サムフランシス(年譜と作品)

[デブラ・バーチェット=リア/編訳:前田希世子]

■1923-42(~19歳)

 1923年6月25日、サミュエル・ルイス・フランシス、カリフォルにア州サン・マテオに生まれる。父サミュエル・オーガスタス・フランシスは数学教授、母キャサリン・ルイスは優れたピアニストでありフランス語教師であった。弟ジョージ・コナント・フランシスが1926年5月5日に誕生。母はサムが12歳の時に亡くなり、数年後父はヴァージニア・ピーターセンと再婚。18歳で、サン・マテオ高校を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校に入学。植物学を専攻するが、後に医学、心理学、東洋哲学、特に禅思想を履修。

■1943-45(20~22歳)

 1943年、第二次世界大戦のため、大学を離れ戦闘パイロットになるべくアメリカ陸軍航空隊に入隊1944年、試験飛行中に飛行機がアリゾナ州トウーソン近郊の砂漠でガス欠になる。緊急着陸の際、脊柱を損傷し、脊髄結核(カリエス)と診断される。1年以上にわたり、全身ギブスで身動きがとれなくなる。入院生活の退屈さを紛らわすため、セラピーとして水彩画を与えられ、21歳で絵を描きはじめる。初めての絵は、テンペラと水彩顔料で必要な色をつくり、風景、海景、人物を模写したもので、シュルレアリスムの影響が色濃かった。結核の脅威から、サンフランシスコにあるフォート・マイリー復員軍人病院に転院し、そこで数年間隔離状態で療養する。この回復期に画家デイヴィッド・パーク(カリフボレニア美術学校の教師)に出会う。

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 見舞いの際に、パークはパウル・クレー、ジョアン・ミロ、そしてパブロ・ピカソの絵の現物をサンフランシスコの美術商シャーロット・マックから借用し、持参している。パークはさらに、フランシスのためサンフランシスコのカリフォニア・パレス・オヴ・リージョン・オヴ・オナー見学の手筈(てはず)まで整えた。この頃フランシスが読んだハインリヒ・ツインマーの『王と死体』と打ンド・アートー神話と象徴』は生涯の愛読書となる。

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■1946-49(23~26歳)

 デイヴィッド・パークの力添えで、フランシスの海景の水彩画がサンフランシスコ美術館で開催されたサンフランシスコ美術協会の「第66周年次展」に出品される。同展には1948、49、50年にも出品。また同美術協会がデ・ヤング美術館で催した展覧会とアメリカ芸術協会の巡回展に絵画作品を出品。1947年、カリフォルニア出身の画家フレッド・マーティン(後のサンフランシスコ・アート・インスティテュート館長)と出会い、友人となる。また作家バド・ハリスやジェイ・デ・フェオ、エルマー・ビショフ、フランク・ロブテル、ハッセル・スミス、リチャード・ディーベンコーン(後にサンタ・モニカでスタジオを共有する)と出会う。退院し、軍を除隊。幼なじみのヴェラ・メイ・ミラーと結婚1948年、カリフボレニア大学バークレー校に復学し、絵画と美術史を専攻する。結核の進行は抑えられたものの、鋼鉄製の固定器の着用を強いられ、授業は欠席しがち。1949年10月に文学士号、1950年に文学修士号をそれぞれ取得。エドワード・コーベット、ジェイムズ・マクレイ、ハンス・ホフマン、クリフォード・スティル、ウィリアム・バジオテスに影響を受ける。画家ミュリエル・グッドウィンと出会い、翌年一緒にフランスヘ旅立つ。

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■1950(27歳)

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 ヴェラ・ミラーと離婚。ミュリエル・グッドウィンとともにパリに移り住み最初の5年間テ・オド・セーヌ(サン=ジェルマン=デ=プレ、セーヌ通り52番地)で生活。短期間クリシー大通りにあるフェルナン・レジェ美術学校で学ぶ。フランシスの当時の仲間にはシーモア&イレイン・ボードマン、ノーマン・ブル「ム、ローレンス・カルカーニョ、シャルル・エティエンヌ、ルース・フランケン、キャロル・ヒーラー、アル・ヘルド、フィリップ&オルガ・オジアソン、ジョン・ハルトバーク、レイチェル・ジェイコブズ、シャーリー・ジャヅフェ、ジョーン・ミッチェル、ピエ「ル・シュネデール(シュナイター)、キンバー・スミスらがいた。同時にアルベルト・ジャコメッティ、プラム・ヴァン・ヴェルデ、ミシェル・タピエ、マックス・エルンスト、ドロテア・タニンクとも交友。「ホワイト・ペインティング」を制作、構成的にはキャンウラスの周囲から始め、中心へ筆を進めていった。

