アーシル・ゴ-キー

1904-1948

Archives_of_American_Art_-_Arshile_Gorky_-_3044 The_Design_Center,_RISD,_Providence_RI

 ゴーキー(ヴォスダニツク・マヌーク・アドイアン)はアルメニア東部のヴァン州で生まれレレコ軍の迫害を逃れるため各地を渡り,1920年アメリカに移住した1922年から24年(17~20歳)までボストンのニュー・スクール・オブ・デザインで学び,また,教えるようになる。1924年からニューヨークに移り,作品にアーシル・ゴーキーとサインするようになり,25年(21歳)に正式に改名する。1930年頃デ・クーニングと出会う。1935年から41年までVPA(公共事業促進局)のプロジェクトに参加・辞職・復帰を繰り返し,壁画を描く。

 1939年(34歳)にアメリカに帰化する。1942年にコネティカット州ニュー・ミルフォードにある,友人の画家ソール・シャーリーの農場に滞在する。1944年頃ヨーロッパから亡命してきたアンドレ・ブルトンたちと出会う。1946年(41歳)にコネテイカット川シャーマンのアトリエが火事で焼け,約30点の作品が焼失する。この年,直腸癌にかかり手術を受ける。1948年6月(43歳)に自動車事故で首を骨折し,利き腕が麻痺してしまう。7月に妻が子供を連れて別居する。この月にゴーキーは自殺する。

 ゴーキーは基本的に独学で絵を学んだが・初期の作品は,どの時期に誰の作品を意識していたかが画面から一目で見て取れるほどであり,1920年代にはセザンヌから,1930年代にはキュビスムから強い影響を受けていた。1940年代になると,ミロやカンジンスキー,シュルレアリスムなどからの影響を受けつつも,アルメニアへの思いをテーマに,バイオモルフィツク(生命形態的)な独自の作風が作られている。生前のゴーキーを知る人は,ゴーキーのアルメニア人としてのアイディンティティーに言及することが多い。

 出品作のタイトルになっているコーコムという村は,ゴーキーの出生地である。1942年の夏にコネティカット州ニュー・ミルフォードで休暇を過ごしたことが契機となって,自然から直接素描して描くようになる。ブルトンは「全てのシュルレアリスムのアーティストの中で,自然と直接に接触しつつ,その前で描くために身を置いたのは,唯一ゴーキーだけであるということを強調しておくことが重要である」と述べ,「生命のリズムそのものを明らかにするために自然の暗号を解読」する全く新しい芸術であるとの評価を与えている。

 また,1943年(38歳)にはバージニア州ベルトンへ旅行し,バージニアはアルメニアの低地を思い出させる,として,舶年にも9カ月に渡って滞在した。ゴーキーは最後のシュルレアリストあるいは最初の抽象表現主義者であると言われるが,ゴーキー自身は,芸術には構造が必要であり,全くの無秩序は動物的で無思考・非精神的だという理由で非人間的だ,と考えており,偉大な芸術は意識を強調するとしてシュルレアリスムの基本的な姿勢の一つである無意識の探究による自動記述とは相容れない考えをもっていた。(Y・0・)

■作品

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■追加資料(wikipediaよりコピー)

 1904年、アルメニアに生まれる。オスマン帝国領のヴァンの近くに住んでいたが、1915年のアルメニア人虐殺の間に母親を失い、生き延びたゴーキーは、先にアメリカに渡っていた父親を頼って1920年にアメリカに移住した。

1922年にボストンの美術学校に入学、パートタイムで教えるようにもなった。このころは印象派からの影響を強く受けていた。

 生命体を思わせる有機的な形態がうごめき、場所によっては叩き付けた絵具が流れ落ちるままになっているその画面は、抽象表現主義やシュルレアリスムのオートマティスム(自動書記)の影響を感じさせる。しかし、感情に任せて一気呵成に描き上げたようにみえるその画面は、実は綿密な計画とデッサンに基づくものである。

  彼の後年は災難が続いた。スタジオが火事で焼けたり、癌を患ったり、事故で首に怪我を負って利き腕が麻痺したり、妻が子供を連れて家を出たりという不幸が続き、1948年、44歳の若さで首吊り自殺した。

 同じくアルメニア系の映画監督アトム・エゴヤンは、1995年にゴーキーをテーマにした短編「アーシルの肖像」を制作した。エゴヤンは後の長編映画「アララトの聖母」でもゴーキーを取り上げている