4.第三期記憶の劇場から控訴棄却まで(1974−1985)

160

 <ウルループ>への移住は、12年経って終わりを迎えた。母港への帰還は1974年9月(73歳)のことである。高地と低地、地と天が再びつくり直された。私たちの日常空間がそこに再構成された。あれほど長い間、遠い島(≪ウルループ≫という島のことを考えている)へ行ってきたあとには、すべてを原点に戻したいという欲求から、また別の島を見つけだすための新たな出発をしたいという欲望を生み出すほかはな い」。

170

 色鉛筆を用いて最近目にした風景と、人が暮らす光景を再発見した。前者は〈家のある風景〉(上図左)もしくは〈森の空地〉(上図中)であり、後者は〈人物のいる風景〉(上図右)である。コラージュを改めて導入したデッサン群の結果がこうした《鉛筆書き≫となる。

 デュビュッフェは自分の作品と著作の将来を気にかけて、財団を設立した。これは11月に公益事業として認可され、〈生の芸術〉を維持するために、そのコレクションをデュビュッフェはローザンヌに寄贈した。そこでは30年も前から、〈生の芸術〉の研究が始まったのである。

 1975年1月(74歳)、小冊子『仏教思想』が手元に届くと、その作者との長い文通が始まった。「私自身しばしば、私の絵画運動と仏教における多様な思想との間に、ある類縁関係があることを感じて・・・あるいは予感していた。この印象は、とくに≪地肌割に関して痛切にそれを感じた。(略)この絵画は、ラマ僧にとって役立つものだろうと思う。それ以外の私の作品には逆に、不明瞭で分化されていない連続体のみならず、個別的な事実、“非合理的で突飛な”事実がはっきりした形で見受けられるが、そうした作品の中で、私は日本の禅のことを考えた。(略)私は自分が、西洋のキリスト教的で、ヒューマニズム[人間中心主義、ヒューマニズム]的な思想よりも仏教思想にとても近いと感じる」。

172-118 173-119

 さしあたり、デュビュッフェは「物質性への欲求、堅固な大地に立ち戻る欲求」を抱いている。多作なこの年の絵画はすべて紙に描かれており、三つのグループに分類される。〈疑似数字〉(上図左)は、下地からくっきりと輪郭線が浮かびあがり、≪プラティカブル(実物舞台装置)≫のように「平行移動」の動きで生気づけられているようだ。第2の〈社交好き〉(上図右)についてはガエタン・ピコンの書くところによれば、「形が作られては壊れ、互いに被さりあう顔でいっぱいの漁獲罠・・・深海魚たちのように」である。第3のグループ〈不確かな肖像〉(下図左)では、いくつもの顔がそれをきわだたせる線の中に根づいており、それがやがて自由な運動を再発見すると、〈三人の人物のいる薔薇色の脚本〉(下図の下)となり、要約された場所となる。後者は、《鉛筆書き≫に近いもので、ここではついに新たな島の地面〈散歩の場所〉(下図右)が姿を見せる。

174-120 175-121 176-122

 その年の終わり、テーブルや床の上に重なり合った要約された場所の近作、そのたくさんの堆積された作品から、大きなアサンブラージュを制作しようと考えた。アトリエの壁全体に金属板をしつらえ、よく切れる裁ちばさみを準備して、最近の絵画から紙片を切り取ると、寄せ集めて磁石で固乱た(下写真)。こうして、初期の≪記憶の劇場≫が構成され、〈植民地の暮らし〉(下図右)はその一つである。

161 177-123

 「私はアサンフラージュを制作のなかでずいぶん多用した。(略)それぞれの独立した破片をくっつけるその[アサンブラージュの]原理は、物事の創造のためにはよい刺激となる。また、その原理はポリフォニー[多音性、多義性]を導いてくれる。何が精神を苦しめ、何が精神の翼を折ってしまうのか、それは物事を一義性へと収斂させる恒常的な磁力であり、精神を硬直化させてしまう磁力なのである。(略)ポリフォニーが精神をその磁力から解放する。同時に複数のものが存在すること[ポリフォニー]こそ精神になくてはならぬもので、そのとき精神は、自由気ままに飛翔する」。

 まもなくこれらの作品のために新しい絵画が特別に作られるが、作品が提示しようとするものは「異なった気分のうちにある、異なった場と異なった瞬間に属する場面や出来事である。それは私たちの記憶の中に生じる事態と同じだと言えよう。そのためには、いろいろな場面がそれぞれ別な処方で作り上げられねばならないと痛感している。ポリフォニツク[多音性]と呼ぶにふさわしい、あるいはむしろ“カコフォニック[不協和音]”と呼ぶにふさわしいアサンブラージュを作り出すことが出来るようになるためには、あらかじめ膨大な数の絵画が必要とされる」。

