ベン・シヤーンの写真

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■社会を見るレンズ

デポラ・マーティン・カオ

 時は禁酒法時代、大恐慌の最中のことである。左翼芸術家で社会活動家であったベン・シャーン(1898−1969)は、ニューヨークの下町で写真を撮るのを習慣としでいた。当時彼は親友のウォーカー・エヴァンス(アメリカ出身の著名な写真家)とグレニッチ・ヴィレッジの小さなスタジオを共有していた。ここからロクワー・イーストサイドに向かい、労働者の日常生活を小型カメラで撮るのである。ニューヨークの路上で繰り広げられる、いわゆる「リビング・シアター」のシーンを収めた一連の写真はこうして生まれた。

 世界各地から貧しい労働者階級の移民(そのはとんどは片足を旧世界に据えたままであった)の集まるこの地区を、シャーンはとでも愛していた。ここは彼にとっでなじみの土地だった。というのは、彼は1910年代後半に石版工の見習いとしてこの地区で働いていたからである。彼が通った工房はフルトンストリートの賑やかな商業地区から数ブロック離れたピークマンストリートにあった。

 石版画工の修行を終えてから10年以上がたっでいた。シャーンは芸術家としての成熟期を迎え、彼特有の絵画スタイルを構築しつつあった。写真に基づく糖蜜な細部描写と、遠近法を誇張した大胆な空間構成をあわせもつスタイルである。1930年代の経済・社会・政治の大変動は西洋文化を袋小路に追い込んでおり、そんな中でシヤーンの作風もまた、ラディカルなものに変わったのだ。彼は1920年代後半に絵の修業のため渡欧したが、今やそのときに学んだ近代芸術の言語を棄て、新たな絵画の言語を作り出そうと模索し始めたのだ。当時支持するようになっていたプロレタリア階級の様々な問題に対して抱いた、その共感を表わす新たな芸術表現を求めていたのである。

 シャーンを魅きつけた視覚的素材は、マンハッタンの路上にあった。前衛芸術は激しい困窮と先行きの見えないこの時代にそぐわないまやかしものとして捨て去り、路上でみつけた素材で自分なりの運動を展開していった

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 エヴァンスによれば、彼とシャーンはロクワー・イーストサイドで多くの時間を費やし、そこの「暮らしの空気」をたっぷりと吸い込んだ。シャーンはマンハッタンを西から東へと横断しては、写真撮影に浸り、転落寸前の本物の人生のドラマをフイルムに収めた。こうして彼特有の社会派絵画の制作手法が確立された。それは具体的な写真を資料とし、労働者階級の困窮する暮らしぶりを一個の記録として描き出すことを基本としている。このときの経験を糧として、彼はその後初年にわたって創作を長けた。

 シヤーンは芸術を社会的・政治的な変革をもたらすためのツールとすることを目指した。彼のこの傾向は時とともに強まっていった。彼が繰り返し述べるところによれば、作品にとって重要なのは、メディアのいかんではなくでその内容である。「私は社会的な画家あるいは写真家である。私には写真と絵画の区別などどうでもいい。どちらにしてもピクチャー(=写真、絵画)ではないか。」

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 シャーンが初めで写真に興味をもったのは1930年代の初めである彼は新聞や雑誌のグラビア写真を大事に集め、社会に論争をもたらすための絵画や社会を風刺する戯画を描くときの資料とした。彼はルポルタージュの世界で用いられている通俗的な表現様式に注意を払っていたが、1934年ごろ、自ら社会をドキュメントするような創作活動を率先して展開するようになると、この表現様式を模倣した。ロクワー・イーストサイドなどマンハッタンのあちこちで展開される抗議の現場、貧しい生活の現場を「スケッチ」する手段として、写真を用いることにしたのである。このように、彼が労働者階級の社会正義を求める政治に傾倒し、マスメディア、とりわけ報道写真が社会に対してもつ文化的な説得力に目をとめたことが、彼の社会を見つめる視線を育てた。

