浜田知明と私

浜田知明と私

 作家 池田満寿夫

 若し銅版画をやっていなければ今日の私がいただろうかと考えることがある。高校時代から画家を志したが、それはつまり油絵画家であった。将来銅版画あるいは版画をやろうなどとは夢にも考えていなかったのだ。1952年、東京芸術大学油画科を受験するが失敗し、長野市から上京し、いわゆる芸大浪人になった。東京の盛場を廻り似顔絵を描き生計をたてていたが、翌年の第2回目の受験にも失敗した。だがこの年第17回自由美術協会展に油絵を出品し初入選している。団体展のなかで自由美術協会を選んだのは社会性と前衛性とが他の団体よりも鮮明に打ち出していると思ったからである。会員の麻生三郎鶴岡政男にも魅かれていたからだった。当時の私はピカソの〈ゲルニカ〉とフランスに台頭したビュッフェや<オムテモアン(目撃者)>のロルジュやミノーらの影響を混然と受けていた。芸大受験には失敗したが、自由美術家協会に入選したことで私の自尊心はなんとかいやされた。

 しかし1954年、三度目の受験に失敗ししかも自信を持って自由美術家協会展に出品した5点の作品がことごとく落選した。入選作を会場で見た時、自分よりひどいと思われる素朴な社会主義リアリズム調やプロパガンダ調の作品が並んでいるのにひどく腹が立ちもっとも公正であるはずの自由美術家協会に失望し二度と出品しないことを決めた。

 多分その後だったと思うが、三越百貨店で自由美術家協会会員展をのぞいた。やはり気になっていたのだ。その会場で浜田知明の<絞首台〉に出合った。その時の衝撃は今でも忘れない。他の油絵は、自分が落選した腹いせもあって全部くだらなく見えた。しかしこの<絞首台〉は出品作のなかで最も小さかったにもかかわらず、強烈な印象を受けた。これが銅版画というものか。銅版画ならどこかで見ていたはずだが、技法としてこれほど明解に訴えかけてくる作品に出合ったことはなかった。アクワチントによる絶妙なコントラスト。線描による繊細でありながらダイナミックな描写力。そして悲惨な情景にもかかわらず、名状しがたい哀愁。小川正隆は浜田知明作品集のなかの解説で「<絞首台〉はイタリアのムッソリーニが戦争責任者として捕えられ、市民たちによって処刑されるというニュースから出発した、作者が心に描いたイメージというわけである」と述べている。なるほどそうだったのかと思ったが、この作品の持つ普遍的な力は単なる告発ではなく、なによりも戦争のおろかしさを独裁者だけではなく民衆、いや作者自身も含めて象徴している点にある。ひょっとしたら戦時中無力だった作者自身の自画像が重なっているのかもしれない。この作品の持つ奇妙な魅力は風刺が作者自身の怒りや悲しみを通して諧謔(しゃれや冗談)に達しているからであろう。

 私は今まで気がつかなかったが、く絞首台〉を創作した当時の作者は36歳だったのだ。年譜によると銅版画をはじめたのが1950年、浜田氏32歳の時である。決して早い出発ではない。そしてわずか4年の間にいわゆる《初年兵哀歌≫シリーズの傑作群を矢つぎ早に発表したのである。 私が銅版画をはじめたのは1955年(21歳)の時だが、浜田知明の<絞首台〉を見てこの未知な銅版画に対する魅力にとりつかれたのがきっかけだったのだ。だが小型プレス機と銅版画の技法書をたよりの試みはどうしてもうまくいかず中断し、1年後、デモクラート美術協会の主導者だった瑛九に出合ってから、再開したのである。この頃すでに私の絵画様式に変化が起き、社会性よりも抽象様式の方に関心が移っていた。私の銅版画の出発はカンデンスキーやクレーからはじまった。銅版画家がクレーから影響されるのはどうやら宿命のようだ。駒井哲郎をはじめ瑛九にも見られるし、ゴヤから圧倒的な影響をうけている浜田知明にも影のように寄りそっている。私が前述の小川正隆氏のエッセイのなかで、浜田氏が美術学校時代、藤島武二に油絵の指導をうけていたにもかかわらず、モンドリアンやアルプの仕事に関心を持っていた。という箇所につき当った時、驚きと同時にひどくうれしくなった。浜田氏の銅版画のなかにこれらの純粋抽象の直接的な影響はまったく見られないが、何故か違和感はなかった。むしろ浜田氏の構成やフォルムの明断さと堅実さの根底に純粋抽象の認識があったからこそ話語や風刺をテーマにしながら確固たる造形性を表現出来たのだと考えた。1957年、私は久保貞次郎氏の紹介で浜田氏の東京郊外のお宅にうかがった。数日後熊本へ引揚げるという直前で通された和風の二階の部屋にはほとんど何も置いていなかった。窓から見える多摩川の田園風景を眺めながら向い合って実に静かな時間を過した。何を話たか忘れてしまったが浜田氏はしじゅうにこやかに私の質問に応じてくれたが、恐しいほど寡黙の人だった

