分化から終焉へ

■三科解散後の大正期新興美術運動について

滝沢恭司[町田市立国際版画美術館]

 大正期新興美術運動末期にあたる一九二七年に、「我国に於ける新興芸術と新興芸術の現状」を『美之国』に連載した神原泰は、まだ運動の渦中にいる当事者ながら、客観的な視点から、この運動を動向に沿って四期に分類して説いている。本論の第一の目的は、この文で第四期に分類された三科解散[一九二五年九月]以降の運動全体を、グループやメンバー相互の関係に注目しながら見取り図的に示すことである。

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 大正期の新興美術運動については、周知のとおりすでに実証的な論考を収めた五十殿利治氏の著作がある。それによってグループや作家個々の活動の実態、作品の表現傾向が明らかにされ、さらに運動の動態が浮彫りになつている。しかしその一方で、三科解散後から大正期新興美術運動が完全に消滅する一九二八年までの運動については、その実態を総体的に把握できる状況ではなかったといえる。本書の年表の章によって、はじめてそれが可能となったのではないだろうか。本論はその年表の解説にもとづきながら、運動の性質と動向を再構成して示したものである。

■三科とマヴオ

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 論考の対象とする期間の新興美術運動は、以下の四つの主要な勢力によって展開した。一つは、旧アクション系の三科会員を中心に、三科解散の年の末に結成された「造型」である。二つめは、三科解散直後に起草された「三科再興」の内容を受けて、翌年五月に結成された「単位三科」。三つめは、三科解散を機に村山知義が脱退して中心を喪失したものの、そのあとも個別にマヴォイストを名乗って活動したマヴオ継承者たち。そして四つめは、三科解散前にグループからの脱会を表明し、その後「理想郷」を創立して独自の活動をはじめた横井弘三を中心とした勢力である。

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 これらのうちで、三科会員がグループの中心にいた造型と単位三科、そして横井の理想郷が出現したのは、三科が結成当初から同人の間に主義主張の違いがうごめく呉越同舟のグループであったことに端を発している。三科解散は結局そういった複雑な内部事情が露呈した、いわば起こるべくして起こつた当然の結末であった。造型や単位三科はそのことを教訓として結成されたグループであり、横井の理想郷にしても、三科とは違い、ひとつの信念に貫かれた運動体だった。

 その一方、三科内部の混乱に外から一撃を加えて、直接的に三科を解散に追い込んだのがマヴオであった第二回展会場に乱入し占拠したからだったが、この行動も実はマヴオが以前から三科に対して強い反感を持っていたことに根本的な原因があった。端的に言えば、マヴオの会場乱入も起こるべくして起こつた出来事であったといえるのだ。

 以上のことから、三科解散後の運動を考察するには、あらかじめ一九二五年の三科内部の実態と、三科とマヴオの対立関係を具体的に再確認しておく必要がある。

 まず三科の内部事情は、第二回展開催まえに神原泰を除名するという事態に、最初に象徴的にあらわれている。除名の理由は、新聞報道によれば、神原が会場維持費も払わず展覧会開催にも反対するなどという勝手気ままな振る舞いをしたり、「会の事務に無頓着過ぎる」あるいは「冷淡で会員としての義務を果たさぬため」[下図1記事]ということであった。

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 しかしこういった非常識は、「段々と三科の内実がわかって来ると、あんまりくだらないので呆れて了」い、「初めての公募展覧会[九月]でも目鼻がついたら、なるべく早く脱会したいと思」っていた神原の確信犯的な言動であった。神原が三科で目指したのは「アクション」の主張の実現であったが[村山の強い影響下でダダ的な方向に傾斜した三科にそれを実現することなど不可能だったのである。三科第二回展の二ケ月前に、神原はすでに「ダダイズムの卑怯なる自己欺瞞」と書き、ダダの色彩を強めた三科を完全に見切っていた。

 この神原の除名は波紋をひろげることとなった。このあとすぐ、旧アクション時代からの神原の仲間である岡本唐貴と浅野孟府の除名が新開報道され、雑誌でも報じられたのである。実際には二人とも三科第二回展に出品し、公募出品者の作品推薦にも参加しているところを見ると、除名報道は誤報だった可能性もあるが、神原の脱退が三科に与えた衝撃の大きさを思わせるに足る報道であったことに違いはない。

 会員間の意見の対立はまた、横井弘三の「爆発の三科」によれば、三科賞設置や新会員推薦といった問題を巡っても生じたらしい。これは無選展覧会[アンデパンダン展]を理想として主張し続け、賞を出すことに異を唱える横井や村山知義らと、三科賞を設けることに積極的な中原実や玉村善之助らとの間におこつた議論だった。結成当初から三科は無選展を目指していただけに、この間題はグループの基本方針を揺るがすほど重要なものであったといえるが、そういった議論があったということは、とりもなおさず神原除名後もなお三科内に根本的に異なる主義主張が混在していたということを示している。こういった問題が表面化した時点で、横井は早々に脱退を表明することとなる。

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 結束力の弱さを証明する以上のような三科内部の軋轢は、解散を余儀なくさせる下地を確実に作り出していたといっても過言ではない。

 さて、三科に止めを刺したマヴオについてだが、その時の状況から見ておこう。各新聞報道や雑誌記事をまとめると概ね次のとおりだった。十六名のマヴォイストが会場に乱入し、出品者全員を会員に推薦するかもしくはマヴオ全員を会員にすること、マヴオ全員が会員となった際は多数決で旧会員を除名すること、そして三科というグループ名と入場収入をマヴオに譲ることなどを暴力的に強要。何とも無茶苦茶なはなしで、三科乗っ取りを企んだおよそ脅迫といえる行動だが、これを過激な示威行動と見なせばマヴオならではの挑発行動と捉えることができる。結局この事件が引き金となって三科は展覧会を会期半ばで中止し解散[上図2記事左]、それに対してマヴオは、最終的には当局から中止命令が出されたものの、調子に乗って直ちに三科解散騒動真相報告と演劇の会などという企画を持ち上げた。

 こういった結果をまねいた根本的原因である三科に対するマヴオの反感や批判は、この年の五月に三科が会員による第一回展を開催した時期に既に噴出している。たとえば『マヴォ』復刊号となる五号掲載のオ・バ・ケによる「三科展合評」には、次のような酷評が記された。

