火と海と人

平野明彦

「我々に残されている地球上の資源は、唯一想像力である」       

J.G.バラード

 一人の想像力を不特定多数の人々が共有すること。幾人もの、しかも美術にそれまで縁もゆかりもなかったと公言してはばからない人々が蔡國強のプロジェクトに進んで協力しようとする理由・・・それはひとえに蔡の想像力が生み出した物語に人々が共感を示したことにつきる。

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 ひとつのプロジェクトと展覧会・・・いわきにおいて蔡は、太平洋と美術館を舞台にそれぞれ自律しながらも連関性のある発表を同時に行った。その準備と製作にあたり葉と市民を中心とする協力者たち、そして美術館の三者は、立場の違いを乗り越え展覧会とプロジェクトの実現を共に目指した。そのために蔡はアトリエを借り、約100日間ものあいだいわきに滞在することとなった。ひとつの場所に長期にわたって滞在し制作を行うスタイルは蔡にとっても始めての試みであるが、しかしそれは、いわきにおける活動の基本的コンセプトを次のように設定したことにより必然的に選択されたものであった。

 この土地で作品を育てる。 ここから宇宙と対話する。ここの人々と一緒に時代の物語をつくる。

 蔡はこの三つのコンセプトに基づき、毎日様々な人々と出会いを重ねながらプロジェクトの構想を練り、作品の素材を探し回った。それは地域と無関係な一過性の作品をただ美術館という場所において機械的に発表するこれまでの展覧会システムを反省し、《なぜ、いわきにおいて作品、あるいはプロジェクトを発表しなければならないのか≫という展覧会開催の根本的な問題に対する答えとして、そこに住む人々と同じ空気を吸い、その地に関連したものを通して、作家と地域とのより密接な関係から生まれるものを作品として表現することを目的としたといってよい。そしてなによりも人々と語らい、共に汗を流すことにより生まれいずるものへの信頼・・・それを可能ならしめたいわきの人々との交流の心地良さが葉をいわきに長期にわたり滞在させた大きな理由であったかもしれない。

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 いわきと蔡の関係は、まだ蔡が無名のころから始まる。市内の画廊における個展を通して次第に蔡の理解者が拡がり、そしてその人達が地平線プロジェクトを行う実質的な核となっていった。このような市民との交流という下地がなけれは地平線プロジェクトが実現されえなかったことは言うまでもない。いわきにおける蔡の活動を実質的に支えてきた存在・・・それは市民を中心としたボランティアである。彼らは資金も組織も権威もないごく普通の市民の集まりといってよい。しかもそのはとんどがそれまで一度も美術館へ足を運んだこともないというおまけつきだ。彼らの発想と実行力は蔡に負けず劣らず直線的で迷いがない。そしてそれは既製の枠組を乗り越える柔軟性を十分に兼ね備えていた。従来の美術館の硬直化したシステムではなかなか対応できない蔡の行動の速さに追い付く為に、軽快なフットワークを有するボランティアは欠かすことができない存在であった。

 プロジェクトを準備・遂行するには、当然それに見合う資金が必要となる。地平線プロジェクトにはいわき市より補助金が寄せられ、また一般の市民や企業からも協賛を募ったが、それは必要とする総額には程遠いものであった。しかし仮に地平線プロジェクトを問題なく遂行でき得る潤沢な資金があったとしても、果して蔡の目指す意味でのプロジェクトをなし得たかどうか。資金と若干の幸運があれば、地平線プロジェクトそのものは困難なイベントではなかろう。今日の商業主義下における数々の巨大イベントと比べてみても、地平線プロジェクトは驚くほどの規模ではない。けれども蔡のプロジェクトは単なるイベントではない。プロジェクトとほ生き物である。それはプロジェクトに関わる様々な人々の時間や意識を糧として成長を続ける。結果的に満足な資金がないままに出発した地平線プロジェクトは、多数の人々の想像力を食らうことにより生き続けていくことができたといってよい。そしてそれゆえより多くの人々の心の中で共有される存在となったことは確かである。地平線プロジェクトに参加した人々は、蔡の語る言葉に耳を傾け、彼の作業を見詰め、そしてそれぞれが持てる技術や能力を惜しみなく駆使して蔡のヴィジョンの実現を目指していく。一人の人間の想像力を媒介として、ひとつの物語を作り上げ、そしてそれを共有する喜び・・・ここから地平線プロジェクトは始まった。

