田窪恭治

■画家による再生プロジェクト

関 直子

■序

 1968年に多摩美術大学絵画科に入学した田窪恭治1949年愛媛県今治生まれ)は在学中より、およそ20年にわたって東京で展覧会を中心とした活動を展開していたが、1989年からの40歳代はフランス、ノルマンディー地方の廃墟と化していた礼拝堂の再生プロジェクトに取り組み、今世紀に入り現在までは四国の琴平山再生計画2000~2011に関わっていた。美術館や画廊といった都市を基磐とする発表の場から遠く離れた、農村の礼拝堂や、国立公園の中に位置する神域での十年単位の仕事は、田窪自身が語るように、それまでの東京での制作とは全く異なるものと捉えられてきた。確かに、宗教的性格を纏う場のための壁画や床を中心とした創造、多様な来訪者を想定した仕事、そして多くの職人との協働作業は、現代美術の枠組みの中で展開していたこの画家の20・30歳代の美術作品のあり方とは別の方向を目指すものと言ってよいだろう。

 しかし、廃材や廃屋への関心を軸に眺めてみれば、初期の立体作品から現在までの仕事を、建物との関係のあり方の変化のなかで展開したものとして辿ることができるであろう。またそれらは、面のをかのイメージの生成、消滅、再生をめぐる、初期からの一貫した関心事に基づくものでもあった。本稿は、以上二つの視点から、初期より二つの再生プロジェクトに至る田窪の活動の展開を考える試みである。

▶︎1. イメージをめぐる様々なイベント

 大学4年に在学中の1971年5月3日から一週間、田窪は初めての個展を東京の画廊で開催した。「イメージ裁判」と名付けたその展示は、初日から最終日まで日々、内容が変化していくものであった。第一日目に、部屋の中央に置かれていた酸素ボンベが、翌日は撤去され、床にチョークでそこに前日まであった酸素ボンベという言葉に置き換えられる。そして5日目は初日の室内の様子が撮影された写真が壁に展示される。しかしその紙焼きは定着液を通していないため、日を追うどとに酸素ボンベのイメージは薄れてゆき、最終的には壁の写真も取り払われて、透明なビニールシートだけが残るというものであった。訪れた人が前日の状況を想像しながら鑑賞する中で、モノと言葉とイメージの関係を、消滅していくイメージを通して問うものであった。

 その後、1975年まで合計5回、シリーズとして実施された個展「イメージ裁判」はいずれも本人等の行為を中心に据えたイベントという性格の強いものだった。卒業した5月31日に実施された第2回目の個展では、タイムスケジュールに沿って、田窪がまずスケジュールに記された行為をチョークで床に書き、床にテープを貼り、その上に石膏を撒き、テープを剥がすプロセスを写真に撮り、フイルムをその場でカメラから抜き取り、画廊の壁に下げるものであった。石膏とテープによる絵画制作を言葉と写真によるイメージの消滅を通して提示するものと言えよう。1975年2月5日の夕方行った「イメージ裁判ぜんまいじかけのおにんぎょう」では雇ったパントマイム役者2人のうちひとりが林檎をかじり、それを投げる行為とそれをまねる行為を繰り返し、もう一人は消しゴムを擦り続けることで林檎をめぐる行為を象徴的に消そうとする試みであった。

 モダンアート協会展などに絵画作品を出品していた田窪が、油画制作に背を向け、70年代初頭に問うたのは、言葉と行為、あるいはモノをめぐるイメージの生成と消滅をコントロールするということであった。1974年には、これらのイベントの記録として残されたオブジェをケースに入れて展示する「美術品陳列会」を開き、このシリーズは完結する。その後も飲酒という日常的な行為を、画廊とスナックで同日に実践することで、日常と非日常の関係を問う「バーボンが一本空くまでの話」をどのイベントを実践するが、1975年のパリ青年ビエンナーレーヘの参加を機に、イベント性の強い作品発表から次第に遠ぎかるようになる。

