0.自由の錬金術

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パリ市立近代美術館の館長・ファプリス・エルゴ

 「芸術作品が人間存在の深みで起こる直接で率直な投影であるという場合のみ、それは私の感覚の関心をひく。」J.D.

 デュビュッフェの作品をどんな角度から眺めたとしても、何かがすべり落ちていくという感じは避けがたい。デュビュッフェは、自分の作品を明確な時代区分にきちんと分けており、それぞれの時期、絵画、彫刻、デッサンそして版画に、まったく明瞭な名前を与えている。そのため我々は、かえって目を眩まされるのではないか、現象の影と空洞とが消し去られるのではないか、と自問するしかない。この現象は見かけほどには平坦でも、冷たくも自明でもないのだが。

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 同様にデュビュッフェは多くの文章を書いており、その書きぷりは余りに説得力があるので、我々は彼の書いたものを彼の芸術の本質的な一側面とみなし得るほどである。彼の発言は、少しの曖昧さもなく、まったく明快で正確である。デュビュッフェが推奨するのは、文化に対する猜疑、偉大な観念の拒絶、あらゆる美学への軽蔑、日常性への興味、マチエールと素材へ向けられた関心である。数多くの考察が今日自明なこととなっているが、それを最初に定式化したのはデュビュッフェなのである。しかしデュビュッフェは、芸術は目に対する以上に精神に対して訴えかけねばならぬとも断言している。50年このかた、つまり、後の作品の発展という視点からすると極めて早くから、彼は、絵画が精神へと訴えかけることを要求している。

 こうした矛盾がデュビュッフェの作品の外観をつくりあげる。この矛盾によって、彼は一つのイメージや観念に帰着させることの困難な芸術家となる。また、デュビュッフェの人生がどのようなものだったかを知ることも難しい。絵を描き始めたのはかなり遅く、決定的に邁進し始めたのは、およそ40歳を過ぎてからであったデュビュッフェの前半生は、頓挫した芸術への志と悲惨な商売業務、そして財政上の破産からなる。この破産は彼の生活をかなり圧迫したが、我慢強く堪え忍んだ負債から突然思いも寄らぬところで解放されると、彼は「2年か3年の間」絵を描くことができると感じる。これが、片時も休みのない制作の40数年となるのだ。一人の逆さまのランボーが思い出されるだろう。情熱的なやり方で芸術へ身を捧げきった後の、老年の死。しかし、その情熱は計算ずくよりもさらに冷静なものであり、それが一瞬一瞬こ示す抜け目のなさは、ある獰猛(どうもう)な動物が考えられないほどの粘り強さで獲物に襲いかかろうとする時のそれを思い出させるほどだ。

 デュビュッフェは作品を通じて何を求めているのか、彼の内なる目的は如何なるものなのか?おそらく、文化という観念を破壊する作品を作ることだ。彼の同時代人らは文化について滔々(とうとう)とまくしたてていたが、デュビュッフェは無気力にしてしまう遺産であるかのように感じていた。努力を続けた42年間、片時もほっとする間もなかった日常生活、絵画展の開催日以外には何の休日もない日々。スイス、ヨーロッパへの旅行、アルジェリア、合衆国そしてヴァンスでの滞在は探索という真の遠征を意味した。時に妻リリの健康状態がそれを必要としているのだという言い訳を伴ってはいたものの、彼は新たな道へと足を踏み入れていく。デュビュッフェは、新たな言語を学ぶためにもこうした転地を利用した。母国語の権威から免れたいと思っていたからである。デュビュッフェは視覚と言語が密接に結び付いていることを理解しており、また、この破滅を願っている文化に属していたのだった。

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 デュビュッフェの作品はそれ自体で一つの世界である。難解で、住むことができない世界。そこではユーモアと悲劇が同じ実体から形成されており、そこでの快楽は外科の残酷な手術とエロティシズムに似ている。そこにおいては糧は石から得られ、石は、まるでガラスのように平らな空を満たす無数の星からなる星座か、雲のようなものだ。我々はまず、見慣れた物をそこに見出した気になり、ついで、全く別のものが問題となっていることに気付く。あちこちに感じのいい人物がいるが、その人物は平手一発あなたをひっぱたく。この平手打ちは、率直に注意をうながす、信ずべきメッセージなのだ。芸術家が観る者に送るのは罠ではなく、信頼のおける警告なのである。この警告は、あらゆる感傷を排除した現実とどのように関わるかという問題の入り口となるのだ。人間は荒々しくむき出しにされて、自分が思っているようなものではなくなってしまう人間は自分が関わりをもつ外界と同じくらい堅固であり、動き回る人間を取り囲む事物は、人間と同じくらい可動的だということだ。