 展覧会を軽蔑する程の勇気ある作品が一つもない。観衆を窒息させるガスも、卒倒させる強迫力も、圧倒する強情さも、射殺する殺人光線もない。ない。ない。何んにもない。クダラない。つまらない。

 また岡田龍夫は『みづゑ』[二百四十五号]に「三科展鉛毒評」を寄せ、「出直せ!出直せー!」と締めくくって、展覧会と出品作品を一刀両断した。

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 しかしその反面マヴォは、「三科展合評」で横井弘三や吉田謙吉、村山知義の出品作品に好感をもち岡田が玉村善之助の作品などに興味を見せるという側面を持っていた。さらにマヴォイストでもあった三科会員の村山知義や柳瀬正夢に協力して「劇場の三科」に出演したり、三科第二回展に出品してもいる。このことはマヴォが三科を自分たちと同系列の集団と見なしていた証しと解釈できる。実際にマヴォイストと三科会員の間に相応の交友関係があったことも確認できる。

 だがそうはいっても、現実にはマヴォと三科は相容れない、反発しあうグループであった。このことはグループの性質を考えたとき容易に理解できるだろう。三科は尖端の芸術表現を目指す美術家たちによる急進的グループであり、それに対してこの時期のマヴォは、あらゆる芸術的手段によって既存の価値基準や権威や強大な勢力、「チッ息したイズム」の転覆を図り、民衆の生活力の回復を目指すという、いわばプロレタリア意識に目覚めたアナーキスト系の美術家や詩人などから成る集団であった。同じ左翼とはいえこうした明確な志向の違いが、三科へのマヴォの攻撃というかたちで現れることとなるのである。先に引用した「三科展合評」の一部は、このことの具体的な一例といえよう。その時の三科の出品作品はダダや構成主義を吸収した尖端的表現に到達していたが、マヴォにすればそれらはまだ社会にアピールする力のない、美術の枠内に上品に収まる、破壊力に欠ける作品でしかなかったということなのである。反対に、三科は三科でマヴオの性質を知るがゆえに、「無産階級生活者である急進派のマヴォイス上については結成時より排除し続けたということであったらしい。ところが、それが災いとなってしまった。マヴォの不満はつのり、大きな負のエネルギーとなって三科そのものを爆破してしまったのである。

 またこの時期のマヴオはグループとして展覧会を開催することがない代わりに、画廊九段での無選首都展や三科展といった左翼系の展覧会にゲリラ的に出品して存在をアピールし、美術界や世間を挑発するという活動様式を見せている。五月の会員展や「劇場の三科」で世間を驚かせたことに続いて、事前に新聞などで評判となり、一般から作品を募ることになった三科の第二回展は、そういった活動様式を見せるマヴオの格好の発表舞台として用意された感がある。

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 つまりこの展覧会は、《門塔》のような巨大なダダ的作品を出品するだけでなく、マヴォが示威行動によってグループをアピールする場でもあったのだ。こういった活動様式は、三科解散後のマヴォにも一部引き継がれることとなった。

■造 型

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 三科は主義主張の異なる複数のグループや個人の集合体であった点で結束力に問題があったとはいえ、マヴォを巻き込みながら、それまでの新興美術運動を集大成する役割を果たしたといえる。このことに疑いの余地はない。

 最初の新しい流れは、十二月一日の『読売新聞』に「『造型』出生に宣言」[上図3]を掲載して結成した造型によってつくられた。三科の時代の運動との質的変化は、既にこの宣言の内容に直裁に現れている。たとえば冒頭の「芸術は既に否定された」や三項目の「陰惨な破壊の時代は過ぎた」といった表現。これらはまさに破壊が創造の原動力であった三科やマヴオの連動とその役割が、行き詰まりの末に終焉したことをはっきりと主張するものであった。またその主張を受けて小気味よいテンポで書かれた、「吾等は快活に自由に積極的に造型する」や「今や時代は快活な飛躍をしよぅとして居る。吾等は飛ぼうではないか」といったアピールは、それまでの新興美術とは全く異なる表現、すなわち「芸術」にかわる「造型」を目指す意志を高らかに表明するものであった。

 こういった宣言内容は、三科の時代にダダに見切りをつけ、ダダを含めて「表現である凡ての過去の芸術を棄てゝ、明確に快活に新しい造形の途へと進まう」とか、「今や時代は動き、新しいスポーツ・マン・・・快活な紳士的な正直な肯定的な青年の誕生を強要して居る」などと書いていた神原の芸術志向を全面的に反映したものであった。さらに、かつて「私達は明快な意識と、確実な信念によつて芸術の第一線を、勇ましく、快活に、自由に、しつかりと、足ふみしめて歩かうとする青年である」と宣言の冒頭に書いた「アクション」の理想を、その後の美術の動向や神原自身の芸術観の変化に応じて進展させたものであったといえる。従って造型の結成は、アクション時代に表明した神原の理想の発展的実現と署すことが可能である。アクション解散や三科の実態を知って挫折した神原に、今度は追い風が吹くこととなったのだ。

 追い風に乗った神原の高揚感は、「芸術から造型へ」、「造型について」、「造型の報告」、「絵画の一般的転回」といった、造型結成後の一連のテキストからも伝わってくるが、それに対して、村山知義が攻撃を仕掛けることとなった。『読売新聞』に「反動・ここにも反動」を掲載して、「『陰惨な破壊の時代は過ぎた』とは何を見ての妄言であらう」とか「現実から遊離した虚数的存在である」などと造型を痛烈に批判し、「階趣闘争は益々猛烈に戦はれようとし、事件は眼前に迫つてゐる。現在は破壊的行動即ち創造的行動である時代ではないか」、「そのスポーツ気分を棄てなくてはならない」そして「芸術至上主義の二十世紀的言葉のすりかえに他ならない」「『造型』を棄てろ」などと喝破したのである。こういった批評は、被虐者による作品に「醜きもの」の導入が顕著に見られ、それがきわめて現実を反映した有効的な重視であることや、そのような作品が現代芸術全般に台頭していることを力説していた村山にとって、至極当然なものであった 村山は虐庄者と被虐者の関係というプロレタリア意識に立って持論と制作を展開するなかで、現代は破壊を伴なう闘争の実直中にあると考えていたのであり、それに反してスポーツによる精神の高揚を説き、「陰惨な破壊」でなく「健康なほゝえめる芸術の建設」への「転回」を要請する神原の主張は、全く現実にそぐわないたわ言にしか思えなかったのである。

