ヒューマニズムの画家

■「ヒューマニズムの画家

藤 慶之

■京都のベン・シャーン

 生前のベン・シャーンは二度、日本を訪れている。一皮日は1920年代、二度目は日本中が「60年安保」で大揺れした年(1960)。最初の訪日の時期や事情ははっきりしないが、二度目は三月から四月にかけバーナーダ夫人と一緒に、京都を主にした一カ月以上もの滞在だった。もともと訪日それ自体が公的なものではなく、お忍び施行に近かったせいもあってか、一部の美術関係者や美術雑誌が足どりを迫った程度にすぎない。時にベン・シャーン、62歳。今回、この塙を書くため、関係者をたずね歩き、当時の記事を調べていくうちに、京都を愛したヒューマニズムの画家ベン・シャーンの人間像が浮かび上がっできた。も こぅこうやしかしたら、市内のどこかで、好々爺然とした大男の巨匠画家とすれ違ったかも知れないのに、片思いに終わっでしまった悔恨の思いを込めで「京都のベン・シャーン」を書き残しでおくことにした。

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 ベン・シャーンと日本との結びつきは、代表作「ラッキー・ドラゴン」シリーズのきっかけとなった第五福龍(ラッキー・ドラゴン)丸事件である。一九五四年三月一日、太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカが実施した水爆実験で、操業中の静岡県焼津港所属のマグロ漁船「第五福龍丸」が死の灰をかぶり、無線長の久保山愛書が水爆による世界初の犠牲者となった悲劇だ。アメリカやヨーロッパで発生する不条理な政治・社会事件を、ドキュメンタリー絵画に描き続けてきたベン・シャーンにとって、自国が起こしたこの事件もまた、見過ごせないテーマとなった。ベン・シャーンが「クボヤマ」の名を知ったのは一九五七年、調査のため日本に派遣された原子物理学者のラルフ・E・ラップ博士が「福龍丸の航海」というレポートをFハーバーズ・マガジン』誌のために書きあげ、記事に添えるイラストをベン・シャーンに依頼した時。事件発生から三年後のことだった。科学文明が人間をしだいに押しつぶし、非人間的な社会の仕組みが人問性を破壊していく姿を、死の灰事件に鋭く見据えたベン・シャーンは、怒りと哀しみを胸に訪日したに違いない。だが、第五福龍丸を現地の焼津港に取材した痕跡ほ意外に残っていない。photo_4

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 ベン・シヤーン夫妻の日本滞在のほぼ大半を占めた京都での宿は、京都市役所近くの俵屋(中京区塞屋町通御池下ル)だった。戦後、皇太子(現天皇)の家庭教師をつとめたヴァイニング夫人が投宿したのがきっかけで、著名な外国人芸術家や政治家、芸能人たちが愛用するようになった京風の老舗旅館。十一代日女将・佐藤年の記憶によると「ニュージャージー在住のスピーヴァックという方から二、三週間ほど投宿したい、という予約が入っていましたが、結局一カ月以上もの長逗留になりました」という。ここに登場するスピーヴァックは当時、コロンビア大学の社会学教授で、家族ともどもベン・シァーンと親交があり、その芸術を賞讃していた間柄。バーナーダ夫人の証言によると、教授の義父が学位取得を祝って世界一周旅行のプレゼンほ提供したさい、教授夫妻がベン・シャーン夫妻に同行を申し出たため、シャーンにとってはスポンサー付きの衆になったという。

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 女将の佐藤は「背が高くて恰幅(かっぷく)がよく、とても静かな方」だったベン・シャーンを案内して、古美術街や市内へお伴した。俵屋で見た落款(らっかん)に興味を示したシャーンは「私も、こんな落款をつくりたい」と言い出し、宿からすぐ近くの印判店「田丸」(寺町通三条上ル)でヘブライ語をみずからデザインした落款を彫ってもらった。京都滞在中のベン・シァーンが、好んで足を運んだ場所の一つが、外人観光客におなじみの東山・新門前(しんもんぜん)の古美術商街。その一角に今もある古美術商兼軸装屋「谷口商店」先代店主・谷口秀雄と親しくなったシャーンは、この主人に日本名「辨山」を付けてもらった。その後の作品に登場する「辨山」の落款は、ヘブライ語の落款と同じ「田丸」で彫ってもらったものだという。京都を去る日、シャーンは「いろんな所に案内してくれたお礼に絵を描いてあげよう」と女将の佐藤に言い、京都で買った墨と筆でサイン帖いっぱいに急須の絵をしたためた。俵屋の玄関横の壁には、今もなお、この絵が飾られている。