 これら一連のイベントが、画廊などの場で発表されたものであったなかで、在学中、野毛校舎の屋上で行ったものは、彼方に丘陵の広がる都市の中で、コンクリートの床し1つばいに石膏でドローイングを行い、あらかじめ貼っておいたテープを剥がし、それを写真に記録するものであった。白い壁で限定されないスケール、雨や風によりやがては消滅してくイメージ、都市の中で表現可能な場を見出すこと、そしてその過程を記録すること、これらは同時代の作品制作をめぐる問題意識を共有しつつも、田窪の志向を知る上で極めて興味深い出発点と考えられるだろう。

■2. 廃材によるアッサンブラージュ

 自らの身体行為を中心に据えた表現活動を展開していた田窪は1978年ころから、オブジェと身体行為との関係を示すかのように、自らの手を木に刻印し、そこに金箔を貼った立体作品を制作するようになる。<OBELISK  1・2・3・4・5>(1979年)では5本の角材のひとつひとつに、両手で抱え込んだり、合掌するようなポーズ、或は押捺したような行為の痕跡が彫り込まれている。既製品である角材に特別な意味はなく、この段階では、写真に記録する替わりに材木という物質に、身体行為をかたちとして残すことが目指されており、5本の木は機械的に等間隔で床に並べられている。身体行為を軸とする表現から次の段階への移行期を記す興味深いものと言えよう。

  

 やがて使用する木材は、様々な場所から拾い集めるようにをり、抽象的なかたちや幾何学的な構成ではなく、窓や扉をど家の開口部にまつわる形態をかたちづくるようになる。ギリシア神話などに詩想を求めたタイトルが付された一連の作品のひとつ 巨船アルゴー(1985年)下・中央・左図は、高窓型に彫り込まれた木に金箔を施し左右に電信柱、中央下には枕木が付され、その上方には画家の掌を象る石膏を枠取るように、折罠式の卓紙台の脚が取り付けられている

 廃材と芸的な技巧、古色を帯びた木や鉄と金箔、西洋的な詩想と日本の日常、過去と現在の自分としへつた様々な要素の対比が、このアッサンブラージュを構成している。田窪は、この作品をはじめとする立体作品を携え、1984年のヴェネチア・ビエンナーレに日本館の代表として参加する。帰国後、家族がかつて使用していた道具を据えた、ジャック・ナイフ(1985-86年)・上右図や、郷里のお祭に使用する石を核とする<イノコズチ>(1985年)のように、民俗的な、あるいは家族の記憶をまとうものを、一層積極的に取り込んでいく。それらは、現在の作者とその背後にひろがる記憶を背負ったものとの関係を見つめようとする試みであった。

 これら1980年代前半に制作されたアッサンブラージュは、基本的には前方から鑑賞されることを前提として、窓や扉など家の中のひとつの形態をなぞるものであったが、主たる関心は、その内部で使用されていた道具をイメージソースとする近接する過去の生活の記憶との対話にあったと考えられるだろう。

■3. 絶対現場1987

 1987年の春、田窪は玄関を含む自宅正面の壁面を、廃材を用いて、再構成していくプロセスを公開するプログラムを世田谷美術館で行った。持ち込んだ廃材を前庭で洗浄したのち、創作室で完成した<日常一時間の層ヘI><日常一時間の層へII>は、その後1週間ほど企画展示室でも記録写真と共に展示された。開館間もない美術館での新たなプログラムを模索するなかで実現した、制作のプロセスを公開するという発表のあり方、また現在の生活の場である家を主題とする仕事は、同年秋のプロジェクトへと展開していくことになる点で重要である。しかし、この段階では、アッサンブラージュは大型化したとは言え、近郊に実在する自宅自体を作品の舞台とするのではなく、あくまで廃材を寄せ集めて家の一部を再構成し、そこに金箔を施すことによって作品化するものであり、美術館の壁を支持体とする平面作品の延長に位置するものであったことは留意されてよい。

 

 そして、この公開制作を行った直後に準備を開始し、秋から冬にかけて実施されたのが、、<絶対現場 1987>プロジェクトであった。それは、東京の再開発が進んでいた80年代後半、新たにビルを建設するため、神宮前で取り壊しが決まっていた二階建ての木造住宅十棟の内の2棟を、梁と柱の構造部分まで解体していき、床にガラス板を張り、来場者がその上を歩いたのち、完全に解体、その全プロセスを写真で記録するというものであった建築家の鈴木了二、写真家の安斎重男という異なる分野アーティストたちとの協働そして都市開発会社による作品化のための場の提供、この会社を紹介したプロデューサーの存在によって実現したこの数ヶ月にわたる体験は、白い壁で閉ざされた美術作品のための空間ではなく、社会のなかで多様な立場のひとびとと関わりながら仕事をする意味を喚起することとなった。

