ケーテ・コルヴィッツ

■ケーテ・コルヴィッツ美術館

グートルン・フリッチュ

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 苦悩に満ちたケーテ・コルヴィッツの人生の人間的側面よりは、すぐれた芸術的能力、作品の卓越した美学性に主眼をおきたいと思います。とはいえその高潔さと人間性とは私たちにとって手本とすべき姿です。芸術性と人間性の両方を視野に入れることが望ましいことはいうまでもありません。

 ケーテ・コルヴィッツ(旧姓シュミット)は1867年7月8日、ケーニヒスペルクに生まれた。4歳になった1871年は、ドイツ帝国が発足し、ベルサイユでヴィルヘルムー世のドイツ皇帝即位が全世界に知らしめられた年であった。1914年8月1日に第一次世界大戦が勃発し、その年の10月、次男ペーターが戦死した。このときコルヴィッツは47歳で、ベルリンに暮らし始めてから23年がたっていた。1918年(51歳)、戦争が革命へとなだれ込み、1919年、皇帝ヴィルヘルムニ世が退位してワイマール共和国が成立したとき、コルヴィッツは51歳だった。66歳になった1933年には、ドイツ初の民主主義の崩壊が決定的となり、1月30日のヒトラーの首相就任とともに第三帝国である国家社会主義党(ナチ党)の独裁へと急速に進んでいった。1939年、72歳のときに第二次世界大戦が勃発し、1942年には初孫が戦死した。そして1945年4月22日(77歳)、第二次世界大戦の終結を見ることなくドレスデン近郊のモーリブノブルクでその生涯を閉じた

 こうした事実からだけでも、彼女の人生がいかに波乱に満ちていたかがわかる。これらに正面から向き合ったコルヴィッツの人生には、その時々の出来事が反映されている。そしてその痕跡は今日にいたってもまだ、良かれ悪しかれドイツという国の歴史と性質や、人々の精神的状況の中に見出せる。コルヴィッツの伝記は教育があってリベラルで、進歩的な考えを持っていた当時のドイツ市民の運命と、彼らが受けた影響の典型例として読むことができる。1943年(75歳)、コルヴィッツの芸術を敵視する国家社会主義支持者から意見を求められて、「芸術家というものは、多かれ少なかれその時代の子なのです。自分自身の発達時期が社会主義の初期の時期にあたったのであればなおさら。私の発達時期も社会主義初期の時期にありました」と述べている。

 ベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館(私立)のコレクションの前に立つとき、私たちは彼女のこのような人生に思いをはせる。この美術館の展示品のほとんどがその多様なライフワークで占められている。美術館の創立者であるハンス・ペルス・ロイスデンはコルヴイッツの素描、版画、彫塑に魅了され、そのコレクションがこの美術館の収蔵品の基礎となった。1968年以後、多くの重要な収集が個人の手で行われ、この美術館に長期貸し出しという形で提供されている。今回日本で展示される作品はいずれも選りすぐった作品ばかりであり、さまぎまなテーマで選ばれている。以下にそれらのテーマについて述べていこう。

■自画像 

 コルヴィッツは「人はあらゆる物事に熱心に興味をもって生きるべきだ」という信念どおりに生き、自分のありのままの姿を自画像に写し取った。彼女ほど自分自身の顔と熱心に取り組んだ美術家はそう多くはない。そのため「女性版レンブラント」と称されることもある。25-4-5

 生涯にわたってほぼ毎年のように描いた100点以上の自画像から、今回の日本展には重要なものが選ばれている。彼女が残した膨大な数の自らの観察記録は、「私は何者なのか」という昔ながらの根源的な問いに対する答えの探求ととらえることができる。彼女が書き記した数々の人生の記録の中でもこの問いは繰り返し現れる。この自己探求の姿勢は、自分の顔を描く際に、つとめて客観的であろうとする冷静さ、無慈悲さともー致している。一連の自画像にはもう一つの動機もある。それは、普段は押し殺しているが、体から力が抜けるほどの陰鬱な感情を、絵に閉じ込めることで克服したいという強い望みである。