■1951(28歳)

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 パリ市立近代美術館での「第7回サロン・ド・メ」に絵画作品1点を出品。ジャン=ポール・リオペルと出会う。リオペルを介して、評論家ジョルジュ・デュテュイ(アンリ・マティスの女婿)と出会い、やがてその有力な支援を受ける。マルグリット&ジョルジュ・デュテュイ夫妻とともに、エクス=アン=プロヴァンス近郊で夏を過ごす。陽光の変化が彼の作品に影響する。デュテュイからアンドレ・マッソンを紹介される。11月、フランシスとグッドウィンはセーウルに転居し、この建物を画家のウィリアム&ベティ・リヴァーズ夫妻と共有するリオペルを介して、画商ニナ・ドーセ(ドラゴン画廊のオーナー)、画家アンリ・ミショーと出会う。ニーチエ、ウイリアム・ブレイク、ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボー、シャノリレ・ボードレール、サミュエル・ベケット、そしてシュルレアリスムとダダの文献を読む。画家ルネ・マグリットとイヴ・クラインと知り合いになる。

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■1952(29歳)

 ジャン=ポーレ・リオペルから評論家パトリック・ウオルドバークを紹介される。1月バビロン劇場でサミュエル・ベケットの芝居「ゴドーを待ちながら」の初演を新しい友人アル・ヘルド、ジョルジュ・デュテュイ、リオペル、ピエール・シュネデールと一緒に観劇。2月、ニナ・ドーセがフランシスの初個展を企画。アンリ・マティス夫人が《深められたブラック》(1951年)を購入。のちにフランシスの生涯の友人・支援者となるスウェーデンのストックホルム近代美術館館長ボントゥス・フルテンに出会う。スイスのコレクター、フランツ・マイヤー・jrがドラゴン画廊の展覧会を訪れる。デュテュイ夫妻と夏を過ごす。6月、タピエの企画でパリのポール・ファッケッテイ・スタジオで開催された「アンフォルメルの意味するもの」展に出品。ニューヨークのグッゲンハイム美術館館長ジェイムズ・ジョンソン・スウィーニーと出会う。ロンドンヘの旅の途中、メアリー・ハッチンソンを訪ねる。彼女は彼の絵を1点購入し、ハーバートリード、T.S.エリオット、彫刻家ヘンリー・ムーアをフランシスに紹介する。初秋、フランシスとグッドゥィンはアラゴ大通りのスタジオに移る時期、ノーマン・ブルームとスタジオを共有する)。

春日の妻で画家のミュリエル・グソドゥィン。パリのティフエーヌ通りのスタジオで、1950-53年頃。

 グッウィンはスタンリー・ウィリアム・ヘイターの版画工房で働き、ここでジョアン・ミロの制作を見たフランシスは版画への興味をつのらせた。年末近く、モンパルナスに転居、アパルトマン(ティフエーヌ通り53-55番地)と近くの大きなスタジオ(ティフエーヌ通り14番地)を賃借。ポ「ル・ファッケッテイ・スタジオでの「ジャクソン・ポロック」展、ギャルリー・ド・フランスの「マーク・ロスコ」展を含むいくつかの重要な展覧会を観る。

■1953(30歳)

 ポール・ファッケンテイ・スタジオでの「もうひとつの美術」展(企画者のタピエは新興のアンフォルメル美術を「タルシスム」と命名)やロンドン現代美術研究所での「ぶつかり合う力」など重要なグループ展に出品。この頃、再開したオランジュリー美術館でクロード・モネの「睡蓮」を観るエクス=アン=プロヴァンスのアンリ・マティス夫人の家でクロード・デュテュイとともに夏を過ごす。スイスのベルンのクンストハレ館長アルカレト・リュドリンガーと出会う。リュドリンガーはやがてフランシスの親友にしてその芸術の支援者となる。

■1954(31歳)

 カリフオルニア州サン・マテオの両親を訪れ、夏の一時期はニューヨークに滞在し、画家ジョーン・ミッチェルを訪ねる。パリに戻ると、ノーマン・ブルームに日本人画家の今井俊満を紹介される。アルノルト・リュドリンガーがフランシスをベルンの画商エバーハルト・コルンフェルトに紹介する。コルンフェルトはやがてフランシスの生涯にわたる重要な画商となり、家族ぐるみのつきあいが続いた。ローマのスパツィオ画廊でのクループ展に出品、またパリのリーヴ・ドロワット画廊やアルノー画廊でも作品を展示する。マーサ・ジャクソンに出会う。