 安斎重男は、プロジェクト開始直後の、衣服や家財道具などがそのまま放置されていた段階から、モノクロームの写真で記録を始めた。鈴木了二は、このごく普通の生活の場を、カルテをつくるように、再現可能な正確さを期して計測を行った。そして解体のプロセスの最後にそれらの生活の痕跡を封印する意味を込めて、ガラス板を水平をとるために補強した鋼材のレールの上に)設置したのも鈴木であった。そしてガラスの破壊までのプロセスの写真は解体現場の脇で展示され、また記録集として残された。

 棟上げの反対の工程を丁寧に辿る作業は特別な文化財などではなく、戦後に建てられた平均的な民家が廃墟となって消滅するという都市の中のひとつのできごとが、プロセスの共有と写真による記録によって作品となることを示すものであった」。それまでの田窪の家をめぐるアプローチが、廃材や道具のアッサンブラージュによって家の断片を新たに形作ることであったのに対し、この協働作業は、保存するでもなく、ただ消滅のプロセスに介入し、その記憶を共有する試みであった。ブルドーザーによる瞬時の解体でなく職人による筍(たけのこ)の皮を剥いで行くような時間の拡張と、時間を蓄積した構造を視覚化するガラス板を通した都市の中の住宅の体験は、建物という様々なひとの記憶を蓄積したものとの、全く新たな関わり方を田窪に齎(もたら)すことになった。

■4. 林檎の礼拝堂再生プロジェクト

 絶対視場を公開中の1987年の師走、田窪はフランス、ノルマンディー地方のサン・マルタン・ド・ミュー村の礼拝堂を訪れた。パリ在住の美術史家、前野寿邦氏とノルマンディー出身の夫人に紹介された16世紀のイギリス系貴族の個人礼拝堂に遡るその建物は、19世紀に司祭が去り、永く礼拝が行われることはなく半ば廃墟と化していたのである。屋根の隙間から漏れる光、石づくりのささやかな堂宇(どうう・殿堂)は、この美術家をすっかり魅了し、ここを舞台とする礼拝堂の再生プロジェクトが始まった。

 1999年まで十年余りを要することになったこの仕事は、礼拝堂の所有者である村のひとびととの契約締結、そして資金調達のための支援体制づくりから着手された。村との契約は1988年の年末、即ち礼拝堂との出会いから一年後のことであった。そこには、礼拝堂は村が所有し、作品も礼拝堂が保持すること作品制作は作家の自由であり、プロジェクト実現のための資金は作家が調達すること、プロジェクトに関する著作権は作家が有することなどが記されている。それは、発案から完成までを作家ひとりがコントロールする近代的な美術作品のあり方とは異なるものであった。資金調達については、礼拝堂の友の会が結成され、そこが窓口となって、企業と個人からの寄付を受け入れた。特に、日本で設立された企業メセナ協議会が中心となり様々な企業から幅広く寄付を募る方法が進められたことは、80年代までの企業と芸術の関係とは異なる点として特筆される。

 1989年7月に礼拝堂近郊の都市ファレーズに移住してから十年に渉(わた)る滞在の内、1992年7月までは、着工までの計画の精査が進められ、同年8月から96年7月までの4年間に建物の工事が行われ、その後99年までの最後の5年間に内部の壁画が描かれた。

 礼拝堂の再生プランは1988年から90年までの5年間に、3つの案が提案され、最終的に第3次のプランが村の承認を得て採用された。まだ日本にいる時に構想された1988年9月の第一次プランは、黙示録的な人物像を主題とする壁画が礼拝堂の内部装飾の核となるものであった。木造の屋根組や石の床、非対称な壁と窓を活かすものであったが、建物の外側は隙間のある既存の屋根の上をガラスの屋根で覆うという以外では、敷地や周囲の環境との関係を示すようをアイデアはまだ生まれていなかった。しかし、移住後の89年に描かれた第二次のプランは、内部の床に、表面だけ特殊な錆を施した厚さ5cmの鉄(コルテン鋼)を敷き祭壇奥の壁のみ黒鉛で仕上げた花をモティーフとした壁画を描き瓦をとり払い木組みだけとなった天井をガラスの屋根で構造を見せながらすっぽり覆うというものであった。

