引用と複製その臨界点

「引用と複製その臨界点日本・シミュレーショニズム・20世紀末の一断面」

   美術評論家 椹木 野衣

 20世紀美術における「引用と複製」の系譜は、おおむね、第一次世界大戦後のニヒリズムを背景とするダダに端を発し、1960年代の大衆消費社会の反映であるポップアートを経て、シミュラクルが氾濫するポストモダンの世紀末へと受け継がれて来た。

 この構図を踏襲するならば、芸術における「コピーの時代」はこ20世紀全般を通じて、ヨーロッパからアメリカへ、アメリカから日本へと、その力点を移動させて来たことになる。もっとも、この第三の局面を、わが国というよりも、ジェフ・クーンズやピーター・ハリーによって代表される1980年代ニューヨークのシミュレーション・アートに対応させるべきだという意見は当然あるだろう。

 たしかに一見すると、理論的にも作例的にも、この時期のニューヨークは今から考えてもたいへん豊富な事例を持っている。けれども他方で、こうした風潮を背景にニューヨーク近代美術館で開催された「ハイ・アンド・ロー・・・近代芸術と大衆文化」展(1990年)では、ハイアートの歴史的達成が、消費社会における大衆文化イメージにいかに多くを負っていたかを臆面もなく認めながらも、その認証によって再度、両者をより強く切断するという方向性を持っていた。同様に、この時期に自作にシミュレーションの手法を導入したアーティストたちの作品もまた、原理的には、対象が卑俗であればあるほど、それをハイアートのコンテキストに組み入れる事に成功した際には、その錬金術的な価値変換によって、高踏芸術として高い評価を受けるという逆説を持っていた。ちょうどデュシャンが、価値の認証システムとしての美術館を媒介とするメカニズムをあきらかにするために、あえて冒涜的な「便器」を使ったように。 逆にいえば、こうしたシミュレーション・アートの動向は、一見してはその虚無主義的な態度表明によって価値破壊的に見えるものの、実際にはデュシャンに端を発し、すでに1960年代にはウォーホルの手で完成されていたアート・ヒストリーの安定した・・・サイクルに多くを負っており、その意味では「絵画」や「彫刻」と同じ程度には制度的であったということすらできる。

 20世紀美術におけるデュシャン〜ウォーホルの後継者の地位を、ここで、歴史的には評価が確立されているニューヨークのシミュレーション・アートに置かないのは、そのためである。逆に、1990年代初頭に同じシミュレーションの方法を援用しながらも、欧米のような意味での制度的な「美術」を持たないために、わが国のそれらの動向には、はっきりとした理論的構図を持たず、「作品」としても、後世に伝えられる体裁をなしていないものは少なくない。けれども、まさにそれゆえに、それらは、欧米の制度が定める美術の臨界点を超えて、シミュレーション手法が持つ潜在的な可能性/不可能性を徹底すると、どうなってしまうのかを端的に示していて興味深い。たしかに、これらの活動にはいずれも「記録」こそ残っていても、「作品」というべきものが残されておらず、評価の客観性をどこに置くべきかという問題は依然として残る。けれどもそれは、すでに書いたように、シミュレーション・アートの手法を徹底して推し進めたラデイカリズムゆえにことであり、結果的にそれが、「異体」の黎明期や読売アンデパンダンのような、作品の散逸の問題を共有していることは偶然ではなかろう。当然、これらの動向を「」という文脈で考えることもできようが、むしろここでは、世界美術的な「引用と複製」の、極東における最終形態という仮説に立って考えてみたい。本論で、デュシャン、ウォーホルを継ぐ「引用と複製」の系譜を、わが国90年代のシミュレーション・アートの動向に見い出そうとするのは、そのためである。以上のような論点に立って、以下、わが国の90年代を代表するシミュレーショニズムの動向について、三つの事例=作家にスポットを当てて考えてみたい。

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中ザワヒデキ著「近代美術史テキスト」「西洋画人列伝」中ザワヒデキ

