1.はじめに(1901-1942)

26 ジョルジュ・ランブール(1900-1970)

 ジャン・デュビュッフェは、1901年7月31日にル・アーヴルで生まれた。この町はノルマンディー地方、セーヌ川の河口にある港町で、海運事業で栄えていた。彼はル・アーヴルのブルジョワ階級の裕福な家庭で幼年期を過ごした。祖父アルテユール・デュビュッフェは、「保税貨物倉庫を貸りていて、ワインの他に蒸溜酒類をあつかう商人」であった。だがジャンは、両親からほとんど愛情らしきものを受けていない。父ジョルジュ・デュビュッフェ(上図左)は、権威主義的で、ときに暴力を振るい、「情」と名付けるものを表にだすことを卑しんでいたし、母は寡黙なひとであった。ジャンが思いやりと優しさを見出したのは、彼の祖母のそばにいるときだけだった。後にこの祖母の肖像画をいくつか描くことになる(下図左)。

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 父には書籍への情熱があって、集められた書物はつねに鍵のかけられた一室のなかにうずたかく積まれていた。子供のジャンは、この部屋に大いに好奇心をかき立てられ、やがて読書への早熟な趣味を育てた。ジャンは晩になると、ベッドのなかにこっそり本をもちこんでは、電灯のほのかな光をたよりに読書にふけった

 7、8歳のとき、母は温泉療養にジャンをオーヴェルニュへ連れて行った。この緑したたる田園地方が最初の芸術的感動を与えたのである。「(略)画架の前の女性が、パステルを使って風景画に色を付けていた。その横にはパステルでいっぱいの箱があった。この箱のなかのとりどりの色彩と、その絵が、私の心を強く打った。そこでは、さまざまな色合いの緑の色斑が際立っていた。(略)」そのころジャンは、いつもこっそりと似たような小品を描いて、棄てるまでのしばらくの間、秘密の場所に保存したのだった。そこをジャンは自分の「美術館と呼び、浜辺で拾ってきた小石や貝殻、港で見つけた流木やその他さまざまなものを積み上げておいた。その場所でジャンは夢想にふけった。

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 7歳のとき、リセのフランソワ1世校に入学し、このときクラスメートのジョルジュ・ランプール(上図)と出会った。ランプールは1歳年上で、生涯にわたって兄弟のような友となった。父はすべての科目で、クラスの一番であることを要求した。多くの本を読みあさりピアノにうち込んだ。毎朝、リセに出かけるまえ一時間の練習、初めて聖体拝領の儀式を受けたのは、「信心深い家庭に育ったクラスメートから刺激を受けたからだった。その友人に私は好意を抱いていた。私たちふたりはコルネイユ風の、アレクサンドラン[十二音韻律詩]五幕からなる悲劇を書こうとし、草稿を分担して、私がタイプライターで清書した。ほとんど出来上がろうという時に、私が宿題に当てるべき時間をこれに割こうとしたのでやめさせられてしまった」。

 12歳のころ、精神を激しく揺さぶる疑いが私をとらえ、キリスト教信仰とあらゆる理神論を永遠に失うに至った」。13歳のとき、父は市内にいくつもの支店を持つ「デュビュッフェ商会」の「会長」におさまり、家業を一手に引き受ける」ことになった。母はかなりの年だったが妹シュザンヌを産んだ。同時に第一次世界大戦も始まり、父の影響で「下品な愛国心をたたきこまれたが、私はそれに対し次第に嫌悪と反発を感じるようになった」。15歳、第二学級の優秀な生徒だった。ボードレールに熱をあげて、断片とはいえいくつかの詩をそらんじていた。フェンシング、馬術の練習に励んだ。ピアノには変わることなく打ち込んだ。

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 1年の後、バカロレア[大学人学資格試験]第一次にジョルジュ・ランプールとともに合格した二つ年上の学友アルマン・サラクルー(上図)は、バカロレアの哲学試験に合格し、ル・アーヴルを離れパリへと向かった。パリヘ去った友との間で、頻繁に手紙が交わされる。その手鰍こは、それぞれの生活、趣味、考え方がこと細かく善かれていた。デュビュッフェの1917年10月23日(16歳)付の手紙、「昨日の夜、はじめてル・アーヴルの美術学校へ行った」。

