高田博厚(彫刻)

■高田博厚の人と芸術

仁科 惇

 高田博厚の全作品が落ちつくことになった信州安曇野、長野県南安曇郡豊科町は、わが国近代彫刻の確立者といえる禄山荻原守衛出身地穂高町に隣接する町である。

 禄山は20歳て郷里を離れ、以後1910年(明治43)32歳て没するまで、郷里で暮らすことはなかった。が、彼は片時も故郷を忘れることなく、というよりもまる7年間の海外生活をとおして、常に懐郷病にさいなまれ続けた。帰国後の東京生活においても、「彫刻て失敗したら田舎へ帰って百姓をするさ」といっていた。このことは、禄山が安曇野という風土で農夫として成長したことと深くかかわり、彼の「心の故郷」はそのまま心の拠り所でもあったわけである。

 その点、高田博厚の場合はどうであったのか。彼は石川児の七尾に生まれ、幼少年期を福井て過ごして上京、その後27年をパリを中心とするヨーロッパて暮らし晩年を鎌倉て送った。この間、生活の場として決定的な意味をもつのは壮年期を過ごしたヨーロッパてあり、彼の故郷意識は禄山と比すべくもない。故郷についていえば、彼はむしろボヘミアンであった。フランス時代をよく知る友人の朝吹三吉は、「世界のどこにいても平然と生さていけるような面魂があった」と記している。こういった事実は、高田博厚の「生」そのものや、思想、作品、その関係、そして美術史上の位置などを知るうえて、さわめて象徴的な意味をもっている。

 わが国彫刻界にあって、かつて高田博厚ほど徹底したヨーロッパ近代精神の具現者はなかった。彼のヨーロッパヘの関心は、むろんフランス在住時代に始まったわけてはない。注目すべさは、すてに幼年時代、敬慶なプロテスタントであった母親に導かれ、キリスト教の世界にかかわっていたことである。最晩年の高田自身が、「幼年時代、キリスト教の薫陶をうけていなかったら現在のわたしはないだろうと思う」(福田真一編、年譜)と語ったという。どのような意味あいでの述懐かはともかく、それがヨーロッパとの出合いてあったことは確かてある。同時に「18歳にして信仰を失った」(村上光彦)という事実もまた見逃せない。強烈な自我意識の覚醒とともに、キリスト教をも思想として理解しようとしていたことが検証される。

 18歳のこの年、1918年(大正7)は、高田にとっての重要な転機の年てあった。「哲学」か「美術」かの選択に揺れ動きながら、結局は「美術」への歩を踏み出したのである。それも二者択一というのてはなく、いわば美術は哲学をも抱摂するという直観があったとみてよい。宗教が思想となったと同じく、美術もまた思想として捉えられていたことがうかがえる。しかも、思索や享受より、より具体的な創造の道に進んだ点は運命的ですらある。この点、禄山が芸術の道を選び美術を自分の人生探究の手がかりとしようと考えたのと酷似している。

 この年の二つの出合いが、高田のこういった歩みを促した。高村光太郎と、白樺美術展におけるロダンの作(「ロダン夫人」)との出会いてある。高村光太郎は、高田、禄山の二人に共通の、生涯の友であった。禄山が亡くなった時、高田はまた10歳であったから、二人は直接出会うことはなかったが、光太郎を介して直結している。いずれも自己探究者として共通し、それ故に近代的てあり、光太郎はあらゆる意味て三者の中間的な存在といえる。しかも、横山、光太郎、高田といった流れは、それぞれの個性を越えて、近代の運命を跡づけるものとなっている。

 高田ガロダンの作に触発された時、ロダンはすでに禄山、光太郎によってほぼ紹介ずみてあった。高田の関心はさらに遡り、ヨーロッパ近代を生み出したイタリア・ルネッサンスに向けられ、美術家として最も興味深い巨人ミケランジェロにおよんていた。東京外国語学校でイタリア語を学んだ(1919・19歳~21歳退学する)が、その独自て旺盛な学習意欲はすさまじい。

 その最初の成果が、『白樺』誌上ての「ミケランジェロの書簡」の訳出であることは周知のとおりてある。次いでアスカニオ・コンディヴィの『ミケランジェロ伝』(岩波)の訳出であるが、両者はともに高田の晩年、1975年75歳の折改訂されている。この改訂版の序−ルネッサンス考察・・・は、高田自身「75歳になったいま、青年時代より少しはましなものがある筈」として詳しく論じている。ルネッサンスとミケランジェロは、高田のヨーロッパ理解の出発点であり、その生と作品を理解するうえでのひとつの鍵ともいえるものてある。