 1890、91、92年頃制作の自画像(上段図左・中)や素描≪バルコニーの女性自画像》(1892−94年頃)(下図)のような初期の自画像には、写真でいえばスナップショットのような特徴がある。それはプライベートな情景で、自然で直接的な表現であり、その場の一瞬の空気をとらえたものだ。

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 しかし後の時代になると、彼女の自画像には豊かな人間性が現れてくる表情の一つ一つに個人生活の労苦や喜びの経験が反映されているだけでなく、人生にはつきものの、人間にとっての本質的な苦痛と喜びが表現されている。だから私たちはその顔に自分自身を重ねることができるのだ。

 ≪笑う正面向きの自画像》(1888/89年頃)(最上段図右)は、初期のコルヴィヅソの自己記鐘の自然さと、後の自画像の持つ訴求力という二つの特徴を備えている。また、人生の喜びを屈託なく表している自画像は数少ないので、その一つという点でも貴重なものだ。ミュンヘンの大学で学んでいた21歳の頃、彼女自身の言葉によると、楽しい環境を十分に満喫していたときの自画像である。非常に生き生きとした目で見る者を見据えており、まるで、人生は力強く征服していくべきものだと説得しているかのようだ。

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 1922年(55歳)の木版(上図左)もまた、見る者がコルヴィッツから個人的に問いかけられているかのように感じる作品だ。その濃密さは、彼女が再び歴史の大変動に巻き込まれたことと深く関わっている。その人生を大きく揺るがした最初の出来事は第一次世界大戦であり、それによって息子のベーターを失うという辛い体験をしたが、また半面では戦後の民主主義によって彼女の人気が高まるという喜ばしい結果もあった。こうした意味で1934年(67歳)のリトグラフの自画像(上図右)も重要である。

 この自画像が描かれた前年、ヒトラーが政権を掌握した。それはコルヴィッツにとって、第一次大戦に次ぐ衝撃的な出来事だった。またこの自画像は、1934年のアカデミー展で発表するのをまだ許されていた最後の作品の一つでもある。コルヴィッツはこちらをまっすぐに見つめている。その表情には反抗的な自己主張が、いやほとんど戦いをいどむかのような表情が表れている。しかし見る者にはこの表情が含む意味が読み取れる。額に当てた指が見る者に対する距離を生み、懐疑的な雰囲気を醸しだす。なんとも雄弁な沈黙を放つ自画像である。

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 1936年(上図左)と1938年作と思われる(上図右上)二つの自画像が描かれたのは、画家が69歳と71歳の時だった。これらの肖像画には彼女自身の表情というよりは、老齢によって人が衰えてゆく様子のほうがより強く描かれている。1936年の黒チョークで描かれた自画像では、ひと固まりのような姿と独特な姿勢のこわばりから、身体の衰弱と加齢による精神的な疲労感がにじみ出ている。自画像の習作も多数あるのでそれらも参照してほしい。これらはいわゆる“変装した自画像”と呼ばれ、コルヴィッツの顔をしていてコルヴィッツの作品に登場するものの、自画像とは言えない数多くの女性像である。私たちはこの女性像の中にそれぞれの感情を持った彼女自身の姿を認めることができる一方で、自分自身を客体化し、創作上の材料として使い、それぞれのテーマを表現する媒体として自身の姿を提供しているコルヴィヅソの姿を見出す。こうした一連の自画像は、例えば≪死と女と子ども》(1910年)(下図)という木炭素描などと同じように、習作として描かれたものに違いない。83-63

