浜田知明の彫刻

浜田知明の彫刻

大河内菊雄

 「愛し合う男女が横たわっている。男は手を乳房に置き、足をからめる-そんな姿を上から見た版画を作ろうと思った。ところが足のからみ具合がどうなるのか分からない。粘土で足の部分を作ってみることにした。

 粘土を触っていると、子供のころを思い出す。土で作るのには、絵画では重要な線が不要だし、色彩や陰影、遠近法を考えなくていい。楽しんでいるうちに、足ができた。からめた足を真上から見たように描くのは難しいが、彫刻だとそのまま作ればいい。 胴体を付けたくなる。この場合、乳房は大きいほうがいい。なだらかな曲線で‥・…なるほど、原始の苦から彫刻家が裸婦を作りつづけたはずだ。 絵画は筆や鉛筆、鉄筆など道具がいる。まどろこしい。彫刻だと手が直接土に触れるので、生の感覚がある。のめり込むうちに彫刻ができた。

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 壊すのが惜しくなり、記念にブロンズにしてみた。私の彫刻第一号〈二人〉は、こうして生まれた。1983年(昭和58年)、65歳だった。」

 戦後一貫して、銅版画、それもエッチングげクアチントのみにこだわってこられた浜田知明さんの65歳になられてからの彫刻制作の出発である。子供の頃の粘土いじりを思いだしながら、実に楽しげに語っておられる。事実、この第一作く二人〉は清らかな若い男女の愛がほのぼのと伝ってくる作品である。軽く重ねられた脚、墓じらいながら乳房の近くに置かれた男の手、それをかるくおさえるような女のしぐさ、いかにも楽しんで造られたろうと思う。

 この年、もう二つの彫刻が制作される。〈坐像〉、極端に耳が大きく、手の長い猿の胸像である。長い両手がちょうど台座の上に置かれていて、その左右の手の処理にゆるやかなムーヴマンが読みとれ、このあたりは大いに楽しまれたのではないかと思われる。

 いまひとつは〈檻〉、この作品は1978年に、久しぶりにく初年兵哀歌(檻)〉と題されて発表された版画作品を基にして制作されている。檻から出たいという願いをこめて、鉄格子から突き出した異様に大きい手は、彫刻での方がより強調されると考えての制作であろう。また≠檻〝という主題は浜田さんにとって、初年兵時代の軍隊の檻からの脱出の痛切な思いをこえて、現在の次第に強まっていく管理社会のわく組み、檻を突き破りたいというとことへ普遍化されてきているのではなかろうか。

 それは1980年代の版画作品〈行きどまり〉〈見えない壁〉〈見られている…。〉といった作品にすでにみられる。 さて、この年の版画の制作は〈マダムA〉一点だけで、翌1984年も〈子犬のいる風景〉など二点で、もともと寡作な作家ではあるが制作の比重が彫刻に傾いてきているようにおもえる。84年には四点の彫刻が制作されている。〈やあ.′〉、浜田さん独特の耳の大きい男が窓辺で、これまた大きい手を上げてあいさつをしている。

 〈情報過多的人間〉、ずばり現在の情報過多でありながら、正確な情報のえられない、餞舌であるのに、なんら真実のない社会、人間への痛烈な諷刺である。この作品も1975年の同じ題名の版画に基いているが、長い舌を加えたり、手に動きをもたせるなど、彫刻的な効果が十分考慮されている。

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 <鏡〉1983年の版画〈マダムA〉を思わせる婦人が裸身で、鏡に対している。鏡は曲った柄のようなものだけで表現され、そこに無限の空間を感じさせるような不思議な雰囲気をもった作品である。<抱擁〉、先の〈二人〉よりもっと若い男女がしっかりと抱き合っている。ブランクーシの《キス≫のシリーズと同じ雰囲気をもっている。

 85年には5点が制作されている。まずは<頭像〉、これは75年の版画《顔》のシリーズの彫刻化であろうか。金色の仕上げになつている。<気になる正体〉、二人の人物が真申に立てられた壁を突き抜いて、互の正体を気にしている。その人物の風貌は81年の〈行きどまり〉見えない壁〉などと似通っている。立体にすることによって、壁を突き破ることが容易になったのであろうか。次いで、〈ボスの座>(No.1)〉〈ボス〉〈ボスの座(No.2)〉と続く。豪華な椅子の一番上のところにボスの首がさしこまれている。いや椅子=座そのものがボスだというのだろうか。いまにも倒れそうに重ねられた椅子の項点で、ボスが手をふっている。また大ボスを中心として、小ボスの椅子が並び、その上には大ボスの異常に大きな手がかざされている。86年といえば、衆参同時選挙が行われ、自民党が圧勝した年である。大ボス、小ボスののさばりは、新開、テレビの報道からだけでも目に余るものがあった。ところでそのボスの顔だが、それは先にぼくが〈坐像〉で猿といったあの顔である。〈坐像〉では、まだしおらしさのあった猿めが、〈ボス〉ではいたけだかになっている。

