みちのくの仏像

表紙001 002 003 004 005 006 00724薬師如来座像黒石寺岩手県奥州市

■仏都・会津を代表する古別の仏たち

 勝常寺のある湯川村は、会津盆地のほぼ中央に位置し、遠く磐梯山を望むことができる。盆地を南北に流れる阿賀川と猪苗代湖より発する日橋川の合流する地点より、やや南に勝常寺は建つ。文化六年(一八〇九)に会津藩によって編纂された『新編会津風土記』によれば、大同年間(八〇六〜一〇)に空海が‥の地に来て、自ら薬師の像を刻み、盆地の東西南北と中央の五箇所に安置したという。中央が勝常寺薬師堂の薬師如来像であった。26-1

 では空海の開基となっているが、明治十二年(一八七九) の社寺明細帳などでは薬師堂は徳一の創立と伝えており、現在では慧日寺とともに徳一が九世紀初期に開いたと考えられている。

26 勝常寺についての古い記録は、ほとんどない。ようやく中世に遡る文書が散見される程度である。大永年間(一五二一〜二八)には、会津の領主であった蘆名(あしな)氏より寺領の寄進などがあったことが知られる。(若林)30283435

■会津、中通り、浜通り 三地域で発展した福島の仏教

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■会津五薬師の伝承

慧日寺金堂慧日寺金堂-1 慧日寺金堂-4 慧日寺金堂-3 慧日寺金堂

 文化六年(一人〇九)に編纂された『新編会津風土記』勝常寺薬師堂の条に、薬師如来は空海作とある。すなわち大同年中(八〇六〜一〇)に空海が会津の地に来て、自ら薬師像を刻み、勝地を選んで五箇所に安置したという。東に本寺村(慧日寺・現・磐梯町)、北に漆村(北山薬師又は峯の薬師とされる大正寺・現・北塩原村)、南に堤沢村(慈光寺 現・会津若松市門田町)、西に宇内村(上宇内薬師堂 調合寺 現・会津坂下町)で、中央が勝常寺薬師堂(現・湯川村)である。

 寛文十二年(一六七二)成立の『会津旧事雑考』の大同二年の条には、空海が磐梯山慧日寺を建て、その後に鎮護のために五薬師を五方に安置したとある。すなわち東に慧日寺、西に日光寺、北に大正寺、南に火玉堂寺、中央に勝常寺となっている。会津の領主である産名盛氏が築いた向羽黒山城の成立について述べた『巌館銘(がんかんめい)』は、勝常寺第十三世覚成が永禄十一年(一五六人)に記したもので、この中で五薬師への言及がある。空海が五薬師を道立安置したということは、他書と同じである。ここでは五箇寺を東方の磐梯山慧日寺、南方の火玉堂寺、西方の日光寺、北方の漆、中央の勝常寺としている。これは 『会津旧事雑記』 の記載と同じで、『新編会津風土記』の五薬師とは多少異なる。『新編会津風土記』では西に宇内村、南に堤沢村となっているが、『巌館銘』などでは西は日光寺で、南は火玉堂寺である。

 古くは『新編会津風土記』とは異なる薬師が、二箇所入っていることがわかる。さらに会津五薬師の記録では、現状では『巌館銘』がもっとも古く、中世の末頃には会津五薬師が成立していたと考えられる。諸書では五薬師を大同年中の創建としているが、これは伝承に過ぎないであろう。しかし『新編会津風土記』 の五薬師のうち、上宇内薬師堂像は十世紀、勝常寺像は九世紀初期の造立と考えられ、慧日寺は寺の跡を残すのみであるが、発掘調査などから九世紀の創建とみられている。平安時代前期に遡る遺品や遺跡が、五薬師中三件もある。会津五薬師を単なる伝承と片付けることはできないであろう。会津の仏教、仏像の歴史の深さを物語るものといえるであろう。さらに鎮護のために中央と東西南北の四方に安置したということは、会津盆地の広大さ、一国としての独立性を反映しているものと考えられ、このような土地柄が中世末期に五薬師を成立させたともいえる。(若林)