 これには造型側も黙っていなかった。神原の同僚である岡本唐貴が、同じ『読売新聞』に「造型への反動者=村山知義君に答ふ」を連載して、村山の攻撃に対しておよそ次のような論旨の反駁を加え、真っ向から対決した。社会的な階級闘争は現実であるが、芸術と非芸術の問を往来する現代の美術は被支配階級が支配階級に臨んだ闘争ではなく、むしろ支配階級内で行われる争いであって、美術の分野では真の階級闘争がまだ行われていないこと。美術上の破壊行動は「支配階級の上層的階級たる意識階級の減縮し行く過程」に現れたものであり、何ものをも創造しないこと。美術
作品を創るという行動は、「確然と意識された生活事実よりも非意識的」で「感覚的」な「生活事実」の方が優先し、造型はそのような観点に立脚して最大限現実に即して行動すること。美術を支える芸術という観念は価値を失い、「造型は歴史的事実」であること。無産階級は元来暗いのではなく、支配階級の桎梏(しっこく・手かせ足かせ。自由を束縛するもの)の下でのみ暗く、それを自覚した場合のみ陰惨である。しかし現在の被支配階級はそうした意識にとらわれることなく行動していること。現代は行動と団結の時代であること。美術は時代の感覚を体現することに価値があり、次に表れるのは「強健なリアリズム」であること。

 岡本はさらにこのあと「造型とその意義に就て」を『アトリヱ』に連載し、三科の批判的考察を経て、「芸術」と「造型」を対置させながら「造型」概念を浮かび上がらせようと試みる。そこで岡本は、「造型」の概念を「芸術」に相対する概念として構築する必要があり、「芸術」との比較対照によってのみ断片的に概念の発展を見ると説き、「芸術」が思考を生活の軸とするブルジョアがつくり出した消費文化であるのに対して、「造型」をプロレタリアの生活力が生み出す生産文化であるなどと規定した。また「芸術」表現には知的、感覚的陶酔があるが、「造型」には「点々たる生活と、生活目的によって生産されたる表現」しかないなどとも明言している。結論として、「造型」は消費文化である「芸術」からの解放と生産文化の建設を目指し、そのために生活意識を明瞭にしなければならないと諭した。そして最後に「悲劇主義的伝統」を追放し、アルカイック的要素を加えた「快活な飛翔」がもたらす可能性を断言して筆を摘く。

 以上のような岡本の反駁(はんばく・他の意見に反対し、論じ難ずること。論じ返すこと)と論文は、一方で神原の理想とのズレを浮き彫りにすることにもなった。岡本と神原の主張は、確かに、破壊を意図するダダが主流であった三科の時代が終焉し、次の段階として「リアリズム」による建設的表現の時代が到来したことや、展覧会目録に「ZOKEI SMILE」と記載したことに象徴されるように、快活に前進することを信条としてオプチミズムにもとづく制作態度を標榜していた点などでは一致していた。しかしスポーツによる精神の高揚を美術に結び付ける神原と、プロレタリアの文化の建設を目標に掲げる岡本の立場は、実質的にはかけ離れたものであったといえる。むしろ岡本の問題意識は、階級闘争の必然性を説く村山に近いところにあった。村山との論争を、後に岡本が「明暗論争」とか「オプティミズムとペシミズムの論争」と総括したのは、論争が間違いなく同じ土俵の上で行われた証左である。岡本と神原に代表される造型内部に流れるこういった感覚や意識のズレは、やがて造型が
グループの名称を造型美術家協会と変更し、「ネオ・リアリズム」と呼ぶ絵画を中心とする美術を志向して、急速にプロレタリア美術へと傾斜した際に、神原の不参加という結果に表面化することとなった。

 以上のような造型の理念的側面を実際の作品や展覧会内容に照らし合わせてみると、それは量感のあるアルカイックな造形や、ドイツの新即物主義の画家ゲオルク・シュリンプフの作品を思わせる杏仁形(きょうにんぎょう・飛鳥時代の仏像の目の形で,上下のまぶたの弧線が同じで大きく開いたもの)の大きな目をした無表情な顔、そして波打つような曲線による単純化された人体表現などを特徴とする具象絵画と彫刻に結晶することとなった。こういった造形表現は対象の再現的描写に加え、三科時代に全盛をむかえた破壊や否定を意図したダダ的な抽象的造形表現、虚無感や苦悩、陰惨さや醜さをイメージさせる表現を意識的に回避したものと見なせ、約束ごとのように、そして「団結」した「集団」であることをアピールするかのように、おしなべて全ての作家の作品に表され、「造型」の表現様式として一群を形成した。そこには確かに、岡本が説くように、支配階級の桎梏(しっこく・手かせ足かせ。自由を束縛するもの)を意識することなく前向きに快活に飛翔する態度によって、神原がいう「健康なほゝえめる芸術」らしきものが表現されているように思われる。現存する第二回展出品の岡本唐貴の《海と女》[下図4]と思われる絵画をはじめとして、写真図版で確認できる矢部友衛の炎群像》や、寺島貞志郎の《母と子》、吉原義彦の鬼女と山》[下図5]など、全てが自然を背景に健康そうな、快活そうな人問を描き出した作品として認められるのである。神原の《マリアとキリスト》[下図6]にしても、古賀春江が「抒情的純情の表現」と形容する「ほゝえめる」絵画であった

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 では二人が力説する「リアリズム」は如何なる点に達成されようとしただろうか。おそらくそれは、自然と人間社会の物象をアルカイック風にデフォルメしながらも、具象的に、コラージュするように描くという手法によって、生活に密着した日常感覚や「時代の感覚」を前向きな姿勢で表象することを試みた点にである。たとえば、雲が浮かぶ空と山並み、近代的都市景観、近代的住宅の室内、健康そうな裸婦と和服女性を順に遠景から近景にかけて措いた岡本唐貴の<高台に立つ二人の女》[上図7]にしても、室内に置かれた裸体彫刻とその横に立つ大きな青年像を描いた浅野孟府の《二つの立像》(参考作品・下図)にしても、そのような手法と姿勢で、まちがいなく「現代と生活」を表現することを目指して制作されている。それは先にあげたロマンチックな気分を発する作品にも共通していえることである。