178-125 180-124 181-126

 それぞれの絵画が含んでいる紙片の数はまちまちである。〈板張りされた丘〉(上図右)は20点の紙片を含み、〈座標〉(上図左)は36点、〈楽しい散歩道〉(上図の下図)はわずか18点である。デュビュッフェは徹底した厳密さでモンタージュ平面を作り上げ、全構成要素の場所を定めると、その構成要素すべては壁に綿密に磁石どめされて、一つ一つ番号を振っている。その結果、構成要素の糊付け作業は職人に任せられているとはいえ、構想通りの絵画を完成させることになる。

182-127 183-128-129

 100点近い≪記憶の劇場≫は、このようにして、3年間かかって作り上げられた。はしごの昇り降りというハードな運動、地面をはい回っての手作業。その仕事の息抜きに、デュビュッフェはときどき座り込んで〈記銘Ⅳ〉(上図左)、〈木の光景〉(上図右)などのコラージュの連作を黒のフェルトペンによって描いた。これらの仕事は、1978年4月(77歳)に開始され、一年のうちに200点近くの作品が生み出される(下写真)。思い出さねばならぬのは、一つの絵画シリーズを終えると、しばしばデュビュッフェは、その仕事から「それと等価値なものを、白黒のデッサンという、より厳しいやり方で獲得し」ようとしたことである。

161

 このデッサンの幾つかは、つなぎ合わされて、一巻きのシルクスクリーン〈道程〉(下図左写真)の制作に使われるのである。紙に描かれた小さな絵画はといえば、こちらは丁寧に彩色され、やはりコラージュにより作られた。〈受け入れセンター〉(下段左)、〈侮辱〉(下段右)、〈対立〉(下図右)である。1979年の3月から12月まで、カデンツァ(独奏楽器がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏をする部分のことである)のように連続的に生み出され、≪劇場≫および《記銘≫の作品群に含まれている。

188-138185-2184-130-131-132 185-1

 デュビュッフェはすべての仕事をやめ、完全に休息しなければならなかったのだが、1980年4月末(79歳)に再び仕事を開始し、黒のフェルトペン、次いで墨による、200点の新しいデッサンを生み出した。そのチノサンでは風景が描かれ、その上には人物だけがコラージュされている(下図・3作品)。いくつかの作品は「白黒の斑点の荒々しいコントラストを楽しんでいる。(略)この《小像のある光景≫のなかで、このことは多少なりとも分かってもらえると思う。(略)この多視点的な状態というものは、空間をいくっかの領域に、程度の差こそあれ荒々しく分割し区別する。この領域は、(それ自体が人物像であるかのように)思い思いの大きさで描かれることが多い」。

186-133-134-135

 秋になって再び絵筆が握られたのは、新しい紙シリーズのためであったが、長い間放って置かれた絵画〈偶然の出来事〉(下図)も再開された。

187-136

 「《分割≫という名がこうした絵画全体に与えられたのは、それらを空間の分割と呼ぶことも出来るからである。(略)それぞれの絵画では、いくつかの領域が区分されている。(略)そこでは、ちようど望遠鏡の調節を変えたときのように、領域の中の一つのものから別のものへとスケールが変化する。その結果、様々なレベルあるいは様々な面から構成された一つの空間という効果が生じる。その空間では、高低、遠近はもはや、あまり明瞭ではない」。

 1981年の間まるまる、間断なくしかもますますピッチを上げて、紙にさらに小さなサイズで、個々のタイトルを持たない500点の《心理—光景≫が出来上がった。・・・仮に〈五人の人物のいる光景〉(下図左・右)、〈四人の人物のいる光景〉(下段図)と呼んでおこう。

189-139 190-140 191-141

 「(略)呼び起こされた光景についての、身体的であるよりはむしろ精神的な状態の方を強固なものにすること。(略)光景の理念に登場人物の理念が住みつく。(略)人物の理念は、一種の細胞とおぼしきもの。(略)空間の断片、明瞭な領域の内面にしばしば刻みこまれる。(略)登場人物たちに一つ一つの注意が注がれ、その人物たちは分割線によって固まれている。この分割線が人物を分離するのは、あたかも本のページの中の注目したい単語を鉛筆で囲むようなものである」。

 80歳の誕生日に際して、7月31日にグッゲンハイム美術館で展覧会が開催され、秋にはジョルジュ・ボンピドゥー・センターで《小像のある光景≫と≪心理—光景≫が展示された(下写真)。1982年1月には、東京の西武美術館、次いで大阪の国立国際美術館で回顧展が開かれた。