 身廊の壁は白いままであり、茶色の床、無地の壁、木組みから見えるガラスという素材同士の対比が際立っている。そして、1990年の初夏に考えた第三次のプランは、ロンシャンにあるル・コルビュジェによる礼拝堂を見た後に構想されたもので、屋根瓦素焼きのものと、色ガラスによるものとに入れ替えることで内部に、淡い色彩を伴う光を取り込むものであった。外壁は表面を覆う漆喰を剥がすことで元の石組みの表情を活かし、更に、建物の周囲の敷地部分にグレーの御影石を敷くことで、壁と同系色のベージュの土とは異なる、石壁が地面から際立つ外観を構想したのだった。

 

 1992年7月に東京で支援委員会が発足したことを受けて、最終的に承認された再生プランに基づき、建物の工事が着手され、それは96年まで続いたフランスの職人たちとの協働で、屋根、鐘楼、床、壁、窓について、欠けている部分を補い痛んだ箇所の素材を入れ替えたり補強することによって、周囲の環境と調和した、快適な内部空間が実現した。一見すると劇的な変化を建物の外側に見出すことはないが、子細に見れぼ、屋根は瓦の一部がガラスに替えられ、内部に自然光を齎(もたら)、いびつな舗石は取り払われ、床には暖房が入り、その上に厚さ5cmのコルテン鋼が敷かれ、石壁は湿気を避けるため石膏板の二重壁を建てた後、内側にの壁が貼られた。(しかし敷地面に関しては、第5次プランにあった、御影石を敷くことも、あるいは御影石を型とした鋳物も敷くことができぬままに帰国することになった。

 本展では現地では実現されることのなかった、敷地に鋳物を敷くという構想を、アトリウムでもうひとつの再生として展示する。)

 建物の工事が終了した1996年から、田窪は壁画の制作に着手する。フランスに移住する前からこの壁画のために様々な技法と素材を探求していたが、湿気の多い場所での長期保存を考慮して最終的に採用されたのは、鉛の上に何種類もの顔料を塗り重ね、表面に塗った白い顔料の上から鑿(のみ)で顔料を削り落としていくという技法であった。

 当初は、黙示録的な人体を中心とした壁画(ファレーズに移住する直前にロンドンで手がけたオペラ「ゴーレム」舞台背景のモティーフとなった人造人間のイメージから展開したもの)や、金刀比羅宮奥書院の伊藤若沖による、<花丸図>と類縁性をもつ構図の、花のモティーフが祭壇奥の壁面を覆うもの、そしてモノクロームのストライプによる壁画など様々なプログラムが構想された。

 本展でフランスから里帰りした、壁画の素材と技法と主題をめぐる習作群によって、石膏や鉛などを支持体として実に様々な実験を繰り返したことが明らかになるだろう。最終的には、東の祭壇側を除く全ての壁面に、この地方に自生する林檎が、壁面ごとに微妙に異なる色合いで、即ち掻き落とす力の差であらわされた顔料と僅かな量のメディウムで練られた絵の具の層は、削り出す方向や力の差によって、多様な表情を見せ、一日の中で変化する太陽光の向きや強さに応じて、画面の色彩は変化していく。均質なホワイトキューブとは異なる光のあり方を充分に活かした壁画技法と言えるであろう。フレスコやモザイクといった上から付け加えていく伝統的な壁画技法とは逆の、この独自の「削り、掻き出す」技法では、壁の中からイメージがたちあらわれてくる。厚く重い壁との長期にわたる格闘の成果と言える。

 壁画の中で田窪が最初に着手したのは、西側の出入り口の壁であった。身廊側から西壁を見ると、扉越しにイチイの大木が見える。その太い幹から広がるようにあらわされた林檎の木に根や幹は描かれず、枝が軽やかに左右に伸び広がっている。その次に手がけた北側の壁は、窓が一つしか穿(うが)たれていないため、堂内で最も長い壁面とをっている。