■キリスト教的絵画の伝統、象徴主義、近代との間で

 「私が作品を生み出す力、それが宗教となんらかの関連があるのかどうか、私には今もってわからない‥・」。自分の作品の宗教的解釈を扱った1925年の研究書の前書きに彼女はこう書いた。けれどもコルヴィッツが、原始キリスト教的な考えが強い精神的環境で育った・・・祖父ユリウス・ルップはケーニヒスペルクで自由福音派を設立した人物である−ことを考えれば、その作品をめぐる宗教的な解釈というものもまったく的外れとはいえないだろう。1926年に、息子のハンスに「私は信心深い人間ではない…」といっているが、その一方で、手紙だけでなく日記の記述からも、キリスト教美術と取り組んでいることがわかる。彼女の作品の中にはタイトルからでも即座にキリスト教絵画の伝統に起源をもつモチーフだとわかるものもある。≪踏みにじられし着たち》(1900年)(下図の上部と下左部)は、キリスト教美術の伝統と結びついていると同時に、コルヴィッツが高く評価していた美術家、マックス・ダノンガーの象徴主義との関連もある。

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 トリプティーク、つまり三幅対のように構成されたこの作品は、左右に二つの翼部がついている見慣れた祭壇画を思い起こさせる。特に棺台の上の遺体がキリスト哀悼の図像の形式を踏襲しているのは明らかだ。この作品より少し前に制作された《「多くの傷口から血を流す汝、国民よ」》(下図)でもタイトルに意味が込められている。ここでは、棺台に安置された遺体は責めさいなまれた民衆を象徴している。剣に寄りかかって死者の上にかがみこんでいる人物は「生命」とも、革命的な未来への希望である「復讐者」ともいわれ、さまぎまな解釈がある

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 中央部分の両側には、苦悩に生きる民衆に残された2つの悲しい選択肢が描かれている。左側にはロープ、つまり自殺が描かれる。それは失業と病気という悪循環から逃れる最後の道だ。右側の部分の手前には「苦しみの拷間柱」にくくりつけられた裸の女性。苦痛から逃れる道は後方に立っている裸の女性の姿で表されている。問いかけるような、説得するようなしぐさからすると「誘惑」または「売春」と理解できる。

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 同じような転用は≪カール・リープクネヒト追悼》(1920年)(上図上・下)でも歴然としている。ここでは「キリスト哀悼」の図像タイプが、殺害されたドイツ共産党創立者の一人であるリープクネヒトに労働者たちが別れを告げる場面に置き換えられている。それによって死んだリープクネヒトは、人間の罪を引き受けたキリストのように、自らの信念のために罪なくして苦しまねばならなかった殉教者のような趣を獲得している。また同時に、リープクネヒトを悼む人々の訴える力も高まっている。前述のエッチング《踏みにじられし者たち》でも痛めつけられたキリストの体の表現が比喩的な意味で使われている。また、木版画≪マリアとエリザベツ》(1929年)(下図)では「聖母マリアのエリザベツ訪問」というキリスト教の主題が扱われている。

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 1909〜10年に制作された「別れ」をテーマとする一連のスケッチでは、「キリスト降架」の図像が表現されているのはあきらかだ。本展に出品されている≪別れ》(1910年)と≪死と女と子ども》(1910年頃)(下図左)という2点の素描では、母にのしかかる死んだ少年の上体に、十字架から降ろされるキリストの命のないずっしりと重い体を見出すことができる。それはまるで「キリスト降架」の一部のようだ。おそらくミケランジェロの≪ロングニーニのピエタ》からイメージを得たと思われる≪浮上する死と若者》(1922/23年)(下図右)のスケッチもキリスト教絵画の伝統にのっとっている。死んだ青年の体からはすべての重さが抜け、死に抱かれて地上の生命は残っていない。これは死者の魂が無垢な子供の姿をとって昇天してゆくという宗教的な表現を思い起こさせる。