162

 フェルナン・ムルロの訪問に触発され、デュビュッフェはまた新たにリトグラフに関心を示し、随分と遠い昔のことだと感じていたこの技法を再開した。自分自身で作り上げることがなくても、彼はリトグラフのそれぞれのプロセスを忠実に追いながら、いついかなるときでも一徹に、驚くべき規則正しさで、来る日も来る日も石版を補正している。

 《偶然の光景≫の諸作品に至ると、今やその実在はただ人間の現前によってのみ確保されることになる。「光景を前にしての私たちの現前、光景に向けられた私たちの視線、光景に関して私たちが抱く理解(略)こうしたものを、この絵画は呼び起こそうと望んでいる。(略)この視線、この対峙(略)がこの絵画の主題である」。

 1983年2月(82歳)、《照準≫シリーズによって、前人未到の島への冒険がなされる。「(略)照準(mire)という言葉は二重の意味で用いられている。一つにはこの言葉が呼び起こすのは目標点、すなわち連続した広がりの中の厳密な一点に視線の焦点を合わせることであり、また一つには生(miroir)に映しだされた事物の外観である」。

 彼は何であるかを認織できるイメージに対して断固として背を向けている自分を、『根源的なレアリズム』の中で説明している。

 「(略)私はもろもろの事物をどんな用語集の成立にも先立つその出発点、原点に置き直したいと望んでいる。一つの名前を持ちうるようなものを私はもはや求めない。現実を参照しているのだと私に信じ込ませたがるような古い用語命名法から自由になりたい。(略)これからは新しいものに取り替えられた別の現実の中で生きたい。もはや現実を与えられたくはない。それを気ままに作り替えたい。(略)欲しいだけあるたくさんの現実から、それぞれがそれぞれの現実を根拠づけるのである。人が私に押しつけたがるある一つの現実に私の思想をあてはめる代わりに、私の望むレアリスムにしっかり足を降ろしていようと思うならば、むしろ逆に私の思想のイメージに、私自身の人工現実を合致させたほうが、ずっと健全だと思う。もはやその逆はありえない。私の齢になれば、人工現実に頼り、それを必要に応じて変更するのは、はなはだ心にかなったことである。今や、新しい視覚を存分に備え、世界のすべての出来事に関する記録を作り上げるところである。やらなければならぬことは多い」。

192-142 193-143

 ≪照準≫の初期連作が〈九龍〉(上図左)と名付けられた理由は、「地の黄色をみて、この黄色は中国の装飾に見られる黄色であるとしか思えなかった。(略)このような絵画は、中国の目抜き通りの店で看板として役立つだろうし(略)あるいは士大夫たちが行列の先頭に立てる旗として役立つかもしれない」。続く《照準≫の連作に〈ボレロ〉(上図右)というタイトルがつくのは、「(略)長いこと黄色の地に固執していたが、もっと心にしみる、劇的な言語をみつけたので、放棄した。その制作はただ、青と赤だけに頼り、地は白いままに放っておいた」。

 絵画のサイズは並べられた紙片の数だけまちまちである。こうして〈事物教程〉は32枚の紙片で構成されて、8メートルの長さがあり、今日ジョルジュ・ボンピドゥー・センターに収蔵されている。200点近いデッサンと、一連の「リトグラフ実習」がこの作品に関連している。

 翌年、ヴェネツィア・ビエンナーレのフランス館を占領した膨大な<順準≫の展示については、次のよぅな言葉が残されることになる。「もしここが日本ならば、デュビュッフェは、”人間国宝”の称号を得ることになろう。(略)当代もっとも洗練された画家の一人であるこの人物は、その自由な表現によって誤って未開人だと見なされている。」

 1984年春(83歳)、最初に黒く塗られた紙片にたどり着き、最後のシリーズとなる<控訴棄却(Non-lieux)≫にとりかかった。「(略)<控訴棄却>は私たちの悟性の枠組みに対する異議申し立てという点ではるか遠くまで達するであろう。タイトルが示すように、この作品は場の概念の妥当性と、したがって照準の概念の妥当性に異議を唱えている。同じく存在という概念の妥当性もまた、無に対立するがゆえに異議申し立てを受けるだろぅ。そこに導入される理念はさらに、私たちの思考の基盤それ自体にいくぶん抵触する理念であり、私たちの無の考え方は数学におけるゼロの考え方に照応するという理念である。ゼロは正と負の数の偏差中央項である。宇宙の仕組みの中には、数学の場合と同じように、正の力とまったく等しい働きをする負の力の帳簿もあると、私は信じるし、信じたい。正と負の間に設ける区別は錯覚でしかないと信じかねないほどである。活動的なニヒリスム、転倒されたニヒリスム、つまりは無と呼ばれるものの産婆術の大体を私は把握している」。