 それ以来毎晩、「人体モデル講座」に通い、木曜の朝には「石膏モデル講座」を受けた。「特にデッサンに多くの時間を割き、猛烈にデッサンする」。デュビュッフェはこの「芸術演習プログラム」を厳格に吟味している。「頑固なまでにそのプログラムに専心すれば、すべてが習得出来るであろう」。「だから私は決心している。勉学が終わったら、すぐにでも芸術家という職業を選ぶつもりだ。というよりむしろ、その芸術家になるための訓練を受けるつもりだ」。しかしながら、家業における、父のいう「商業教育」を受けなければならないのではないかと危ぶんだデュビュッフェは、パリの法学部に籍を置くという考えを受け入れることにしたそれは家族のしがらみから逃げ出すためであったし、同時にアカデミーでデッサン講座を受けるためであった。というのも「まったくもって、私はワインよりも芸術を愛している。(略)司祭が神のために生きるように、私は芸術のために生きる」。

 哲学クラスのはじめに、むさぼるようにルクレティウスのエピクロス風の詩、ストア学派のマルクス・アウレリウスの禁欲的な『自省録』、テーヌの『芸術哲学』を読んだ。また、ショーペンハウアーの「積極的ぺシミスム」に傾倒した。ドストエフスキーに関しては、「『罪と罰』、なんという傑作」。

 1918年7月、すでにバカロレアの哲学試験を手中におさめ、やっと父からル・アーヴルを離れてパリヘと向かう許可を得た。「予想外で、全く信じられない。法律や商売の話をしなくてもいいなんて」。9月の末、ジョルジュ・ランプールとともにパリ着。ランプールは文学研究に進み、デュビュッフェはアカデミー・ジュリアンに入学した。「(略)私は多くの時間を割いて、木炭を使って人物デッサンにはげんだ。(略)私たちの髪は長く、帽子は黒かったが、それこそ自らが芸術家であるというしるしだった」。二人が出入りしたのは、モンマルトルの丘にあるレストランで、そこに集まる年上の芸術家たちは、シュザンヌ・ヴァラドン(ユトリロの母)や画家エリー・ラスコー、「私を感嘆させた二人」マックス・ジャコブとシャルル=アルベール・サングリアである。ラウル・デュフィをアトリエに訪ねている

 1919年(18歳)の春、デュビュッフェはまだ18歳でしかなかったが、アカデミーを離れた。教育方法が不満だったのだ。以後、独りで仕事をすることを好み、「アヴァンギャルドの展覧会を見、モダニストたちの著作に感化されて、芸術創造は平凡な実生活に根ざしていなければならないと私は確信した。黒い帽子は、民衆主義的なハンチング帽に取って代わられた」。「ロシア・バレエとロシア小説の読書は、私の頭をクラクラさせた。私は熱心にロシア語を学ぽうとした」

 この年の終わりに、両親は冬をアルジェで過ごそうとし、同行するように息子に求めてきた。「到着するや、休暇はうんざりするものとなった。父といさかいが生じた。(略)好きなように部屋に閉じこもって、セザンヌに影響されたデッサンを描き続けていた(略)」。この時期の作品が、〈アルジェリアの風景〉(下図右)と〈松のある風景〉である。

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 アルジェ発、1920年1月付、サラクルー宛、「僕の哲学体系の根本が崩れるままに放っておくつもりだ。旅が役に立つのは、あれこれの違いを分析するためではなくて(略)反対に、時代によっても場所によっても変わることなく生活が持っているものを、そのあるがままに、把握するためである。(略)月並みに地方色と呼ばれるものは、それ自体では芸術に対していかなる価値も持ってはいない。(略)フジタ[藤田嗣治]の唯一の興味深い点は、彼が日本風にパリを描いているからである。もし私たちがオーヴェルニュ人ならば、オーヴェルニュ風に描こう(略)」。

 帰ると、彼は、ヨンヌのある村に住む「自分と同じく見習い画家」をしている学友のもとで何週間か過ごしている。そして、〈サン・モレ聖堂の広場〉(下図)を描いている。同年(図3)、〈ジョルジュ・ランプールの肖像〉(上図)を描いた。

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 1921年(20歳)の2月から3月にかけて再びアルジェリアに滞在した後、「(略)ある日曜日にシャヴィルの森の池に面した落ちついた酒場へ昼食をしにいった。そこの経営者たちは、宿代とひきかえに一枚の壁画でホールに装飾をほどこしてくれないかと言ってきた。かなり長い間滞在して、その絵にかかりきった。(略)森の風景が私の関心を引いたのである。ラウル・デュフィ風の森の水彩画を倦むことなく描いた」。

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〈森の中の散歩〉(上図)はアルマン・サラクルーに献じられている。