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 一人の想像力により育まれた物語・・・それは単純かつ純粋な物語であればあるほどより多くの人々をその物語の中に取り込むことができる。なにも難しいことではない。単純かつ純粋な物語とは、ほとんどの人がかつて子供の頃に夢見たことなのだから。≪地平線の輪郭をみてみたい≫・・・かつてコロンブスが遥かなる水平線の彼方を夢見たように、海は我々に好奇心と夢を今も与え続けてくれる。そして無邪気な子供の発想は、時として物事の深遠なる深みを説き明かす鍵となる。地平線プロジェクトの発端とはこの素朴な海に対する想いを実現しようとしたと理解してもよいだろう。そして単純にして明快なプロジェクトの性格は多くの人々を魅了した

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 地平線プロジェクトは勿論、蔡の発想により実現したプロジェクトである。蔡の内部においてこのプロジェクトは、彼がこれまで継続してきた一連のProject for ExtraterreStrialsのひとつとして位置付けられている。しかしこのプロジェクトに主体的に関わった人々にとっても、それは彼らの現実に密接に関与する存在として位置付けられる。共有されるべき物語とは、それに関わる人々にとっても彼ら自身の物語足り得るのだから。それゆえ地平線プロジェクトとは決して蔡だけの物語にとどまるものではない。よく比較されるクリストの巨大なプロジェクトと蔡のプロジェクトの決定的な相違点のひとつはここにあるクリストのプロジェクトはあくまでもクリスト個人に帰する。そこには作家個人としてのオリジナリティの結実したプロジェクトに対して、他者は介入しえない。クリストの想像力はこれまで数々の刺激的なプロジェクトを実現させてきた。しかしその想像力が生み出した物語は、クリストの物語であり、他者の物語ではありえなかった。

 共有・・・それは蔡とその協力者たちの関係を象徴する言葉であり地平線プロジェクトと展覧会を支えたもうひとつの真実といってよい。地平線プロジェクトとは作家の強烈なカリスマ性に依存するのではなく、ひとつの想像力の共有においてそれぞれが対等な立場でそれぞれの役目を果したすえに実現された極めて希な作家と人々の交流が生み出したものである。そしてこのようなプロジェクトの過程と形式、そしてそれを成し遂げる人々の意識の在り方は、本来葉の目指したプロジェクトの方法論と重なり合う理想的な制作スタイルではなかったろうか。

 美術というひとつの制度、あるいは美術の境界線(存在すればだが)を乗り越え、新しい美術の在り方を模索する・・・これまで蔡の作品は何度このような言説で説明されてきただろう。確かに近代以降の美術制度の枠組の中で、蔡の作品は異色ともいえる存在である。それはまた今までその枠組から外れていた感のある中国という出自の助けもあり、ボーダーレスの今日において脚光を浴びる大きな因となっていることも否めない。現にそうした観点から中国の、あるいはアジアの作家たちをとりまとめていこうとする動きも盛んになってきている。近代以降の美術の枠組とは、それこそ近代以降という短いスパンにおける美術の一現象にすぎないものであろう。そうした文脈のもとで蔡を語ろうとすれば、それはまさに近代という枠組を越えようとする大きな物語(これこそが近代思想ともいえる)にからめとられてしまう危険性がある