 欧米のような意味での制度的な「美術」を持たないために、わが国のそれらの動向には、はっきりとした理論的構図を持たず、「作品」としても、後世に伝えられる体裁をなしていないものは少なくない。けれども、まさにそれゆえに、それらは、欧米の制度が定める美術の臨界点を超えて、シミュレーション手法が持つ潜在的な可能性/不可能性を徹底すると、どうなってしまうのかを端的に示していて興味深い。たしかに、これらの活動にはいずれも「記録」こそ残っていても、「作品」というべきものが残されておらず、評価の客観性をどこに置くべきかという問題は依然として残る。けれどもそれは、すでに書いたように、シミュレーション・アートの手法を徹底して推し進めたラデイカリズムゆえにことであり、結果的にそれが、「異体」の黎明期や読売アンデパンダンのような、作品の散逸の問題を共有していることは偶然ではなかろう。当然、これらの動向を「かたちなき戦後日本の前衛」という文脈で考えることもできようが、むしろここでは、世界美術的な「引用と複製」の、極東における最終形態という仮説に立って考えてみたい。本論で、デュシャン、ウォーホルを継ぐ「引用と複製」の系譜を、わが国90年代のシミュレーション・アートの動向に見い出そうとするのは、そのためである。以上のような論点に立って、以下、わが国の90年代を代表するシミュレーショニズムの動向について、三つの事例=作家にスポットを当てて考えてみたい。

 「中ザワヒデキ」という存在 ある意味、中ザワヒデキほど、日本のシミュレーショニズムをトータルに体現した存在もいないであろう。わたしが彼の活動を知ったのは、友人の紹介で渋谷の飲み屋で中ザワと初めて会ったとき、そこで手渡された一冊の自作本『近代美術史テキスト』(トムズボックス、1989年)(図1)によってのことである。

 いまでは「方法芸術」を標榜するれっきとした「美術家」である中ザワであるが、当時はまだ美術家とは名乗っておらず、アート界とイラスト界を橋渡しするような、それでいていずれにも属していないような、何とも定義不能な存在であった。もっとも、そうした中間的な存在は、日本グラフィック展で日比野克彦がデビューして以来、わが国ではある厚みを持った層として認知が進んでいたから、わたしも最初は、中ザワをそうした類のひとりであると考えていた。けれども、その認識はなかばは当たっていたが、なかばは外れていた。

nkzw612x816_3 basquiat-2melting basquiat_2_3601 SA3A0039中ザワヒデキ著「洋画人列伝」2001年出版  二中ザワヒデキ個展「ハマルコン91」出品作より<ジャン・HDK・バスキア>1991年

 というのも、中ザワは、他の無意識的な「中間層」とははっきりと異なって、確信犯的に・・・ということはつまり方法主義的に・・・そこにいることを選んだ、おそらくは最初の「美術家」であったからだ。

 どういうことか。すべては、あらかじめ『近代美術史テキスト』に書かれていたことの実践にほかならない。副題に「印象派からポストへたうまイラストレーションまで」と記された、全編手書き/手描きのこの美術史の教科書=作品は、20世紀の美術の展開が、いかにしてモダンからポストモダンに至るかを、イラストとテキストだけを頼りに、簡潔かつおもしろく解き明かしている。それだけでもたいへんなことだが、本書はそれに加え、そうした歴史の先端部で、いま、作家・・・それも極東のわたしたち・・・に残された選択肢として何がありうるかを、明解に提示していた。

 当時、シミュレーション・アートは、欧米の美術史が生み出した自己言及的な最終地点であり、歴史を引用するその立ち位置がポストヒストリカルである以上、原理的に言って、美術史にその先はないものと考えられていた。ところが本書は、歴史の行き止まりというべき米国のシミュレーション・アートの出現をもって美術史の括りとせず、その後に、やすやすと章立てを行なっていた。モダニズムに対する批評的換骨奪胎というべきシミュレーション・アートの後・・・いわば歴史が終わった、さらにその後・・・を引き継ぐのは、ほかでもない日本のイラストレーションであるというのだ。

 少し説明が必要だろう。先にも触れた通り、1980年代米国のシミュレーショニズムは、すでに「ハイ・アンド・ロー」というヒエラルキーを前提とした保守的芸術であった。もしもその先へと進もうとするならば、芸術家はなによりもまず、この「ハイ・アンド・ロー」という自己意識を解体しなければならない。けれども、「ハイ・アンド・□一」の弁別は、実はファインアートの自己定義ですらある。としたら、そこから先に進むためには、彼は、いきおいアートの外部に出ざるをえない。もっとも、米国のシミュレーショニストでそれを行なうものはいなかった。方法論的には可能であっても、アーティストでなくなってしまっては、元も子もないからだ。ところが、中ザワが行なったのは、ほかでもないこのことであった。「美術」をいまあるここから先へと論理的に押し進めるために、あえて美術家でなくなること。大衆文化からの引用というポップアートの自意識を中和するために、みずからが大衆文化の送り手そのものになること・・・まさしくこれは、方法主義的な意味での「イラストレーター」の登場であった。