 シャーンが写真を撮り始めた時代、芸術写真といえば大判カメラでの撮影が当たり前であった。しかし彼は普通の日曜写真家と同様に、35ミリの手持ちのライカで撮影したこの小型で軽量のカメラを用いれば、ニューヨークの市内のどの雑踏の中も目立つことなく移動することができ、人々の暮らしを詳細に記録することができた。

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 シヤーンはカメラを水平に構え、目の高さ、至近距離で撮影した。出来上がった写真を見る者は、自分が都会の風景の只中にいるような気がする。彼は、「横向きヴュー・ファインダー」を頻繁に用いた。「横向きヴュー・ファインダー」とはカメラに装着する潜望鏡型の小道具で、これを用いると、撮影者は、カメラの前方を撮っているように見せながら実際には真横の景色を撮影することができる。シャーンは自分を「労働者」と考え、被写体に対して共感的に振る舞い、相手を利用しているそぶりなど見せないようにしていたが、しかしこれはスパイ的な視線での撮影であり、このやり方の倫理性が問われたこともある。

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 のちにエヴァンスは、シヤーンと自分が「横向きヴュー・ファインダー」を使用したことについて弁明を試みている。彼によれば、ルポルタージュの起源は技法的にも社会的意味合いにおいてもオノレ・ドーミエの作品に起源をもつものだが、「血気盛んだった我々は、自分たちがドーミエの伝統、《三等客車≫の大いなる伝統の中で制作しでいると信じでいた」ので、ファインダーの利用などには「なんのやましさを感じることもなかった」。たしかに1930年代頃のアメリカでは、政治意識・社会意識のある芸術家の重要なモデルとして頻繁にドーミエが引き合いに出されていた。

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 シヤーンは1935年から1938年まで「横向きヴュー・ファインダー」を使い続けた。彼はこの時期に、ニューディール政策の一環として設けられた政府のRA(再定住局)、のちのFSA(農村安定局)の歴史部のために、アメリカ南部・中西部の農村の何千枚もの記録写真を制作した。彼はニューディール政策を熱心に支持していた。1940年代になるとシャーンの写真作品は目立って減少したが、彼はいつも1930年代に収集した写真資料の山にあたっては、そこにインスピレーションと素材を求めていたし、撮影も断続的に続けでいた。また、あまり知られていないことだが、1960年の(訪日を含む)アジア旅行のさいにも愛用のライカで膨大な数の作品を制作した。48

 シャーンが大量に写真を撮っていたにもかかわらず、彼の作品を最初期に認めた者たちの中には、彼の芸術における写真制作の重要性を過小にしか、あるいは限定的にしか認めない者もあった。シャーンは完成作と認めた多くの写真作品に署名し、題名をつけ、台紙に貼って残しているのだが、1969年に亡くなった時点で、これらの写真作品は彼の芸術的遺産の一部とは見倣されなかった。それらはひとまとめに私的な自作写真コレクションとして扱われた。あくまで芸術作品に滋養を供給した豊かな視覚資料という位置づけである。

 シャーンは自分が撮った写真を絵画制作のために創造的に再活用した。その好例を一例だけ紹介することにしよう。彼の先駆的な記録写真の中でもきわめて出来のいい一枚が、互いに関連ある作品の中で「その後の人生」を送っているのである。

 それは1933年から34年頃の作品で、マンハッタンのロウワー・イーストサイドの路上でひとりのアフリカ系アメリカ人労働者を撮ったものである。シャーンはこの人物を少なくとほ続しで3コマ撮影しているが、署名し台紙に貼ったのは1枚のみであった。つまりこの1枚は自立した一個の作品だということになる。

 プリントは横長である。画面の中央に鋳鉄の葉形飾りのついた種があり、画面を左右に分している。左側には背広にネクタイ、中折れ帽の小柄なビジネスマンが、右側には両袖をまくり上げ、シンチベルトを締めてベレー帽をかぶった長身の労働者が写っている。このラディカルな構図によって、2人の人物は別々の壁鰍(ニッチ)こ配置された格好になっている。2人の身体的特徴はコミカルなほどに違っており、階級・人種によって経済・社会的に互いに隔てられている。二分法の構図はこうした差異を・・・実際には2人は互いの近くにいるのだが・・・強調している。