 次は<風景〉、例の〈気になる正体〉にもでてくる浜田さん一流の人物が右へ左へと動いていっている。そして、〈階段を上がる人〉、これも86年の同名の版画に基づくものだが彫刻の方がより端的な表現になっている。階段の先は奈落だが? 87年には、版画〈月夜〉と彫刻〈二人立像〉とく異状なし〉が制作される。〈月夜〉は、先のく抱擁〉の男女が少し年齢いって、上弦の三日月の下で抱き合っている絵だが、〈二人立像〉はこれも先にふれた彫刻〈二人〉の男女がそのまま立って、男が背後からやさしく乙女を抱いている清楚な作品となっている。く異状なし〉は寝台の上に男が構わり、その上にレントゲン写真のような粋があり、そこに胃が拡大してついている。年譜によると、浜田さんは88年の夏頃から極度の食欲不振に陥り、体重が激減し、以後1991年まで通院をくり返すとあるが、すでにこの頃から多少胃の不調を感じられていたのであろうか。われわれでも胃に多少異状がある時、ふだん意識しない胃の存在を知ることがある。そんな感覚を巧に表現した作品である。 88年には、版画でとくに重要な作品といえる〈ボタン(A)〉〈ボタン(B)〉が制作されるが、彫刻は2点、く男坐像〉とく無柳〉。そして89年も〈アレレ…〉とく少年と馬〉の2点が制作されるが、この〈アレレ…〉は、やはり74年の同題の版画に基づくもので、この版画について浜田さんは、「戦争を主題にした初期の作品は、当然、重苦しい。その後の社会や文明を風刺した作品、ヨーロッパの印象シリーズにしても、大まじめだ。ところが、50歳代の半ばを超えると、肩から力が抜けた感じの作品が出てきた。1974年の『アレレ・‥』がきっかけだったようだ。とぼけた面白さがでてきた。」と語っておられる。そのとぼけた面白さを見事に彫刻化している。 90年になると、〈ボタンを押す人〉が制作される。この作品はいうまでもなく、先に述べた88年の版画くボタン(A)、(B)〉を基に造られたものである。1988年に、翌年開館する広島市現代美術館の開館記念企画「広島・ヒロシマ・HIROSHIMA」展のために広島に関する作品を制作するよう求められたのによるものだが、その版画について、「30年ほど考えていたテーマがあった。ボタンを押す。核ミサイルが飛んでいって都市を破壊し、人を殺し尽くす。そんな恐怖感を一枚の絵にしたかった。ヒロシマにぴったりだ。〈ボタン(A)〉ができた。バックは崇とピンク。わずかに緑色を用いて命令系統を強調したが、腐食がうまくいかず、作品として弱い。セピアのモノトーンでもう一枚作った。計画通りにできた。 親玉が前の男の後頭部についたボタンを押そうとしている。へらへらとした中央の男の指は、その前の男のボタンに。最後に決定的なボタンを押す男は、頭部を覆われて人格が抹殺されている。親玉の頭上に、きのこ雲。 こうした作品は、芸術としての質が高くないと、プロパガンダで終ってしまう。〈ボタン(B)〉は、核と戦争の構造と恐怖を、冷静にとらえたのではないかと自負している。」と語っておられる。まさにいわれる通りで、浜田さんとしてはサイズの大きいこの版画は、浜田さんの後期の記念碑的な作品となっている。 さて、彫刻くボタンを押す人〉であるが、2年の歳月を経て、浜田さんのイメージはさらに整理されて、もちろん絵画と彫刻の表現の差という問題もあるが、いままさにボタンを押す男の面貌と太く長い親指に凝縮し、さらに強く、ミサイルの、あるいは核の恐怖をうったえる。 91年は体調不順のため、全く制作が止んでいるが、92年には健康が回復、再び意欲的な制作が始る。『小さな版画集』という15点の版画と、7点の彫刻が造られる。それらは、77年の版画に基いた同題のく家族〉、小犬と一緒に淋しげな男が壁ざわの日溜りに腰をおろしている〈日溜り〉のような日常生活的な主題のものと、再び戦争をテーマとした〈芋虫の兵隊〉(現・く芋虫の兵隊(A)〉)、あるいは鋭く社会を諷刺した〈誰も知らない〉く首を!〉〈人〉などの作品が並行して制作されている。 93年には〈松葉杖の男〉と〈鏡〉。そして94年には若夫婦の肖像であろうか穏やかな〈二人坐像〉が造られ、さらには95年には、くある画家の像〉と、戦死した兵士が大地に同化してゆく〈風景〉が制作される。〈風景〉は、長さ1メートル近くにもおよぶ大作である。「兵士の骸骨は大地に同化し、残酷な人間の行為も自然にのみ込まれる光景。戦争の記憶を風化させてはならないという気持もあった。」と浜田さんは言われる。 土方定一は岩波新書の『日本の近代美術』の中で、「本書で

は近代版画をとり扱わなかったが、浜田知明の『二等兵』につづく戦争シリーズの銅版画を挙げないわけにゆかない。」として戦争シリーズにふれ、「いま浜田知明の戦争シリーズについて詳述することはできない。が、もし、大岡昇平の『停虜記』に相当する戦後美術と問われれば、ぼくはなんの躊躇もなく、この永遠の記録的作品を挙げることになる」と結んでいる。 日本有数のスタンダリアンであった大岡昇平には『武蔵野夫人』『花影』といった秀作もある。だが、大岡昇平は『野火』『悍虜記』『レイテ戦記』という自分がひきずり出された戦争の証人として戦記を書く仕事に残されたエネルギーの大半を注ぎこんだ。 浜田知明にも、愛や平和な日常的いとなみに根ざした版軌彫刻の佳作があることは、いままでみてきた通りである。だが浜田知明もまた自分がひきずり出された戦争の証人として、戦争を、過去、現在、未来の戦争を描きつづけていくことになるのだろう0いま、この瞬間にも戦争は、直接的に、あるいはさまざまに姿を変えて、われわれをとりか1ている。「わがこころのよくてころさぬにはあらず」とは大岡昇平が『停虜記』の冒頭に引いた歎異抄の言葉だが、それは「また害せと思うとも百人千人を殺すことあるべし」と続く。

 (伊丹市立美術館館長)

1)浜田知明「聞き書きシリーズ:人と時代を見つめて(71)」、『西日本新聞』1995年8月26日。