旅人(イサム・ノグチ)

文: 酒井忠康より

 イサム・ノグチの旅は、彼が生まれ落ちたときから始まっていると考えたほうが自然だろうね。 孤独に生まれ、2歳で異郷の地、日本に来て、まるで浮浪者のような抜いを受け、いじめられ、疎外され、旅人としての人生を始めた。だからこそ自分の帰属場所、休息できる波止場への執着心をずっと待ち続けた。彼のなかで何が普通の人と違うかたちで養われたかというと、恐ろしく用心深いとか、猜疑心が強いとか、経済観念が発達しているとか、孤独に対して強靭な忍耐力を持っていたとか、いろいろなことがあるよね。芸術以外の安住の地を持つことがなかった彫刻家だった。

 ノグチは生まれ落ちたときから旅人であり、彫刻家であると同時に、生来の詩人でもあった。詩人の魂に想像力はしばしば揺さぶられた。詩人と彫刻家の間を絶えず行き来したことが想像力の源となったんじやないかな。1986年に僕がヴェネツィア・ビエンナーレの日本のコミッショナーだったとき、アメリカ代表として選ばれたイサム・ノグチとヴェネツィアでご一緒したんだ。アメリカのコミッショナーはヘンリー・ゲルツァーラーというエキサイティングな男で、そのときのカタログのタイトルは、what is the sculpture?(彫刻とは何か)』だった。要するに、ゲルツァーラーはノグチと出会って、「現代美術とは何か」といった、時代を限定したレベルの問題の提示では済まないことを直感的にわかっていた。それで、「彫刻の本質とは何か」という正面きった議論を現代美術の国際展の舞台で提案したわけなんだ。

 これがおもしろいんだけれども、イサム・ノグチというアーティストは、人間とは何か、彫刻とは何か、空間とは何か、時間とは何かという、非常に根本的な問いを立てさせてしまう。マーク・ロスコもそうだが、これはその人が偉大である証拠でもある。たとえばゲーテに対して、文学とは何か、と言いたくなったりするじゃない。ノグチがパリで出会ったブランクーシも、原点的な問題を問いかけてくるアーティストだった。ノグチはブランクーシの中に自分を見たと思うんだ。あるいは、自分が理想とすべき相手はこの人だと思ったに違いない。ノグチにとってそういう彫刻家は、ほかには誰もいなかった。

 話を旅に引き戻すと、1948年、冒険心と未知の世界の発見の喜びを求めて、ノグチはボーリンゲン財団にスカラシップの申請をする。そのテーマは、Environment of Leisureだった。これは「自由な環境」といった意味だと思う。自由というのは心の癒しであり、祈りの場所、聖なる場所などのことで、いわゆるレジャーではないんだ。心の問題、魂の自由な広がりのことを言っていると思う。ドウス昌代さんの「イサム・ノグチ・・・宿命の越境者」(上巻、講談社、2000年)によれば、申請書の書き出しはこうなっている。「彫刻の創造性と存在意味において、個人での所有は公共の場で人々が楽しむことに比べると意味がはるかに希薄だ。この本来の目的なくして、彫刻という手段による創造には疑問符がつく」。

 彼の中で「彫刻とは何か」は最も基本的な問題だった。ゲルツアーラーの立てた同いは間違いではなかった。ノグチがすごいのは、「彫刻とは何か」にとどまらずに、「彫刻を通して何ができるか」まで進んだところなんだ。僕はこんなふうに書いたことがある。「イサム・ノグチという彫刻家は、考えれば考えるほど、不思議なたいていのひとは、彫刻をつくることによって彫刻家となるのである。しかし、妙ないいかただが、はじめから彫刻家であるために、彫刻をつくらざるを得ないというような、そんな彫刻家がいる。さしずめノグチは、そうしたタイプの彫刻家であった、といってもいいのではないか」(「彫刻家への手紙・・・現代彫刻の世界」未知谷、2003年)。

 東洋的とか西洋的とか、モダニズムとかポストモダニズムとか、場所や時代を軸にしたいろいろな芸術論があるけれども、彼はあらゆる理論をやすやすと飛びこえていく。その根底にあるのは、困った人、弱者の側にいつもいたということじゃないかな。彫刻家として何ができるか、彫刻はいかなる価値を持つのか、それを古代文化や遺跡から学びたいと考えて旅をした。

