2.ロバートラウシェンバーグの作品における芸術と日常

吉積 健

ラウシュンバーグの《ベッド》

 ロバートラウシェンバーグ(RobertRauschenberg,1925〜)は、1955年に≪ベッド≫と題する作品(上写真)を制作している。それは、少々派手なパッチワークの掛け布団をキャンバスに見立て、それに枕を取り付け、絵の具を擦り付けたものであった。この作品では、使い古しの掛け布団という、そこで彼が寝たり、座ったりしていた平面が、芸術形式である絵画平面を装うことになる。50年代の後半にラウシェンバーグは、写真を含む日常的な物品を絵画平面に組み込んだ一連の作品を制作するが、彼自ら、それらに〈コンバイン〉という名称を与えている。1959年11月にニューヨーク近代美術館で開催された『16人のアメリカ人』展には、彼の友人であるジャスパー・ジョーンズ(JasperJohns,1930〜)の作品とともに、そのコンバイン絵画の5点が展示される。その展覧会でラウシェンバーグは、それらの作品においてのみならず、次のような言明においても注目されることになる。

 絵をかこうとする動機はどれも、ほかのどの動機とも全く同じだ。くだらない主題なんかそこにはない。構成や色彩などにかまわず、記念品とか飾り付けに対立するように、一つの事実、あるいは一つの不可避性として絵画が出現するとき、絵画は常に強烈である。絵画は、芸術と生活のどちらにも関係する。どちらも作られることはできない。(私は、その両者のはぎまで行為することを試みる。)木や釘、テレビン油、油絵の具、布地と同様に、足の靴下は、それを使って絵画を制作するのにふさわしいものである。キャンバスは決して空虚ではない。

 1925年生まれのラウシェンバーグは、第二次大戦直後、抽象表現主義の絵画が高級芸術の最たる位置を謳歌していた時代に、絵画の道を歩み始める。1940年代の終わりにニューヨークに移住した彼は、抽象表現主義とは別の何かを模索する姿勢の中で、1953年に新聞紙の切れ端を下地に使い、さらに布切れをコラージュした《レッド・ペインティング≫と題する作品を制作している。印刷物や布切れを絵画面に糊付けするコラージュ自体は、すでに今世紀初頭にキュビスト達が試みており、さらにダダイストであるクルト・シュヴイツタース(Kurt Schwitters,1887〜1948)の作品にもその例を見いだすことができる。しかしながら、この小論の後半で詳細に検討することになる、ロザリンド・クラウス(RosalindKrauss)の『ラウシェンバーグと物質化された映像』(1974)と題する論文では、ラウシェンバーグの〈再発明された〉コラージュの要素の意味と機能は、シュヴイッタースあるいはキュビスト達の作品におけるそれとは、ほとんど関連を持っていないと指摘される。つまり、ラウシェンバーグのコラージュは、抽象表現主義以降の新たな方向を開示させるものと評価されるのである

■フラットベッドの絵画平面

 レオ・スタインバーグ(Leo Steinberg)は『別の基準』(1972)と題する著作の中で、絵画平面の大変化が、1950年代初めのラウシェンバーグの作品の中で生じ、それはその後、60年代のポップ・アートの絵画平面を特徴づけるものに発展したと論じている。スタインバーグは、そのような絵画平面を記述するために、印刷用語から借用したくフラットベッド(flatbed)〉という語を使用することを提案する。ラウシェンバーグが、抽象表現主義がいまだその勝利を謳歌していた時に、ある異なった経験秩序を扱うことになる芸術言語の基盤として、そのフラットベッドもしくは作品表面の絵画平面を提出したというのである。ラウシェンバーグが自分の創作になる最初の絵画と言明した、≪数字のある白い絵画》(1949,下図)と題する作品について、スタインバーグは次のように述べる。