 もう一軒、新門前で行きつけの店だったのが、戦後早い時期から日本の現代美術や創作版画を積庫的に扱っできた山田画廊。経営者の山田哲夫が英語に強く、みずからも創作版画を制作していた関係で、画廊を訪ねてくる外国の現代作家たちと関西作家たちとの交流の場にもなっていた。

 ベン・シャーンはある時、同画廊で開催中の朝賀卍廊木版画展を見て「ぜひ、この作家に会ってみたい」と言い出した。朝賀は生粋の京都人で、東京に養子に行った版画家・前川千帆(せんぱん)の実兄にあたり、能をモチーフにしたりコラージュ版画を試みたが、世間的にはほとんど知られていない。この無名版画家を洛西・鳴滝の閑静な仕事場に訪ねた。通訳役を兼ねで同行した山田の記憶によると、朝賀版画のオリジナリティーに感銘したベン・シヤーンは、その源流をさぐろうと朝賀の過去の体験を根掘り葉掘り尋ねた。「ワシは、新聞の政治マンガを描いてメシを食っていたんや」「版木を彫る彫刻刀は、雨の日に研ぐんや。水をかけなくても済むからな」と自らの清貧生活を語る朝賀に、「オレとお前の人生は、一緒だ」と意気投合したという。

 山田画廊が推していたもう一人の版画家が浅野竹二。90歳を超えた今なお、画壇政治とは無縁なところで孤高な創作活動を続けている。当時の浅野は白黒の創作版画と、頒布会用の多色摺り名所絵版画を併行して制作しでいた。「この絵の作者に会って話したいことがある」と言い出したベン・シャーンは洛北・上高野の浅野の仕事場を訪れた。「二足のワラジですよ」と自嘲気味に言いながら創作版画と名所絵版画を見せる浅野に対して、「名所絵版画を頒布会用とさげすむ必要はない。君自身にとって、これは技術を磨く意味で立派に価値があり、今後の創作版画にもきっと生かされでくる。両者の持ち味を結婚させることだ」と励ましでくれた。ちなみに浅野は若き日、治安維持法違反容疑で獄中生活を経験している。それにも増して、飾り気のない人間味と適度の風刺精神が、ベン・シャーンの資質にピタリと合ったのかも知れない。それから五年後の一九六五年、浅野はメキシコ市内で個展を開いた帰りに米ニュージャージーのベン・シャーン宅を訪れ、数点の新作版画を見せると「これこそ私が望んでいた作だ」と喜んでくれ、二人は作品を交換し合った。

 朝賀にしても浅野にしても当時、世間的にはあまり名の通った版画家ではなかった。それにもかかわらず、作品を通してその作家の資質を敏感に察知し、共通した人間性を嗅ぎ取るベン・シャーンの人柄を、そこに見る思いがする。

 世間的な評価や肩書に左右されることなく、人間の奥底を暖かく、しかも鋭いまなざしで見続けてきたベン・シャーンらしいエピソードがある。ある日、「探幽」(狩野探幽=江戸初期の画家)のサインがある軸ものを持って、山田画廊へやってきて「箱根で買った探幽の布袋図だが、名前がすばらしいだろう」とニヤリと笑ったあと「明らかにニセの探幽だが、ニセものにしてはすばらしい。だから買ったんだ」と付け加えた。名画盲信に対する風刺にとどまらず、本物そっくりに描かざるを得なかった悲運のニセもの絵師の真剣なこだわりの筆跡に、ベン・シャーンならではの人間愛と鋭い審美眼が共振したのかも知れない。

 今一人、山田画廊を通じてベン・シヤーン夫妻と親交を結んだ前衛画家・大野倣萬(ひでたか)は、当時を振りかえり「ベン・シヤーンは体格も心も、ふところの深い感じの人だった。バーナーダ夫人も細やかな感性の持ち主で、奥ゆかしい良く出来た人。いつもベン・シヤーンを立て、自分は一歩引いていた。古風な日本的な感じの女性だった」と証言する。ある夜、シヤーン夫妻、山田、大野の四人が四条大橋ほとりの料亭「なるせ」で会食した時のこと。食事のあとの余興で「色就にべン・シャーンの絵を描こう」ということになり、まず大野が下駄ばき姿に歌舞伎役者顔のシャーンを得意の筆で一気に描いた。その絵に山田がヒゲや影をつけ足したら、シヤーンが「オレも描こう」と言い出し、二人の絵の上に、パレットと絵筆を持つ自分の手を、たどたどしいぼどゆっくりしたスピードで描き加え、三人合作による「ベン・シャーンの肖像画」が完成した。こんどは、シャーンが「オーノ、君の顔を描いてあげよう」と言い出し、割り箸入れの氷袋を広げて、ひょろ長い大野の顔を、例のたどたどしい筆の運びで描いた。描き終わると「私は線を引く時、君のようにスーツと一気には引かない。思案しながら引いていくんだ」と説明してくれたという。