■1955(32歳)

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 カリフォルニア短期滞在中の1月29日、レドンド・ビーチでミュリエル・グッドウィンと結婚。フランシスにとって初の美術館での展覧会「現在の動向」がアルノルト・リュドリンガーの企画で、ベルンのクンストハレにて開催され、1952年と54年制作の作品7点を出品。4月22日、2度目の個展がミシェル・タピエ企画にてリーヴ・ドロワット画廊で開幕フランツ・マイヤー・Sr.が《ピッグ・オレンジ》(1954-55年)を購入。ニューヨーク近代美術館のキュレーター、ドロシー・C.ミラーが館長のアルフレッド・H・バー・jrを説得し、《レッドの中のブラック》(1953年)を購入、フランシスにとって初のアメリカでの美術館収蔵作品となる。ティフェーヌ通りの大きなスタジオのおかげで、《レッドの中のレッド》や《イン・ラヴリー・フルーネス》など大作の制作が可能になる。「1955年ピッツバーグ現代絵画彫刻国際展」(カーネギーインスティテュート)とサンフランシスコ美術館の「20世紀美術」展に出品。

■1956(33歳)

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 『タイム』誌がフランシスを「今パリで一番旬のアメリカ人作家」と紹介。〈デーープ・オレンジとブラック》(1953-55年をスイスのコレクター協会「ラ・プー・ド・ルール」のために購入。ロンドンのジャンぺル・フィス画廊で作品の展示始まる。2月13日、マーサ・ジャクソン画廊で初の個展が開幕。出品作の≪レッドとブラック》(1954年)をタンゲンハイム美術館が購入。フランシスはマーサ・ジャクソンと展覧会契約を結ぶ。ニューヨーク近代美術館でのドロシー・C.ミラー企画「12人のアメリカ人」展に出品。さらに「若きアメリカ絵画」展(イザーローン、ハウス・デア・クンストおよびデュッセル付レフ美術館)に出品。《ブルー・ブラック》(1952年)がニューヨークのコレクター、シーモア・Hノックスに購入され、オルブライト=ノックス美術館(ニューヨーク州バッファロー)に寄贈される。アルクイユ(パリ)のドンレミ一通り4番地の大きなスタジオに移る。夏、リーヴ・ドロワット画廊で新作展、ミシェル・タピエとレイチエル・ジェイコブズがカタログに執筆。クレベール画廊のジャン・フルニエに会う。フルニエはやがてフランスでのフランシスの主要取り扱い画商となる。秋、フランツ・マイヤー・jr.との面会がかない、マイヤーは油彩と水彩7点を購入親友にして良き助言者となったマイヤーを、フランシスはチューリヒにたびたび訪ねるようになる。11月アルノルト・リュドリンガーが館長を務めるバーゼルのクンストハレの階段室のため3枚組の壁画制作に着手。勅使河原蒼風から東京の草月流教場の壁画制作を依頼される評論家で詩人の瀧口修造に出会う日本でのグループ展「世界・今日の美術」展出品。ゾエ・デュサン画廊(ワシントン州シアトル)で個展、イギリスのアーツ・カウンシル企画の巡回展「絵画の新しい動向:個人コレクションの絵画作品」に出品。

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■1957(34歳)

 パリを離れるが、アルクイユのスタジオは継続して賃借。年間を通して精力的にニューヨーク、メキシコ、カリフォルニアに旅行し、日本に長期滞在。香港、タイ、インド、イダノア経由でパリに戻る。5月16日、個展「サム・フランシス:油彩と水彩」がジャンペル・フィス画廊(ロンドン)にて開催。展覧会パンフレットにハーバート・リードが執筆。ニューヨークでは、パーク・アヴェニュー410番地のチェイス・マンハッタン銀行の新しい建物の設計者ゴードン・バンシャフトからエクゼクティヴ・フロアの壁画制作を依頼される。

