日本初の山岳気象観測所

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 明治8年(1875)、東京気象台が創設され、近代的な気象観測が始まった。当時、高層の気象観測は未知の分野だったが、その草分けが筑波山観測所での気象観測であった。観測所は山階宮菊麿(やましなのみやきくまろ)によって創立された。菊麿はドイツ海軍へ留学した際、気象に興味をもった。帰国後、自宅で気象観測を続けたが、やがてみずから観測所を建て日本の気象観測に貢献したいと考えるようになった。そのようななか、東京気象台から高層気象観測の重要性の助言を受け、筑波山に観測所の建設を決めたのである。山階宮家は、家督を継いだ武彦が民間航空事業の助成に努め、弟芳麿が山階鳥類研究所を創設するなど、先駆的な業績をもつ宮家である。

 明治34年3月、5月と測候所の建設場所を調査し、6月には初代観測所長として大分測候所から佐藤順一を招き、建物・観測鉄塔の設計を始めた。特に風に対して注意を払い、外国の文献を参考にして風速120mに耐えるように設計された。

 明治34年12月、自費による測候所が完成した。5m四方ほどの平屋建てで、建物全体はトタン板で覆ってあった。鉄塔の高さは約10m、上部に風向計、風速計、寒暖計、気圧計などが取り付けられ、男体山頂の海抜870mの観測点での観測が可能になった。この時、山の中腹にある筑波山神社脇の海抜240m地点にも観測点が置かれた。のち同38年、麓の海抜30mの八幡丘にも観測所が建てられた。

 明治35年1月1日に開所式を行ない、「山階宮筑波山観測所」は日本初めての山岳気象観測を開始した。この年9月28日、筑波山観測所を有名にした記録が観測された。発達した台風が房総南端から群馬、新潟と通過した。所長が観測所に到着した時、風速計は猛烈な勢いで回転し、午前10時過ぎに壊れてしまった。記録紙を分析すると毎秒72・1m、日本最大の風速新記録であった。

 山階宮菊麿は、変化の激しい山頂の風向きを正しく観測するための風信車(ふうしんしゃ)の設置に熱心だったが、自宅庭でのテスト中に病死する。遺族はこの器具を筑波山神社に寄付し、神社は登山口に偉業を偲んで「故山階宮御遺愛風信車」の石碑を建て、風信幸を取り付けて保存した。

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 また、遺族は観測所の経営に迷い、施設のすべてを国に寄付し、同観測所は明治24年4月から「中央気象台付属筑波山観測所」となり、全国の気象観測綱の一翼を担っていく。関東地域に独立峰としてそそりたつ筑波山の観測結果は、以後の気象予報や観測に大きく貢献した。山頂観測所は昭和4年(1929)に鉄筋コンクリート三階建てに改築された。

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 その後、同32年に水利水害対策の無線中継所設置、同42年に航空安全用の中継局開設、同49年に気象衛星の中継局が設置されている。

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 しかし昭和51年、アメダス機能が導入されると人力の観測は必要なくなり、観測所は通信回線の中継業務局となり、気象庁筑波通信所と改称された。平成13年(2001)、技術の進展で、山頂の気象観測所も廃止された。