数字のある白い絵画

  その謎めいたジグザグ状の線と数字があるラウシェンバーグの絵画は、他のなにかに解釈されることのできない作品表面である。上下が、凹凸の空間あるいは図と地の区別のように、微妙に混乱させられる。あなたは、それを石造建築と読むことはできないし、また 鎖あるいは隅石の仕組みと読むことはできない。善かれた零記号は、どうにでも読める。まだ乾ききっていない絵の具に刻み込まれているので、その画像は、それ自体の不透明な表面を確認することにとどまる

 スタインバーグは、透視画法に基づくルネサンスの絵画平面は、直立した人間の姿勢に一致した自然な方向性を有しており、その絵画の概念は、一つの世界、ある種の世界空間を表象することであったという。つまり、自然世界へ立ち返る画像は、通常の直立の姿勢で経験される感覚データを呼び起こすが、それによってルネサンスの絵画平面において垂直性がその本質的条件になっているというのである。そして、この直立する平面としての絵画平面は、キュビスムや抽象表現主義のような、様式の最も激烈な変化をも切り抜け、保持されてきたとする。たとえば、ルネサンスの世界空間概念がほとんど解体されることになるパブロ・ピカソ(PabloPicasso,1881~1973)のコラージュにおいても、暗に含まれた視覚の行為、かつて現実に観られた何かに立ち返るものが残存しており、ウイリアム・デ・クーニング(WillemdeKooning,1904~)や、さらにジャクソン・ポロック(JacksonPollock,1912~56)の絵画に至っても、われわれの身体の上下関係にそれらは一致しているとみなされる。

 しかしスタインバーグは、ラウシェンバーグとジャン・デュビュッフェ(JeanDubu触t,1901~85)の作品に最も顕著に、ある事変が1950年頃に生じたという。彼らの絵画は、地図や建築図面のように壁に掛けることはできても、もはや垂直の広がりをシミュレートするものではなく、不透明なフラットベッドの水平面であると指摘する。つまり、様々なニュースがごちゃ混ぜにされる新聞紙面のように、それらはもはや、人間の姿勢に一致した垂直性に依存するものではないという。50年代の初めから60年代に至る絵画の動向において、平面がもはや自然の視覚的体験の類似物ではなく、操作過程の類似物となる、全く新たな方向性の主張が見いだされるとし、スタインバーグは、絵画平面のそのような垂直から水平への90度の変化を、自然から文化への最もラディカルな移行を示すものと考える。そしてそのような激変は、一晩で起こることもなく、一人の芸術家の功績として生じるものでもないとして、近代画家達のいくつかの例を引き合いに出すが、なかでもスタインバーグが最も注目するのがマルセル・デュシャン(MarcelDuchamp,1887~1968)の作品であり、次のように述べる。

  おそらくデュシャンがその最たる活力源であった。1915年に始まる彼の〈大ガラス〉、あるいは1918年の〈Tum’〉は、直立した姿勢から知覚された世界の類似物ではもはやなく、便宜的に垂直に置かれた情報のマトリックスである。そして、かつて挑発的なジェスチャーと同等にみなされたデュシャンの「作品」、たとえば床にネジ留めされた〈コート掛け〉や、倒してモニュメントのように据えられた有名な〈小便器〉においてさえ、人間の姿勢との関係における90度の変化の重要性の意味が見いだされる。

大ガラスJJJ-Marcel-Duchamp-as-Rectified-Readymade-Coatrack 泉

 デュシャンがニューヨークに滞在中、彼のアトリエで、《彼女の独身者達によって裸にされた花嫁、さえも≫(1915-23,上写真参照)と題されるく大ガラス〉に、ちりが積もり紙屑が散乱している状態を、マン・レイ(ManRay,1890~1977)が写真撮影している。それにデュシャンは≪ちりの培養》(1920)という題名を与えるが、そこでは〈大ガラス〉は水平に置かれたままである。マン・レイは、印画紙の上に物体を置き、感光させるフォトグラムを試みているが、デュシャンの《Tu m’》(1918,晦10)では、フォトグラムのような、三つの〈レディ・メイドのオブジェ〉(自転車の車輪、コルク栓抜き、帽子掛け)の影が、いくつかの作品のアイディアとともに、目録のように登場する。そして≪罠》(1917)と呼ばれた〈コート掛け〉と、≪泉》(1917)という題名が与えられた〈小便器〉は、ともに本来の方向から90度、角度を変えて取付け、あるいは据え付けられている。この90度の変化にスタインバーグは注目するのである。