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 造型がプロレタリア文化の建設という局面で求めた「リアリズム」は、右のようにグループとして設定したテーマを共通の制作手法と造形様式で描き出すという方式によって達成が図られている。しかしこのような方式の実践は、理念先行型の運動にありがちな作品の類型化現象をもたらした。それが「強健なリアリズム」の出現を予告する岡本のことばに適ったものであったかは疑問が残される。このことは中原実の「松屋の画はタイプを表示する手段であって、画を見せたのではない」という批判や村山知義の「彼等の主張のうち、たった一つ、実現されたと認め得るものは『個性の没落』である」という痛烈な皮肉にもうかがうことができる。結局造型は、当初イメージされ始めていたであろう「リアリズム」の探究を持続させることなく、中途のまま全く別種の「リアリズム」へと没入するはめになった。「リアリズム」を模索する造型を新たに引きつけたのは、「新ロシヤ美術展覧会」出品の、ロシア革命後に台頭した保守派作家による写実的絵画表現であった。特にP・コンテヤロフスキーの風景画と㈵・マシュコフの静物画は、造型が説く「ネオ・リアリズム」の規範とされた。こういった表現への志向は、「新ロシヤ美術展覧会」開催直後の造型第三回展の際に現れはじめ、岡本が新潟での個展を主に写実的風景画で構成したことを経て、その後造型美術家協会とグループ名が改められた際に決定的となる。造型による大正期新興美術運動はこの時終焉したといえる。

■単位三科

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 「『造型』出生並に宣言」が新聞掲載される以前、三科解散直後に「三科再興」のパンフレットが配布された。このパンフレットは三科第二回展の際に生じた一連の騒動で、村山と激しく対立した玉村善之助が起草したものと思われる。そこにはその時に除名されたり脱退した者を除く三科会員の名が記されている。したがってパンフレットにはこの後まもなく造型を結成する岡本や矢部らの名前も記されていた。このことは、「三科再興」が実態をともなわない声明であったことをうかがわせるに充分である。しかしそこに唱われた内容の一部  三科が「まったく各個人の集合であると云ふ」原則や、「新興芸術の建立に志を高く揚げてゐる」といった意識などは、「単位三科」という表題で書かれた、新しい三科の結成を告げる宣言文に受け継がれ、改めて明示されることとなった。

 「単位三科」は一九二六年五月頃に結成されたグループで、以下のような内容の宣言を発している。一九二五年に行われた三科の運動は「最初の実験」であり、「全くの予備実験であつた」こと。引き続き一九二六年以降、一年間を一区切りにして実験を継続させていくこと。「地球は我々の実験室」であり、「我々は其中に住む」「科学者」であるという自己規定を新たに行うこと。過去と未来は「従属変数」であり、現在は「独立変数」にあたる。新しい三科の仕事は「此の函数の『グラフ』即ち宇宙に引き得る自由の線図式とも云ふべきものを以て」説明されること。実験を行う個々の能力と時間の相乗積を「一単位三科」と規定し、現在三十四の単位を有すること。

 以上のような宣言は、かつて、「凡ては科学の上に立つ」という断定のもとに「絵画原器」というヴィジョンを提示して、複製技術と芸術の存立について、真撃に芸術の問題として説いた中原実が起草したものであった。「単位三科」宣言には直接「絵画原器」の理論こそ持ち込まれなかったものの、「科学の上に立つ」という理念はそのまま反映されることとなつたのである。

 この一方、活動の指針については、藤田巌が造型同様に三科を「挑戦的」「破壊的」であったと断じたあと、「挑戦的ではあるが建設の地盤に立つて」、「過去の徒らな反アカデミック又所謂三科的ダヾイズムは極力排除」し、「近代科学に根底を置いた新しい美の探求に遇進的運動を続ける」と宣言している。また野川隆が、はじめに三科のことを「ダダイズムと構成派の主張の混合が、その理論であり、背景であり、思想であり、根拠であった」が、「事実は[中略]日本といふ田舎での 『様式的先駆』と云ふより以上の何ものでもなかつた」と批評したあと、単位三科について「思想的に過渡期の形態に在る」「自由聯合」であり、「あらゆる固定的な過去に対して、あらゆる可能な位置から、あらゆる方法と手段をもって」「戦闘」する「芸術圏内に於ける極左翼をへいぼうする集団である」と表明した。前述の宣言文や二人の指針表明に明らかなように、単位三科もまた造型同様に三科を乗り越えることからスタートを切った芸術家集団であった。しかし単位三科は、造型のようにプロレタリア文化の建設を目指すという階級意識と直結する目標に向かったのではなく、あくまで「近代科学に根底を置いた新しい美の探求」や、「芸術圏内に於ける極左翼」として「戦闘」することを目標に掲げている。そのような目標の違いは、グループとしての活動様式に最も具体的に現れたといえる。造型が主に絵画と彫刻を表現形式に選んだのに対して、単位三科は絵画、構成物、舞台装置、家具といった造型芸術のほか、建築、音楽、舞踊、劇、映画など多種多様な芸術分野での活動をプログラムに盛り込んだのである。そしてそのようなプログラムと相関関係を結ぶように美術、詩、映画、建築、演劇関係者など様々な分野の専門家をグループの構成員とした。つまり単位三科は、「科学に根底を置」いて、各専門分野で、あるいは分野を横断して新しい芸術表現の探究に能力を発揮する構成員各人の仕事[一単位三科]を結合した、純粋に芸術上の革新を図ることを意図した、多面体の運動体であった。また単位三科は変化することを前提に、一年間毎にその活動を「現象」と捉えていた。

 結成から一年ほど経った一九二七年六月に開催した展覧会は、実際に絵画、彫刻、アサンブラージュ[「形成」]、建築的立体[「建築的形成」]、家具、刺繍、舞台模型、版画、写真など多種多様な出品作品によって構成された。そのうち建築を意識した立体は、創宇社同人ら建築家が多数参加したことで出品率が高く、全出品作品の少なくとも五分の一を占めた。198516209

