求められるのである。そして,イブ・クラインのモノクロームの画面は,たしかにこの往復運動,限から精神へ,精神から眼への往復運動を見事に作動させる,あるふしぎな質の高みに達しているのである。それが,画家の死後20年あまりたったいま,ぼくには,おそまきながら,よく分る。

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 イブ・クライン自身とはじめて知りあったパリでの1958年から59年にかけての頃,ぼくは,作品自体よりも,この画家の身振りの方により関心があったことを白状しておこう。これは,新しい傾向が湧き出した発生時に立ち会ったものの特権であり通弊だろうが,じっくりと作品だけに対応するよりも,どこか,わくわくとして落着かず,作家とアトリエやカフェでわいわいとさわいだり,話し合ったりする時間と(お互い,もうひとりの親友だったティンゲリーもふくめて20代のおわりだったのだ!),作品自体の世界とが乱雑に入り乱れてこちらの中にどたどたと入り込み,またイブの場合,ヌーヴォー・レアリスムというグループの活動とも絡み合って,鼻眼鏡をかけた,冷静な老批評家のように,あるいは後の精細な若き研究家のように,作品だけを見ているというわけにはまいらなかったのである。

 ともあれ,この頃,ぼくはこう書いている。「大半の若い連中が,デュビュッフェ,フォートリエ,ポロック,デ・クーニングら戦後の“ピカソ”たちに首を抑えられて苦しんでいる『油絵』正統派であるなかで,クライン,ティンゲリー,ジョーンズ,ラウシェンバーグの4人に象徴される,カラッとした冒険精神,まったく素直な狂気が気に入ったのである」この4人の(62年にイブは急逝したが),その後に辿った歩みを考えると,むしろ,互いの大きな差異が目立つばかりだが,こんな風に無責任に気軽に云ってのけられたのは,新しい動向の発生基を見た若き立会人の特権だったのだろう。イブ・クラインについては「アッケラカンとした魅力的なモノクローム」とか「あの色感の光輝ある冷たさは,戦後派の輝けるペシミスム(悲観主義)でもあるだろう」と勝手なことを書いてもいる。

 イブに出会ったとき,彼はいまでは有名な「空虚」展を終えた直後だった。正式には「第一物質の状態における感性を絵画的感性へと安定させる特殊化・・・空気の時代」という,同展の難解な長い題名が,重要な観念を秘めていることは,はとんど看過され,たぶんにスキャンダラスな話題の方が先行していた。リュー・デ・ボーザールに面した小さなイリス・クレール画廊の壁をすべて裏白に塗り,街路に面したガラス窓や入口のガラスを青く塗っただけの,カラッポの部屋に,夜,3,000人近い観衆が押しかけたというのだから,ひとさわがせなペテンと思われたのも無理はない。やとわれた共和国親衛隊が入口をかため,一人数分ずつ中に入れた人々は青い飲物をふるまわれ,コンコルド広場のオベリスクの塔を青い光で照明するという計画は警察に禁じられ,あまりの人出に消防隊が出動し,深夜には,モンパルナスのカフェで,画家は「皆さんは,今夜,普遍的芸術の歴史における歴史的瞬間に立ち会ったことにはっきりとお気付きでしょう」ではじまる,大仰な演説をはじめたというから,一部の理解者を除けば,自己宣伝のスキャンダルとしか受けとられなかったのも事実だろう。


 

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 しかし,当時のぼくは,そのスキャンダル故にイブを愛した。もともと,いつも何かに焦っているようで,せかせかとせわしないこの南仏出の青年画家には,聖人と道化とが同居しているようなところがあった。正装の紳士淑女を招いた前で,裸女の身体に塗料を塗って画布にころがして人体プリントを作ったり,四大元素のひとつの「火」の痕跡を残すべく,消防夫にかこまれて大きなガス・バーナーで画布を焼いたり,全世界の人々を一日だけそのままで自分の世界劇場の登場人物にすると宣言した寺山修司的な「日曜」という一日だけの新聞を発行したイブ。その冒頭の真には,パリのアパートの二階から両手をひろげて空中に飛び出した瞬間のイブの写真が掲載され,柔道四段を講道館で得たフランス柔道家でもあったイブは,じつは「空中浮遊」の修業に専念し,その秘儀を果たしたことさえあった,という噂が立ったりもした