 このように『近代美術史テキスト』には、当時、にわかに登場し始めた新世代のアーティストたちの誰よりも明快な美術史観があった。にもかかわらず中ザワが、あえて「アーティスト」を自称せず、周囲のアーティストの乱立を尻目に、あえて「イラストレ一夕ー」として活動を固持していたのは、まさしくこの二重化、いや三重化された、アートへの自己言及性のゆえであった。整理のため、ここでそれを、「生産者としてのアーティスト→批評家としてのメタ・アーティストーポスト・アーティストとしての無意識的イラストレ一夕ー」という三段階に要約することも可能だろうが、しかし中ザワにとって決定的に不利であったのは、こうして生まれた「イラストレーター」という理詰めの選択が、容易には周囲に理解されず、また実際の活動においても職能上のイラストレーターと区別がつかないために、結果として文字通りのイラストレーターとして扱われてしまい、その本意を長く誤解されたままであったことであろう。後に明確な宣言を経て「美術家」に転向したことに現れているように、この当時の中ザワには、内心惜恨たるものがあったにちがいない。もっとも、美術家としての宣告を経たいまでも、『近代美術史テキスト乱に端を発する活動は断続的に続けられており、,『近代美術史テキスト』の前史ともいうべき『西洋画人列伝』(NIT出版、2001年)の刊行を経て、現在では『現代美術史日本篇』へと引き継がれている。ある意味では現在の「方法芸術」ですら、かつてのイラストレ一夕ーとしての活動を、今度はアートの語法を使って、「わかりやすく」解説している、それ自体イラストレートーコンシャスな活動ですらあるといえる。その意味では、現在に至る中ザウの活動のエッセンスは、すでに「美術家」以前の段階で出揃っていたということもできよう。

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 さて1991年の3月から4月にかけて、中ザワは渋谷のギャラリーアートウッズでの個展「ハマルコン91」と、表参道のHBギャラリーでの個展「第5回東京イラストレ一夕ラーズソソサエアエティ展」を「パロディ・贋作」というコピーで連動させ、たんなるイラストともアートとも異なる、ポスト・アートとしてのイラストという実践を、アートとイラストを同次元で連結させることによって、具体的なかたちにしてみせた。前者は、1990年に干葉県の幕張メッセで開かれた「ファルマコンー‘90」展(図4)の、後者は、当時結成されてまもない「東京イラストレ一夕ーズ・ソサエティ」を、それぞれ「イラスト化」することによっパロディ化=シミュレーションし、本物でも贋物でもない(=でもある)、アートでもイラストでもない(=でもある)、両者のシミュラクルを多数、連結=作成する試みであった。事実、両会場は往復するシャトル・バスによって連結され、バスの内部では前年に作成されていた「近代美術史カセット」が流され、展覧会にあわせて「イラストレーション・ファイル・コンパチ」(トムズボックス)という冊子が刊行された。

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 これらの試みは、徹底的に無意味な和製イラストをして、欧米のポップアートの自意識の先を行くものとして村上隆が設定した、後の「スーパーフラット」展(2000年)を、ある程度まで先取りしていたということができる。その意味で、村上のスーパーフラット展に対し、すでに方法主義芸術宣言を済ませていた中ザワが、あえて「なぜそこにとロヤマガタが加わらないのか」(=スーパーフラットからヒロヤマガタを除外する明確な理由は何か)と村上に問いかけ、あえて「ヒロヤマガタ問題」(=ヒロヤマガタこそがポストアートとしてのスーパーフラットではないのか)を提示した件は実に興味深い。ある意味、同じ80年代末に活動を開始しながら、最初から一貫してハイアートを志向していた村上隆に対し、特異な歴史観からイラストを身にまといポストアートを志向した中ザワであったが、渡米後の村上が、日本国内で培って来た活動の集積が、欧米のアートシーンを前にしてはまったく無力である事に気付き、かわって美術の外部であるオタクカルチャーをポストアートとして提示するようになったことは、ある意味、最初から日本の立ち位置を意識し、あえて美術ではなく「イラスト」を選択していた中ザワの先行性を、結果的に認めることになったといえる。