 先述の藤田も、「建築に於ける自由な表現形式の思索に終始する」と宣言したとおり、六点の「建築的形成」を出品した。その一方、中原実や峰岸義一らは絵画のみを複数出品し、藤田同様に一分野の専門性を追求している。それに対して玉村善之助は一人で「絵画、形成、家具、写真」を出品し、単位三科の分野横断的な多様性を体現した。出品作品の内容的傾向は、総体的にみて、かつての三科展を印象付けた破壊的で挑発的、そして陰惨さを特徴とするダダ的なものから、建設的で禁欲的、洗練を志向する造形作品へと大きな転換が図られていた。「建築的形成」が多数出品されたことにその傾向はいっそう強められたが、玉村が出品した「形成」作品にしても旧三科時代の構成物に備わった攻撃性が影を潜め、基本的に様々な素材を垂直水平に布置した幾何学的な輪郭をともなう造形であったし[図8]、家具[書棚]》[図9]については、矩形の板が三次元空間で多方向に整然と直交するデザインの機能主義的作品であった。また小松栄の<建築的ゲスタルツユング》にしても、流線型と直線、弧や長円形などを空間上で美的に構成した洗練された立体作品であった。「建築的形成」を含んだこういった出品作品には、仲田定之助が中心となって紹介していたバウハウスや建築雑誌でしばしば紹介されていたデ・ステイルの造形への接近を顕著に認めることができる。

 しかしその一方で、絵画作品には違った表現傾向が散見された。中原の油彩画には科学に立脚する作者特有のモチーフとしてコスミックな空間が描かれているが[青の周辺・上図10]その表現には日本のシュールレアリスムの先例を見ることができる。また玉村の《プレヤボールド》と<異常精神について》という題名の作品は、仲田走之助と峰岸義一によって「グロテスク」と形容された絵画で、昭和初期の世相であるエロ・グロ・ナンセンスの一端を映し出していた。

 こういった三科展の分野横断的多様性や表現内容の傾向は、舞踊や人形劇を含む演劇、パフォーマンス、光や音楽などからなる抽象的舞台を上演した劇場の三科にも認められる。

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 そのなかで仲田定之助と岡村蚊象が演出した<ファリフォトン舞台形象[上図11]は、「色彩[ファルベ]光線[リヒト]形態[フォルム]および音響[トーン]」による抽象的舞台で、ヴィキング・エッゲリングハンス・リヒター、ラースロー・モホイ=ナジらのフィルムワークを意識した作品であり[上図12.13]、展覧会出品作品と同じくダダやバウハウスヘの接近が見られた。中原演出の「蒼窄の尺度」は、二幕四場に分かれた関連のない挿話が「単位尺」「聖なる尺」「自然尺」という三種類の何れかの計りにかけられ、「指針」が「尺度」を態度やことばによってあらわすという内容の哲学的思考を要求する演劇で、中原の絵画につながる観念的世界観を見せていた。また展覧会で<建築的形成》を出品した藤田巌演出の「零(ヌル)」は、コミカルなコスチュームの人物が登場する寸劇で、形態のユニークさと色彩、音響効果を取り入れた斬新なパフォーマンスであった。

 単位三科は劇場の三科のほかにもラジオ・ドラマに取り組み、当時放送が開始されてまもない新しいメディアに乗り込んで実験的試みを行ったが、結局多様な実験は造型同様に持続されることなく、一九二七年の一時期に集中しただけで自然消滅することとなる。組織的ではないにしてもバウハウス的綜合芸術の兆しを見せたこの「一九二七年三科」という現象を、後に村山知義が「芸術至上主義的」な者たちの動きと規定することとなった

■マヴォイストたちの動向

 三科が分化して結成された造型や単位三科に対して、外部からの破壊行動によって三科を解散に追い込んだマヴオは、一九二五年に引き続いてその後も断続的に、そしてゲリラ的に行動をおこして、一九二八年まで存続した。しかし三科解散後のマヴォの足跡には、グループの牽引者であった村山知義の脱退が大きく影響したらしく、グループとしての実態を確認することが出来ない。その活動はもっばらマヴオを継承するマヴォイスト個々か、ごく少人数による個別的、断片的な行動によって形成された。そのような活動には、復刊した『マヴォ』の誌面や三科第二回展などで見せた破壊力は乏しく、また行動の波及効果も格段に低下していた。単純にいって、この時期のマヴォイストたちの行動は、かつてのマヴオ運動のいわば余燼(事件などの一段落したあとに、なお残っているもの)としての趣を見せていたといえる。とはいえ三科解散以後のマヴォイストは絵画や構成物といった純粋美術から遠ざかり、建築や舞台装置や映画セット、舞踊[パフォーマンス]、着物の図案、版画、似顔絵という実用性のある、また自分たちの生活を確保する作品の制作に向かった点で、運動に新しい展開を見せたといえる。これらのうちの映画セット、着物の図案、似顔絵制作は、三科解散以後に進出が図られた新しい分野だった。もちろん新しい造形を志向し始めたマヴォイストも登場している。

 またこの時期のマヴオは、マヴォイストがアナーキストとしての立場を表明した点でも新局面に達していた。もちろん『マヴォ』復刊期にもその傾向はあったが、時代の趨勢と共にプロレタリア意識が強化されたことで、ダダイズムからアナーキズムへの思想的転換が必至となり、一九二六年頃にそれが明確に方向付けられたのである。さらに当時もはやマヴォイストを名乗ることのなかったかつてのマヴォイストが、各自別々のアナーキスト集団に所属し、芸術による階級闘争を繰り広げることとなった。このような動きをした者たちのことを、村山知義は「芸術上の日本虚無党をつくろうというマヴオの連中」と形容している。

 以上の動向が形成される契機となったのが、三科解散後しばらく休眠状態となっていたマヴォイストが、復活の新機軸として「マヴオ大聯盟(れんめい・連盟)再建に就て」というアピールを打ち出したことであった。このアピールは萩原恭次郎、村山知義、牧寿雄、柳川椀人、矢橋公麿、岡田龍夫、高見沢路直、戸田達雄の人名を代表者とする「マヴオ大聯盟再建委員」が、「全新興プロレタリア文化の総合的建設を標榜」して発したもので、一九二六年五月発行の数種類の文芸、美術、建築雑誌に掲載された。[下図14]。また再建委員はマヴォ復活のための資金計画を用意し、このアピールに付随して「マヴォ肖像画会」という事業を宣伝した。さらに、関西で活動する牧以外の再建委員が、アピールの雑誌掲載と全く同時期に開催された横井弘三企画の「理想大展覧会」に出品し、会場での示威行動によってマヴォ復活の蜂火をあげた。しかしこのように行動をともなった企てにもかかわらず、結局、団結したグループとしてのマヴオ大聯盟を再建するというマヴォイストたちの野心は、ついに成就されることがなかった。その結果として、以後のマヴオの運動は、再建委員の一部の作家たちによる個別的、断片的な行動によって形成されることとなったのである。