5250127-火の絵画

 また「非物質的絵画的感性領域の譲渡というイヴェントでは,この目に見えない「領域」を買った者は,定められた重量の金箔とひきかえに領収書を受けとり,その金は画家の手でセーヌ河に投げ捨てられ,領収書も焼かれてしまった。(下写真)

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 さらにつけ加えれば,アントワープでの「運動の視覚」展のヴェルニサージュの時,作品を陳列する代りに観衆に向かって,ガストン・バシュラールの文章を読みあげて,この「見えない」作品の値段として金1キロを要求したのには,みな,あっけにとられたという。不気味な噂では,魔女の本を読み,生理の際の女性の血が魔力をもつことを知って,モンマルトルの娼婦をやとい,その血で人体プリントを作ろうとしたが娼婦が拒んで果せず,恋人の身体に牛の血を塗って10点を制作,そして燃やしてしまった,という話である。

 くだくだしい。こういう奇矯な行為に綴られたイブの生涯は,たしかに,生真面目な道化に似ていた。既成の芸術概念に矛盾する新しい概念を主張する芸術家たちが,つねにスキャンダルをまき起すことは,近代芸術の歴史をひもとけば明らかだが,はじめて外国へ行って,生身の作家がひき起すスキャンダルをこの眼で見た当時のぼくには,それだけでよかった気味がある。そのスキャンダルめいた行為のすべてを貫く,ある透徹した観念があったのを見とどけたひとは少なかった。作家本人が,フランス人特有のスノビズム(貴族の真似事をする)やダンディズムへの偏愛を差引いても,生真面目に深刻に,まるでキリストを思わせる情熱で作品と行為と(この区別がイブにはなかった)を通して己れの信念を生きつづける−その姿が,聖なる道化芸術家のイメージを生み出していったのである。カトリーヌ・ミレーもこう書いている。「まずは(イブの)作品自体が受けた嘲笑的な侮蔑を補償するためといって,あまりに真剣な道士といった伝説を打ちたてるのを止めよう。道化をあわせもった聖者と考えよう」

 イブの死後20数年たったいま,彼のスキャンダラスな行為と見えたものは,ハプニングやイヴェントの先駆的試みと評価されたり,あるいはコンセプチュアル・アートの突出した淵源のひとつと考えられたりしているが,それはそれで,整理ずきの歴史屋にまかせよう。あの痙(けい)れん的な笑いを惹き起さずにはいなかった数々の「愚行」(?)は神話的な資料として残ったままであり,ぼくらは,あらためて,作品に眼を注がねばなるまい。

 個人的にいえば,イブ・クラインの画面に圧倒的なインパクトを受けたのは,最初の出会いの頃の猥雑(わいざつ・下品)で心ときめく日々の記憶も遠くなった頃(もちろん作者の死のだいぶ後),そう70年代はじめ頃だったろうか。デンマークのルイジアナ美術館の吹き抜け空間に,イブ・クラインの大きな3部作がかかっていた。3枚とも2メートルと1メートル半あまり,同じ大きさの大作で,分類によれば,左からモノピンクモノゴールド,IKB(青)のモノクロームである。すべて1960年に作られたこの3作が,実際に三幅対として構想されたものかどうかははっきりしないといわれている。どういういきさつでこの美術館に入ったか,美術館はこれを三幅対と考えているのかどうかを問い合わせ中だがいまのところ不明である。ともあれ,別々に描かれたというこの3作が,いかにも三幅対然として並んでいるのは圧巻であった。これを見て思い出したのは,作者が1955年の最初のモノクローム作品展をパリの出版社のロビーで開いたときのことである。20数点,さまざまな色彩のモノクローム作品が展示されたが,作者はこう追憶している。「この機会に,私はすぐに大切なことに気が付いた。それぞれいろいろな色彩のモノクローム作品が掛けられている壁を前にして,観衆は,ひとつの装飾的な多色構成を作りあげてしまうのである。飼育された視覚の囚人である観衆は,いかに選ばれた人たちにせよ,ただひとつのタブローの“色彩”の現存に立ち会うということはなかった。この経験が,私に“青の時代”に入る動機を与えた」