■会津での布教につとめた徳一上人の足跡

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 元亨(げんこう)二年(一三二二)、臨済宗の僧・虎閑師錬(こかんしれん)撰の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』などの徳一の伝記によれば、徳一ははじめ法相宗(はっそうしゆう)を興福寺の修円(しゅうえん)に学び、後には東大寺に任し、もっぱら法相宗を担い、天台宗を開いた最澄を論破したという。法相宗の徒は、これを称賛した。しかし奈良の都の僧侶の堕落を憎み、ついに東国への修行の旅に出て、会津に住むことになる。

 最澄との間で争われた三一権実論(さんいちごんじつろん)は五年余の論争の後、弘仁十二年(八二一)に一応の終結をみたといわれる。最澄はこの中で多くの著述をあらわし、『守護国界章』のはじめには、「奥州含津麻溢和上」とあり、徳一が当時会津に任し論争していたことが知られる。また徳一の会津での活動や修行の内容については、真言宗を開いた空海が徳一に宛てた手紙によってうかがえる。この手紙は、『高野雑筆集』に収められているもので、弘仁六年(八一五)に会津にいる徳一に、密教経論の書写とそれを広めることへの助力を願ったものである。この中で空海は徳一を菩薩と称し、仏道修行のため都を離れ東国に向かい、徳一の大衆教化は到らないところはないといっている。弘仁六年の頃には、徳一の大衆教化も広く会津一円に及んでいたことが知られる。

 平安時代後期に成立した『今昔物語集』の、陸奥国の女人が地蔵の助けによってよみがえつたという話があるが、その冒頭に、〝慧日寺は徳一菩薩の建てた寺″とある。慧日寺は磐梯山の峰続きの古城峰の麓に位置し、現在では跡のみをとどめているが、最近、金堂と中門が復元された。寛治三年(一〇八九)の編纂という『弘法大師行状集記』は弘法大師の伝記であるが、ここでは慧日寺は空海が建て、徳一に後を託したとある。寛治の頃には慧日寺は真言宗化してしまったものであろう。慧日寺の縁起では、弘法大師の創建としている。

 徳一が会津で活動していた頃、九世紀初期の遺品は現在、勝常寺に伝えられている。薬師堂の本尊である薬師如来及び日光・月光菩薩立像、四天王立像の諸像は、勝常寺創建期の安置仏と考えられる。中尊薬師如来坐像の堂々とした量感、両脇侍像の伸びのある造形は、都に匹敵する完成されたすがたを示す。これらの像の造立は、徳一の指導がなければ成し遂げることはできなかったものと思われる。徳一は奈良の地を離れ、東国、会津の地に仏道修行にふさわしい清浄な地を求めた。会津こそ、徳一にとっては理想の仏の都であったのであろう。(若林)

■鎮守府に通じる要所を守る古剃

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黒石寺<こくせきじ>(岩手県奥州市)

 黒石寺は北上平野の鎮守府胆沢城から、南東方面、産金地の東磐井、気仙地方への道筋にあり、天平元年(七二九)行基の開基伝説を持つ古剃。当初東光山薬師寺と称し、坂上田村麻呂が再建、嘉祥二年(八四九)慈覚大師円仁が妙見山黒石寺と改号したと伝える。

 本尊薬師如来坐像が造顕された貞観四年(八六二)は、胆沢城造営六十年の還暦に当たり、同年六月には近くの北上川河畔に鎮座する「鎮守府内右手堰(い)神」が「官社」になっている。黒石寺も鎮守府胆沢城の再強化策の一環として、奥六郡の安泰を願って整備されたのであろう。

 厳寒の旧一月七日夜から翌暁にかけての蘇民祭(そみんさい)は、災厄消除・五穀豊穣の願いをかけて蘇民袋を争奪する勇壮な裸祭りとして全国的に有名である。

 現在の薬師堂(本堂)は、明治十九年(一八八六)の再建だが、蘇民袋争奪のため外陣前面を吹き放ちとした独特の密教仏堂で、右手の壁塀をめぐらした庫裡へと続く景観は、古剃の風情に満ちている。(大矢)414243444548505152