 再建委員のなかでも牧寿雄、岡田龍夫、高見沢路直はマヴオ大聯盟再建を果たせなかったことに挫折することもなく、そのままマヴォイストとして活動を継続した作家であった。この三人はその年の九月に牧寿雄の活動基盤である京都に結集し、まず「築地小劇場マヴオ作品 舞台模型映画セット展覧会」[図15]以下、舞台模型映画セット展]を開催して、舞台装置の模型を中心に、牧が十数点、岡田と高見沢がそれぞれ十点程度の作品を出品して気を吐いた。このとき岡田はそれとは別にリノカット十五点を出品し、牧は映画セットの模型を出品してもいる。さらに三人はこの展覧会ののちに「マヴオ創作舞踊発表会」を開催し、牧が四タイトル、岡田が三タイトル、高見沢が二タイトルの舞踊を演じて、マヴオの健在振りを披露した。また彼らはこれら二つの企画で「マヴオ肖像画会」を開き、多角的な活動を通じてマヴオの存続をアピールした。

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 この後牧は十月頃に、今度は京都の染織界の新人と組む一方で、村山知義と吉田謙吉を巻き込んで、「日本織物の科学的研究、染織図案の研究、服飾構成の研究等を目的として」「織染芸術研究連盟」を結成し、大正期新興美術を新たに染織という伝統分野に持ち込んだ。そして「構成派染織展」と称する展覧会を大阪で開催し、後期のマヴオを偲ばせる抽象的模様や文字のデザイン、アニメーション風の図案などを配した帯や着物を出品して服飾界に一石を投じた[下図16、下図17]。そしてその後、この展覧会に関係する染織図案をまとめた『マヴオ染織図案集』を発行する。その際牧は序文に「構成主義の服飾観」を寄せ、現代女性の服飾には「簡潔、明瞭なる形態」と、視覚よりも「触感の選定」が必要であるとする持論を明らかにした。

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 さらに牧は、この後マヴオの造形から離れ、建設的な構成から成る幾何学的抽象の図案をまとめた『新希臓派模様』を京都で出版し、バウハウス的な新たな造形への志向を見せた。その一方で、「マヴォ後援のもとに」開催された「関西在住の構成派作家ダダイストが組織してゐる形成芸術協会」の第一回展に出品するなど、関西のマヴォイストとして精力的に行動した。

 染織界に進出して関西を地盤に活躍した牧に対して、岡田龍夫は東京を拠点にして、主に「街頭漫画屋」[似顔絵描き]およびリノカットの版画家として活動した。このうち街頭漫画屋については、「マヴオの想ひ出」[聖のなかで、自分が「鼻祖」であり「三科解散以来マヴオ同人等と神楽坂に起ったのが始まり」と回想する仕事であった。また岡田は当時「最近日本に於ける街頭漫画の流行は美術界に於ける大衆芸術的行動として世界に誇り得る先駆的な唯一の表現である」と記して、この仕事の意義を力説している。「街頭漫画屋」と称する街の似顔絵描きの鼻祖が実際に岡田であったかどうかはさておき、小川治平や下川凹天、岡本一平ら漫画家たちの活躍によって、大正期に「漫画」を用いたことばが各種つくられ、さらに漫画が美術もしくは芸術の一分野として強く意識され始めたことで、青年漫画家たちが大新聞とは異なるリトル・マガジンなどに描きたいものを自由に描き出したとされることを踏まえれば、そのような状況を背景に、大正後期に「街頭漫画屋」という職業が登場したというのも自然と肯けることである。従って岡田の回想はいいかげんでなく、むしろ興味深い発言として受けとめられる。また「街頭漫画屋」という仕事は、『マヴオ』復刊期のマヴォイストがプロレタリア意識に傾斜しはじめ、芸術と民衆との接点を模索していたことや、柳瀬正夢や村山知義らのマヴォイストが既に雑誌や新聞に漫画を盛んに描いていたこと、「マヴオ肖像画会」と同じ頃に、横井弘三が「理想郷」の事業として街頭での肖像画制作の実施を宣伝したことなどを考えると、新興美術運動の新しい局面で登場してきた新種の活動形態であったともいえる。それ故に岡田は、街頭漫画を「美術界に於ける大衆芸術的行動として世界に誇り得る先駆的な唯一の表現」と自信を持って言い放ったのである[上図18]

 一方、『マヴオ』復刊期から本格的に始まった岡田のリノカット制作は、それ以降も継続して行われた。このことはアナーキスト詩人の詩集、岡田自身発行の 『形成画報』創刊号[一九二八年]、『文芸ビルヂング』二巻十一、十二号[一九二八年]の挿絵、そして舞台模型映画セット展[一九二六年] への出品、「工場と劇場」をテーマとした版画による個展[一九二八年]開催などに確認できることである。さらに『形成画報』発行の母体として岡田が創設した「形成画報社」が、「リノリユームポスター」をはじめとして「リノカット」「リノまんが」「リノ文字」の制作を宣伝しているのである。これらの仕事や活動を考えれば、岡田が如何にリノカットの制作に積極的であったかがまず理解できるがその中でも『形成画報』創刊号のリノカットは、大正期新興美術運動の新しい局面を伝えている点で注目すべきである[下図]。その表現は、映画の内容や建築物といったモチーフを彫刻刀でダイナミックに彫った具象的形態によって創出され、かつての陰惨さや虚無感を喚起させるマヴオ的な造形からは既に離れているのである。それが「画報」という性質を反映させたからだとしても、実用性と生活の形成というスタンスで創作活動した当時の岡田にとっては、むしろそれゆえに主要な作品であったといえるのだ。しかしこの『形成画報』は、表紙に「マヴオ改題」と刷り込んで気を吐いたものの、その後続刊されることなく、実際には大正期新興美術運動の取りを飾る作品となった。

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 この時期の岡田には形成画報社のほかにも、今ひとつ注目すべき活動拠点があった。畠山清身発行のアナーキズム雑誌『悪い仲間』[二巻十号より『文芸ビルヂング』と改題]である。岡田はこの雑誌に「本誌専属画家」として参加することでアナーキストの立場を表明し、コミュニズム思想に傾斜した「造型」を、「革命後に於けるロシヤのリアリズムと、資本主義末期に生棲(せいせい・動物や人がすむ)するキワドイ日本のプロリタリアを混同したがる早漏性痴呆児」と切り捨てている。マヴォイストの岡田と旧三科会員だった岡本らはもともと対立する間柄であったが、アナ・ボル抗争の幕が既に開いていたこの時期には、その関係がさらに明確になっていたといえよう。