デュシャンは≪ちりの培養》(1920)tum_b

 ≪消されたデ・クーニングのデッサン》(1953)は、題名どおり、デ・クーニングのデッサンをラウシェンバーグが消し去ることによって、制作された作品である。デ・クーニングのアトリエに出向き、その制作の意図を話して、一応の納得を得て貰い受けた一枚のデッサンが、それには使用された。クレヨンや油性鉛筆、インク、そして鉛筆で描かれていたそのデッサンを、ラウシェンバーグは一月と40個の消しゴムを費やし、消し去ったという。一つの世界空間を表象するデ・クーニングのデッサンは、直立する身体に一致した垂直性をいまだ保持していたが、そのデッサンをラウシェンバーグは机の面に消しゴムで押しつけ、根気よく消し去り、自分の作品にしたのである。水平面である机の面上で実行された彼の作業は、垂直面から水平面への90度の変化を実現することであったと、スタインバーグは指摘する。

Charlene_bモノグラム

 彼の最初のコンバイン絵画といえる《チャーリーン》(1954,上写真)の片隅には、日常では水平にして使用されるパラソルの布が張り付けられているが、冒頭にあげた≪ベッド》においては、絵画面全体に掛け布団が広げられる。とくに後者は壁に掛けられてはいるものの、その画像は、座ったり、眠ったりする水平面を指示し続けることによって、絵画平面の垂直性を解体する。さらに≪モノグラム》(1955−56)では、絵画平面は、あからさまに床面上に水平に置かれるのである。一方、《冬のプール》(1959−60・下写真左)では、絵画面に梯子が掛けられ、それによって床面が指示される。1964年に東京の草月会館旧ホールで制作が公開された《ゴールド・スタンダード》(下写真右)では、床面に置かれた、自転車のサドルに載る陶器製の犬が、金屏風の絵画商とロープで繋がれる。絵画面を日常の生活行為を支える水平な床面に導くそのような仕掛けは、ラウシェンバーグの他の作品にもしばしば登場するものである。

冬のプール 70

 そのような仕掛によって、ラウシェンバーグは絵画平面に、垂直から水平へ90度の変化をもたせ、それを作業台、あるいは床面と同じ水平面に一致させようとする。一つの世界を表象する垂直な絵画平面が、あまりにも排他的で、同質であり過ぎたのに対し、彼のフラットベッドの絵画平面は、スクラップ・ブックのように、あらゆる映像を受け入れる。そして、床面が日常の雑多なもので散らかされるように、そこに据え付けられる限りのどんな物体も、絵画平面に付加されることになる。現代人は、マスメディアによって吐き出される雑多な映像や物品を次々に受け入れるが、ラウシェンバーグの絵画平面は、そのような現代人の感受性に合致するものである。ロイ・リキテンスタイン(RoyLkhtenstein,1923〜)やアンデイ・ウォーホル(AndyWarhol,1931〜87)のような60年代初頭のポップ・アーティスト達は、マスコミ文化において量産される映像を絵画面に取り込むが、彼らの作品にスタインバーグはフラットベッドの絵画平面を見いだし、それをポストモダニスト絵画と名づけている。