 ジャン・フルニエ画廊(パリ、バック通り)での最初の展覧会。9月25日、スイスでの初個展がコルンフェルト&クリプシュタイン画廊(ベルン)で開幕、カタログにはアルノルト・リュドリンガーとレイチエル・ジェイコブズのテキストを収録。9月下旬、勅使河原蒼風の草月流三田教場の壁画を制作するため来日。南画廊のオーナー、志水楠男と出会い、親交を結ぶ。東横百貨店(10月)と大阪の近鉄百貨店(11月)で日本初の展覧会。詩人・評論家の東野芳明とその妻の出光孝子(日本 前衛画家。 石油元売会社出光興産の創業者である出光佐三の長女であり、美術評論家・東野芳明の前妻。 20年余り、パリで画家を志すも、生前世に出ることなく体調を崩し帰国。 実妹である出光真子の映像作品「清子の場合」のモデルともいわれている。)、孝子の妹の真子と出会う。真子はその数年後にフランシスの妻となる。11月27日、ニューヨークで2度目となる個展がマーサ・ジャクソン画廊で開幕。アーサー・トウース&サンズ(ロンドン)、ボルティモア美術館(メリーランド州)、ホイットニー美術館(ニューヨーク)、ニューヨーク近代美術館でのカレープ展に出品。                                    

■1958(35歳) 

 パリに戻り、1月下旬は≪バーゼル壁画》を制作して過ごす。春、ニューヨークのチェルシー・ホテルに滞在。正式にミュリエル・グッドウインと別居し、パリに戻る。4月17日からブリュッセル万国博覧会に伴い開催される「近代美術の50年」展に出品。ニューヨーク近代美術館の「新しいアメリカ絵画」展に《ビッグ・レッド》(1953年)≪ブラックとレッド》(1953年)≪ブルーとブラック》(1954年)の3点出品。4月、《バーゼル壁画》設置のためにスイスを訪れる。夏の間、アメリカ文化センター(パリ、ドラゴン通り3番地)での展覧会に、友人であるシャーリー・ジャッフェ、キンバー・スミスとともに出品。アルカレト・リュドリンガーがカタログ序文を執筆。ニューヨーク近代美術館が《ビッグ・レッド》(1953年)を購入。9月24日、再びパリを離れ、ローマ、バンコク、東京、カリフオルニアを巡る2度目の世界旅行に出発。10月、ニューヨークに戻り、画家の横井照子に出会う。同月、フィリップス・コレクション(ワシントンD.C.)で個展、11月26日、マーサ・ジャクソン画廊で展覧会が開幕。ミュリエル・グッドウインとの離婚訴訟手続きを開始。ボルティモアでヘルニアの手術を受け、家族とともにパロ・アルトで6週間静養する。同地滞在中、マーサ・ジャクソンが西海岸で初の大規模な絵画展の準備を手助けし、この展覧会はパサテナ美術館、サンフランシスコ美術館、シアリレ美術館を巡回することとなる。

■1959(36歳)

 ニューヨークに戻り、チェルシー・ホテルに滞在するが、併せてブロードウェイ940番地のスタジオをラリー・リヴァーズとマーサ・ジャクソンから賃借する。後に画家アル・ヘルド、アルフレッド・レズリー、キキ・コケルニックとそのスタジオを共有。年間を通してパリ、カリフォルニア、東京をたびたび往復春、ミュリエル・グッドウィンと離婚。チェイス・マンハッタンの壁画制作を開始し、6週間を費やす。1月17日、コルンフェルト&クリプシュタイン画廊(ベルン)で「サム・フランシス:油彩・水彩画1953−58」展が開幕(カタログ刊行)。2月17日、デュッセルのラインラント&ヴェストファーレン芸術協会でドイツ初の展覧会始まる。3月26日、画家の横井照子と3度目の結婚をし娘カヨ・アンドレア・フランシスが7月19日に誕生する東野芳明が義父の出光佐三をフランシスに紹介。企業家であり、出光興産株式会社会長の出光佐三は、フランシスのパトロン、友人、そして最終的には親族となる。「ドクメンタⅡ(カッセル、フリーデノツイアヌム美術館)「サンパウロ・ビエンナーレ(ブラカレ、サンバウロ近代美術館)を含む17以上のグループ展に出品。「アクチュアリティーズ」展をアーサー・トゥース&サンズ(ロンドン)で開催し、カタログはローレンス・アロウェイのテキストを収録。ブロードウェイのスタジオをマーサ・ジャクソンから5年契約で転借。ニューヨーク州ロング・アイランドにあるULAEでタティアナ・グロスマンと協力して初のリトグラフを制作(1968年に刊行)。

■1960(37歳)