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 観衆が,1点1点のモノクロームの「現存」に立ち会わず柑に,さまざまな色彩を「飼育された視覚」の中で関係づけてしまうーそれに気が付いたことが,青一色に限定することを決意させたのは,たしかに重要なことだった。そして,同じ大きさの青のモノクロームを11点展示したのが,前述のギャレリア・アポリネールでの「青の時代」展だったのである。 

 とすれば,このルイジアナ美術館の3作は作者の意に反して並べられているのだろうか。それは後で考えるとして,ともあれ,吹き抜けの空間にこの3作が並んでいるのを見たときの視覚的経験は奇妙なものだった。大きさやディスプレーのせいか,3つの色を自分の中で「ひとつの装飾的なポリクロミー」に作りあげることはなく,ひとつひとつのタブローに直面する方が自然だったが,とりわけ,IKBのモノクロームに眼をさらしていると,画面が手前に少し浮きあがってみえる。物質としての固い表面が厳然とあるのではなく,まるで青いガスの火が画面いっぱいに燃えているように,あるいは濃紺の霧がかかったかのように,色彩が物質としての塗料から抜け出して,非物質的な薄い薄い層を生み出している,といった印象だった。いまから思えば,デュシャンの「極薄的」という言葉がぴったりとあてはまるような経験である。

ArvMWA-CMAEYfp_.jpg-large newman.beiアド・ラインハート

 これは,サムフランシスのホワイトペインティング、バーネットニューマンの“カラー・フィールド・ペインティング”,またはアド・ラインハートの絶対絵画的モノクロームを見るときと,きわめてちがっていた。アメリカ絵画では,作家によるニュアンスのちがいが大へん大きいのは当然として,あくまで物質として見える表面から画面がこのようにわずかにせよ浮きあがっていることはない。むしろ,どのような視覚のつづれ織りが起るにせよ,すべてはありのままの物理的な画面にしっかりと収斂している,という感じである。

 イブ・クラインの画面では,青がいっせいに総立ちとなり,画面を離れ,こちらの眼を通して身体中に浸みこんでくる,とでもいおうか。ところでこういう印象をつたない言葉で描写することに,ぼくは最近,疑問を感じている。美術評論がテキストとして自立するためには,対象の作品の印象や意味や世界を,線的に展開せざるを得ないロジックやレトリックの流れに置き換えてしまうのではなく,対象が学んでいる構造に見合うもうひとつの構造を,テキスト自身が内側に帯びてこざるを得なくなるだろう,と思いはじめている。作品を見るという,非言語的な不分明な曖昧な行為は,こちらの頭脳をふくめた全身体に,対象の構造を鏡のように,吸いこみ・うつしとってしまうということだろう。その後で書くテキストが,必ずしも線的でない,言語のモザイク運動として,’対象の擬似鏡像構造を造り出すには,どうすればいいのか。いまのところ,手さぐりの状態でしかない。

 ともあれ,イブ・クラインの青の不可思議な効果が,1949年ロンドンの画材屋で働いていたときの発見に由来していることはよく知られているパステルの輝きを好んだイブは,さらに粉末状の純粋な顔料に惹かれ,そこには「輝きがあり,固有の,驚くべき自立的な生命があり,それは本質的な色彩そのものであり,生きた,手で触れることのできる,色彩物質である」ことに驚喜したのである。問題は,これを膠などの媒剤で定着すると輝きが失せてしまうことで,最初は,画面を単純に水平に置いて,粉末状の純粋な顔料をそのまま見せることを考えたりしたらしい。結局は,パネルに布を張った表面に,粉末の輝きを殺さない,特殊な合成樹脂をまぜ,ローラーで塗って定着させる技法を編み出したのだった。

 作者は,ぼくが,青いガスの炎のようだとつたなく印象をのべた効果について,次のような言説で語っている。「当時,私が望んだことは,たぶん少々手管を使ったやり方で,色彩の世界への入口を見せることだった。測りえないほど広大な色彩態(占tat colore)ともいうべき世界に終りも限界もなく身を浸す自由への,開かれた窓を与えることだった。私の色彩表面を前にした理想的な解読者は,いうまでもなく感性だけを頼りに,〈超次元的〉になったのであり,彼は,宇宙全体の感性に身を浸すことによって,〈全一的(tout dans tout)〉の域にまで達したのである」

