栄螺堂

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 栄螺堂(さざえどう、さざいどう)は、江戸時代後期の東北~関東地方に見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂」、「サザエ堂」などと呼ばれる。

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旧正宗寺三匝堂(会津さざえ堂)

■会津さざえ堂

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 二重らせん構造の斜路をもつ特異な建物として知られる。福島県会津若松市の白虎隊の墓所のある飯盛山の中腹に建つ。通称は「会津さざえ堂」もしくは単に「さざえ堂」で、正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)という。平面六角形の特異な建物である。概ね三層構造といえるが、内部には二重らせん構造の斜路が続き、右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に存在する。入口から斜路を最上階まで上り、他者とすれ違うことなく、別の斜路を降りて出口から出ることができる。

■栄螺堂建築図面(日本大学理工学部建築史研究室参照)

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 かつてこの地にあった正宗寺の仏堂として、江戸時代後期の寛政8年(1796年)(『新編会津風土記』による)に当時の住職であった郁堂(いくどう)が建立したものである。当時は阿弥陀如来を本尊とし、斜路には三十三観音像が安置されていたという。神仏混交の信仰形態をもっていた正宗寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、以後、栄螺堂は個人の所有となっている。また、堂内にあった三十三観音像は他所へ移され、代わりに「皇朝二十四孝」の額が取りつけられている。

 同名の堂は他所にもあるが、旧正宗寺三匝堂のような特異な内部構造をもった堂は他に知られず、稀有な例として1995年6月27日付けで国の重要文化財に指定された。なお、二重らせん構造を有する近代以前の建築物としては、世界では他にフランス、ロワール地方のシャンボール城内部にある、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計による二重螺旋階段が知られている。レオナルドのアイデアが蘭書に掲載され、めぐりめぐって会津地方まで伝わったのではないかという説もあるが、物証は無く定かではない。

■交通アクセス

所在地 福島県会津若松市一箕町八幡弁天下1404 (地図)


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■参照

 現三匝堂(さざえ堂)、弁財天、飯盛本家の付近一帯は正宗寺境内であった。正宗寺辨財天の創建は永徳年中(1381-83)石塚、石部、堂家の3家が辨財天を勧請し社殿を建立したのが始まりと伝える。所在する飯盛山を辯天山と称するのはこの謂いである。

 ※現在では、明治の神仏分離の処置で、正宗寺は廃寺、正宗寺辨財天は厳島神社と改号され、
別当が正宗寺であったという解釈が流布している。
国家神道から見れば、正宗寺は辨財天社別当という見方をするのであろうが、
実態は辨財天社を本堂・辨財天を本尊とする正宗寺と号する寺院があったということと思われる。
元禄13年(1700)会津藩三代藩主松平正容は寺領(辨天山周辺の580間)や仏像を寄進、社殿の造営・鳥居(現存)・仁王門・青銅製大仏・宇賀神堂などを建立する。
寛政8年(1793)郁堂禅師、三匝堂建立。本尊は阿弥陀如来であり、斜路には33観音像を安置するという。
※郁堂禅師は正宗寺の本寺であった馬場五之町実相寺の住職であった。禅師の生地や場所は記録を失い不明であるも、当時は正宗寺兼帯であったと伝える。
郁堂禅師彫像:三匝堂入口正面に安置されるのが禅師の彫像との説明である。

明治初頭の神仏分離の処置で、当時の正宗寺住職宗潤が還俗、飯盛正隆と改名、正宗寺は廃寺、弁財天社は厳島神社として改竄され、宗潤養子正信が厳島神社神職となる。。
本尊阿弥陀仏、三匝堂三十三観音像は恐らく廃棄、庭前の唐金大仏(一丈六尺)は七日町阿弥陀寺に遷座する。
正宗寺境内地・堂宇は、幸いにも、飯盛家の努力により、飯盛山の土地は新政府から地券により購入、三匝堂、宇賀神堂は本宅の付属の建物として、境内は宅地として所有管理することとなる。但し、厳島神社は郷社となり、村役場の管理つまり国家神道の管理となる。
※飯盛家本宅は「旧飯盛山正宗寺そのものであり」というから現存する。また「さざえ堂より50年ほど古い」ともいう。
※唐金大仏は七日町阿弥陀寺に遷座したのは確実と思われる。それは写真が現存するからである。
但し、大仏そのものは今次大戦の金属供出で供出され現存しない。
※仁王門の消息は不明、恐らくは棄却されたものと思われる。
その位置も不明であるが、現在の地形から飯盛家本宅の東にあったものと思われる。
※本尊阿弥陀仏、三匝堂三十三観音像の消息は不明である。

■三匝堂の履歴は以下のとおり。

 明治23年、三匝堂大修理(会津有志による)、同時に白虎隊十九士像を祀る。
明治37年、白虎隊十九士像を撤去、「皇朝二十四孝」絵額を掲げる。
※撤去十九士像は宇賀神堂(現存)に合祀。
大正4年、屋根葺替、昭和七年、杮葺屋根の上に銅板を施工。
昭和28年、傾斜の引起し工事施工。
昭和50年、屋根大修理、平成6年擬宝殊落下事故・復旧。平成7年、重文指定。
三匝堂以外に以下の正宗寺遺構が残る。
会津正宗寺弁財天:春日造、屋根銅板葺。
会津正宗寺宇賀神堂:寛文年間(1661-)会津藩三代藩主松平正容が宇賀神を勧請し弁財天像を 祀る。
桁行3間、梁間2間、入母屋、銅板葺。白虎隊十九士像を祀る。
会津正宗寺地蔵堂:地蔵堂が正宗寺遺構はどうかは未確認、地蔵堂の向かって左奥に写るのが飯盛家本宅
つまり、正宗寺坊舎であろう。
会津正宗寺坊舎:上記写真から正宗寺坊舎を切り取りしたもの。