  1950年代後半から60年代前半にかけて、テレビジョンが日常生活に深く浸透し始め、先行する印刷メディアとの相乗効果によって多様な映像を氾濫させる。そのマスメディアによる映像の氾濫が、大衆の感性に及ぼす影響は不可避的であり、当然、芸術の動向にもそれが少なからず反映されることになる。60年代初頭のポップ・アーティスト達は、マスコミ文化の映像を芸術に取り込むが、それとともに芸術の通俗化が進行し、それまでの高級芸術とマスコミ文化の間の区別が急速に解消されることになる。アンドリース・ハイセン(AndreasHuyssen)は『大分割の後で・・・モダニズム、マスコミ文化、そしてポストモダニズム・・・』(1986)と題する著作の中で、そのような区別の解消をポストモダニズムと呼ぶ。つまり、モダニズムが高級芸術とマスコミ文化との間の絶対的な区別を基盤としていたのに対し、その「後」に来るのがポストモダニズムということになる。スタイバーグが予知し、そしてハイセンが主張したように、60年代から現代に至る、広範な芸術の動向をポストモダニズムと考えるとき、ラウシェンバーグの活動はその先駆けとみなされることになる。

■物質化され、宙吊りにされた映像

 スタインバーグは、60年代の初めにラウシェンバーグが写真転写を用いたとき、その互いに干渉し続ける複数の映像は、永久に相殺しながら一種の視覚的ノイズになってしまうような空間的意味を暗示するものであると述べる。つまりそこでは、同じ周波数のノイズと意味が干渉する無線電波のように、コミュニケーションの浪費と破壊が、同じフラットベッドの上で視覚的に生じるというのである。テレビジョンが普及するにつれ、放送局が次々に設立されるが、系列を異にする放送局は相互に競い合いながら、報道番組や娯楽あるいは教養番組といった各種の番組を、それぞれのチャンネルを通して並列的に放映し始める。番組の編成自体がすでに異種混交的であるのに加えて、スーパーマーケットに代表される商品の新たな流通方式の登場とともに、種々の商品宣伝の映像が、それらの番組を頻繁に中断し不連続的に挿入される。一方、番組の選択を委ねられた視聴者は、チャンネルを切り替える際に、雑多な映像の断片が無作為的に混交するのを経験する。

 1962年の秋からラウシェンバーグは、新聞や雑誌、それに彼自身が撮影した写真から抜きだした映像を、感光性のシルクスクリーンを使用してキャンバスに転写し、複数の映像が混交する絵画を制作し始める。その、何の脈絡も見いだせない異種混交性は、まさにテレビジョンの状況に酷似している。たとえば、シルクスクリーン絵画の《追跡者》(1964)(下写真)では、ルーベンスの「化粧するヴィーナス」の複製、それに軍事用ヘリコブター、鷲、小鳥、都会の光景という断片的な写真映像が、二つの直方体の線画とともに絵画面に刷り込まれている。それらの映像は、ノイズのちらつくテレビ画面上の映像のようであり、それらのいくつかは、ラウシェンバーグの同じ時期の作品に繰り返し登場する。シルクスクリーンもまた複製技術である以上、それらの断片的な映像が反復して使用されるのは、ごく自然なことであった。

《追跡者》(1964)

 1960年代に入って、ポップ・アートが芸術批評家達に受け入れられるようになると、ラウシェンバーグに対する批評家達の関心は、彼の芸術が抽象表現主義とポップの間で演じた移行的な役割に向けられる。そのような状況の中で、彼はコンバイン絵画から抜け出すために、シルクスリーンを使用し始めることになる。シルクスクリーンはまさに、ラウシェンバーグが同時代的であろうとする方法であった。その時期にウォーホルは、シルクスクリーンを使って写真映像を複製し始めているが、機械であることを望んだウォーホルは、一つの絵画平面に単一の映像を使用し、規則的なグリッド構造によって区切られた画面において、その単一の映像を反復させ、非個性的な量産の効果を追求していた。一方、ラウシェンバーグは、一つの映像を他の絵画作品に反復して使用したが、一つの絵画平面には、異質な映像を複数併置したのである。