 いわば,イブ・クラインのタブローは,ある〈超次元的〉な<全一的〉な世界に「身を浸す」ための入口であり窓なのであって,彼が別のところで,「私のタブローは,私の芸術の〈灰〉にすぎない」と語っているように,モノクロームの画面が惹起する,観衆の体験が,いわば”超体験”が大切なのである。その意味で,物質的表面にすべての視覚が収斂する,アメリカ製のモノクロームとは一線を画しているのである。作家は,この言葉に続いて,こうも語っている。

 「タブローの真の本質,その〈存在〉自体は,一度創られた後は,見える世界を超えた,第一物質の状態の絵画的感性の中に見出されるのである。その時だ,私が,イリス・クレール画廊で〈非物質的な青〉を見せることを決めたのは」「第一物質の状態の絵画的感性」。ところで,イブ・クラインがしばしば使う,この難解めかした独特な言い廻しに,ある種の錬金術的,ないし神秘思想の反映を感ずることは容易だろう。これまで現代美術のコンテキストの中でだけ語られてきたイブ・クラインの作品や思考や行為に,神秘思想の光を当てて解明したのが,前にちょっとふれた,若きアメリカの美術批評家トーマス・マッケゲィリーである。たとえば,右の言い廻しについてはこう説明がはどこされている。「クラインの文章の中心テーマは,空間についての神秘主義的な概念であって,それは形体,ないし限定されたエネルギーに対する,自由なエネルギーという概念である。空間は錬金術的な『第一物質』であり,つまり,過去,現在,未来の普遍的”記憶’’を内包し,形態の世界の源泉として機能するものと見倣されている。心理学的には,純粋空間は,自由な(悟りの境地の)心と同一視され,形体は束縛された(神経症の)心と同じである。絵画に関していえば,この豊かな空間が“純粋な絵画的感性”と呼ばれるものなのである。空間と形態の形而上的な二分法は,絵画にあっては,色彩と線との戦いとしてあらわれる。線は分割し,宇宙的感性の純粋空間を妨害する。一方,色彩は,空間の自由と充溢を主張し,芸術家をして,それと同化せしめる方向に働く(「彼をエデンの園に帰す」)。事実,純粋な色彩は,単に,この宇宙的空間/感性の類似物ではなく,それが実際に物質化されたものなのである」

 ぼくが,ルイジアナ美術館の3つの大作の前で,画面の色彩が薄い層のように浮きあがって見えるのを感じたのは「宇宙的空間/感性の物質化」にふれた眼が単なる知覚をこえて,「第一物質の状態の絵画的感性」に全身が浸ったことになる。じつは,あの3つのモノピンク,モノゴールド,IKBのモノクロームが,三幅対のように並んでいる状態に,もし意味があるとしたら,これも,単なる絵画的効果ではなく,神秘思想上から解釈すべき「空間」の配置であったという。「これらの3つの色彩は,ハインデルの薔薇十字会においては,特別な聖性をおびたものであり,そこでは,この3つの色彩は神の肉体を表象しているのである」(マッケヴィリー)

 具体的にいえば,イブ・クラインの生涯は,神秘思想の中でも,薔薇十字会とよばれる17世紀ドイツにはじまる秘密結社の思想に色濃く染めあげられていたことが,近年のマッケヴィリーの研究によって明らかになった。薔薇十字会はエジプトのハマティズム,キリスト教のグノーシス主義,ユダヤのカバラ主義,錬金術ほか,オカルト信仰のいくつかを混治させた,一種の心霊主義といわれるが,現在でもその淵源や歴史には不明の部分が多いらしい。ともあれ,しばらく,マッケヴィリーの「イブ・クラインと薔薇十字会」という論文に耳を傾けてみよう。

