ドキュメンタリー、そして社会への告発

0001561757■写真(ドキュメント)から発想した絵画

6466676871707274


■至福

 小麦の穂と作物の成長を確かめる夫のモティーフは、1950年以降、幾度となくべン・シャーンの作品に登場する。

77

 これらのイメージ・ソースとなっているのは、FSA(農村安定局)の写真家ドロシア・ラングが1936年6月に撮影した写真(上図P08)である。これをベン・シャーンは雑誌や新聞の切り抜きとともにソース・ファイルの中に保管していた。写真は背景を除いてはとんどそのまま、素描(小麦を摘む男〉(上図No.213)に写される。一連の作品群の早い段階に位置すると考えてよい。FSAの他の写大家の写真を絵画のモティーフとして借用するというのは現在では考えにくいが、逆に言えば、それはどラングの写真はベン・シャーンにとってインスピレーションに溝ちた写真だったということだろう。1950年のインク素描《小麦畑〉(上図N0.210)では、水平に空間が開け、一方男の顔は眼球を抜き取られ不気味な表情へと変貌する。52年に描かれたテンペラ〈至福〉(上図No.214)について、「一旦取りかかったがその後3年放っておいた」と画家は語っているので、〈小麦畑〉は(至福〉の制作初期に描かれたということになるだろう。黄金に輝き収穫を待つ小麦畑は、まさに(至福〉というタイトルにふさわしいが、穂を手にする男はどこか苦悩に打ちひしがれているようでもある。55年の木口木版(至福〉(上図No.211)も同様の印象を与える。景晩年の69年には、線描の書が加わったリトグラフ(実り〉(上図No.212)が制作されている。

 今回は出品されないが、1958年に人物のいないセリグラフ(小麦畑〉が制作された。小麦の茎の線がリズミカルに並び、水彩がほどこされ、(至福〉の重々しさを昇華したようなグラフィックな作品に展開している。同作品は、「文字をめぐる愛とよろこび』(ベン・シヤーン書・装丁・挿画、1963年、下図No.335)や『伝道の書』(ベン・シヤーン装丁・挿画、1967年)にも描かれている。   (AY)

ben_shan_letters7884


97

■ 労働団体とポスター制作

 ベン・シャーンは、1942年から43年にかけての11カ月のあいだOWl(戦時情報局)グラフィック部門でポスターのデザインを手がけた。多くのデザインのうち、実際にポスターとなったのは、(我々フランス労働者は書告する〉(1942年、No.251)と(これがナチの残虐だ〉(1942年、No.243)の2点である。

 ベン・シャーンはその後、ルーズヴェルト大統穣の再選を支援するため、1944年からCIO(産業別労働組合)で仕事をするようになり、1945年には同組合のグラフィック・アート部ディレククーとなってポスターをはじめとする各種印刷物のデザインを行った。(選挙人登録、投票用紙はあなたの手中の力だ〉(1944年、No.241)、《労働者より農民へ・・・感謝をこめて〉(1944年、No.244)、《我が友よ》(1944年、No.245)、(書告!インフレーションは不況を意味する〉(1946年、No.247)、《これらあらゆる権利のために我々は開いを開始したのだ〉(1946年、No.249)、《反動の魔手を打ち砕け〉(1946年、No.252)、《我々は平和を望んでいる〉(1946年、No.253)は、CIO制作のポスターである。

 これらのポスターの多くは、選挙権を行使するために選挙人登録を行うよう労働者に呼びかけるもので、OWlで採用されなかったデザイン集が転用されているものもある。ポスターのデザインにも、ベン・シヤーンが1930年代に撮影した写真のイメージが利用されている。(T.M.)

99103104


■マルチの手記

リルケの写真

 「マルテの手記』は、プラハ出身のドイツ人詩人のライナー・マリア・リルケが、28点を迎えた1910年に、7年の歳月をかけ発表した小説である。これは、パリの去町に暮らしつつ孤独を見つめながら日々を重ねる青年マルテを主人公に、費や人々そして芸術へ向けられた、あてどもない彼の思索の断片を連ねたものとして著されている。ベン・シヤーンは1927年、奇しくも彼も20代の終わりにパリでこの傑出した小説と出会い、私淑(ししゅく)したとされる。そして70歳にして、秋年の思いを込めてこの小説から一節を引用し、ついにこの詩画集を完成させた。詩画集に引用された文章の直前には、このような一節がある・・・人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。…詩は本当は経験なのだ。

 ここでの「詩」が、単に詩それだけを指すにとどまらないのは自明だろう。ベン・シャーンは本文から22の連なる言葉をすくい出し、そのひとつずつに挿画を寄り添わせた。それぞれの版画は、ペン・シャーンが特に重んじた余白/余韻を十分に保ちながら、詩人の言葉と平行するように展開していく。ペンを握る手がまさにべン・シャーン自身の手であるように、彼自身、自らの内面に問いかけ、当時のパリで抱いた私的な情動をここで表現したと述べている。このあまりにも豊かな「わずか十行の詩」を残し、ベン・シャーンは翌年にニューヨークで心臓発作のため息をひきとった。(TY・)


■参考資料

 ライナー・マリア・リルケRainer Maria Rilke、1875年12月4日 – 1926年12月29日)は、オーストリアの詩人、作家。シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールとともに時代を代表するドイツ語詩人として知られる。

 プラハに生まれ、プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表し始める。当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を発表していたが、ロシアへの旅行における精神的な経験を経て『形象詩集』『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだした。1902年よりオーギュスト・ロダンとの交流を通じて彼の芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表、それとともにパリでの生活を基に都会小説の先駆『マルテの手記』を執筆する。

 第一次大戦を苦悩のうちに過ごした後スイスに居を移し、ここでヴァレリーの詩に親しみながら晩年の大作『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』を完成させた。『ロダン論』のほか、自身の芸術観や美術への造詣を示す多数の書簡もよく知られている。


125126134140142