飴屋法水と「テクノクラート」

 中ザワに続いて、わが国のシミュレーショニズムのかたちなき成果として紹介したいのは、1980年代には東京クランギニヨル、M・M・M・などを率い演劇畑で活動していたが、1990年の「テクノクラート」結成をきっかけに、92年からレントゲン芸術研究所を拠点に美術寄りの活動を開始することになる飴屋法水である。テクノクラート名義での最初の発表は、東京、青山の246clubでの、ポスト冷戦時代の戦争インスタレーション「WARBAR」で、以後、先端科学技術の知見とその日常への広範囲の普及が、わたしたちの生を根本的に変えてしまうことを、飴屋は、99年水戸芸術館「日本ゼロ年」展での「契約公開」に至るまで、電話網、延命、品種改良、雑菌、食品添カロ物、川∨感染血液、輸血、入れ墨、視力矯正、人工受精、夫婦交換、ブリーデインク、通関などを援用し、様々な側面から追求した。そのそれぞれは、展示から舞台演出、パフォーマンスから映像、ライヴ、さらにはショップ経営に至るまで、実に広範囲にわたっている。

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 中でも代表作は<タッチライフ>シリーズで、昭和天皇の崩御をモチーフにした92年の≪CONTAMINATED≫を皮切りに、95年の《公衆精子計画≫に至るまで、VOL.1〜8までが試みられた。

 一連の活動を通じて飴屋が行なったのは、ニューヨークのシミュレーション・アーティストたちが、美術史やサブカルチャーに対して行なったことを、わたしたちの生身の身体や生=性、生活の次元にまで拡張することであった。たとえば、シミュレーショニストたちにとって美術史とは、書き換え不可能な絶対的真実ではない。むしろ、ひとたび記号の集積に還元してしまえば、様々な視覚的操作を通じて意味の再編を行なうことができる、一種のデータベースにほかならない。他方、わたしたちの生(ライフ)はそのようなデータに還元できない、ある全体性を持っており、テキストのように容易には意味を覆すことができないとされてきた。ところが、20世紀を通じて開発/公開されてきた先端科学技術があきらかにしたのは遺伝子工学やとトゲノムの解明、GPSやインターネットの爆発的普及に象徴されるように、わたしたちの生体といえども、実際にはデータの集積にほかならず、それは旧来の価値観だけでは、もはやとうてい保持できないということだった。

 重要なのは、それらの先端技術が、SF的な夢物語などではなく、20世紀末の消費資本主義の爆発的発達に乗るかたちで、すでに、避けがたくわたしたちの生に組み込まれてしまっている、ということである。言ってしまえば、これらのテクノロジーなくして、わたしたちは夫婦や家族といった保守的な秩序すら維持する事ができない。飴屋が考えたのは、こうした容赦なき現実と近代的な人間像とのあいだの、すでに生じているにもかかわらず、誰も直視しようとしないギャップを、見るものの目前でわかりやすくシミュレーションしてみせることにあった。そのことによって、いずれ避けられない近代的人間像の根本的な溶解を事前に予防的に察知し、そこから新しい生の様式を考案するための予備作業を喚起させるためである。美術という形式は、飴屋がそのことを実践するために、もっともフレキシブルに対応できるジャンルとして考えられていた。飴屋は、かつてニューヨークのシミュレーショニストたちが探索した美術史とサブカルチャー・イメージからなる「記号の森」を、人間という生体そのものへと向けていたのだった。言い換えれば、飴屋にとっては人間こそが「記号の森」であった。「人間」を実験場とするシミュレーショニズム? たとえば、95年の≪公衆精子計画≫で飴屋は、ゲスト・キュレ一夕ーやギャラリーのデイレクターをはじめ、この展覧会に出品した、あるいはパフォーマンスに参加したすべての男性アーティストに対し精液の提供を求め、あらかじめ畜産試験場で習得した牛の精液の保存技術を使ってこれらを凍結保存し、それを収めた液体窒素入りめポットと、精子提供者のデータを記したポートレイトと一緒に会場で展示した。体液とはいえ、それは素材としてのことであって、実際には美術作品であるこれらの精子入りのカプセルは、通常のコマーシャル・ギャラリーでの展示と同様、購入希望者がいれば作品として入手することができた。とはいえ、それぞれの精子は希釈されているものの、2ケ月を経ても解凍すれば活動状態に戻せる事があらかじめ確認されており、鑑賞用の作品に留まらず、人工受精のための凍結精子として具体的に活用しようとすれば、実際的な効果を発揮しうるものであった。 したがって、ここでは、定義上はどこまでいっても作品の受容者でしかない伝統的な鑑賞者が、作品との遺伝子交配を通じて、あくまで可能性としてではあるが、作者の分身を複製することができる立場が提供されていることになる。その際、精子はそれ自体が遺伝子的複製によって生産されているので、ここでの作品そのものを一種のマルチプルと考えれば、マルチプルからオリジナルを復元する鑑賞的経路が確保されていることになる。もちろんそこには、飴屋が男性であることに由来するためか、精夜が受胎する母体のことは念頭に置かれていないし、人権上、考慮しなければならない点も多々あるだろう。けれども、ひとたび、20世紀美術における「引用と複製」という観点に立ち戻るなら、飴屋による「精子」の展示は、そのスキャンダル性と素材の「ポップさ」、そして旧来の美術に対する根源的な批評性において、かつてのデュシャンにおける「便器」、ウォーホルにおける「ドル紙幣」に匹敵する試みであった。