 「クラインの作品が著しく内的な一貫性あるいはロジックをもっていることはよく知られている。しかし,あまりよく知られていないのは,この一貫性が,ひとつの信仰を反映していることである。彼は,この信仰をもって,ある観念体系を視覚的美術史的用語に翻訳したのであり,その観念体系の淵源(えんげん・物事のよってきたるもと・みなもと)のコンテキストは,芸術ではなく,マックス・ハインデルの薔薇十字会主義であった」

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 「1947年の終りか1948年のはじめ頃,クライン19歳の折,彼はマックス・ハインデルの『薔薇十字会のコスモゴニー』という,カリフォルニア,オーシャンサイドの薔薇十字会の“教典”のコピーを手に入れ,すぐにニースの老師ルイ・カドーの導きで,タロード・パスカルとアルマン・フェルナンデス後のアルマン・上作品)と共に,香薇十字会の教えを熱心に実行したのである」クラインとクロードとアルマンといえば,共にニースの警察署の柔道教室で知り合った仲で,ある日,ニースの海岸で,3人で宇宙を分割することを誓ったのは有名なエピソードだ。アルマンは動物界を,タロードは植物界を,そしてイブは,全宇宙の空の空虚の育としての鉱物界を。そして,雲ひとつない青空を鳥が横切ったとき,イブは,線が空間を乱すとして憤ったこともよく知られているが,この宇宙分割も,線への憎悪も,単に青年期の一時的詩想や絵画上の主張にとどまらず,薔薇十字会の影響が強かったことが分る。

 そもそも,マックス・ハインデルの教典の根底には「生と形体の両極性,そして両者の究極的な統合」という観念があるという。「生とは純粋精神のことで,明らかに,何もない空間と同一視されている。一方,形体とは,束縛された精神であり,物理的特質と同一視されている。これらの状態は,人間の進化の長い道程を通じて交代してゆく。最初には,生の時代があった。そこでは,自我の分離という虚妄はなく,全体との合一性の意識がある。それに続いた時代では,形体の原理が生を次第に圧迫し,自我の分離という虚妄が,全体との合一性の意識の息の根を止めてしまう。最終的には,分離した存在の意識が全体との合一性の意識と結合し,それが人間の進化の勝利の絶頂を形づくる」

 理由は分らないが,クラインは自分の文章では,慎重に薔薇十字会のテキストにふれることを避けているが,マッケゲイリーによれば「クラインの生涯はこの信仰体系の表現であった」ということになる。たとえば,あのスキャンダルをまきおこした「空虚」展も,ハインデルの教えの忠実な実行であったのである。「第一物質の状態における感性を絵画的感性へと安定させる特殊化一空気の時代」という標題が語るのは,「形体」の時代が終って,われわれが物質から非物質への時代に移ろうとしており,心霊がすべての物質に浸透し,見えない空間が,ハインデルのいう生によって充満される時代に近付きつつあることであった。「空間は死んだ空洞ではない。それは目に見えない充溢なのである」(マッケヴィリー)。

 クラインは,ヴェルニサージュの2日前,土曜日の朝から48時間,画廊にこもって「非物質化された青の感性の絵画的環境」を作るために,すべてを白く塗る作業に専念したが,これは,同時に,作家にとっては薔薇十字会の心魂をこめた修業の行であったという。この48時間の入魂があったからこそ,「空虚」展は,単なる「死んだ空間」ではなく「見えない充溢」になったことになる。観衆のひとりアルベール・カミュが「空虚に満たされた力」と,ゲストブックに書いたのは有名な話だ。そして,一人数分ずつ画廊に入ることを許されただけの,当夜の3,000人の観衆は,知らずして,薔薇十字会の入信の儀式にかり集められ,参列したことになる。「観衆は,展覧会をただ見ることではなく,新しい時代に向かう進化の道程にとせき立てられつつあったのである。クラインは後に,“客の約40パーセントが,感性の新しいレヴュルに見事に身を浸した”と評価した」(マッケヴィリー)