 その西端には、まるでボッティチェリの春の中のゼフィルスのように、大きな林檎が二つ、中央に向かって描かれ、壁の中央部分では上方に向かって広がる葉群れがあのヴィーナスのように浮遊し、それらの空隙には林檎の実が花びらのように飛翔している。この壁に対面する南壁には3つの窓が開かれ、そこから差し込む逆光を考慮して、赤系統の顔料が多く重ねてあり、削り出された壁画においても、白いスペース部分は少なく、掻き出された朱色は他のどの壁面より強く、豊かである。これら身廊部分に比し、細廊部分の壁画は青や緑の頚料の層を活かした壁画となっている。また、祭壇北側の壁には唯一、林檎の白い花が描き出されている。

 壁画はいずれも、最初に着手した西壁と同じように、開口部を中心に壁面ごとに構図が決定されており、堂内の窓越しに外を眺めると、窓を取り囲む壁画が、その中心に位置する窓外の風景と調和するよう構想されていることがわかる。一般的なキリスト教建築の壁面が、聖書に基づく装飾プログラムをあらわすために、建物の内部だけで完結しているのとは対照的なものとなっているのである。各壁画同士には、連続するプログラムが想定されているのではなく、内部は、窓外の景色と補完しながら完結する、一面ごとに独立した面によって構成されているのである。いずれの壁画にも幹や根はをく、宙に浮くような林檎の実や葉は、堂内にいながらにして、木が自生する屋外にいるような錯覚を齎(もたら)す。このように、礼拝堂の内部空間は、独立した壁面と壁面、そしてコルテン鋼の敷かれた茶色い床面によって、即ち、面と面によって構成されたものとなっている。

 地元のひとびととの交流のなかで終了するまでに、十年という年月を要したこの礼拝堂プロジェクトは、規模や年代といった一般的な文化財の基準とは異なる、それを支える地域のひとにとっての重要性という新たな考え方を提起するもので、この仕事を通して田窪は村野藤吾賞を受賞する。建築の専門家以外での受賞は初めてのことであった。

■第12回|1998年度 受賞者:田窪恭治 受賞作品:サン・ヴィゴールド・ミュー礼拝堂の再生(林檎の礼拝堂)選考委員:池原義郎 早川邦彦 村松映一 柳澤孝彦 葉祥栄
選考経過

 これまで礼拝堂の再生プロジェクトは、1996年までの建物の修復の時期と、その後の壁画制作の時期に分けて語られてきたが、実際には建物を構成する屋根も床も壁の一部も窓も、その素材は入れ替えられており外貌の輪郭に大きな変化はなくても、流れる血は完全に入れ替わったものとなっている。建物の保存という観点からみれば、一般的保存や修復などではをく、全く新たな作品の創出と言うべきであろう。第二次世界大戟で被災した近郊のファレーズの教会などでも、修復が行われたのは主に天井やステンドグラスなど、建物の一部であり、本礼拝堂のように主たる構成要素の素材をほぼ入れ替えるということは稀有をことと言わなければなるまい。そのように見てくると、この林檎の礼拝堂のプロジェクトは、建物の修復とか保存というより素材を入れ替えるというさりげない方法で、再生という名の作品化を実現したものだったと言えよう

■5. 琴平山再生計画

 十年ぶりにフランスから帰国した田窪が向かったのは、「こんぴらさん」の鎮座する、香川県琴平山であった。金刀比羅宮の宮司をつとめる高校時代の同級生が、2004年に大遷座祭を迎えるにあたり、文化顧問として琴平山全体の再生計画の実現を依頼したのである。

 国立公園の一部に指定される緑豊かな山の自然環境を守りながら、同宮の文化資源を活かし、また現代の来訪者にとり快適な空間となるよう施設を整備することが目指された。遷座祭までの第一次の再生では、建築家の鈴木了二に、本宮周辺の社務所等の新築や整備を依頼し、所蔵する高橋由一等の美術作品の調査や修復を専門家に頼み、またそれらの展示環境の改善と公開を進めた。遷座祭後の第二次の再生プランでは、円山応挙と伊藤若沖等による襖絵で知られる表書院と奥書院にはさまれた白書院の襖に、2005年からオイル・パステルによるヤブツバキを描き続けている