 地平線プロジェクトとは夢物語ではない。ましてや美術と名付けられた制度に庇護されたおとぎ話でもない。地平線プロジェクトは蔡にとって、そしてボランティアにとって日常的な存在として日々相対したものであり、まさに現実そのものといえる。それゆえ地平線プロジェクトの意義を説き明かす数々の言説は、地平線プロジェクトが直面する現実の重みを見失うとその価値を半減することとなるだろう。いまだ美術、あるいは美術館自体が日常から隔絶した場所にあると考えられている状況下において、美術という薄い皮膜に包まれている限り、エイズや天皇制でさえその言葉の放つ意味は薄められて論ぜられるしかない。美術の名を借りた制度・・・その枠内における虚構としての現実において語られる地平線プロジェクトは、形骸化した姿しか現さない。無論地平線プロジェクトは、美術という制度を乗り越えるために発表されたのではない。むしろそうした従来の美術の枠外において生まれいでたものといってよいあるいは美術が美術として名付けられる以前の太古の時代、美術の姿とは本来このようなところに求められたのではなかったか。

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 今日、我々は物語を渇望している。そしてもはや我々は混沌とした世界のなかで生きて行くしかないことを既に知っている。世紀末的な閉塞感に包まれた状況、それは一人一人の生活感覚のレベルまで浸透しきっている。このような絶望的な状況を悲観的にとらえる今日の現代美術のなかで、蔡の生み出すプロジェクトは本質的に楽天的な性格を有している。人々が蔡のもとに集いプロジェクトに賛同するのは、ほのかな希望の徴(しるし)をプロジェクトの中に認めているからにほかならない。

 蔡のプロジェクトは様々な矛盾と混乱を内部に保留したまま進行していく。それは一つ一っ整然と筋道に従い物事を積み上げていくスタイルとはまるで程遠いもので、様々な異分子さえもプロジェクトを成立させるに必要な要素として扱われる。蔡において矛盾は矛盾として肯定され、混乱が生み出す無秩序でさえそれは世界にとっての必然となりえる。近年、蔡のプロジェクトが特に科学者から注目を集めている理由・・・それは彼らが長年かかって到達したひとつの仮説としての世界観と蔡がプロジェクトを通して鮮やかに提示して見せたものが本質的に同じものを目指していたからと思われる。蔡のプロジェクトは、美術のまわりくどい言説が入り込む余地がないほど直接的で劇的な意識の解放を人々にもたらす。そして解放された意識は、時空を越え、それぞれの精神の遥かなる深みに達していくのである。8-1

 ところで、何故いわきにおいて葉は展覧会を行い、地平線プロジェクトを発表しようとしたのか。その必然性とはなにか。

 いわきにおいて蔡が見いだしたもの。それは逆説的ではあるが凡庸な自然・・・すなわち何の特徴もないごく普通の場所であることであった。その場所を特徴づける著名な風景や歴史的な遺物を所有する、つまり固有名詞つきの場所は、必要以上にその地名によりひきおこされたイメージを人々に思い抱かせるものだ。例えば蔡が1994年2月27日に中国の万里の長城を舞台として行ったプロジェクト《万里の長城を1万メートル延長するプロジェクト≫はそうしたイメージを前提として扱った例といってよい。このプロジェクトは地球上の歴史的建造物で地球外から望める存在としての万里の長城の巨大なスケールとその歴史的な存在意義に基づいて発想されている。

 蔡は太平洋が一望のもとに望める素晴らしい眺望をもつアトリエにおいて朝夕海を眺め、そこで暮らす人々と話しを交わし、いつしかそれがかつてどこにでも地球上に存在したであろう風景であることを確信した。そうした何げない普通の自然の豊かさ・・・それこそがいわきの豊かさの原点であることに気がついた蔡は、それにふさわしいプロジェクトを発想したのである。地球の輪郭を描くプロジェクトに必要なもの・・・それは広大な海に臨んだ豊かな自然を有する場所であり、広島や京都のような強烈な個性は、むしろプロジェクトのイメージの拡がりを限定してしまう。凡庸な自然、そして無名であることのメリット・・・そこに蔡は、太平洋に面した一つの小さな点に過ぎぬいわきにおける普遍性を見いだしたのである。そして地平線プロジェクトは1994年3月7日、一年に数度あるかどうかという自然の僥倖(ぎょうこう)に恵まれた穏やかで波のない海の凪(な)いだ日に行われた。