■一木造の仏像にみる信仰のかたち

 双林寺薬師像は、目を見張るほどの大きいケヤキから手間暇を惜しまず彫り出されている。ここには単に製品を仕上げるというだけでは説明できない人間の営みがうかがわれる。

 仏像は尊いもので、その尊いものを制作する行為自体も尊いということだろう。さらに、その前提として、用材となったケヤキの巨木を掛け替えのない尊いものと見る観念もあったろう。尊い巨木を彫り進め徐々に姿をあらわす薬師像。別パーツとするのは最小限として、ほぼ全容が継ぎ目なく一材からなる。まさに巨木変じて仏となる、と言ったところだ。

 このような観念をよりわかりやすく示すのは双林寺薬師像より後代、平安時代中期以降にあらわれる、いわゆる「ナタ彫り像」である。像の表面にあるノミ目を、木から姿をあらわしつつあることを示す特別なサインと感じ取らせ、これにより用材となつた木の存在感を際立たせる仕掛けと言えよう。

 双林寺薬師像など平安時代前期の仏像にも、一材から制作されることに用材を尊ぶ観念が自ずと備わっているだろうが、後代のいわゆる「銘彫り像」のように、それが端的にはあらわれない。用材となつたケヤキの巨木は地元調達の可能性が高いもので、誤解を恐れずに言えば土地のシンボル、すなわち在地の信仰を担ったものだろう。では、在地の信仰とはなにか。それは神だろう。

 東北の一木造の仏像を理解する「物差し」の一つに、仏と神とのバランスがあると考える。在地の信仰を担った巨木、すなわち神によって仏があらわされるのだから、奇異に感じられるかもしれないが、東北の一木造の仏像はそもそも仏でもあり、神でもあるのだ。少なくとも平安時代にあっては、これが時々の社会状況や制作環境などの要因によって、どちらにシフトするか、あるいはバランスを保っているかという「振り幅」を見極めることが案外、重要と考える。

 双林寺薬師像のように律令政府の威信を背負った仏像が地元の巨木を用材とする際に、平安時代前期は政府と地元のパワーバランスの上で仏が優勢だったのではないか。律令体制が変質し、安倍氏や清原氏など東北の各地域を代表する勢力が台頭した平安時代中期になると、いわゆる「鈍彫り像」が出現する。在地の信仰、神への信仰に前代よりシフトした結果だろう。これ以後も古代においては、東北で一木造の仏像が制作される際には、多かれ少なかれこの傾向が見受けられるようだ。

 ただし、双林寺薬師像には後代の信仰の萌芽となるものが文字どおり見えない場所、すなわち像底にある、と見る。本像の像底は凹面状に浅く彫りくぼめられている。これは接地面を少なくすることで湿気が上がってくるのを防ぐなどの効果を期待しての仕事であるが、ここに見られる荒い 「はつり痕」は本像の仕上げのなかで唯一、感覚が異なるものだ。見えない場所だから手を抜いたと言うには、見える場所とのニュアンスがあまりに違う。このような仕上げの記憶が、それは他像に見られる内到り面の荒い仕上げも含めて、在地の信仰が相対的に高まった時に顕在化するように思われる。また、持国天像の正面奥、風になびいて後方に流れるスカートのような着衣に控えめながらノミ目がみられること、二天像の邪鬼が概略のみの表現に止まることは、仏像への信仰と用材への信仰との兼ね合いを考える上で興味深い。守護神は天部といい、如来より下位に当たる。下位の天部にあっては用材、すなわち神への信仰が如来よりも強く表出したのではなかろうか。(政次)

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■大蔵寺の一木彫像群

 大蔵寺は福島市小倉寺(旧信夫郡)の小倉寺山の中腹にある。もっとも高い場所に収蔵庫、その下に奥之院から観音堂へと続く。ここに合計二十八躯の仏像が伝えられているが、大半は大きく破損している。