 この「評価」がどれ程の信憑性があったかどうかは別として,この夜,参加者から見ればペテンめいたスキャンダルであった時間とすれすれのところで,いやスキャンダルとぴったりと重なったところで,薔薇十字会の「信仰体系」が成立していたことになる。聖と俗の同存である。ぼくにはイブ・クラインが,この不信の時代に,薔薇十字会といった「信仰体系」を直接に表明することがひき起すであろう,無理解や嘲笑や反撥を避けるために,「芸術」というコンテキストを借りたのではないか,とさえ思えてくる。「芸術」という名目の下ならば,スキャンダルもまた,輝かしい成果となるではないか。

 そもそも,青がモノクロームの主役に選ばれた理由も,ドラクロワやジォットの影響といった美術上のコンテキストだけではなく,ハインデルの教典を直接に実行したからであったという。「ハインデルは,とりわけ,純粋精神の空虚を青という色と結びつけ,こう言っている。『青は精神性のもっとも高度の典型を示している』と。つまり,空間/精神と同一となった精神性である」(マッケゲィリー)1958年の末には,ティンゲリーとの合同展「純粋速度とモノクロームの安定性」が開かれ,クラインが青や白に塗った円板が,ティンゲリーの機械仕掛けによって,時速300キロで回転すると(実際にぽくはこの展示を見た),表面の色彩が濃い霜のように浮きあがり,透明な輝きを帯びて静止の極みに達した。

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 1959年の「海綿の森の中のレリーフ」展は,またも,「芸術」に名を借りた薔薇十字会のヴィジョンのあらわれだった。青い塗料をしみこませた海綿が棒の先にとりつけられて樹林のように並んでいた。当時ばくは,サン・トノレ通りの高級ブティックのショー・ウインドーに並んだ婦人用帽子へのアイロニーに見えると,書いた憶えがあるが,直接の動機は,画面を塗るときに使っていた海綿が,塗料が浸みこんで美しく見えたことだと作者は語っている。一方,ハインデルによれば,海綿こそ,「精神による物質領域への浸透を例証する唯一のイメージ」として使われているのである。太陽系の惑星が空間に浮遊している様が,海綿の球体で比喩されており,この展覧会で,青い海綿が棒の先で空中に突き出ていたのもこの比喩による。2年後,ニューヨークに赴いて,レオ・キャステリ画廊で個展を開いた時,初日の翌日に,ガガーリンが人類史上はじめて宇宙空間から地球を眺め「地球は青かった」と語ったのは,正に,青い海綿を惑星に比喩したハインデルの弟子には偉大な啓示だった。地球儀めいた青い球体「惑星レリーフ」(1961)は,その好例である。

 海綿といえば,ドイツのゲルゼンキルヒェンの市立オペラ・ハウスの壁面に,巨大な青い壁画が完成したのも1959年だった。二つの接した大きな壁に「海綿レリーフ」と「青のモノクローム」が,はぎとられた青空,生命誕生期の泡だつ海面,あるいは未知の天体の表面を思わせて,垂直に立っている,という感じである。

 この後,1960年から,イブ・クラインは,モノクロームの画面を作りつづける一方,「人体測定」と称する,一連の人体プリントの試みと,火,水,空気,土という四大元素への関心をこめた作品や計画に専念しはじめる。これは,ある意味で,肉と不可視世界という,両極端な二つの世界へ分化した展開だったように思われる。いや,手で塗るモノクロームの画面がかもし出す効果が,「絵画的感性」や「第一物質」への入口を,あくまで観衆の視覚を通して,さらにそれをつきぬけた身体性を通して暗示していたとすれば,この二つの試みは,画面そのものの力よりも,画面が別のものの影として,痕跡として提示されている点では,微妙に重なり合っているともいえるだろう。