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 そこから物質の重要性が出てくる。あらゆる活動を調停させるのが物質である。というのも物質は生物にも生命のない事物にも共通だからだ。最も美しい女性と塵埃(じんあい)とは同じ原子からできている。そしてデュビュッフェは、土の表面ないし風景には、その存在を疑うべくもない一つの生命が宿っていることを明らかにする彼はキュビスムが理解し始めていたことを発展させた。つまり、絵画の物質的な構成要素が、それ自身で造形の対象となる能力を持っているということである。画家の考えは、もはや作品を支配する唯一の権威ではない。一本の線、一つのフォルムは自律性を持つことができ、少なくとも、完全に芸術家の意志次第というわけにはいかない。画家は行動の自由と可能性を与えられているが、その行動は画家の思考がたどることのできないような領域でなされる・・・そのことは、デュビュッフェの著述の中の、自分の絵画を目の前にした時の本物の驚きに表れている。彼は、愛情を持ちながらも(ある種の)距離を保ちつつ、自分の絵画について語る。まるで成長した自分の子供たち・・・その行いの全てにはとても賛成できないような煩わしい子供たち・・・について語っているかのように。

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 デュビュッフェは、仕事中の自分を観察して、素材の力強さ全てを把握し、その最良の部分を引き出そうとしている。50歳代のデュビュッフェの絵画は数多くあるが、そこには風景の中をうろつき回る人物がいて、目前で描かれた絵画の数センチ分だけしか先を見ることができず、風景の中で道に迷っているのだ。≪ウルループ》(1962−74)以後、80歳代の初頭まで、迷宮のただ中にいるかのように動き回るこうした人物たちに再会することになる。

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 我々がこの迷宮の中の人物たちに感じている複雑さや魅力を、彼らは迷宮に対して感じてはいないようである。この人物たちは、しばしば絵画の奥や緩から視線を投げかけ、その視線は絵画の外にまで延び、ぽんやりした様子で観る者を見つめている。観る者の目は自らが属しているはずの体を離れ、まるで絵画の中の小さな人物のように、瞳は目の輪郭の中をさまよっている。各々の人物像は無頓着に描かれており、その無頓着さのおかげで人物像は、そのフォルムや物語の構成原理がどんなものであれ、そのような原理を越えた正当性を持つにいたる。こうした「人間の似姿」はいずれも「普通の人間」の表象であり、この人間とは、言わば、自分が目にしていることに当惑させられている個人であり、それはそのまま自分が観ている絵画に当惑させられている観る者のイメージでもある。

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 デュビュッフェの仕事の頂点の一つは、50歳代の終わり、一見いかめしいく地肌学〉シリーズからなる。アルジェリア南部における滞在地の空虚で均質な拡がりが、かつてないほど人気のない均質なものとなってここに再び見出されるようだ。もし生命が石や土から湧き出るのだとすれば、興味深いことには、ここにはもはや石も土もなく、ただ一つの曖昧な世界があるだけだと気付かされる。その世界は、全くのところ、目眩がするまで眺められた夏の星空であり、あるいは動毛物の紺の断片であり、あるいは溝に沿って流れる一筋の水の一部でもあろう。しかしこれは単に外♯からの視線だけではない。絵画は、その表面の同質性とその構造の深さを通して、外へと自らを投げ放ち、視点をすっぽりと包み込んでいるように思える。これは切り取られて拡大された一部なのではなく、一つの宇宙なのであって、観る者はこの宇宙の中に巻き込まれ、孤立させられて、あたかもこの砂、あるいはこの息づく表面のほんの一部になってしまったかのように感じるのである。

 時に鮮やかな色彩を用いないことで、人物像をもっと巧みに絵画の地に同化させることが可能となる。やがて、登場人物の表面はその輪郭と同じくらい重要になる。その結果、内側の空間と外側の空間は混乱し、新しい人体の見方を告げることとなる。人体は驚くべき可塑性を備えた、限界を知らない素材に変わる。絵画はまるで、極めて起伏に富んだ表面、かきむしられ、掘り起こされた表面のように見える(デッサンを制作する際、彼はたびたびひっかきに適した黒い台紙を用い、画用紙の粗い紙質をあらわにした)。そういった制作方法は、彼の主題と完全に溶け合っている。ディドローがグルーズの絵画を賞賛するのに用いた表現、「描かれた肉体は、肌や大気の、透明さも震えも備えていない」は、デュビュッフェの場合とかなり異なっている。デュビュッフェが望んだのは、全く反対に、観る者に対して生理的な嫌悪という効果を生み出すことであり、それはエロティックな欲望が求めるような他人の身体の受容とは正反対のものなのである。すでに50年前、ジョルジュ・ルオーはこの同じ効果を、粗野な娯婦を青い色調で描くことによって手に入れていた。この両者に共通しているのは、主題から距離を置くことであり、無関心な態度であり、おそらくは人間性を排除することなのである。そしてそれは、残酷さと紙一重のものなのである。しかし、大部分はこの冷ややかな視線があってこそ、肖像画の存在感と、その登場人物の力を生み出すことができ、それはユーモアにより嫌悪感を増しているのだ。