 ラウシェンバーグの絵画平面には、複数の異質な映像が混交するが、クラウスは前掲の『ラウシェンバーグと物質化された映像』と題する論文の中で、主要な絵画的様式として、単一映像の絵画が隆盛するその同時期に、ラウシェンバーグの複数映像の絵画が展開したと述べている。つまり、ウォーホルの作品に限らず、ジョーンズやフランク・ステラ(Fra止Stella,1936〜)の作品の基盤となっている単一映像の画像は、それを支える支持体に完全に一致していたのに対し、ラウシェンバーグの作品は、そのメディアが何であれ、一貫してコラージュの手法を用いたというのである。そして彼の作品は、コラージュであることによって、観者にシンタックスの打ち消しがたい体験を強いると、次のように述べる。

 ラウシェンバーグが、彼の作品を部分ごとに、映像ごとに読むことを強いる特殊な方法において、その作品の体験が、その言説の特徴を言語と共有することを保証している。つまり、映像ごとの出会いは、ひとつのセンテンスを聞いたり読んだりするように、一種の時間的展開への注意を必要とする。ラウシェンバーグの映像間のシンタクティツク<結合論syntactics(記号と記号の関係,結合法則。構文論,シンタクティクスの用語もときに用いられる)>な結合は、既知の言語の文法的論理を決して前提とするものではないが、その散漫な様式がその芸術家のメディアの一つの局面であることを意味してる

 ラウシェンバーグが芸術のためのモデルとして主張していたものは、単一映像の絵画におけるような認知的契機と呼べるものに関わるのでなく、それはく持続性(duree)に結びついていたとクラウスは指摘する。つまりその持続性とは、引き伸ばされた一時性という性質であり、それは記憶や思考、叙述、命題といった経験に関係するものであるという。そしてラウシェンバーグが彼の芸術に一貫して注ぎ込んできた持続性と共通するものを、デュシャンが「ガラスの遅延」と記述したガラス絵の作品、たとえば≪片目で、接近して、一時間ほど観られること》(1918)や前述の〈大ガラス〉の作品に見いだす。それらの作品では、描かれた映像が二枚の透明なガラス板の間に挟み込まれて宙吊りにされるが、その際、その映像は物質化され、一つの表象が、あたかも物質的なものであるかのように読まれるというのである。

 クラウスは、ラウシェンバーグもまた、最初から映像を一種の物質として取り扱っており、彼の芸術メディアにおいては、映像はまさに物質であると述べる。そして、その物質としての映像は、デュシャンのガラス絵におけるように、絵画領域の中であたかも宙吊りにされているかのように扱われていると指摘するのである。その映像が靴下ヤシヤツといった現実の物品であるとき、物体と映像の間の同一感は明らかに強化されるが、スナップ写真やニュース写真、あるいは漫画といった映像それ自体もまた、物質として絵画平面に置かれ、ガラスの下の流体の中に浮遊する生物標本のように、絵画的マトリックスの中に宙吊りにされるという。さらに、このラウシェンバーグの技法とデュシャンのガラス絵との間の類似点は、単に映像のその物質的特性だけではなく、絵画的メディアの中に物理的に埋め込むことができるという、映像の物質性の結果として成立する手続に基づくものであると考えるのである

 ラウシェンバーグの絵画平面には、全く異質な映像が併置されるが、しかしどの映像も、物質化されることによって、同じウエイトが与えられ、それによってその絵画表面は、複数映像の記号としての多価性ではなく、ものとして・・・の同等性が生じる場所とみなされる、とクラウスはいう。そこでは、美術館で観た絵画の映像、目撃した現実の事件の映像、単に空想したり夢に出てきた映像といった、あらゆる映像が同じ比重をもつことになるが、そのような絵画平面はまさに、〈記憶〉の空間に類似するものであると指摘する。つまりその絵画平面の映像には、持続的な経験である記憶と同じように、時間を通して対処しなければならないような感覚が生じると考えるのである。そのように、絵画平面と記憶の空間との類似を成立させるのは、現実を超越する伝統的な映像の力ではなく、伝統的な絵画空間を変質させるラウシェンバーグの映像の力においてであると、次のように述べる。