■べン・シャーン詣(もう)で

 「ベン・シヤーン、京都に滞在中!」という噂は、東京の若い芸術家たちの間にも広まり、わざわざ京都まで会いに来る作家たちが少なくなかった。新制作の佐藤忠良、朝倉摂、自由美術の吉井忠も四月中旬、鴨川沿いの料亭「書清楼」(木尾町通御池上ル)でベン・シャーンに会った。彼らは日本美術会主催の日本アンデパンダン展でシャーンのプロテストや平和のポスターを見ていたので「ぜひ会いに行こう」と いうことになったという。吉井の記憶によると、古風な日本座敷の卓袱台に腰かけたまま話すシャーンは、「地方の村長さんという感じの親しみを覚える人物で、作品に見るようなシャープで神経質な感じは全くなかった。愛用のカメラのシャッターを押しながら、私は人間的なもの(Human being)を表現したいために恐れや哀しみ、時にはおかしみを描く、と強調した。当時のソビエトの社会主義リアリズム絵画を否定し、ドイツの女流画家ケーテ・コルヴィツやピカソは尊敬する、と言っていた。私が話を聞きながらシャーンの横顔をスケッチしたら”Thanks ben shahn”とサインをしてくれ、朱肉でヘブライ語の落款まで押しでくれた」という。

 後年、バ−ナーダ夫人は「わが夫ベン・シャーンの思い出」と題した新開記事の中で「ベンの絵は、いろいろの方向をいつも探求してゆきました。個々の人間の主張に対する共鳴だけを指向したのではありません。・‥(中略)…戦時中、広島と長崎が爆撃されたあと、ベンはぬぐいきれない悲しみを持ち続けていました。このことについて私に、自分自身が罪を犯したときのような罪悪感を感ずると打ち明けたことがあるほどです。…(中略)・‥(「ラッキー・ドラゴン」シリーズの制作に没頭したのも)恐らくベンが感じていた罪悪感を幾分でもやわらげるのに役立ったのではないかと思います。ベンは、絵画というものは美しいものであると確信し、その美こそ人間の怒りとか悲しみとかを訴える呼び声と本質的に同じ意味があると信じていたのです」(一九七○年五月十九日付F東京薪凱夕刊)と記している。皮相的な意味でが社会主義者」のレッテルを粘られることに対して、ベン・シヤーン自身、少なからぬ抵抗感を抱いていたことが、身内の証言によっても想像される。

 ベン・シャーンの絵には、油彩画のもつ重々しい芸術至上主義は感じられない。むしろ、デリケートな描線や淡いグワッシュの色彩を生かした、グラフィック感覚の控え目な印象を与える。日本の若きグラフィック・デザイナーたちが、ベン・シャーンに共鳴したのも当然だ。粟津潔もまた、仲間の和田誠と二人で京都までベン・シャーンに会いに行った人。当時、瀬木慎一との対談記事の中で「善良な好々爺みたいな人ですよ・‥(中略)…人がいいのに加えて、身体もまたすごく大きいんだ。身長ニメートル以上、二十貫は あるかと思うくらいの巨体ですよ。僕も和田君もすっかり ボーイにされちゃってねo。「ハロー・ボーイ』なんて、ガックリきちゃったね(笑)」と第一印象を語ったあと「彼のばあい、はじめのスタートから、絵を描く行為に絶望感を抱くだけで精いっぱいだったのではないんじゃないかと思われる。彼はロシアの片田舎、リトアニアに生まれ、流浪の旗を続けたあげくにたどりついたのが、ブルックリン・…‥。だから彼の心の底には、人間に対する一種のゆるぎないそれがあったんじゃないかしら」(一九六一年二月号「美術手帳」)と推察する。

 今一人、当時の美術雑誌(一九六○年五月号芸術新潮)に「京都のベン・シャーン同行記」を執筆するため京都へやってきた画家がいる。戦前、美術文化協会の創立に参加し、シュールリアリズム的傾向の特異な作品を残して1971年、ローマで亡くなった阿部展也である。当時、東京にいた阿部は、すでに京都滞在二週間以上にもなるベン・シャーンを、四日間にわたって密着取材した。