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 「聖母マリアの庇護のマント」というキリスト教の考えも、コルヴィッツによって新しい意味がもたらされた。彼女の最後の版画作品で、珍しくリトグラフで制作された《「種を粉に挽いてはならない」》(1941年)(下図)は、あきらかにこのキリスト教絵画の伝統からモティーフを借用しており、また同時にドイツ表現主義の版画芸術の中でももっとも印象深い古典的な作品のひとつである。

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■情熱の彫刻家

 コルヴィッツは1904年(37歳)、パリのアカデミー・ジュリアンに長期滞在中に彫塑の基礎を学んだ。この時に、「三次元的なるもの」へのあまり報われなかった愛に目覚めた。日記には自分の彫塑能力に対する深い絶望が一貫してつづられているが、晩年になってさえ「生まれ変わったら今度は彫刻だけに専念したい」と望んでいた。彼女はすべての彫塑作品を粘土で作り、それを石膏取りし、細かい作業はその石膏像に施した。生存中にブロンズ鋳造された石膏像はほんの少ししかない。また彼女は、自分でも非常に残念がっていたとおり、自分自身で彫ることはできなかったので、石像や木像を制作することはなかった。父と母の像からなる戦没者記念碑や《母と二人の子》(下図)など、石を使った数少ない作品は、熟練した彫刻家の手によるものである。

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 ベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館にはすべてのブロンズ鋳造作品が所蔵されている。その彫塑作品には、基本的に次の3人の彫刻家の影響が見られる。まずあげられるのがミケランジェロ(ブォナローテイ、1475−1564年)で、1907年のイタリア滞在中に作品に触れ、自室の壁にフィレンツェのメディチ家の墓の像の大きな写真を貼って常に眺めていた。次がオーギュスト・ロダン(1840−1917年)である。ロダンにはパリで直接会っており、日記にもしばしば登場する。3人目がコルヴィッツにとって重要な同時代人、エルンスト・バルラッハ(1870−1938年)だ。

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 バルラッハが亡くなった暗に彼女は、その死と、第三帝国政権下で受けている不当な抜いを悼んでレリーフ《嘆き》(下図左)を制作した。コルヴィゾソはかならずしもパルラッハの作品のすべてを高く評価していたわけではない。それだけに、この2人の芸術家の関係には興味深いものがある。コルヴィッツはバルラッハの特色のなかのある部分を認めなかった。そこにおのずと彼女自身の彫塑に対する独自な考えが現れている。たとえば彼女は図式化された形態を批判しており、我々はそこに形態に対する彼女の考えを知ることができる。コルヴィッツは、自然に対して非常に忠実である一方で、「自然によって支配されない事象の本質的なもの」を重視した。つまり「身体的な特徴」だけを重視したわけではなかった。表面的な姿かたちの中に存在する理念的な形態を暗示し、注意深く簡素化することで凝縮してみせることと、個々にあらわれている自然の特徴に忠実であること、この二つの極のあいだに生まれた緊張感のある空間でこそ、コルヴィヅソの彫像は動きを獲得しているのだ

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 戦没者記念碑の計画の際、求める形態についてコルヴィッツははっきりこう述べている。「リアルではいけないけれども、私たちが熟知している人間の姿でなくてはならない…ただしそれは特別に浄化された形である必要がある。」

 コルヴイツツが多くの記録を文字で書き残したのは、版画や素描ではなく、まぎれもなく彫塑作品についてだった。まるで彼女は彫塑を自分の芸術家としての能力の試金石とみなしていたかのようだ。三次元の作品を展示することにためらいがあったのはまさに、そのせいなのかもしれない。1916年(49歳)に初めて彫塑作品≪恋人たち》(1913/15年)(上図右)を展示したのだが、たしかにそれは成功とはいいがたかった。