 アメリカの「沖仲仕の哲学者」エリック・ホッファーは、暮らしの中のあらゆる発見の根底には遊びがあると言っている。ホッファーによれば、「昔から人間のもっとも有用な行為は遊びであった。土器をつくり、布を織り、金属を加工し、動物を飼育するはるか以前に、人間は絵を描き、線刻画を描き、彫刻をし、像をつくったことを銘記すべきである。芸術家としての人間の誕生は、労働者としての人間の誕生よりもはるかに早かった。遊びが労働に先行し、芸術が有目的な生産に先行した」(「初めのこと今のこと」田中淳訳、河出書房新社、1972年)。

 たとえばアルタミラの洞窟壁画は、人間の恐怖感とか、狩猟の工夫とか、生存と直接結びついたところに絵画の意味が見出されてきたけれども、ホッファーの説に従えば、人間にはもっとふっくらとしたものがあるんだな。たっぷりした遊び心が本質としてあって、その部分を開かなければ、これからの人間はダメだといっている。これがノグチのLeisureだったといえるんじゃないかな。

 そんなわけで、ボーリンゲン財団のスカラシップを得たノグチは、1949年5月に パリから旅をスタートする。彼がこの旅で獲得したものは何だろう。細かく掘り下げていけば、彼の人生の知られざるところが現れると思う。しかし、それと彫刻が どれだけ直接的に結びつくかを語るのは、なかなかむずかしい。確かに旅からは 大きな栄養を与えられる。この「ボーリンゲン・ジャーニー」がノグチに多くの体験を与えたことは間違いない。しかし、哲学者の森有正ふうにいうと、経験になったものとならないものがあったんだ。

 これはおもしろい発想なんだけれど、森有正は、個人的なレベルで体験が集約してしまう場合にはそれを経験と言わない。個人的な体験が普遍的な体験に変わったときに経験となる、というんだよ。ノグチのボーリンゲン・ジャーニーは、 非常に個別的な体験でとどまっている。本を書くための資料集めの旅と財団に申請したにもかかわらず、結局、著作物として公にできなかった。それは、彼の体験が経験にならず体験でとどまっていたからだと思う。

 彼にとって最大の難問は、自分の生まれの二重性に起因した帰属の不明確さだった。太平洋戦争のときは日米両国の乱軌こ悩み、敗戦後は広島の慰霊碑のデザインを要請されながら、実現を見送られた。自分ではいかんしがたい問題をいくつも抱えて生きた男といえるだろう。ふとしたときに垣間見せる孤独の表情は、帰属のはっきりしない不安と無線ではないし、自分の居場所をいかにして見出すかという、終生ついてまわった漂泊の思いの一端が、そこにのぞき見られる気がする。

 ノグチの旅の発火点の一つは好奇心の旺盛さだった。そして行く土地土地で、彼自身にも解きがたい謎を抱えてしまうんだ。1982年には異母兄弟の野口ミチオさんと長い間の大切なパートナーだった和泉正敏さんと、かねてからの希望だった南米のマチュピチエを訪ねる。上にころがったり滑ったりしている写真があるんだ。遺跡の前で自分は無力だと感じたと思う。しかし、ここがイサム・ノグチのすごいところなんだけれども、普通であれば無力を感じて空しさを引きずるのに、彼は引きずらないのよ。

000 ノグチ0

マチュビチュでのイサム・ノグチ、1982年 photographbyMichioNoguchi

 ノグチが旺盛な好奇心を振り回して旅をしたころは、空間の問題が思索の原点にあったと思う。彫刻は空間についての思索の運動だからね。あれだけ大きなスケールで札幌の<モエレ沼公園>をデザインしたときには、マチエピチュのことを考えたに違いないんだ。未来へ向けて自分の疑問を解き明かしていこうとする。非常にポジティヴなんだよ。

 晩年のノグチは、時の経過、時間が刻む沈黙の意味に興味を持ったのではないか、というのが僕の考え。人間の想像力は地理や歴史の枠をこえて、過去への旅を可能にする。彫刻の思想に時間の要素が加わったんだ。時間を意識したのは日本の美意識からだと思う。日本の庭の発見だよ。パリの《ユネスコ本部の庭園〉では、日本の庭のかたち、空間、デザインが彼に大きなヒントを与えた。あの時代の日本の庭の解釈が、はっきりとあそこに表明されていると思う。