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 地平線プロジェクトにおいて生み出された5000メートルの光の帯。至近距離からみたその光景は、あたかも一匹の龍が頭を僅かにもたげ、海上を自在にくねりながら爆走していく姿を髣髴(ほうふつ)とさせた。そしてその強烈な閃光と爆発の音響は、次第に龍の頭が点火作業船から離れていくに従って弱まり、そして時折その姿は波間に消えながら遥か彼方へ消えて行った。後日、海岸から映したビデオには、海上とは異なった光の軌跡が記録されていた。そしてその光景とは、葉が地平線プロジェクトのプランを最初に我々に語ってくれたそのままの光景であったように思う。

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 「漆黒の闇に溶け込み空と海が一体となった空間に突如一点の光が現れ、それは微かに湾曲した地球の輪郭をはのかな光跡として残しながら静かに静かに一筋のラインを描いていくだろう……」

 蔡の言葉によれは、この光は人々の意識の中に地球という存在の重さを浮かび上がらせるとともに、その光のメッセージは宇宙へと放たれたものでもある、という。かつてアメリガ航空宇宙局が地球外知的生命体に遭遇することを目的として外宇宙に向けて発射したパイオニア10号に積み込まれた宇宙人へのメッセージよりもそれははるかに鮮烈なイメージを与え、しかもさらに宇宙の深遠部に到達することだろう。そしてその光は、私達の身体を通して我々の内宇宙にも向かって放たれたのである。地平線プロジェクトは、それに関わった人の数だけ、それを語り得る物語が存在する。そしてこの物語は、地平線プロジェクトをみるために海岸線に集まった約5000人もの観客にも共有され、そしてやがてまみえるであろう未知の友人たちにも共有されることにおいて完結することになるのだろうか。

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 以前、美術館から葉に展覧会の内容を相談したとき、美術館で行うべき企画として、美術という領域において造形的に彼の世界観を十分に伝え得るような作品をみせていただくことはできないだろうかということを話し合ったことがある。それまで火薬を用いた一過性のプロジェクト、あるいはパフォーマンスとしてのイメージが先行していた感のある蔡の作家としての可能性を美術館というひとつの制約された枠組のなかで確かめてみたかったからである。それは以前から彼のドローイングにおける絵画的なセンスに興味を抱くと同時に、従来の美術のシステムから遥かに逸脱しているプロジェクトの在り方を美術館において展開することの難しさを予想していたからでもあった。

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 今回の展覧会は地平線プロジェクトと連動する存在として位置付けられているが、しかしその内容は地平線プロジェクトを補足するようなものではない。あえていえは地平線プロジェクトは美術という制度の枠外に立脚しているのに対し、展覧会は美術の範疇においてどこまで展覧会として成立し得ているかということを課題としているといってよい。

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 「環太平洋より」と名付けられた展覧会は、太平洋に関連した素材を生命と文明の象徴としてとらえ、《この土地で作品を育てる≫という原則に従い、環太平洋=いわきから素材を集めることをその出発点とした。美術館に入館した観客は、まずほのかな菊の香を楽しむことから蔡の世界に導かれる。菊の産地にアトリエを借りた蔡は、土地と風土により生み出されたものとして、自ら菊を育てそれを薬として観客にふるまうことを展覧会の導入部としたのである。そして土瓶と茶碗、炭壷、茶人れ、七輪などの茶道具もアトリエから掘り出された土を材料として焼かれている。漢方において菊茶の薬効は、目と精神の安定に良いとされているが、観客は嗅覚と味覚を通してリラックスした状態で作品に相対することとなる。