 元文二年(一七三七)序の『信連風土雑記』の当寺の縁起によれば、千手観音の大殿は大同年間(八〇六〜一〇)坂上田村麻呂の草創と伝える。田村麻呂将軍が悪路王征伐のとき、苦戦を強いられる。ある日、千手観音の擁護を祈ると、霊応があり、平定することができた。そこで将軍は舟岡権僧正に命じて、霊地を選び大殿及び仏像を造建させることにした。権僧正は信夫郡の山中に霊木を得て、仏工に彫刻させ、時を経ずして大小の尊像が千躯となり、伐った霊木の下に殿堂を建立し、これらの尊像を安置したという。 この縁起からもわかるように、現存する二十八躯の尊像の中心となるのが、収蔵庫安置の千手観音菩薩立像である。像高が三九八・四Cmともっとも大きい。坐像が一躯あり、他はすべて立像で、現状像高が一四〇〜五〇㎝前後のものがもっとも多い。

 尊像の種類では如来形、菩薩形、天部形の、大きく三種に分けられるが、破損が激しく詳しい尊名のわかるものは少ない。菩薩形では千手観音一握、聖観音一握、十一面観音一姫、地蔵二躯で、天部形では四天王六躯、金剛力士一躯、帝釈天と吉祥天が各一姫である。他に天部形では、兜抜昆沙門天とみられる像が一姫ある。

 すべて頭体の像の中心部を一材より彫出する一木造で、帝釈天のように両袖先まで一材より彫出する像や、四天王の一躯のように腰にあてた左手の指先まで本体より彫出する像もある。これらの像の材質はケヤキとカヤが大半を占める。顔に節のある材、東部から左肩に節が通り、そのためそこから折れてしまった材など、像の中心部に節などのある材が頓着なく用いられている。これは縁起にもあるように、霊木をもって彫出したことを示唆するものと考えられる。

 また量感があり、衣の襞などの彫り込みの深い像から、次第に量感を減らし、彫りの浅く、動きのおとなしい像まで造形にはかなりの差がある。これは各像の造立年代の相違をあらわしており、平安時代でも前期から末期にわたり幅広く分布している。平安時代の二十八躯の仏像の技法や造形には、みちのくの仏像の本質が内在しているように思われる。(若林)

■錐彫仏の魅力 

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 天台寺の本尊聖観音菩薩立像には、身体部にノミによる横縞模様が施されている。このようにノミ痕を残して仕上げとする技法を「鉈彫(なたぼり)」と呼んでいる。銘で彫っているわけではないが、鉈で一気に彫り上げた江戸期の円空の仏に雰囲気が似かよっていることから、銘彫と呼ばれるようになった。

 ノミ痕には丸ノミの他に平ノミ痕もあり、その程度もまちまちだが、意図的にノミ痕を施して仕上げとしたと認められる銘彫仏は、関東や東北地方を中心とする東日本で数十体ほど確認されている。彫刻の際、概略を彫り上げる荒彫りから平滑にしてゆくが、その段階と紛らわしく、以前は未完成仏とみる説も強かった。しかし、天台寺像の背面は平滑に仕上げているが、前面には端正な横縞模様のノミ痕を表していることから、意識的な意匠であることが明らかになった。87

 鉈彫は、何を表現しているのだろうか。鉈彫仏に共通しているのは、一木造、素木(しらき)仕上げで、木そのものへの信仰である自然の中にカミを見るのは、古来の日本人の素朴な信仰である。樹木の持つしなやかな強さと暖かさ、癒しと心地よさへの親近感と信頼感、恵みへの感謝、それが素朴なカミ観念となり、霊木信仰となる。その霊木からカミが仏の姿をかりて現れる。銘彫仏とは、その現れつつある「霊木化現(けげん)仏」という考え方が、ほぼ定説となつている。85会津