 この写真中の人物をシャーンが再利用した最初の例は1934年から35年頃のグワッシュの習作である。それは当時建設されて間もないライカーズ島刑務所内に描かれる予定だった、刑務所改革をテーマとした壁画用の習作だった(この壁画は結局実現しなかった)。例のロワワー・イースト・サイドの労働者は、ここでは刑務所の小さな監房内に立つ被収容者となっている。合衆国の旧刑務所制度の諸相(たとえば厳しい面会制限など)を描く一挿画の中である。シヤーンの描くところによれば、1930年代のアメリカで監獄に入れられた者たちの中には、過激な労働運動を導いた殉教者と英雄、政治的アジテーター、失業者、人種・階級差別の犠牲者が含まれていた。

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 さて、この労働者は、1939年の《三人の男≫(下図)というタブローに再び登場する。この作品はオリジナルの写真と同様の都市の街頭風景であり、人種の混在の様子、移民の剛ヒの過程を表現している。左右を二分する構図の左側にはビジネスマンと前掛けをした商人が、右側には労働者がいる。

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 ここでシャーンが描こうとしているのは、これらの男たちの民族の次元における相違点である。彼は1940年に画廊主ジュリアン・レヴィに宛てた手紙の中で、この絵を「ニグロのアメリカ人、ギリシャ人、ギリシャ系アメリカ人」を描いたたものと説明している。つまり彼は新来の移民と同化した移民を・・・そしてさまざまな民族的・人種的出自の者を・・・互いに孤立しながらも近接した区域で生活し労働している者どうしとして描いたのである。

 彼のこうした描き方は、連邦作家計画の「ニューヨーク市ガイド』に記されたロウワー・イーストサイドの当時の社会的・文化的状況によくマッチしている。「安アパートとごった返す通りからなるこの2平方マイルはどの区域は、大都市生活のあらゆる問題と紛争とを拡大して見せている。市内でもこれほどニューヨークらしい地区はない。そのすすけたアパート群から、何世代にもわたってさまざまな民族的背景をもつ労働者たちが出てくる。」

 シャーンはとりわけアフリカ系アメリカ人の苦しい生活状況に同情していた。そこで彼はこの右側の労働者を、露天商の世代から新聞を読むビジネスマンの世代へと地位を向上させたであろうギリシャ人の立場と対比させ、記念碑化したのである。ここにはニューヨークを普通の人々の苦闘の場として描くシャーンの手法が現れている。彼は時代を画する大事件を絵の題材とするよりも個人の社会的状況を描くことのほうを好んでいたが、この作品にはこうした特徴も現れている

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 シヤーンは少なくともあと一皮、この労働者を別の舞台に登場させた。今度はシャーン特有のインク描きの挿画の中である。今度はこの労働者は共同住宅の居住者としで描かれている。これは1950年の『ハーバーズ・マガジン』誌における有名ブラックベルトジャーナリストジョン・バートロー・マーティンによるシカゴの「黒人居住区」に関する記事のための挿画である。

 1934年から1950年までの間に描いたこの労働者のいずれのヴァリエーションにおいても、シャーンは、もとの写真の中に捉えたこの人物の種々の特徴をそのまま再現しつつ、彼をその時代その時代の「リビング・シアター」にもっともふさわしい場面に適合させようと骨を折っている。このようにして、前世紀半ばのアメリカの人種差別や階級的不公正があれこれの個人にもたらしている闘争状態をクリアに描こうとしているのである。

 シヤーンは、1930年代の初め頃までに、芸術作品とは、その時代の緊急の社会問題についでコメントし、国民的討論を巻き起こすことのできるような視覚的な訴えかけを内に含むものだと考えるようになっていた。版画、ドローイング、挿画、ペインティング、壁画、写真を通じて、シャーンは「同時代の歴史を描く絵画」の新しい形式を創始した。批評家で美術史家のメイヤー・シャピロの表現を借りれば、彼は、路上を歩く普通の人々の個人的な体験と社会的な陶争とに完全に依拠した、芸術の「公共的な活用」を創出したのである。

(ハーバード大学附属美術館チーフキュレ一ター、写真部門リチャード・L・メンシェル・キュレーター、近現代部門部長代理)