 裸のモデルを描いてきた画家の歴史の後で,イブ・クラインは,裸のモデルを絵筆として使い,その肉体に絵具を塗り,画面にころがして,その拓本ともいうべきものをとる。これが,あるときは,単和音だけが流れる「モノトーン・シンフォニー」を伴って,作家の前で実証してみせた「人体測定」の試みである。「クラインは“人体測定”を,その制作現場のスペクタクルと切り離しては構想していない。1960年2月23日,少数の友人たちを前に最初のプレゼンテーションが行なわれたとき,モデルはさまざまなアクションに身をゆだね,それが多くの種類の痕跡を残す。青の塗料を身体に塗りたくられた若い女は,まず,床におかれた大きな紙の上に横になる。今度は,同じ操作が壁に貼った紙の上に行なわれる。つづいては,数多くのヴアリアントがあらわれる。多くのモデルが同じ紙の上に入ってきて,その痕跡はごちゃまぜになり(あるときは,青,赤,黄といったちがった色彩で),あるいは,反対に,美術館の廊下にならんだ,腕のない彫像のように,大人しく並ぶ。ある者たちは身体をねじらせ,紙に青い雲をとびちらせるし,別の者たちは,自分で這いまわり,あるいは友だちにひっぱって貰って,人魚のような長い尾を残す。しばしば,墜落の途中で停止したか,とぐろを巻いたように,関節がはずれたような痕跡が生み出される。そして最後に,ポジの痕跡とネガの痕跡とが湿りあったタブローが出来上る。まるで,二つの肉体が溶け合ったかのように」(カトリーヌ・ミレー) 

 このスペクタクルでは,このように,女性の肉体が,さまざまなアクションを起す,その運動を観衆に見せることが,イブ・クラインにとっては,結果の痕跡だけを絵画として見せることと,少くとも同程度に重要であったことがわかる。クラインの「人体測定」に,10歳代の時事の跡をシャツに残したことや,旧石器時代の洞穴に残された手の跡などと関連づける考え方もある。また,キリストの顔が写しとられたというヴェロニカの布になぞらえるひともいる。しかし,それ以上に,見えない精神世界と正反対の極にある肉休が,皮膚にとじこめられている限界を超えるかのように,身をよじらせ,飛び廻っている状態こそ,クラインにとっては,現実世界を超越する光景として不可欠だったのだろう。

 クラインの「空中浮遊」によせた偏執ともいうべき想いもまた,この肉体からのたえざる脱出を意味していた。柔道への専念も,肉体が空中に飛ぶという事実への関心と無関係ではない。あの1日だけの新聞「日曜」の1頁の,作者自身が空へ飛び出している,精妙なモンタージュ写真も,この「空中浮遊」への妄執のあらわれだったのである。

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 この「空中浮遊」への偏執は,子供の頃からイブに強く,また,キリスト昇天や空を飛ぶ魔女にみられるように,人類の遠い記憶にまつわる願望だが,直接的には,やはり,薔薇十字会の教義にあらわれた観念であったらしい。ハインデルの教典にはこう善かれてあるという。「物体世界では,物質は重力に従属している。……(注,そのひとつ上の段階の)欲望世界では,形体は引力にひかれると同じ容易さで空中に浮遊する。距離と時間が,物体世界では,存在を支配する要素だが,欲望世界ではほとんど存在しない」(基軸)「人体測定」が俗なる肉体の現存そのものを貫いて,精神世界へ飛翔しようとする試みであったとすれば,クラインが死ぬまでの3年間,一方で,ガスのバーナーでカンヴァスを焼いて「火」の痕跡を残したり,カンヴァスを自動車の屋根にのせて,パリ=ニース間をドライブして,雨や風や挨の跡を定着させたり(「コスモゴニー」),さらには,空気と水と火による建築を,一部の実験を実現したことをふくめて,生真面目に構想していたことは,どう考えたら,いいだろう。

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 それらは,火,水,空気といった,薔薇十字会に限らず,神秘思想や錬金術における原美的な本質,つまりは,非物質世界の要素の方を現実の画面に,少くともその影を現実の画面に,強引に押しとどめ,定着しようという,きわめて形而上的な,無謀ともいうべき企てであったように見える。これらの作品群には,イブ・クラインの,いら立った理念は読めても,画面としては,つまり,見るという体験を通して,見えない世界への飛翔を迫る作品としては,流産してしまったものがいくつか見られるのも,そのせいだろうか。

 生涯の最後に,空気の建築を執拗に夢みていたイブ・クラインは,すでに絵画という領域をはるかにはみ出した,未来を予言する思念家だったのかもしれない。もし,作者がいまに生きつづけていたら,その辿った道はどう変っていたろうか,こんな無意味な空想にふけるたのしみを与えるだけの強さも死によって断ちきられた夢はもっていたように思う。  (美術評論家)