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 展示室に入るまでに葉は観客に対してもうひとつ仕掛けを施している。それが「水晶の階段」だ。水晶も菊茶と同様、水晶から放出される気(パワー)を観客が体を通して吸収することを狙って階段に敷設されている。使用された水晶は、わざわぎ中国から運びこんできた原石を用い、蔡自ら設定した原則・・・この土地で作品を育てる・・・を崩している。原則とは想像力を生み出すための枠組であり、すべてがその原則に閉じ込められてしまう息苦しさを防ぐために一書の風穴を設けておく必要がある。水晶をいわきではなく中国に求めたのはそのためである。それはすべてとか絶対という言葉を好まない蔡の気持ちを反映した行為ともいえる。

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 蔡とボランティアがいわきの海岸線を歩き回り、ようやく巡り会えたもの−それが砂浜に長年埋もれていた木造の廃船であった。廃船はかつてカムチャッカにまで航海していた土洋船であり、その造形的な美しさは北海の荒海に耐えうるように考え出された船大工たちの荘験と知識の結晶といってもよかろう。そしてそれはまた海=自然と調和する形を生み出すことに長けた先人の知恵により生み出されたものでもあった。蔡は直感的にその廃船を砂浜から発掘し美術館に持ち運んで作品として展示することを決断し、そしてそれは実行に移された。発掘と解体作業は、市内企業のボランティアにより行われ、美術館における組み立ては船大工と宮大工の協力を仰いだ0その一連の作業の流れとそこに介在した人々の意識は、地平線プロジェクトとほぼ同質であったと断じてもよかろう。結果として廃船は見事に美術館の空間に組み上げられた。しかし、それはもはや蔡の作品という範疇を越えてしまったといってよい。地平線プロジェクトが蔡一人のプロジェクトとして成立しえないように、廃船(正式には廻光一龍骨)も蔡一人に帰するものではない性格を有してしまったのである。それ はまた美術という領域においてもはやとらえきれない地点に成立していることを意味している。

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 蔡は、廃船を持ち込むことにより美術館そのものを太平洋の一部にすり替えてしまった。そして廃船が横たわる塩の海一塩もまた海が純化した結晶であり、海の本質を現す物質として廃船と一体となった形でインスタレーションされている。この塩の海の光景を、蔡は廻光と名付けた。廻光とはアトリエから毎日眺めていた太平洋の朝焼けの光(逆光)を再現すると同時に、過去の記憶を蘇らせる光を意味している。

 廻光とは、蔡が四倉のアトリエから毎日眺めていた、太平洋の朝焼けの光(逆光)のことで、過去をよみがえらせる光をも意味していた。 その年の2月だった。 蔡は、小名浜水産高校(現在のいわき海星高校)前の砂浜に埋まっていた廃船と運命的な邂逅を果 たす。 北洋サケマス船に使われていた船で、エンジンや油をきれいに取り去り、木の部分だけを残して海に流されたものだった。

 過去の遺物である廃船は廻光の光に包まれて現実に蘇ったのである。また総量9トンにもなる塩はいわき沖の海水から作られている。海水から塩を分離する施設を持つ工場が東日本において唯一いわき市に存在するという偶然は、作家にとって塩を素材として用いる必然性をもたらしたといってよい。そしてその塩の海にはこの付近の海でとれるいわしやさんま、さばなどが群れをなして回遊しているのである。

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 蔡は巨大な廃船以外に伝馬船三隻を入手し、それを使ってひとつのインスタレーションを展開した。それが「真空状態」である。三つの伝馬船は、それぞれ生と死、そしてその中間の存在である無を象徴しており、室内全体が時間と空間との混沌化した状態の呈示を目指したものであった。しかし結果として素材とテーマとのあまりにも直接的な連関性は、本来もっと無機的であるはずの真空状態の現出を妨げるものとなりはしなかったであろうか。