 その後、〈プレイグラウンド〉をはじめ、いろいろなパブリック・アートをつくうたり、あるいは実現しなかったものもたくさんあるわけだけれども、概してしいえば空間とのかかわり、あるいは社会とのかかわりを持った仕事をしている。その集大成が《モ工レ沼公園〉だと僕は思うわけ。

 日本の庭は、小さくてもそこに宇宙がある。牟礼のイサム・ノグチ庭園美術館のイサム家で腰かけて苔の生えた庭を見ていると、そういう気分に浸れる。非常に小さな世界。貧しいといっても貧乏たらしいのではなく、シンプルライフのなかにある時の豊かさを感じさせる。そこへやっと落ち着きを見出したような気がするんだよ。一方で<モエレ沼公園>のような超大型の彫刻というか街というか、とんでもないものをつくっているわけだけれども、それと同時に、ああいうところでくつろいでいたのかなあ、という気がするんだ。

 その問題も最も究極のところは「沈黙」かな。ものを言わない沈黙ではなく、いろいろな創造のカードを自分の沈黙から引き出してくれ、という他力的な意味の沈黙。禅的な思想の沈黙であれば、その人がどういうふうに自分の思想を浄化させるか、どういう死に方を選んだのかということになってくるけれども、ノグチの沈黙は、たとえば彼の遊具などからもわかるように、もっとほのぼのとした、つまり遊びというかレジャーの一面を抱えているんだ。

 彼は小さいときに大工に弟子入りしたり、自分の家をつくる大工の仕事の監督をさせられた。大工は一人では家を建てることができない。共同作業の中でどういうふうにものが組み立っていくかを、子供のときに刷り込まれたんだ。ボーリンゲン・ジャーニーでさまざまな国を訪ね歩いて、そこに暮らしている人を見ながら、その足元に眠っている膨大な時間、何百年何千年の歴史を感じとった。ピラミッドだって一人でつくったものじゃない。無数の人間の労働で成り立っているんだ。

 だから、<モエレ沼公園>の構想も、単に空間的な広がりがあってデザイン化された野外彫刻というとらえ方では狭いと思う。北海道の自然がいろいろなかたちでそこに痕跡をとどめる。彫刻家の砂澤ビッキの言葉を借りれば、「風雪というの名の鑿」に人間の作品がどこまで耐えうるのか。その考え方をノグチに与えたのはアメリカだと思うな。エリック・ホッファーも、人間がつくったあらゆるものは自然化していくと言っている。日本人の自然のとらえ方は「花鳥風月」であり、ヨーロッパの自然も、人間が制御して野生を引き抜いたものなんだ。それに比べてアメリカの自然は半端じやない。恐ろしいんだよ。野生を引き抜きようがない。だから彼の仕事は、自然という神との猛烈な闘いだったともいえる。

 都市計画、建築、公共彫刻、芸術として鑑賞する彫刻作品、そして人間の身体を彫刻と仮想したステージ・アーツと、ノブチは「彫刻の百科事典」を生きた稀有な彫刻家ではあるが、人生という旅の最後にきて、最大の対話の相手は何だったかとなると、やはり旅の途中で頻繁に実感した自然の厳しさだったと思うな。だからこそ、文明、文化を非常にシャープに感じ取ったんだよ。

 イサム・ノグチの思想の基礎には、古今東西の彫刻史全体をひと抱えにしたようなものがある。ある部分を摘出したんじゃないんだ。彫刻史を丸ごと手づかみにして新しい思想を展開させようとした。とんでもない人だよ。こんな人間は二度と出てこないと思うね。

 酒井忠康(さかい・ただやす)1941年生まれ。美術評論家。世田谷美術館館長。1964年より神奈川県立近代美術館に勤務。92年より2003年まで同館長。1979年。サントリー学芸員賞。主な著書に「彫刻家への手紙」(以上、未知谷)、「その年もまた一鎌倉近代美術鮨をめぐる人々」(かまくら春秋社)