■労働者の世界

 当時の主流だった古典主義的な芸術の理想に対抗して、草創期の自然主義者たちが掲げた挑発的なモットーは「美しさ、それは醜さだ」というエミール・ゾラの言葉だった。

 若き日のコルヴィッツもまた、「私が美しいと思ったのは、ケーニヒスべルクの荷運び人であり、民衆の動きのダイナミックさだった」と述べている。

 彼女が「過酷なプロレタリアの生活の困難さと悲劇」にじかに触れるようになったのは、結婚してベルリンの労働者階級の住む地域に引っ越してからのことで、医師である夫の仕事を通じてだった。コルヴィッツはこう書いている。「夫に、そして私にも、助けを求めてやってくる女性たちを知るようになると、私はプロレタリア階級の人々の運命とそれに伴う現象の重さをずしりと感じるようになった。売春や失業という未解決の問題が私を苦しめ、不安にさせ、私が下層階級の人々を描くようになったのもそのせいである。」また、自分の身の回りで経験した事柄を観察して日記に記してもいる。

 労働者階級の家族の困窮や困難についての経験は、1908年(41歳)と1909年(42歳)の素描に主として反映され、風刺週刊誌『ジムプリツィシムス』で発表された。この雑誌には1911年までに全部で14点のコルヴィッツの作品が発表され、うち6点は連作『苦しみの図』としてまとめられ、その他はそれぞれ独立した作品として掲載された。本展ではこのうちの3点がオリジナルで出品されている。≪酔っ払った男》(1908/09年)(下図左)、≪クリスマス》(1909年)(下図中)、<失業>(下図右)である。コルヴイツツが『ジムプリツィシムス』で特に重視していたのは、この仕事によって「自分がいつも興昧を引かれていて、しかも長いあいだ語られてこなかったこと一つまり大都市に住む人間の、時にひっそりとした、また時には騒々しい悲劇を、大勢の読者に向って今までより頻繁に発表できる」ことだった。

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 コルヴィッツにとって悲劇という言葉は大きな意味を持っていた。《酔っ払った男》の視点は、その状況に苦しんでいる人々の視点である。見る者にとって、酔っ払いは、おびえきった妻の目から見たのと同じように、妖怪じみて巨大で、何をしでかすか予測不能の恐ろしさがある。こうして描かれた悲惨さは、労働者の家庭の危機に対する見る者の共感を掻きたてずにはおかない。コルヴィッツの共感を非常に強く表しているのが《飢餓第2葉のための試作(不使用)》(1925年頃)(KaトNr.109)と木版画連作『プロレタリアート』第2葉(1925年)だ。本展に出品されている8点の試し刷りからは(Kat.−Nrn.110−117)、彼女が、苦闘を重ねた末にやっと満足のいく形態にたどりついたことがわかる。白の不透明絵の具を含ませた筆で、後に版木に彫るべき線をなぞっていたことも見て取れる。これらの作業途中の版画は非常に注意深く観察する必要がある。ケーテ・コルヴィヅソ美術館ベルリンがこれらを入手したことは非常な幸運といえる。コルヴィッツがいかに労力をかけ、いかに自分に厳しい目で作品を観察して作り上げていったのかを、美術館を訪れる人たちに示すことができるからだ。《飢餓》だけが特別なのではない。コルヴィッツの作品すべてについて同じことが言える。他にも、修正を加えた試し刷りや、≪飢餓》と同じように何段階もの作業を重ね、たいへん苦労して形を見出したことを証する作品の数々があり、それらはすべて、一つ一つが作品として成立している。これらの試し刷りはどれも、作者の創作の跡をはっきりと示す特別なものだ。そこに残された表現がコルヴィッツの日常に関する何かを語っており、当時のアトリエに漂っていた雰囲気の一端を伝えてくれている。

 労働者の世界というテーマには、コルヴィッツがポスターで展開した社会批判も含まれる。ポスターとビラは、例外もあるが、そのはとんどがワイマール共和国時代に制作されており、この時代は彼女の人生でもっとも高い名声を得ていた時期である。この人気のおかげでコルヴッツは、自分のポスターで取り上げたライトモティーフにもあるように、「人々がこれほど途方にくれ、救いを求めている時代だからこそ、私は活動したい」(1922年・55歳)という責務を負うことになった。そして自己への疑問に苦しみながら、「私はいまだにどの政党に属するか決めていないことが恥かしい。どの党にも属していない理由はたぶん臆病さなのだろう」(1920年10月)と政治的立場について語っている。