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 「私は人間の似姿を(そして同じく私の絵画が扱っているその他諸々の主題を)、何ら美学を経ることなしに、打てば響くような地面の上に直接置こうと努めてきた」。彼が頼みとするのは、一見したところ大雑把にしか対象と似ていない、そのようにみえる盛り上がった描線である。太くぎくしやくしたデッサンが相手にするのは、諸々のフォルムではなく顔の凹凸、鼻の曲がり具合、顔の角張っていたり丸かったりする線なのであるあたかも田畑の一角を再現せねばならないかのようにして、彼は人物像を描く。「どういう点で一人の男の顔という風景が他の風景より面白くないのか、私には分からない。一人の男、一人の男の肉体を持った人格は、他の世界、町や郊外のある国と同じように、1つの小さな世界である

 概して肖像画において必要なのは、多くの一般性と、申し訳程度の個別性である。(略)一つの肖像画が真によく機能するためには、それがほとんど肖像画ではないことが必要である。もはや肖像画でなくなるほどまでに」。顔と身体は、あたかもぬかるみのような判然としない物質にまみれている。デュビュッフェの絵画を鉱物あるいは植物のようなものとして見ることもできるだろうし、まったく同様にコケや石を動物の外形になぞらえて表せることに驚きもするだろう。驚くことに、ここでは絵画は合理的な表象様式を離れて、現実についての前論理的な考え方に従っているように見え、その時、木々あるいは石は、一つの性と一つの身体を持つのである。

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 デュビュッフェは、造形の探求において技法がとても重要であることを認めている。まず彼が気づかうのはパテ状の素材とセメントを配合するための最良の媒剤である。彼は正確にバランスを取って細工を仕上げるが、それはまるで小鳥たちが巣を作りそれを補強する際の繊細な組積構造に似ている。1953年には、蝶をとらえて、その羽を用いるまでになる。そういった壊れやすい素材を収集する際に直面する困難から、彼は予め描いておいたカンヴァスを細切れにして、蝶の羽の代用品として用いるようになる。それが「アサンブラージュの絵画」である。一つ一つの絵画の断片が新たな地に図像を構成する。万華鏡の持っているようなプリズムの色とフォルムが、これら小さな絵画の表面をきらめかせ、その色の密度、フォルムの複雑さが、視線をさまよわせるとらえどころのない表面の効果を生み出している。絡み合った10あまりのヴィジョンが、それぞれの内に凝縮させられ、牧歌風の軽快な外観を示し、タイトルによっても効果を高められているようにみえる。そのタイトルは、庭についての豊かな経験を思い起こさせる。その庭では石と植物が、まるで生きて人格を備えている実体のようである。

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 デュビュッフェによって描かれた風景では、空は限られた場所しか占めておらず、それはたいても)の場合、ためらいがちな単純な余白に相当しており、そこではしばしば子供の描くような太陽が、無駄なく組み立てられた風景の中で、光源の代わりにアイロニーを発している。主要なテーマは確かに風景であり、つまりは一つの人工的な自然なのであって、それが現実の自然と共通することといえば、人間とは無関係に断えることなく続けられてきた営みである。彼の絵画と向かい会うとまずはじめに強く感じられる印象が、不快感であることも稀ではなく、この不快感は絵画が冷たくあしらわれて

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中に、様々に異なる瞬間の視線を合流させることである。その結果として生じるのは、音楽でポリフォニー[多音的]と呼ばれているものに類似したメカニズムである。(略)いつ何時であれ思考の中で起こってしゝることについて、一つの観念をもたらしたいと考えるならば、不協和音による不快な音に頼るほかないように思える」。

 彼の死後に出版された一連の長い問答集『折れた棒』を読んで理解されるのは、この思考のメカニズムが、画家の最後の大きな関心であったということである。デュビュッフェが自らに提起する問いは、芸術作品に限定された領域をはるかに越え出ている。彼が絵画と彼の思考を切り離すことがなかったのは、おそらくその思考のおかげで、憶測のうちに自らを見失なわずにいれたからである。画家として、彼はイメージにとどまるよう気を配り続けたが、そのイメージは、もはや外的世界とはいかなる相関関係もなく彼自身の内面で観察されたもののように思われる。彼は自給自足で思考し、描き、デッサンする。文通が彼の最後の拠りどころとなる営みなのだ。それは彼の知覚を目覚めさせておく一つの方法なのである。「視線はとても生き生きとしたもので、なにか他の対象に接するとたちまち飛び跳ねる。そして、一秒に千回も発火しては消え、途切れては再開される。そしてその間、視線は間断なく逆さになったり内側に裏返ったりして、眼差しの糸をとらえたり与えたり、与えたりとらえ直したりする。そして絶え間なくその糸を分泌する。これは切れてはまた再生し、その切れ端はいたるところに張られている。この糸を描くこともできる。それは素晴らしいことだ」。