〈註9〉図1D アクト・アップ   ≪sIL∈NCE=DEA  TH》ポスター  1986年

スモールビレッジセンターと「再現芸術」

 さて、ここで最後に紹介したいのは、1992年から93年に掛けて様々な形態を取り各地で行なわれた、小沢剛、村上隆、中村政人、中ザワヒデキからなる「スモールビレッジセンター」の活動である。 これは、すでに国内の画廊での主要初期作品の発表を終えていた小沢、村上、中ザワが、もともと都市に強い関心を持っていた中村の興味を経由するかたちで一時的に結集したもので、現代美術における過去の伝説的な前衛作品やパフォーマンスを、メンバー各自の観点から実際に「再現」してみせた。また、この「再現芸術」という考えは、ハイアート神話を解像度の低いイラスト化(=バカCG)することによって卑近な「現実」へと引き下げる点で、中ザワの「パロディ・贋作」から派生したものでもあった。 もっとも、活動の形態を彼らがこうしたパフォーマンスにまで拡張したことには、たんにコンセプトだけに回収できなし11、別の事情もあったように思われる。ひとつには、画廊での発表こそ済ませたものの、いまだ国内には彼らの作品を買いささえるほどの需要は見出せず、他方、美術館は彼らの活動を海のものとも山のものとも計りかねて、一部の例外を除いては発表の機会を提供しようとしなかったから、おのずと、彼らは主だった活動を既成の美術の制度外の場所に求めざるをえなかったことが挙げられる。けれどもそれはそのまま、わが国における過去の前衛美術が踏襲せざるをえなかった選択肢の反復でもあり、また実際、〜みずから「再現芸術」を名乗る通り、彼らは、そのことにも∴ある程度まで意識的であったように思われる。その後、次第に国内外での評価を得るようになると、彼らはふたたび美術館やギャラリーを主要な活動の拠点に据え直し、本展の出品作に代表される大規模なインスタレーションを次々に発表するようになるのだが、実のところ、それらの主要作品に込められた肝心な発想め原型は、いずれもこの時期のかたちなき街頭直接活動に見い出すことができる。 彼らの活動は、あるときは突発的に、またあるときは計画的に、編成も対象もさまざまなかたちで繰り返されたが、なかでも最大のイベントとなったのは、1992年12月、大阪・メタリアスクエアでの「中村と村上」展での≪大阪ミキサー計画≫と、1993年4月、中村政人の主導で仕掛けられた銀座の歩行者天国を使ったゲリラ・イベント「ギンブラート」での同時多発的なパフォーマンス図11:「殺す・な」デモ風景   2003年4月渋手引こて   ◎奥村Takeshi図12:K.K.《ワラツテ   ィイトモ、》   2003年みみ