 日本のカミは地域や祀る一族との結びつきが強く、個別的性格を持つが、仏教の仏にはどの世界にも通じる普遍性がある。神仏習合とはその互いの特質を補い合うことだった。カミは観音と一体になることで他所のカミガミとのつながりができ、観音はカミと結びつくことで地域へ根ざしていった。88

 みちのくに鉈彫仏が多いのは、仏がカミとして拝まれる本来の信仰の形が温存されているからだろう。銘彫仏の魅力とは、古来の霊木信仰が無意識によみがえり、都ぶりの名品には見られない親近感やあたたかさがあるからだろう。(大矢)

■毘沙門天と兜抜毘沙門天

 毘沙門天とは、仏土を守護する四天王のうち北方鎮護の多聞天のことで、サンスクリット(インドの聖典の言葉)のヴァイシュラヴァナの意訳が多聞天、音訳が昆沙門天であり、四天王のときは多聞天、独尊で祀られるときは毘沙門天とされることが多い。

 東北地方における早い例としては、勝常寺、黒石寺、双林寺の「みちのく三薬師」守護の四天王像があり、独尊では立石寺像がある。立石寺像は黒石寺、双林寺像より早く、その着衣様式が影響を与えたという説がある。

 岩手には著名な平安前期・中期の兜跋(とばつ)毘沙門天像が二体祀られている。成島毘沙門堂(花巻市)の巨像と藤里毘沙門堂(奥州市)の鉈彫り像である89

「兜跋」とは唐時代に西域を広く支配した吐蕃<とばん>(チベット)のこととされ、いわば西域様式の昆沙門天のことである。その特色は、地天(じてん)と呼ばれる地母神の手のひらの上に立つことで、西域安西城が敵に包囲されたとき、地天が地中から毘沙門天を湧出させて敵を撃退した、という伝説により、中国で成立した形式という。わが国では唐からの請来像が平安京羅城門に安置(現在教王護国寺安置)されて以来、各地に祀られた。

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 岩手県には、毘沙門天が数多く祀られている。極楽寺の北谷と伝えられる立花毘沙門堂の毘沙門天立像も見逃せない。岩手に多い理由としては、北方鎮護という神格と同時に、坂上田村麻呂との関連が大きいと思われる。田村麻呂は、「北天の化現(毘沙門天の化身)」(陸奥話記)としてみちのくでも英雄となり、その子孫は曾孫に至るまで鎮守府・陸奥国の高官として特に岩手に関わりを持っていた。注目されるのは藤里毘沙門堂の兜跋像で、その像高は田村麻呂の身長(五尺八寸、約一七六Cm)と同じである。同寸の毘沙門像は他に田村麻呂が崇敬した京都鞍馬寺本尊毘沙門天ただ一体、しかも両像とも材としては珍しいトチであり、両者とも田村麻呂の化身として祀られたのではなかろうか。(大矢)91

■熊野信仰と東北

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 高橋充

 福島県喜多方市には、「長床」という名で、地元に親しまれている新宮熊野神社がある。「熊野神社長床」(重文)は、南北九間(約二十七m)・東西四間(約十二m)の規模を誇る巨大な拝殿で、紅葉のシーズンには、ひと際美しい姿を、訪れる人びとに見せてくれる。

 新宮熊野神社には、六躯の神像が大切に伝えられてきた。「熊野神社御神像」(県重文)は、長床より一段高い山裾に並んで建つ三棟の本殿に安置されている。その成立は古く、平安時代後期、十一世紀後半にまで遡るという。長床は、神像よりはやや新しく、十二世紀になって建造されたと推定されている。

 紀伊熊野を起源とする能州野信仰は、平安時代後期には都の天皇・公家の間で盛んになり、さらに東北地方を含む列島の諸地域に波及していった。東北地方の熊野信仰といえば、平泉(岩手県)や名取(宮城県)などが有名だが、それだけではなかった。二〇〇六年、東北歴史博物館と秋田県立博物館との共同で開催された「熊野信仰と東北」展は、起源の古い熊野信仰の事例が、東北各地にあることを、あらためて教えてくれた。