 引越し前だったにしろ、部屋のなかに何もない情景は、無駄なものを一切生活の身辺から排除している浜田氏を象徴していたように思えた。銅版画集で浜田氏の熊本のアトリエの写真を見た時、まるでモンドリアンのアトリエのように仕事のための必要最小限のものしか置いていないのを知って、何か妙に納得できたものだった。

 二度目にお会いしたのは1962年の日本橋画廊の浜田氏の個展会場だった。私はエッチングインクの拭き取りの難しさを話したところ、油絵具を混ぜると拭き取り易いと即座に教えてくれた。

 さっそく帰ってからやってみると嘘のように容易に拭き取れた。以後私はセピアとかブルーの油絵具をインクに混ぜて使う習慣になった。この助言は今でも感謝している。1957年の<愛の歌〉は浜田知明にとって新たな主題へ向かった記念すべき作品である。いわゆる《初年兵哀歌≫シリーズによる戦争の記憶と告発から一転して、人間と社会の不正や不条理や狂気が時にはカルチュアライズ(その国の文化や風習・思考などを尊重した調整を行う作業のこと)された描写によって表現されるようになる。1964年、浜田知明は初のヨーロッパ旅行へ出掛けるが、帰国後に発表された作品群のなかで、私を驚かせたのは貞操帯に対する氏の異常なまでの関心であった。私などは中世の貞操帯は倒錯したエロティシズムの対象として興味を持っていたが、浜田氏は人間が大真面目に考えた末の奇妙にほかな産物として、ギロチンと共に西洋文明の理不尽な合理主義を、兜をつけた騎手のなんとも言えない悲哀に満ちた表情を対比させることで、むしろ喜劇的に表わした。

 だが浜田氏にとってヨーロッパの都市は、華麗さとは裏腹の城塞に閉じ込められた遺跡にしか見えなかったような気がする。それはまさにカフカが感じたような重苦しく血の匂いの弛みた壁や閉ざされた扉がいつまでも続く迷路だったに違いない。

 浜田氏の描く光景は圧倒的に夜や暗黒を暗示するものが多い。アクワチントの技法がそれを要求するのか、あるいは浜田氏の原風景は夜の漆黒のなかに窓から射し込む月明かりに照されてうごめく人間のような物体なのかもしれない。

 確かに浜田知明は人間の不条理や狂気やおろかさを一貫して描いて釆た。多くの人々が認めるように募黙である。だが決して人に対して挑戦的ではない。むしろいつも頬笑んでいる。銅版画家として絶項期にありながら、能本の実家へ帰ってしまったのは多分東京の煩雑な人間関係に嫌気が差したからであろう。自己の主張や思想を人にわずらわさることなくあくまで追求していくために、なによりも自己に対して厳格であるために、簡潔で静かなな生活を必要としたのであろう。1983年になって浜田知明は突然ブロンズ彫刻をはじめた。大部分は小品だが、きわめてユニークな作品である。版画と同様に主題は人間の不可解な生態を、どこかで遊び心やジョークを楽しみながら制作していて、思わず笑い出したくなる。たとえば1992年作の〈ヘルムアフロディテ〉は女性のトルソと男性の起立した男根を強調した下半身とを合体したブロンズ像であるが、その大胆な発想ととてつもないユーモアによって、性の健康なおかしさを伝えてくれる。カルカチュア(特徴を大げさに強調して描いた風刺画)の重要な要素である誇張が不気味さを通り越して不思議な愛着を感じさせるのである。いたずらをしてやったいう作者の心情が直に伝わってくるのだ。その後今日に至るまで、こちらが本などを贈った場合必ず丁寧なお手紙をいただき続けている。浜田氏の律儀さには心から敬服している。

(版画家)