 コルヴィッツの政治的立場の不明瞭さはポスターにも表れている。ポスターはひたすら人間の苦悩を表現する空間としてだけ存在しているかのようだ。政治色の強い同時代の他の芸術家たちが、苦悩の社会的原因に人差し指を突きつけて示したような表現は、彼女の作品には見られない。コルヴィッツは現に目の前にある具体的な窮状に対する直接的な対策を訴えていただけである彼女が公にアピールした問題は、貧困や住宅の欠乏、投獄、繰り返されて止むことのない飢餓と戦争といった事柄ばかりである。

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 1906年と1925年の≪ドイツ家内労働展のポスター》(上図左・右)を理解するには知っておくべき事柄がある。当時の繊維業界で重要な役割を果していた家内労働は、労働者階級の女性が家族を養う収入を確保できるほとんど唯一の仕事である場合が多かった。家内労働とはつまり夜間労働を意味していた。主婦は、昼間は一日中、家事に追われているからだ。1906年の家内労働展用に制作されたリトグラフでは、過労と絶望的な疲弊の人生を歩んできた女たちの顔に、その痕跡が刻み込まれている。当時、労働者家庭の社会的現実をこのように解釈することは大きな論議を呼んだ。展覧会の開会を宣言する皇后が、このポスターが貼られている間は開会宣言を拒否したことからもその波紋の大きさがわかる。1925年(58歳)に同じテーマで開催された展覧会では、疲弊と絶望の表現に情熱的な表現力が加わっているその際の重要な表現手段として腕と手が用いられている。

 また時折は、楽しいできごとや、日常のささやかな喜びを描いてもいる。それもまた労働者の生活の一部なのだから。《身を屈める左向きの子ども》(1908年頃)(下図左)、エッチングとリトグラフの《おしゃべりする女性たちと2人の子どもたち》(1928、1930年)(下図右)などがそれである。習作素描には乳飲み子もよく現われ、人生の楽しく明るい一瞬を感じさせてくれる。

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 幅広い作品群の中には、初期の二つの連作、『織工の蜂起』(1893−98年)や『農民戦争』(エッチング、1901−08年)もある。コルヴィッツが版画連作に取り組んだのは、文学や歴史上の出来事の表現に年割こ適した新しい表現形式としてマックス・グルガーが賞賛したからだった。ちょうど演劇を見ているように、版画連作では場面ごとの説明が見る者に対して行われることになるのだ。

■戦 争

 「1914年8月」‥・コルヴィッツのその日の日記にはただひとこと、「戦争」とだけ記され、あとは余白のままだ。この一つの節目、そこから、第一次世界大戦の勃発が彼女に与えた傷の深さが読み取れる。長男ハンスはすでに新兵として徴兵され、次男で18才になるベーターも、志願兵として出征することに同意してほしいと両親に懇願した。コルヴィッツも夫も、戦争に対して世間一般の人々のような高揚感は持ちあわせていなかったものの、ベーターの意思を尊重した。ベーター・コルヴィッツはその年の10月、フランドルのディクスムーデ近くの西部戦線で、到着後わずか数日にして戦死した。息子の死がコルヴィッツにどれほどの衝撃を与えたかは、翌年の日記から読み取れる。ここでは1917年10月(50歳)の記述を引用するだけで十分だろう。「あのときから私の老年は始まった。墓に入るべき存在であること。あれがきっかけだった。」