 しかし岡田は、この雑誌で、いまだマヴォイストの表情を見せている。自分と同様に雑誌の専属画家という肩書きをもつ佐藤八郎と、佐藤が移り住み、「マヴオ」をもじった「ネヴォ」なる喫茶店を開店した札幌で、「造型舞踊会」を開催しているのである。『文芸ビルヂング』に掲載されたその時の写真には、パフォーマンスを演じるまさに往年のマヴォイストそのままの岡田を認めることができる(下図)。

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 マヴオ大聯盟が思うように再建できなかった後、再建委員に名を連ねた萩原恭次郎、矢橋公麿、柳川税人は各人が各様のアナーキスト集団に所属し、相互に連携を図って活動している。このうちもともと詩人であった萩原は『銅鏡』や『文芸解放』、『バリケード』などの文芸雑誌の同人となりアナーキスト詩人として活躍し、矢橋も美術作品の制作から徐々に離れ、名を本名の丈吉にもどして、『太平洋詩人』や『単騎』そして萩原が同人として参加した『文芸解放』 『バリケード』などの文芸雑誌に依って立ち、主に文学者との交流を深めながらアナーキストの立場を固めることとなった。柳川もまたアナーキストになつている。『NNK』を創刊し、『マヴオ』に見られるようなダダ的な毒舌を吐き出しながらも、「我々は只我々自らの生活を勇敢に進行させやう[中略]手を肉体を全身を衝撃して生活戦線につつ立つのだ」と階級闘争を呼びかけているのである。岡田の回想によれば、柳川は「元来が技術屋さん」で「工芸・主として金彫方面にマヴオイズムを広めた」とあり、その後金工芸の刷新を唱えて結成された工人社に参加した

 今一人、この時期にアナーキストであり、おそらくマヴォイストでもあった注目すべき人物がいる。有泉譲である。有泉は一九二四年十二月開催の最後のマヴオ展に構成物を出品してマヴォイストとして姿を現したのち、マヴオが再起を図って出品した理想大展覧会へも出品、その後一九二六年七月に金配…明らと『野獣群』[図製を創刊した美術家である。

 この雑誌はアナ・ボル分裂直前に、階級闘争に基づく新しい文化の建設を鮮烈に掲げて創刊した文芸思想雑誌であった。有泉はこの雑誌に依りながら、前年に発した「旋律踊舞宣言」に基づいて舞踊に実力を発揮し、さらに「野獣群美術号」と称して『構成派』を創刊して、版画にも手を染めている。この版画誌は雑誌『マヴオ』を意識して発行されたと思われる。また「第一回旋律舞踊発表会」において舞踊を演じるとともに、「構成派の舞台装置」を手掛けたという。この発表会の予告文で「長髪の若きマヴオ同人」と呼ばれた有泉が、岡田龍夫と村山知義を強く意識して活動を展開させたことは間違いない。

 以上のようなアナーキストたちが結集して気炎を上げた会に、次の二つが確認できる。ひとつは一九二六年十一月に、太平洋詩人と女性詩人が主催して開催した「詩・舞踊・演劇の夕」である。この催事には萩原恭次郎と矢橋丈吉、有泉譲が参加している。同じ月にマルクス主義に傾斜した者たちがアナーキストらを排除して「日本プロレタリア芸術連盟」[略称、プロ芸]を組織していることを考えると、この会はボル側への対抗という性質があったと思われる。もう一つは翌年四月に開催された文芸解放社主催の「第二回文芸講演会」で、岡田龍夫、柳川税人、萩原恭次郎、失橋丈吉が出演している。

 大正期新興美術運動が分化し終焉をむかえる時期に、マヴォイストがアナーキズムへと傾斜して、芸術による最後の闘争に臨んだことを認めなくてはならない。

■横井弘三の「理想大展覧会」

 造型、単位三科、マヴォイストの動向のほかに、今ひとつ、大正期新興美術運動の末期を象徴するような展覧会として、三科を自発的に脱退した横井弘三が、不擁の意志によって開催を実現させた「理想大展覧会」[下図]を記憶しておく必要がある。

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  この展覧会は、一九二六年五月に東京府美術館の開館記念として開催された、第一回聖徳太子奉賛美術展覧会[以下、奉賛展]に対抗して、全く同時期に同じ上野公園内で開催したもので、無鑑査自由出品であった。そのような出品制度はすでに中原実主宰の「画廊九段」での「無選首都展」で実現していたが、三科は無鑑査を目指しておきながら完全には実施できずに終わっている。横井弘三がこれら二つのグループに関わったのは、無鑑査展であるか、その方向に向かっていたからであった。そのような横井にしてみれば、記念碑的な大総合美術展覧会となる奉賛展などは、全ての画家に出品資格を与えるべき開放的な性格のものでなくてはならなかった。しかし奉賛展の出品規定は、出品資格に関して権威的な限定を設け過ぎていたのである。横井の執拗な抗議行動によって奉賛展の出品規定は一部改正されたものの、結局それは無鑑査にはほど遠い内容であった。そこで横井が構想したのが理想大展覧会であったのだ。

 展覧会出品者は、無鑑査自由出品という規定を反映して多彩極まるものだった。もちろん造形作家の出品はあったが、むしろ「かんばんや、会社員、運命判定、農業、著述業、詩人、労働者、小学生、旧船乗りコック、事務員、小学校教員、塗師、茶商店貞、浮浪人、糸屋の小僧、画学生、教材出版物原画描き、印刷業、呉服小売業、装飾業、官吏、青物問屋、木彫家弟子、建築屋、染物業、小螺子製造、写真業、株屋の手代、乞食、工業写真、商店の帳面付、僧侶、土工、伝染病研究所工手」などといった実に様々な肩書きの、全くの美術素人の出品がほとんどであったことに注目する必要がある。

 白樺派的な人道主義から発した「万有愛」を目指して、「理想郷」建設を構想した横井独創のヴィジョンが体現されているからだ。しかしその一方で、先述したように「マヴオ大聯盟再建」の足がかりとして、アナーキズムへと傾斜したマヴォイストが大挙して出品したことも忘れてはならない。それによって新興美術運動との結びつきが強まり、その動向の上に展覧会を位置づけることが可能となったからである。 出品者同様に出品作品も多種多様で混沌としていた。神原泰は展覧会会場の様子を以下のように素描して、そのイメージを与えてくれている。

