マーク・ロスコ

c89932954731dac9d351c60f0e789bce751_2 rothko-a1903Dvinsk(Russia)−1970NewYork−N・Y・

 ロスコ(マーカス・ロスコヴイツツ)ロシアのドヴィンスク現在のラトヴィア共和国のダウガフピルス)に生れ1913年(10歳)に渡米した。1921年(10歳)にイエール大学に入学したが中退し,1924年(13歳)にニューヨークのアートスチューデンツ・リーグ,1925年にはボストンのニュー・スクール・オブ・デザインに入学した。

 1929年(26歳)アドルフ・ゴットリーブと出会い1935年(32歳)にはゴットリーブ等と「ザ・テン(10入組)」というグループを結成する。1936から39年までWPA(公共事業促進局)のプロジュクトにより連邦ビルのための作品を制作した。

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 1938年(35歳)アメリカ国籍を取得し,1940年頃(37歳)からマーク・ロスコと名乗るようになった。1944年(41歳)にべギー・グッゲンハイムの主宰する「今世紀の美術」画廊のグループ展にジャクソン・ポロック,ロバート・マザウェルとともげメリカの作家として選ばれ出品した。ロスコは1952年にニューヨーク近代美術館の「15人のアメリカ人」展に出品した際に,展示方法についてトラブルを起こし,グループ展への出品を拒否するようになり,また美術館に対して,自分の作品を1点のみ購入することを認めないと主張した。1957年(54歳)から暗い色調の作品を手掛けはじめる。1958年にシーグラム・ビルのレストランのための壁画依頼され制作を始めるが,1960年に契約を破棄してしまう。1962年にハーバァード大学ホールヨーク・センターのための壁画を制作し,1964年から67年にかけてはド・メニル夫妻からの依頼で礼拝堂のための壁画制作した。1968年(65歳)に大動脈痛のため入院し,健康上の理由から主にアクリル絵具を用いた小型の紙の作品を制作した。自殺する前年の1969年には,黒と灰色,あるいは黒と褐色のみの「ダーク・ペインテルグ」と呼ばれるスタイルのものを描いていた。

 ロスコは,1930年代(27歳)には室内の人物や都市風景などを具象的な手法で描いていたが,1940年代の初めから半ばにかけて,「怪物も神々も抜きでは,芸術は我々のドラマを演じることはできない」として,ギリシャ悲劇や神話を主題にし,技法的にもシュルレアリスムの影響を受けた作品を制作していた1946年から49年にかけて,「マルチフォーム(複合形態)」と呼ばれる,画面の中に複数の色面が浮かぶスタイルの抽象画を描き,1949年(46歳)になると,縦長の大画面につないし三つの柔らかいエッジの矩形が浮かぶ,いわゆる「ロスコ・スタイル」のものになった。見る者を包み込むような大画面は,ロスコ・スタイルの特徴であるだけでなく,ニューヨーク・スクールの作家に共通してみられる特徴の一つである。ロスコは自分が非常に大きな画面の作品を描く理由として,とても親密で人間的になりたいからであり,小さな絵は人を体験の外側に置いて、体験を外側から傍観するためのものであるのに対して,大きな絵を描けば,画面の中にいることになる,と述べている。 (Y.O.)


■作品

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■資料

 1903年、当時ロシア帝国領だったラトビアのドヴィンスクにユダヤ系の両親のもとに生まれた。1903年から1906年にかけ反ユダヤ襲撃ポグロムが盛んとなり。そのため一家は1913年にアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに移住した。

 奨学金を得て、1921年から1923年までイェール大学で学ぶが中退。1923年にニューヨークに移住し、アート・スチューデンツ・リーグを訪れ、ヌードデッサンのようすを見て美術の世界に入ることを決心したという。だが2ヶ月程で辞め、ポートランドに帰省。ヨゼフィーン・ディロンが主宰する劇団で役者の修行をする。同じ劇団にはクラーク・ゲーブルが所属していた。

 1925年再びニューヨークに移り、ニュー・スクール・オブ・デザインに入学してグラフィック・デザインを学んだ。 1933年、ポートランド美術館で初の個展を開催。この頃の作風はサルバドール・ダリ、ジョアン・ミロなどのシュルレアリスム絵画の影響の濃いものであった。

 独自のスタイルを確立するのは1940年代の末ごろである。クレメント・グリーンバーグらの高い評価により、一躍有名になった。そしてニューヨークのシーグラム・ビルディングにあるフォーシーズンズ・レストランの壁画を依頼され、約40枚の連作(シーグラム壁画)を制作した。しかし友人に譲った作品が売りに出されるという事件をきっかけに、自分の作品が世間に理解されていないと考えるようになり、前渡しされた購入金を全額返却して納入を拒否した。

 その後、いくつかの美術館が作品の買い取りを申し出たが、ロスコが全部を一つの空間で展示することにこだわったため難航し、結局彼の死後、世界の3つの美術館(ロンドンのテート・モダン(テート・ギャラリー)、ワシントンD.C.のフィリップス・コレクション、千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館)にわかれて収蔵された
DIC川村記念美術館には、マーク・ロスコ専用の「ロスコ・ルーム」が用意されており、7点のシーグラム壁画による静謐な空間を体験することができる。

 晩年には、ヒューストンの美術館メニル・コレクションの近郊にある「ロスコ・チャペル」の壁画に取り組んだ。彼は壁に自分の作品だけを展示し他人の絵を並べてほしくないと望んだ。1970年に病気(大動脈瘤)や私生活上のトラブルなどの理由で自殺。66歳であった。