 同行記によると、外出の時のベン・シャーンは、愛用のライカを片時も放さなかった。写真家としての実績はよく知られているところだが、奈良・東大寺へ出かけた時でも、肝心の大仏などには全く興味を示していない。大仏殿の出口脇に立つおどろおどろした赤ずきんをかぶったオビンズル様(十六羅漢の一つで、この像を撫でると病気が治るという迷信がある)のような大きな木彫の顔に異常な関心を示し、何度もシャッターを押した。洛西・龍安寺の石庭を訪れた時など、その精神的な美しさを認めながらも、ベン・シャーンの目は石庭そのものより、その石庭を凝視している民衆の姿に向けられていた。同行中のシャーンは、しばしば「デコラティーヴ(装飾)という言葉は、芸術家としての無気力と同義語」という意味のことを強調した。名刹・妙心寺の塔頭(たっちゅう)・天球院では、狩野山楽の作と伝えられる重要文化財の障壁画をチラリと見ただけで「画面の構成的な興味はあるが、これは装飾だ」と短い言葉で片付けで通り過ぎた。4日間、ベン・シャーンとあるいている間に私は、妙なことに気づいた。死骸のように硬直しているものとばかり思っていたにせものの中に、彼は彼流の生命を見ているということである。こういう彼流の物の見方からすると、逆に本物とか名作と折紙つけられているものが、生命のとぼしい、ひからびたものに見えることである。こういう経験はまことに奇怪である。シャーンの絵の空間にも、こういう、にせものらしく描かれた部分が、一番魅力的であるといったところがある」。

 これは、シュールリアリストらしい阿部の観察だが、さきに紹介した「探幽のニセもの」エピソードの現場にも阿部は同席していたという。

 もう一つ、同行記の中に興味深いエピソードがある。中国古銅器の宝庫として知られる洛東・泉屋博古館(住友別邸内)を見学しでの帰り道、近くの農家の小屋のまわりに雑多な木や石のオブジェふうのものが放り出してあった。博古館の中では、さほど反応しなかったベン・シャーンの眼が輝き出した。家の中から出できた農夫が「これらは、ワシが自分で道具をつくって、集めてきた石や木に自分流で彫ったものだ」と言うと、シャーンは「日本に来て、初めて(本当の)彫刻家に会えた」と大喜び。オブジェ群の中に、昔、野良で虫よけに使ったという、唐獅子の尾が欠けた蚊いぶしの焼きものを見つけ出したシヤーンは、農夫と交渉して買い取った。

 「宿の床の間に、ジャワ方面で買ってきた古い出土品と並べられた、日本産安物陶器の唐獅子の大口をあけた蚊いぶしの顔を見た時、私はギョッとした。シヤーンの作品「寓意』のなかの火炎の冠をいたかた真っ赤な動物の、恐怖のシンボルといわれる顔が、唐獅子の緑と茶の貌(かお)に重なって見えたからである」と、阿部は同行記を結んだ。

 ベン.シャーンは、京都の印象についで「アメリカの歌に“あなたを愛すと言ったあとで、一体何が言えるのだろう?”という歌がありますが、私の京都に対する感じはその通り…‥・。パリは歩くのにすてきな町ですが、この京都も私が今までまわったどの町にもまして、歩いて楽しい町」と同誌に記している。そのベン・シャーンに会った日本人たちの印象は異口同音に「心の暖かな好々爺」となるが、その反面、コンテスト(意味・内容)とフォルム(形)が一体化していない施行の新芸術に対する怒りにも似たシャーンの激しい言葉を耳にした人たちも少なくない。「アイデアとサイズの競争に狂奔する抽象美術」に対するシャーンの嫌悪感を多くの人が聞いている。マーク・トビー、デ・クーニング、ジャクソン・ポロックといった前衛画家たちには一応の尊敬の念を払いながらも、ポロック以後の亜流作家たちに対しでは「自動車の新型を考えるデザイナーのように、新型という信仰に迎合するパターンを探しているだけの人間でしかない」という激しいセリフを、同行記の阿部も耳にしている。

 ユダヤ系移民という貧困の少年期を過ごした一人の画家が、国家や社会の中で発生する一つ一つの不条理に対して、敏感に反応していった末に、人間宿業(しゅくごう)そのものに対する怒りと哀しみを受けとめていく変貌の過程が、全生涯の作品を通じて浮かび上がってくる。まさに、慈愛のまなざしと怒りと哀しみは、晩年のベン・シヤーンにとっで一つになった、と言っていい。日本を去ったあと、ベン・シャーンは「ラッキー・ドラゴン」シリーズを狭義の反核運動としてとらえることなく、人間宿業の実相として次々に描き続けた。愛と怒りと哀しみをこめて。 (京都新聞社文化部長)文中敬称略

(「現代美術・第1巻ベン・シヤーン」講談社1992年)