ロバート・マザウェル

1915A berdeen.Wash.−1991 Provincetown′Mass

 マザクェルは西海岸のワシントン州に生まれ,カリフオルニアで育った。父親がサンフランシスコで銀行家として成功したことは,後にマザクェルがニューヨークの美術界に入っていく助けになった。1932年からスタンフォード大学で哲学と文学を学び,ついでハーグァード大学大学院に入学した。1938年から翌年までフランスに滞在してドラクロワ研究に取り組む一方,絵画を制作。

 1940年,コロンビア大学の美術史教授メイヤー・シャビロに師事するために移ったニューヨークで,大戦を逃れてやってきたヨーロッパのシェルレアリストたちと知り合う。1941年にはシェルレアリストのロベルトマッタとメキシコを旅行し,この間初めてオートマテイツク・ドローイングを試みる。このメキシコでのスケッチには,マザクェルが発展させていくイメージが多く含まれていた。

 1944年,ペギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術」画廊で最初の個展を行う。この頃ロスコと会い,彼を通じてゴットリーブ,ニューマン,トムリンらと知り合う。1947年,ハロルド・ローゼンバーグ,ジョン・ケージらと雑誌『ポシビリティーズ』を出版。この雑誌のために準備した挿絵が,くスペイン共和国のための哀歌〉シリーズの原型になる。

 1948年,バジオテス,ロスコらと,主題の重要性をうたった美術学校「芸術家の主題」を設立。1958年,画家のヘレン・フランケンサーラーと結婚(1971年離婚)。1965年,ニューヨーク近代美術館で個展。この年,和鰍こインクの即興的なドローイング〈拝情組曲〉シリーズを制作。1967年に,〈オープン〉シリーズを開始。1960年代からは版画工房での制作も盛んに行うようになる。例年夏を過ごしていたプロビンスタウンで,1991年に死去した。

 ニューヨークより先にパリに赴いたマザウェルは,フランスを中心とした近代美術を国際的な美術として理解し,理論家としても活躍した。コラージュやドローイングのような親密で私的な作品を制作する一方で,室内を飾り正面から焦点を見定めることのできるような絵画をこえるひとつの手だてとして大画面の絵画を制作した。

 色彩の広がりに窓のような矩形が描かれたくオープン〉シリーズでも,ピカソやマティスから汲み取った絵画の空間性の問題を大きなスケールで展開している。また,シュルレアリスムの理論は受け継がなかったが,豊かな抽象のために有機的なかたちとオートマティスム(自動記述)の方法を摂取した。なによりも,抽象絵画によって人問の体験をいかに表現するかという象徴や伝達の問題が,文学や哲学への関心にも共通した彼の課題であり続けた。だからこそ,スペイン市民戦争の挫折を契機に,現代の暴力と悲劇への感情をよびさます〈スペイン共和国のための哀歌〉が,150点以上も描かれることになったのだろう。        (C.H.)