 出品も『メーデー漫画』六銭六里があれば、『マイサ教あこんだーす』十万円と云ふのがあり、『静かとや云はんグロテスクとか云はん』と題する油絵もあり『自分にもわからず他人にもわからない』と云ふ作品もあった。そして 会場至る所に『横井の馬鹿野郎』と書いた大きな紙が下つて居た。その中を人が歩き回つて居る。カタログと合せ ると『悠歩と云ふ男[人間出品]黄金以上』と書いてある。予言者と札を下げた人が居る。カタログを絶つて見る と『予言者、恋愛問題を中心とする運命判断応需、判定料金として一回五十銭』と書いてある。青年が二人歩いて居る。シュクスピアのハムレットが始まるとどなつて居る。

 三科会員展で木下秀一郎が試みた演劇的行為が作品として出品されたことが分かるが、さらに出品作品のなかには、マヴオ展や三科展で急進的な作品として目をひいた構成物が多数あったことが確認できる。写真図版で確認する限り、それらは縦横無尽に展示され、混沌としたアナーキズム的空間を創出している。また展覧会では警察との間に何度も衝突があったり、出品者が大挙して奉賛展会場に押し掛けるなどといった過激な示威行動も見られた。このような理想大展覧会を、横井自身は「まさしくお祭」と呼んでいた。一方神原は次のように捉えた。

考へ方によつては、これ程愉快なものはなく、これ程人を馬鹿にしたものはない。若しも三科が永続して居たなら、その第三回展覧会は当然こう云ふものになつたのである/然し私は横井氏に感謝した。何故ならば私は展覧会の形式について、そして展覧会の動的化についてしばしば夢想して居たのであった。そして氏は私達に対して一つの大きな実験をして呉れたのであった。

 ダダに傾斜した三科を嫌ったあげくに除名された神原故に、多少の皮肉を込めているが、決して直接的に批判はしていない。反対に、展覧会の「形式」と「動的化」という観点から理想大展覧会を評価している。

 また村山知義は、構成派の考へと余り違ひない」という自分の立場から、奉賛展出品作品を「『宝物』とか『御物』とか名附くべき、高価な、やんごとない、贅沢品」と批判したあと、その組織を「一つの権力誇示の組織であって、害になるばかりで何の役にも立たなかった」と切り捨てる。その一方で理想大展覧会を「熱烈純真」と評価した実用品や発明品の出品があったことが村山の共感を得たに違いない。

 アナーキズムが渦巻く過激で珍奇なお祭のような展覧会ではあったが、右のように神原や村山が一定の評価を与えたことから分かるように、理想大展覧会は三科やマヴオの展覧会を受け継ぎながらも、大正期新興美術運動の変質と可能性をダイナミックに体現した規模の大きい最後の展覧会であった。

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■おわりに

 三科解散後、村山知義は「日本プロレタリア文芸連盟」[一九二五年十二月]の創立に参加するとともに左翼演劇の演出、舞台装置やポスターの制作、プロレタリア系芸術雑誌や単行本の装憤、プロレタリア漫画の制作、諸芸術の評論などの活動を通じてプロレタリア芸術運動へと傾斜していく。その一方で村山は、マヴォ大聯盟再建委員の一人に名を連ね、横井弘三の理想大展覧会に出品して以降、京都高島屋での舞台模型映画セット展に出品したり、牧寿雄らと織染芸術研究連盟を結成して往年のマヴォイストの顔をちらつかせてもいた。こうした村山の行動は、文芸連盟が「黎明期における無産階級闘争文化の樹立を期す」ことを掲げた、穏やかな統一戦線的組織であったが故に可能となったことであろう。しかし、アナーキズムに傾斜したマヴォイストとのこういった村山の活動も、一九二七年二月に純粋なマルクス主義者の組織である「プロ芸」一九二六年十一月結成]に参加した頃にはほとんど見られなくなる。

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 また柳瀬正夢は、『種蒔く人』 の後身として創刊した『文芸戦線』の同人として、村山同様に文芸連盟の創立に参加するとともに、それまで同僚であった三科やマヴオの作家から離れ、『無産者新聞』の漫画や政治ポスターの制作、プロレタリア雑誌の装帳、左翼劇場の舞台装置の制作などを手がけながら社会批判の精神を研ぎ澄まし、鍛え上げていく。そして「プロ芸」創立に際して中央委員として加わり、主に出版ジャーナリズムを舞台にプロレタリア芸術運動の第一線で活躍する

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 このような二人を神原泰は「我国に於ける新興芸術の発達と新興芸術の現状[承前]」で、「諷刺画や漫画が所謂本画なる死物を駆逐して縦横に活動する」と「見て居る」作家として挙げ、その創作活動を一九二七年前半期の時点での新興芸術の「沃野」のひとつであると位置づけている。しかし歴史的に見れば、プロレタリア芸術運動へと舵を取った村山や柳瀬の活動は、すでに大正期新興美術運動とは遊離したものだったと解釈するべきである。三科解散後の大正期新興美術運動の見取り図を作成することを目的とした本論でも、そのような二人の活動については取り上げていない。とはいえ、二人が示したプロレタリア美術への明確な志向性が、分化し終焉をむかえようとする大正期新興美術運動と共存しながら深化していったことや、部分的に接点があったことは記憶しておかなくてはならない事実である村山と造型の岡本との論争はその一例である。さらに村山が「芸術至上主義的」と規定した単位三科も、プロレタリア美術と全く無関係ではなかった。たとえば野川隆は、「中央執行委員の命令に依つて[中略]宣伝ポスタアを措」 いたり、「『社会的実際運動』をやり、そのかたはら絵を描く」ことが「無産階級芸術家」であるとするのは「認識不足」から生じた「誤謬」であると批判している。このように説いたこと自体、野川にも「無産階級芸術家」というプロレタリア意識が内在したことを裏付けているのである。

 しかし造型や単位三科のような、三科解散後に分化して結成されたグループの何れもが、グループや当初の運動を持続させることが出来なかったことは、大正期新興美術運動がすでに終わりに近づいていたことを象徴している。その時期、時代は岡本や野川たちが意識に上らせていた、プロレタリア美術の季節を確実に迎えていたのである。