 それを要約すると、一般にヨーロッパ精神の形成は、ギリシアと中世キリスト教という二つの異質な世界の対立として捉えられがちてあるが、そうではなく、ルネッサンスは「ギリシア思想に洗礼されたキリスト教精神」と見るべきで、そこに新しい理想主義、新しい「人間意識」が生じたという。その「人間意識」とは「神の観念を包摂する人間」という意識てあり、神と人間の関係は、「自我はひとり」だから「神は唯一」に「帰納」し、しかも両者は「照応」関係にあるのだという。こういった論理はともかく、ここにはあくまても人間を主体とする神・人の逆転力であり、その意味において高田のルネッサンス観に誤りはない。また、ミケランジェロについては、「自分の中にさまざまな性状を含んている人間が、その芸術行為によって自我存在を徐々に一元化していった、おどろくべき創造の最高の例」というのである。さらに簡潔に、「(彼は)芸術行為によって、自我を至高の場に高めた」ともいっている。しかもミケランジェロは悲劇的存在てあり、弱い人間てあった。「生」に疲れ、俗世にあっては厭世家てあった。愛にも救いはなく、ヴィットリア・コロンナとの交情も「美しい友情」にすぎず、ついに独身てあった。結局のところ、彼は「神」に救いを求めざるをえなかったのだ、と。ミケランジェロに関する高田の認識にも間違いはない。とすれば、高田は楽天的な芸術至上主義者かというと、むろんそうてはない。彼は「芸術は永遠の未完」てあることを知っている。ミケランジエロの絶作「ロンダニーニのピエタ」には、ただ「無限の空間」があるばかりて、芸術が永遠の未完てある証の教訓だといっている。

 芸術が永遠の未完であることを知りながら、なお芸術に固執せざるをえない虚しさ。高田はその深い渕から出発せざるをえなかったのてある。彼のボヘミアンは、またその精神の、あるいは彼のいう「存在」のボヘミアンでもあった。渡仏後の彼が、大いなるヒューマニストロマン・ロランをはじめ、美術家てもルオー、ブールデルといったキリスト者に深く共感したのは、まさに迷える魂の嗅覚、彼自身によれば「精神の同一音」によるものであった。しかし、ルオーはルオー、高田はやはり高田てあり、「芸術は熱烈な告白だ」というルオーや、「自分を委ねきった世界てあり、放棄した世界ではない」(アラン)というルオー観との完全な合致はなかった。高田の世界に、ルオーのような意味での神の甦りではない。だから彼は孤独てあった。といって彼はそれをあからさまにしたり、ましてや誇りとするほど愚かでもなかった。

 禄山の作には「心の故郷」といった言葉を許容するものがあるが、高田の作にはそういった表現や発想そのものを拒絶するような厳しさがある。それは孤絶した魂と無縁ではないが、しかし絶望はしていない緊張した精神の形のもつ厳しさてある。彼の作った女体やそのトルソ、たとえば初期の「カテドラル」(1937)や帰国後の「海」(1962)など、それらはエロスを第一義的に感じさせはしない。それは彼にとっての「存在」の形式てある」、あくまで「人間精神の面影(イマージュ)」てあった。

 彼は人間に絶望はしていない。でなくてなんであんなに多くの人間像を生み出すことがてきようか。禄山はすでに「愛は芸術だ」といっている。それはそのまま人間にとっての至高の価値であることを、彼は相馬黒光との不毛の恋をとおして獲得したのである。資質の問題もあろう力が、いわば女性的、母なるもの大地への憧れといった近代の観念、あるいは信仰の表白がある。それに対して、高田はいう。「人間は孤独だから愛するのです」と。ここには素裸の男が、神の愛(アガペ)も人の愛(エロス)もなく、いわばゼロからその「存在」を確かめようとする響きがある

 高田博厚が一貫して求めたもの、それは「存在」の確かさであった。それはあらかじめ在るものではない。といって東洋的な無とか、西田哲学の「絶対無」てもないと高田はいう。ただそれを見出すために、自分の中に「存在」を求め、他者の中に「在る」姿を求めたのてある。「存在はさまざまに語られるもの」(アリストテレス)であった。すべては成ることによって在るのてある。何者かはさておき、何かがあることを信じて生きる。それはやはり主体的ではあるが自我に固執してはえられない実存の世界てある。

 晩年の高田の作には、心なしか対象のリアリティの深まりを感ずる。誰彼を問わず人間が生きている。そこに誰かがいて、何かがある。それをなんと名づけたらいいのだろう。やはり愛なのか、観念ではない愛そのものか。高田は1966年に再婚した。作風の深まりはそれと無関係とは思われないが、それをいう資格は私にはない。また高田自身、孤独地獄の多くを語らなかったように、声高に愛について語りはしないてあろう。

 ニーチエの死んだ1900年、まさにその年に生まれた高田博厚は、あたかもその生まれ変わりであるかのように、神なき時代の孤独に挑戦した。決して完成することのない道と知ればこそ、芸術に賭けて「生存の完成」(ニーチエ)に邁進した