 というのは、かつて絵画が表現していたような記憶、もしくは何か別の私的な経験の観念がまさしく、これらの画像によって再定義されるのである。記憶の領域自体は、内的なものから外的なものに変えられ、またそれが文化という共有される連帯感から生じる限り、私的なものから共同体的なものにと変えられる。これは大文字の文化ではなく、むしろ、ある部分は高尚であってもほとんどが陳腐な多くの事柄であり、そういったものが経験に潜入し、それを形成するとき、その痕跡が残されるのである。

 それら一連の時間的指標の物理的痕跡は、記憶領域では同時的に蓄えられ、時間的に再体験されるが、絵画領域では、それらは同時的に宙吊りにされざるをえないと、クラウスは述べる。しかしながらラウシェンバーグは、絵画的な伝統である固定された同時性と記憶領域との間に類似点を見いだすことによって、かつての絵画の基準を決定的に逆転させたという。つまりラウシェンバーグが、現実の空間から絵画の空間にオブジェを持ち込む場合、観者の現実の空間を超越し、現実空間とは異なる種類の現在時にオブジェを組み込むのではなく、オブジェを過去の時間の同時性に移設するのである。そこでは、過ぎ去った時間が、記憶のように再び思い浮かべられるが、それは内的な状態として理解されるものから、外的な状況として感じられるものに変化しているという。このようにして、ラウシェンバーグの絵画表面に宙吊りにされた様々な映像は、経験を形成する材料となり、それは世界中を巡り歩くとき、出くわす事象といえることになる。

 クラウスは、『指標についての覚書』(1977)と超する論文で、写真の指標的論理とデュシャンの〈レディ・メイドのオブジェ〉、そして70年代のパフォーマンス・アートとの関係に注目し、現実の脈絡からはずされ、宙吊りにされた写真映像やオブジェは、新たな意味を具体的な個々の関数として、それらの現実的存在(existentialpresence)によって補給されると論じている。そして、デュシャンの芸術が指標を軸にした、観念の連関に対するマトリックスとして作用する方法は、影響関係は別にして、70年代の芸術にとって非常に重要な前例であるとして、指標の様々な形式がパノラマ的に示される、前述の《Tu m’》に言及している。その作品ではいくつかの〈レディ・メイドのオブジェ〉が、それらの影によって登場し、それら影の痕跡が、オブジェの作品を個体的、具体的に指示する指標として作用するというのである。それらの〈レディ・メイドのオブジェ〉 自体もまた、連続する日常の生活軌道からはずされ、芸術空間との間に宙吊りにされた指標である。

 一方、ラウシェンバーグのコンバイン絵画の表面に移設された〈発見されたオブジェ〉や、シルクスクリーン絵画の表面に転写された映像もまた、日常と芸術との間に宙吊りにされた指標であり、さらに1965年のニューヨークでのパフォーマンスのように、ラウシェンバーグはローラー・スケートとパラシュートを身に着け、彼自身も芸術と日常のはぎまに度々、宙吊りになろうと試みる。ダグラス・クリンプ(DouglasCrimp)は、『ピクチャーズ』(1979)、そして『ポストモダニズムの写真活動』(1980)とそれぞれ題した二つの論文で、70年代のパフォーマンスの概念を拡大し、70年るが、それは自らを宙吊りにする行為である1989年に、ロスアンゼルス現代美術館で開催された『記号の森/表象の危機下の芸術』展では、リチャード・プリンス(RichardPdnce,1949、)やミッチェル・シロップ(MitchellSyrop,1953~)の作品が展示されたが、彼らの作品では、マスメディアの映像や言葉が引用され、宙吊りにされるのである。      (京都工芸繊維大学教授)