 西日本に起源をもつ熊野信仰の拠点が陸奥会津に生まれ、消えずに続いた歴史的な背景は何だったのだろう。まず、十二世紀の会津に、京都の権門(けんもん)を領主とする庄園が成立していたことは無視できない。阿賀川をはさんで新宮熊野の対岸に広がる蜷河庄(にながわのしょう)は、摂関家領の庄園であった。当時の中央政権の一翼を担っていた摂関家(藤原氏)は、全国に庄園をもつようになる。会津は、とくに越後(新潟県)方面から北の奥羽へ向かう山間部の交通上の要地であったため、京都の権門からも注目されていたのであろう。そして、都と庄園現地との間の人や物の交流の中で、能野信仰を含めた宗教や文化も伝えられたと考えられる。

 また、桓武平氏の流れをくみ、源平合戦の頃に活躍した城氏という武士の勢力が、越後を本拠としながら、会津にまで及んでいたことも無関係ではないだろう、城氏一族の中には、京都の院や摂関家に仕え、実際に紀伊能野参詣に随行した者もいた。このように中央の政治的なつながりを保ちながら、地域にも拠点を構えるような武士の勢力が、新宮能野に対する信仰を、その後も支えてゆくようになる。鎌倉時代末期から南北朝期には、鎌倉幕府の御家人で会津に所領を得た三浦佐原氏一族の武士が、新宮熊野に宝器などを奉納しまた近くに城館を築いて新宮氏を称するようになった。新宮氏の城跡は、新宮熊野神社に隣接し、現在は国史跡「会津新宮城跡」となっている。

 新宮熊野に対する信仰は、時代とともに、さらにその裾野を広げていった。今から四百年前、慶長十六年(一六一一)八月、会津に大地震が起きた際、長床の建物も被災したが、三年後には再建されている。『新宮雑葉(ざつよう)記』という地元の江戸時代の記録が引用する再建の際の棟札(むなふで)の銘文には、当時の会津藩主蒲生忠郷や重臣たちが登場するが、なく近隣の村の給人や工や鍛冶など職人たちも列記されている。また落成供養の仏事は、近隣の勝常寺の僧侶を招いて社僧たちが執り行い、会津各地から参詣する人々は跡を絶たなかったという。この地に神像が祀られてから数世紀を経るなかで、この頃には、熊野信仰のシンボルとしての長床の存在は、武士ばかりでなく、広く会津に暮らす人びとにとって馴染みの深いものになっていたのである。(福島県立博物館学芸員・高橋 充)map00140141145

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 慈恩寺が所在する寒河江市はかつて「寒河江庄」が立てられており、『殿暦』天仁二年(二〇九)九月六日条からその領主は藤原忠実であったことが知られる。開基については慈恩寺の本尊弥勒菩薩坐像の胎内納入経の一つの奥書に永仁六年(二一九八)九月の年紀と「鳥羽皇帝御願慈恩寺」という文言が見え、鎌倉時代後期には慈恩寺は鳥羽天皇の御願いレ寺とされていたことが知られるが、後世の縁起類では天仁元年(一一〇八)に鳥羽上皇の勅願により再興されたとし、その造寺は平泉の藤原基衡があたったとする。

 これについては『台記』仁平三年(一一五三)九月十四日条に出羽の摂関家領荘園のうちの五力荘(寒河江荘は兄忠通領)を譲渡された藤原頼長が藤原基衡に年貢増徴を要求したとあるので、出羽は基衡の管理下にあったということになり、造営に関してはその関与ひいては仏像遺品の優秀さを考え合わせると平泉仏教の影響によるものと思われる。鎌倉時代には寒河江庄の地頭に政所別当大江広元が任じられ、以後大江氏に管理されることになる。結果、慈恩寺には真言宗、真言律宗、禅宗など鎌倉で行われていた新たな仏教文化が流入することになった。

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