 春までニューヨークに滞在し、それから横井照子、娘カヨと一緒にパリヘ旅立ち、14区のドゥアニエ・ルソー通り18番地に住居を構える。アルクイユの大きなスタジオでも制作するが、ほとんどを東京とベルン(両地にもスタジオを所有)で費やす。中国の画家・詩人ウォーラス・ティンと親交を結ぶ。フランツ・マイヤー・jr.がベルンのクンストハレでの絵画50点以上の大回顧展「サム・フランシス」を準備し、5月27日に開幕。

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 9月、同展はボントウス・フルテンが館長を務めるストックホルム近代美術館に巡回。カタログは≪ラウンド・ザ・ワールド》を購入したフランツ・マイヤー・Jr.執筆のテキストを収録している。フランシスは両地でのオープニングに出席した後、チューリヒに戻り、刷り師のエミール・マチューとともに一連のリトグラフ作品を制作。これら版画はエバーハルト・コルンフェルトとマーサ・ジャクソンにより共同出版される。パリで、ジャン・ティンゲリーの機械彫刻の展覧会を初日に訪れる。6月、ヴェネツィア・ビエンナーレを見学。オーストリアの商家、キキ・コゲルニックに出会い、長年に及ぶ親交を結ぶ。すでに日本で数か月を過ごしていた横井照子、カヨと休暇を過ごすため来日。ジョン・F.ケネディ大統領とワシントンD.C.の合衆国情報局によって「有能な若いアメリカ人」の15人のひとりに選ばれる名誉に浴する。ブルー・ボールズ」シリーズと、画面全体に有機的な青の形態が描かれたシリーズを制作開始。

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■1961(38歳)

 2月、東京で発病。11月までベルンの病院に腎臓結核のために入院する。イオ・バランドゥン博士とはやがて生涯の友人となる。入院中、小品の水彩画と素描を多数制作。5月15日、「ブルー・ボールズ」の初展覧会が南画廊(東京)で始まり、カタログは瀧口修造のテキスト、大岡信と東野芳明の詩を収名義。6月、パリのジャック・デュブール画廊の展覧会では新しい「青の形態」絵画を主に展示。11月7日、コルンフェルト&クリプシュタイン画廊(ベルン)で、入院中に制作した水彩画とインク画多数の展示が始まる。カタログは東野芳明とフランツ・マイヤー・jr.のテキストを収録。デイヴイッド・アンダーソン画廊(マーサ・ジャクソンの息子)にて個展。ウオーカー・アート・センターでの「60人のアメリカ画家」展、ヴェネツィアのパラヅソオ・ゲラッシでのクループ展「黙想の美術」(パオロ・マリノソティ企画)のカレニプ展に出品。医者のシレウイオ・バランドゥン博士、看護婦ギゼラ・ノイマンエバーハルト・コルンフェルト、ハンス・ボリガーが、サンタ・バーバラで療養するフランシスにカリフオルニアまで同行する。ブエノ・ヴィスタ895番地モンテシート地域に400エーカーの家を賃借。ジョルジュ・デュテュイのサム・フランシスについての著作『不定形のイメージ」(ジョルジュ・ファル編)がパリのカレキュール・ド・フランスより刊行。

■1962(39歳)

 サンタ・バーバラで過ごし、静養しながら絵を描く。ジョージ&ナンシー・フランシス(弟夫妻)が子供たちと来訪。9月、短期間カリフオルニア州マリブ、ランプラ・ヴィスタ21607番地に住んだ後、サンタ・モニカのウエストチャンネル・ロード345番地に家を借りる。その家は以前チャーリー・チャップリンが所有していたものだったベルン、ニューヨーク、パリ、東京のスタジオは引き続き賃借契約。第3回東京国際版画ビエンナーレでリトグラフ《ホワイトライン》が国立西洋美術館賞を受賞。ロサンゼルスで、キュレーターのウォルター・ホップスと出会う。エドヴィン・エン

ゲルベルツ画廊(ジュネーヴ)、アリス・パウリ画廊(ローザンヌ)、ラカード画廊(パリ)、ディ一夕ー・プルスペルク画廊(ハノーファー)、エスタ・ベア画廊けンタ・バーバラ)、シアりレ万国博で展覧会。ベルンに住む横井照子・力∃と離れて革らす。10月、ベルンに家族を訪ね、ラウペンシュトラッセ49番地の馬車倉庫のスタジオで制作。青が支配していた画面は、浮かぶ原子のように別々に分割し始めた黄、緑、青、赤の有機的形態が伴いだす。『ホワイ・ゼン・オープンドtl』を描く。

■1963(40歳)

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