 

 江戸時代に客殿として使用された表書院には、人里に近い世界から、遠く離れた走獣の世界へと装飾空間が配されているのに対し、当時の金光院別当の私的な生活の場として使用された奥書院は、私的趣味性の強い花鳥画が全体を支配しているり。これら二つの書院の間に位置する白書院は、縁側を配した北側が庭に面しており、他の書院に比べ、室内と庭との一体感が強く、開放的な構造となっている。人物も鳥獣もおらずただ生のままの野生の植物が庭と同様、襖絵の中でも展開し、ヤブツバキが四方八方に、長押や柱を越えて生い茂るように描かれている

 

 また2006年には、参拝者のための茶所を新たにデザインし、足掛け2年にわたってその壁面のために4点の壁画を描いた。山の中腹に位置する茶所は、平らな屋根の上は展望台として機能し、その南面と東面はガラス壁で覆われた明るい空間である。1階のレストランと2階のカフェテリアをつなぐ階段の北側の壁は吹き抜けとなっており、高さ6m全長25mの壁面に設置された有田焼の磁器には、まるで洞窟壁画のように、一度描いた葉の上に更に別の菓が重ねられ、椿が生い茂る様子があらわされている。鬱蒼とした葉の塊は、一瞥しただけではその全貌も輪郭も捉えることは難しい。だが、近づいて葉の−一枚一枚を確認することで、ひとつひとつの葉の有する生命力を確実に感じることができる、そのような画面である。

   

 昼間は日の光を照り返す白地に鮮やかな青い葉が鬱蒼と重なり合い、夕暮れとなれば、山際の木々の見えるガラス壁に、反対側の壁画が映りこみ、幻想的なダブルイメージの世界が広がる。

 以前からあった旧茶所を西側に移動させた跡地に建設した、壁と床を基本構造とする壁画を中心にデザインされた茶所は、田窪が建物との新たな関係を結ぶ段階に入ったことを示している。当初構想された、この茶所の建築プランは、現在のような2階建てではなく、レストランとカフェが横に配された1フロアの建物であったが、国立公園ゆえに最小限の床面積にするという制約の中で実現した現在の2フロアの茶所も、当初プランを踏襲し、コルテン鋼及び鋳物による床面と、有田焼の壁面という二種類の直交する面によって構成されている。歴史やその象徴的な意味を含めて建物に対して様々なアプローチをとってきた田窪にとり、その取り組みの基本にあったのは常に、面を通して建物を捉えることであった。絵画を支持する壁面はもとより、床面はひとが地面に接するいわば大地の聴診器のような機能をもつゆえに、田窪にとってその材質は舌や感触を伴う極めて重要な意味をもつものであると言う。礼拝堂と琴平の再生プロジェクトは、「面」を建物の構想の中心に据える、画家としての建物への取り組みとして独自のものと言えるのではないか。

■ 結 語

 廃材を用いて窓や戸など家にまつわるものを形作っていた1980年代から、絶対現場を経て、礼拝堂や琴平に至る過程は、建物の一部を用いたアッサンブラージュ建物の消滅の記録、建築素材の入れ替えによる作品化、そして新築へという展開を意味するものであった。それはまた、展示空間から自立した美術作品から、次第に作品の置かれる環境の比重が高まり、やがて風景の一部を構成するものへの変化を示すものでもある。

 イメージの生成と消滅のコントロールに初期から一買して関心を寄せていたこの画家が、建物を作品化するに際して、壁面や床といった「面」を構想の中心に据え、風景に対峠するために選んだ創作の場とは、社会の変化から距離を置く場所であった。それは都市を中心とする短期的なサイクルで消費される作品のあり方への意義申し立てから出発した世代の、ひとつの到達点であろう。しかし風景そのものも変貌していくものであり、イメージもまたその中で変容する。かつては自らイメージの生成から消滅までをコントロールしていた田窪は、風景の中にそれを委ねることに、芸術のひとつのあり方を見出したのであろう。

(東京都現代実術館主任学芸員)