 「私は、しばらくの間、丸ノミとビュランを使って、小さな木版画に専念した。そこにはドランの版画に対する好みが見て取れるだろう」。これらの版画のうち5枚(下図右)は、ロジェ・ヴィトラックの詩を絵にしたものである。その詩は、マルセル・アルランが主宰する『アヴァンテユール』誌に発表されたが、アルランはまた、その雑誌に、ランプールの初期の詩も掲載してくれた。シャガールとの偶然の出会いがあった。

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 1922年、ランプールとサラクルーとともに、プロメ通りのアンドレ・マッソンのアトリエに通い、そこで再びエリー・ラスコー、ミッシェル・レリス、アントナン・アルトー、ツァラと出会った。サン=プノワ=シュル=ロワールのベネディクト修道院に居を構えていたマックス・ジャコブを幾度か訪ねた。

 「頻繁に交友を重ねたのは、私よりもずっと成熟した画家たちであり、彼らはキュビスム、そしてとりわけアンドレ・マッソンに影響を受けていた。彼らの絵は、はなはだ刺激的で、単なる模倣などの程度にとどまるものではなかった」。

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 〈藤椅子の上の静物と石〉(上図)を描いた。自分の仕事につねに厳しく、「すべての習作はでたらめだ。すべての知識はどんどん忘れられる。方法論もたえず変えてきた。だがなおかつ、どこか心の片隅に、習作も知識も方法論も重みを持っていないという不安(略)」。

 1923年(22歳)ローザンヌに住む作家の友人ポール・ピュドリーのもとに逗留し、ビュドリーとともにジュネーヴを訪れて、画家ルネ・オーベルジョノワと知り合った。次いでミラノ、フィレンツェ、ラヴェンナへと赴く画家のイタリア旅行につきあった。

 しかし22歳になって、「この上なくいやいやながら」兵役をこなさなければならなくなった。数カ月の厳しい訓練を過ごしたのち、タイプライターを使えることを見込まれて、気象観測所の書記官となった。「僕はここでは一事務屋で、それを楽しんでいる。(略)僕らはエッフェル塔の足元にいて(略)薄暗い深緑の美しい公園に僕の小さな勤め場所があるのだ」。

 友人ピュドリーの貸してくれる家に住んで勤務に通った。この時期、しばしば出入りしたのは、フエルナン・レジェの家であり、そこは「私がとても好きだった絵画でいっぱい」だった(上図中)。また、「ブーローニュの日曜日」ごとに、ダニエル=アンリ・カーンワイラーの家を訪ね、そこでホアン・グリスと親交を結んだ。「私はグリスを深く尊敬していたし、その絵は胸を強く打ったものだった」。マッソンの最初の展覧会は、1924年の2月、ランプールが緒言を寄せ、カーンワイラーが協力してシモン画廊で行われた。

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 その4月、除隊してもう一度ローザンヌに滞在したとき、ハンス・プリンツホルン博士の著述に触れ、その著書に掲載されていた精神病者のデッサンと絵に強い感銘を受けた。パリに戻ると、「<植物学の授業〉(上図左)を主題とした絵をたくさん描いているが、はなはだ出来が悪い。木々の枝の中に姿を消してしまうものだ。出来は悪いけれども、描いてゆくにつれて良くなるだろうし、大いに描いているのだ。つまり、私は出来ばえのよい仕事をするためにではなく、楽しいからこれをやつているのだ」。

 印象派美術館にスイスの画家の展覧会を見物に訪れたが、「はやりの文化の色眼鏡に対する不信が胸に広がるばかりだった。描写の風潮はドス・パソスのものやダダの宣言文などのように、行動をあおり立てていた。(略)私は活動的な社会生活に身を捧げることにした。(略)そして遠い国へと出発した」。

 デュビュッフェは、今日ジャン・デュビュッフェ財団が保管しているいくつかを除いて、すべての作品を破棄し、蔵書をすべて処分し、ブエノスアイレスへと出発した。「1925年1月1日(24歳)の夜明けにここに着いた。何という日だ。おまけに金も無い.(略)私はもう絵を描かないし、描きたくもない。(略)ピート[サトウダイコンの一種]を植えて鰯を売りたい。(略)もっとも友人たちは賢明にも、そのためにはヒートや鰯を手に入れなければならないし、そこからして困難だ、と指摘してくれた」。

 アルゼンチンに4カ月いた後、失望してル・アーヴル(郷里)に帰った。父の商会で見習いをすることに決めていた。1927年2月25日(26歳)に結婚し、アルジェ(北アフリカ)へと新婚旅行に出発した。しかし3月10日に父が亡くなり、大急ぎでル・アーヴルへ戻った。