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 今回の展覧会に出品された作品の解説は別項において述べられており、ここであらためてその詳細を繰り返すことは控えたいが、蔡の造形的なセンスを十分に発揮した作品は、これまでのドローイングの代表作と位置付けられる巨大なドローイング「Project for Extrater−restrials1994」と、その豊かなアイデアと優れた造形力を駆使して作り上げた「三丈塔」にある。この二つの作品は、平面と立体という美術の領域において、蔡の才能の豊かさを我々に伝え得る作品である、と思う。

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「Project for Extraterrestrial 1994」は、国内で入手できる最大の和紙を3枚つなぎあわせ縦400cm、横900㎝という巨大な和紙の上に、地平線プロジェクトのイメージとこれまで葉が成し遂げてきた数々のプロジェクトのイメージをちりばめて完成された。蔡の火薬を用いたドローイングの魅力は、火薬の爆発がもたらす偶然性と彼の確かな線描とが生み出す微妙なハーモニーにある。そして画面中に記された彼の筆文は水墨の画讃の流れを汲むものとして彼のドローイングの出自を雄弁に物語っている。蔡が今回のドローイングの制作において、あえてそれまで経験したことのない巨大な平面に立ち向かう理由・・・それは自分の身体性を越えた地点においてあらためて火薬に接することにあったのではなかろうか。それは小品のドローイングにしばしばみられる爆発の偶然性を自ら制御してしまう危険性を経験として踏まえたからであろう。

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三丈塔に使われた木材は、砂浜から発掘され、解体された廃船の板をそのまま利用している。廃船は無駄なものを一切剥ぎ取った本当の船の姿一龍骨−を提示したものである。そしてその剥ぎ取られた板は捨てられることなく塔に変身した。塔は本来貴重なものを収める役割を果し、そして船の出入りを見守る。廃船の板をどのように扱うかという問題は、当初より課題とされ注目していたのであるが、なんとも見事な解決策を葉は見いだしたといってもよいだろう。実際に塔を製作するとき、板は極力現状の形のまま用いられているが、それは解体された廃船の尊厳を葉が十分に見据えているからだ。廃船は、龍骨にされ船の本質を見事に現した。そして剥がされた板は、蔡により塔という新しい生命を与えられたのである。三丈塔は、美術館の正面玄関広場にあるヘンリー・ムーア像の周辺の空間に建てられている。しかし本来蔡が提案した設置場所はヘンリー・ムーア像そのものの上に建つことを想定している。この設置の問題については美術館において協議され、その結果現行の状態に変更された経過があり、美術館において収蔵された作品の取り扱いを再考させる機会ともなった。

 またエレベーターそのものを作品の設置場所とした作品「PeacefulEarta(平静的地球)」は、いわきにおいて発想され、そして未来と宇宙へと向けたメッセージを提起する作品である。

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 「1999年12月30日P.M24時59秒〜2000年1月1日0時1秒の間に、地球の光を2秒間消す。宇宙からみると地球は真っ暗になる。」

 地平線プロジェクトが実施される時に、近辺の住民に導火線が光を発する2分間の間、消灯することを呼びかける・・・このボランティアの提案をそのまま地球規模のプロジェクトに昇華させることにより「Peacefll Earta」は生み出された。展示室において過去と現在を結び付ける作品を見た後、観客は明日に向かって語りかける作品に出会うのである。

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 蔡がいわきの人々に残していってくれたもの−それは心地よい疲労感とひとつのことをやり遂げたすがすがしさであった。地平線プロジェクトが終わって数カ月後の現在、人々は、はるか異国において次のプロジェクトの準備を精力的に続けている蔡を我がことのように語る。11-1

「それじゃ、今度は俺達が出掛けていって手伝ってやるか……」

(ひらのあきひこ いわき市立美術館学芸員)