 以前と変わらぬ強い喜びを、以前と同じく精妙に表明してはいるが、満ち足りて穏やかになったデュビュッフェに、人々は気付いている。もう美術館を破壊しようとはしないだろう。デュビュッフェは漠とし ひとけた人気のない世界を作り上げたのではなかったか。その世界で最後に認められる人間のイメージといえば、《小像のある光景》(1980)と、≪心理一光景≫、そして≪偶然の光景≫(1981および1982)というシリーズにおける小像だけである。奇妙なことに、ほとんど喜劇的で彩りに溢れるこの活気ある世界は、悲劇的な陰影を持っている。登場人物はやや呆然としており、まるで彼らを超越する現象にさらされているように思われる。現実は変形されてしまった。デュビュッフェは書いている。「自然界と呼ばれているもの、客観的現実と錯覚されているものは、実在という“未分化の連続体’’の中で思考を導くための指標に過ぎない」。もはや何も区別されず、すべては等価値のものとなった。思考だけが知覚され続ける。デュビュッフェの《照準≫(1983−84)≪控訴棄却≫(1984)の自由なフォルム、つまりその最後の諸作品が織りなす組織は、そこで対象に出会おうとする何者かが空虚の中で試みた身振りの痕跡を思わせる。そうしたフォルムは、一つの思考を現実にしようとする試みのようであり、そしてその試みから絵画が生まれるのである。この絵画こそ、昔抱いた熱望へ応えるものである。その熱望とは「作品の中にとどまり、取るに足らぬ無の境界ぎりぎりに身を保つ」ことであった。この時、明らかに、デュビュッフェはニヒリズムの道を現実にその果てまで行き着いたのであった。

 最後の〈控訴棄却〉から12年を経た今日、デュビュッフェの仕事は無限であり多様である。しかし、我々には、分厚い4巻の著作集や出版された書簡集があるし、他の様々な往復書簡も、デュビュッフェが設立した財団の図書館で参照できる。デュビュッフェの作品について知られていること、それにっいて極めて明確明晰に語られてきたことは、デュビュッフェその人に由来するものである。これは考慮に入れずにはいられない点である。デュビュッフェは申し分ない著述家であったがために、その思想を著述や何千という書簡の中で絶えず発展させていくような思想的な作家となりえたのだ。実際毎日のように、フランスや外国にいてデュビュッフェに語りかけるすべての人に対し、手紙は書き送られていたのである。

 デュビュッフェが作り上げたすべての作品に加えて、「生の芸術」という概念を発明したことも忘れてはならない。「生の芸術」は長年にわたって、その戦いにおけるデュビュッフェの愛馬であり、いまだ大芸術を信奉しているすべての者を笑い者にする道具であった。この概念を発明し、それを真剣にとりあげることのなかった芸術家たちの注意を促しつつ、デュビュッフェは、彼自身よく語ったように、「文化的芸術」に対し、その最も本質的な意義を自閉せよと迫ったのである。こうしてデュビュッフェは芸術を狭い枠に閉じ込めておくような考え方に抗して、自らの仕事を明らかにする戦いを繰りひろげたのである。彼はこの暴力的な戦い(いささか獣じみてさえいる)において、完膚無き(かんぷなき・徹底的に打ちのめすさま)決定的な勝利を手中に収めることになるであろう。

 自らの活動(千点あまりにのぽる絵画、「一時的な」あるいは壮大な彫刻、版画、デッサン)に加えて、それに対する発言を欠かさなかったので、デュビュッフェは絵画と芸術の知覚を著しく変容させ、そうすることで、現実の知覚さえも変えてしまい、現実は今我々がみるようなものとなったのである

 例えば壁、地面の一部、そしてテーブルは、マッソン、ブラック、マティスの時代よりはるかに不可思議な、全く新しい現象になったと考えられるだろう。もっとも、当時風景やガラスの水差し、肘掛け椅子は、すでに動き始めていたのではあるが。デュビュッフェの展覧会で数時間かを過ごし、通りに出て、認めるだけでよいのだ。デュビュッフェの作品のおかげで、その通りの世界・・・つまり歩道、水たまり、車、道行く人々、人々の顔、空、そして目の前をよぎり、精神に立ち現れてくるもの全て・・・は、汲み尽くしがたい真実の「精神の祝祭」に参加していることを。(国立近代美術館、ジョルジュ・ポンピドゥー芸術文化センター学芸員)