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 2年後、1929年4月14日(28歳)、娘イザルミナ誕生(上図)。秋、これっきりル・アーヴルを離れようと、妻子とともにパリとベルシーの近郊、サン・マンデの「ワインを商うための広い土地と屋敷」に新居を移し、事務所を構えた。

 慌ただしくも単調な当時の生活については、大したことは知られていない。1931年(30歳)に妻をつれてオランダへ旅し、美術館を訪ねたことだけである。もちろん読書はしていた。例えば1932年12月サングリア宛の手紙。『ベトラルカ』を送ってもらったことへの礼状。「この本は、私たちの時代で最も重要、いや、唯一重要なものです。(略)あなたはエネルギーの変圧器のような方だ。(略)ネガティヴな力を(略)懐疑論へ、ペシミスムへと変換し(略)活動と、創造と、構築の源にしてしまう(略)」。1933年(32歳)には商売も順調でパリにアパートを購入し、さらにモンパルナスの近くにアトリエを借り、毎日午後になると数時間そこで作業出来るようになった。「精神の祝祭からの呼び声が、知らぬ間に再び私の内部で活発になった。(略)絵の方も、ちょっと腕が上がり、自信もついた。まあ相変わらず半人前ではあるが」。

 翌年、このアトリエは家庭生活の「煩わしさと苛立ちからの避難所」となり、妻に去られて、離婚訴訟に悩まされることとなったそのころデュビュッフェは商業活動を代理人にゆだねて完全に足を洗い、尽くせぬ好奇心に自由に時間を費せるようになった。「マヤ=キチェ語のヒエログリフ[象形文字]研究のため国立図書館に長いこと座って写本を写した。(略)またエジプトのヒエログリフ研究のためにコンコルド広場のオベリスクを判読した。またさらに漢字やロマネスクの飾り文字にも関心を向けた」。

 「芸術家たちがあふれるモンパルナスのカフェでの活気ある生活は、この時期最高潮に達した。(略)そしてそこで私はリリに出会うこととなる」。パ=ド=カレー出身のエミリ・カルリュは、幼年時代に偶然モンパルナスの芸術的環境にわずかながら触れており、その後ハンガリーの画家の後を追ってブダペストへ行き、そこで結婚していた。7年間のブルジョワ生活の後、この女性はパリの雰囲気を求めてモンパルナスに戻っていた。

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 1935年(34歳)に二人はパンテオンにほど近いロモン街に居を定めた。その生活は祝祭だった。アコーデオンを合奏し、諸々の仮面(上図下)やマリオネット(上図左)を制作した。「私が菩提樹に頭部を彫って色を塗ると、リリが服を着せた」。リリの肖像画は、グアッシュおよび油彩(下図左)ともども数多くある。二人は旅行も一緒で、ベルギーの美術館を訪ねている。スケッチブックー冊が、古代の作品に触発されたクロッキーや、様々な習作、自画像(下図右)で満たされている。

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 ぁぁ悲しいかな.′デュビュッフェは1937年1月(36歳)、倒産寸前になった事業を危機から救うため、ベルシーに再び戻るはめになった。「楽しい生活は終わった・′汚い仕事、屈辱に耐えなくては。不安な気持ちでパリ中を走り回り、死に物狂いで注文を取り付け、請求書をもって取旭てにてんてこ舞い。それが夜の10時まで。そして裁判沙汰。犬のように惨めな日々。(略)うんざりだ」。1937年12月30日、リリと結婚。

 2年後、第二次戦争が勃発1939年9月2日(38歳)に動員、軍規違反のためロシュフォールの駐屯地に送られ、ピレネーヘ向けての集団避難が行われた時、大隊とともにセレ近郊へ撤退。武装解除の間際に『影たち』と超されたテキストを著した、プロレタリア作家でアナーキストのリュドヴィック・マッセから本を借り、彼と親交を結んだ。1940年7月30日に除隊、パリヘ戻り、やっとのことでリリと再会。「つねに切羽詰まった状況で、生活の手だてとてなく、嫌でたまらなかったのだが、ワイン卸商を再開するより他なかった。(略)少々危険ではあったが、ドイツ占領地帯を分かつ境界線を越える手段はない訳ではなく、夜更けに農夫に変装した。(略)続く2年の間に、戦前たまっていた膨大な借金から完全に自由になることが出来た(略)」(上図集合写真)。