195-145-147

 夏の間(図59)、控訴棄却(上図三作品)の黒い線描が、便箋に書き付けられる。しかし、いかなる活力をもってか、絵画はまたもや一変させられてしまう。〈褐色の夜〉へと吹き抜けたのは、「身体を脱却して、非人間的な、しかも形而上学的ないしラマ教的と呼びうる気質へと向かう風」であり、それこそデュビュッフェが自分の大地に吹かせたいと大いに願ったものなのだ.。数年間つけられることのなかったタイトルが、しかもはなはだ明瞭なタイトルが現れてきた。〈体の失敗〉、〈止まらない流出〉、〈精神物理学領域〉、〈帰属〉、〈誰もいない空間〉、〈非在の活性化〉、〈ドラ マティック〉、〈イデオプラスム〉(下図左)、〈拡大領域〉、〈循環〉(下図右)である。

196-148 197-149

 「私は自分の列車を余りに遠くまで運転してきてしまい、機関車は脱線して、戻ることもままならない、ということは大いにありえよう。その点からすれば、存在と不在との間の区別を失って、絵画はもはや、使命を果たすべきなにものもなくなってしまったのだろう。(略)文字を削られた石版は、削られ過ぎたので石版ですらなくなってしまったのだ。こうなれば、画家はもはや荷物をまとめてしまうよりないだろう」。

 12月1日、デュビュッフェはこれっきりで絵筆を折ることを決意する。

ジャン・デュビュッフェ、1984年7月27日」eanDubu鮎t.1984

 42年のあいだ絶え間なく続いた仕事の終わりにこうした決心をしたとはいえ、デュビュッフェは、精神の「完全なるニヒリスム」という傾向にもかかわらず、1942年以来「酔いしれた踊り手」であり続けた精神の飛翔をそのままに保った。テーブルに肘を突いて前屈みになって座っている、その姿勢で脊椎の痛みをなんとかやり過ごしながら、もはや活動の出来なくなった自分に課せられた日々を引き延ばしているのである。画家の境遇を察していただきたい。

このような12月の朝、時間にせきたてられて、また新たな決意をする。

今となっては、おおまたで、しかも急ぎ足で、私の人生の完全な物語を作り上げよう」

 デュビュッフェの仕事は常に合理的思考の破壊や解体を追求し、現象の世界にいつも打ち勝ってきた。そして今「すべての事物、あるいは名付けられた形象のみならず、概念全体までもが実在することをやめる瞬間に」、デュビュッフェの思考が最後に役に立とうとするのは、日々記憶を働かせること、自分の実在から事物の行程をさかのぼること、埋もれた出来事を表面に浮かび上がらせることである。直接的なものの把握が、デュビュッフェには、慣れ親しんだ行為であったとしても、過去に沈潜することは大きな努力を要するであろう。デュビュッフェは仕事にとりかかり、1967年に著された2巻本『探索者』を読み返し、膨大な数の「資料的覚え書き」を集めた。

 同時に、デッサンする楽しみは残っていたから、便箋の上に色鉛筆と黒のフェルトペンで50点余りのデッサンを制作し《活性化≫(cat.no.150−152)と名付けた。このタイトルは、最後の形容語となったが、デュビュッフェが保持したいと思っていた状態を完璧に映している。活性作用が思考を強く刺激して、デュビュッフェは鋭敏になって、その思考を生き生きと刻むことが出来た。

198-151-150 199-152

 1985年2月12日(83歳)、このシリーズが終わると、デュビュッフェはドンキホーテのようなユーモアを漂わせながら独りごち、微笑みをたたえた両目の明るい青いまなざしで相手をまっすぐ見つめ、重みのある調子で説明した。「想像の世界は現実世界に勝る。ここにその報告がある」。その後の数日を占めたのは、『駆け足の自伝』を作るのに発揮された並外れた活動力であり、それは3月25日に完成した。

 いつも机に向かっていた。机は変わらぬ友であった。新たにサングリアとセリーヌを繰り返し読んだり、文通相手の手紙に返事を書いて、長い時間を過ごした。心はますますニヒリスティックになっていくにもかかわらず、相手に示す好意には波がなく、感嘆すべきものがあった。「自分の領海の外へと向かう航海」に心惹かれながら、緑に息づき葉を締めて反り返る椿を見て、「まだ生きているのだろうか、それともそんな振りをしているだけなのだろうか、それが問題だ。私自身もまったく同じようなものだ」。

 毎日を経ずして、4月17日、色鉛筆は何週間も使われぬまま、本や書類の山の近く、デュビュッフェの眼前に置かれていたが、それが彼の思想の最後の表現を生み出した。生の果てのデッサン、〈無題〉(下図)黒い縞を付けられた紺碧の地の上に、霊体が浮かんでいる。

200-153

 ジャン・デュビュッフェ、1985年5月12日、パリの自宅で没。

1996年12月