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 1916年以後の日記には、「戦争」というテーマを版画にする計画についてのメモが頻繁に登場する。しかしようやく7枚の木版画、『戦争』連作を完成させたのは長い制作期間ののち、1922/23年のことだった。初期の習作と完成作との間には、時間的な隔たりだけでなく、息子の死に対する痛みが徐々に客観化されることで可能になった内面的な距離がある。作品による追悼が成就するまでには熟成プロセスが必要だったのだ。エッチング連作からリトグラフヘ、そして木版画連作として最終的に完結するまでの一連の浄化過程で、連作の区切りごとにその段階を見ることができる。コルヴィッツはこの連作の中心的な3作品≪両親》(上図)、≪寡婦 l》(KaトNr.110)、《寡婦 Il》(下図)で、自分と同じように戦争で直接的な傷を負った人々、戦死した兵士の遺族の視点をとっているが、個人的な哀悼の気持ちを表現するだけでなく、それ以上の意図をこめていた。

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 彼女のさらに大きな目的、それは「これらの作品が全世界を巡って、すべての人々に、これこそが、あの言葉にならない困難な年月のあいだ、私たちが耐え忍んできたことなのだというメッセージが伝わることを願う」(1922年10月・55歳)ということだった。しかしこの木版画連作を反戦プロパガンダと解釈するのは誤りだろう。コルヴィッツがこの作品に託した重要な役割については、日記の記述の多くの箇所から読み取れる。『戦争』連作の第1葉≪犠牲》(下図・左右)には、直立する裸体の女性像によって、まさに犠牲を差し出そうとするときに起こる感情の分裂がはっきりと体現されている。彼女は新生児を半分は世界に差し出しつつも、半分は引き戻そうとしている。仮面のように凍りついた顔には、痛みと同時にこれを克服しようとする強い意志が現れている。

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 第2葉≪志願兵》にはまぎれもない両面性が込められている。トランス状態が次々に感染したような若者たちが死神という先導者の太鼓のリズムに率いられているのを見ると、≪志願兵》というタイトルが非常に疑わしく感じられる。彼らはまるで、開戦前後の時期にドイツ社会に蔓延していた戦争支持の声によつて集団暗示にかけられた従順な犠牲者たちのようだ。若者を夢中にさせて戦争に駆り立てることに対して、コルヴィッツは1916年の時点ですでに疑問を呈していた。

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 「戦争」をテーマとする一連の作品のうち、最後の重要な作品は特に注目に値する。第二次世界大戦中の1941年、リトグラフ≪「種を粉に挽いてはならない」》(上図)が制作された。第一次世界大戦終結の直前、コルヴィッツはゲーテのこの言葉を改変して、これ以上無駄に若者の血が流されるのを食い止めようという呼びかけに使った。そして1941年12月、日記にこう書いている。「またこれが繰り返されるとは、なんて奇妙なことだろう。これで3度目になるが、もう一度同じテーマを取り上げることに決めて、数日前、ハンス(長男)に、≪「種を粉に挽いてはならない」》という作品は私の遺言なのだと伝えた。このところいつも心臓のあたりが重苦しい感じがする。私はもう一度同じことを描いた。少年たち、まさにベルリンっ子の少年たちが、若い馬のように懸命に外の様子をうかがおうとするが、一人の女に押さえつけられている場面だ。その女(老女)は少年らにマントをかぶせて、腕と手で力ずくで押さえつけている。《「種を粉に挽いてはならない」》、これは≪「二度と戦争はしない」》と同様、憧れをこめた希望などではない。これは要求なのだ。」

 2005年4月22日はケーテ・コルヴィヅソ没後60年目にあたり、また5月8日にドイツは第二次世界大戦終結から60年目の日を迎えました。ベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館にとって、日本でコルヴィッツ展を行うことは非常に大きな意味があります。それは、このような歴史的な観点からだけではありません。コルヴィッツの芸術のなかに、私たちが生きている今現在の社会に直結する現代性があるからです。(翻訳:大山美由紀+佐川美智子)