長谷川等伯その正体

000■長谷川等伯の正体・・・絵仏師信春の作品とその造形

松嶋雅人

▶はじめに

 応仁の乱後、長く続いた戦国の世に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら天下の覇権を競望する静々たる武将が次々と登場した。

 多くの武将がしのぎを削ったこの時代には、軌を一にするように、狩野永徳、海北友松(かいほうゆうしょう)、雲谷等顔(うんこくとうがん)ら巨匠と呼ぶに相応しい数多くあらわれ、画壇においても熾烈な競合が繰り広げられた。そのような時代に長谷川等伯は生まれ、絵筆によって一閃を放った。

 等伯は能登七尾(現在の石川県七尾市)に生を享け、はじめ信春と名乗り、絵仏師として寺院の仏事に掛けられる仏教絵画−仏画を描いていた。やがて三十歳代になって能登から上洛し、絵師として本格的に活動しはじめた。等伯がたどったその道程は、順風満帆(じゅんぷう-まんぱん・物事がすべて順調に進行する)なものではなかった。当初は長く厳しい雌伏(しふく将来に活躍の日を期しながら、他の下に屈従すること)の時代が続いたようだ。後に等伯最大のライバルとなる狩野永徳は、室町時代から連綿と続く絵師の名門・狩野一族の御曹子として、幼いころから英才教育を受け、画壇に磐石の地盤を築いていた。それに比べると、等伯は地方から出てきた一介の絵師であり、京都では何の足がかりもなかった。名門の出でもなく、確かな後ろ盾があったわけでもない等伯が後に天下人・秀吉にとり立てられ、一躍、永徳をも凌ぎ「天下画工の長」へと昇りつめたのである。一代で築き上げたその地位はまさに絵筆で成しとげた下克上だといえよう。そこに至るまでの数々のエピソードで飾られた等伯の波乱万丈の人生は、現代においでも人々をひきつけて止まない。

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 等伯の代表作品のひとつ「松林図屏風」(上作品)は、モノクロームの世界に無限の情感を託した墨の表現の極致ともいえる水墨画である。もうひとつの代表作である智積院障壁画「楓図壁貼付」(上作品) は金箔と鮮やかな色彩で描かれた金碧障壁画である。墨と金碧という二つの色彩世界の対極的な画風を示すこれらの作品以外にも、仏画、肖像画、山水花鳥画など、幅広い画題に挑み続けた画業は、じつに多面的な輝きを放っている。同時に、絵の前に立つ者に対して謎めいた神秘性さえ投げかけてくる。

 このような多面性をみせる等伯とは、いったいどのような絵師であったのか。等伯の画業に関する研究が進展してきた現在に至っても、その全体像については、十分に明らかにされていないといえる。そこで本稿では、等伯という謎多き絵師の正体を見極めるひとつの手立てとして、等伯が生涯にわたって『法華経』の篤い信仰者であったことに焦点をあててみたい。等伯の信仰がどのように反映されているのかを考えながら彼の作品に迫ってみようと思う。そこでは、信春時代にあらわされた造形の意味を考えることによって、生涯を通じ、さまざまな絵を描いた等伯が、画壇でゆるぎない地位を築くまでに至っても、仏画を描いて活動していたころに培った、絵師としての技を生かそうとしていることが明らかにできるだろう。

▶七字を護(まも)る絵師−信仰の造形 

 等伯は、『長谷川家系譜』(仲家)によれば天文八年(一五三九)、七尾の地に能登畠山氏の家臣奥村文之丞宗道の子として生まれた。幼いころに染物業を営む縁戚の奥村文次という人物を通じて、同じく染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたという。

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 等伯の生家奥村家の菩提寺は本延寺という日蓮宗寺院であり、養子に入った長谷川家の菩提寺も、長寿寺という日蓮宗寺院であった。生家、養家ともに法華経を篤く信仰した法華衆であり、等伯自身も法華信者であった。等伯はおそらく四十歳半ばまで、信春という名で活動していたと思われるが、その頃に使用しでいた「信春」印が捺された作品が現在、富山、新潟など、能登を中心とした北陸地方に十数点残されている。その多くは法華宗寺院から注文を受けて制作されたものであって、仏事にあたって掛けられ祀られた仏画であった。左にそれらの寺院に伝わる法華信仰に関わる作例をあげてみよう。

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■大法寺・富山(高岡市)

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①釈迦多宝如来像(作品3)永禄七年(一五六四)

②鬼子母神十羅剰女像(作品4)永禄七年

③日蓮聖人像(作品5)永禄七年

④三十番神国(作品7)永禄九年(一五六六)

■本延寺・石川(七尾市) 

⑤日蓮聖人坐像彩色 (関連1)

■実相寺・石川(七尾市) 

⑥日蓮聖人像(作品6)永禄八年(一五六五)

■妙成寺・石川(羽咋市) 

⑦仏捏薬園(作品8)永禄十一年(一五六人) 

■妙伝寺・京都(京都市)  

⑧法華経本尊里奈羅図(作品9)永禄十一年 

■妙伝寺・富山(富山市)  

⑨鬼子母神十羅剃女像(作品10)元亀二年(一五七一) 

■本成寺・新潟(三条市)  

⑩鬼子母神十羅剰女傑(作品∥)

 このうち、「法華経本尊曳茶羅図」(上作品)はもとは富山の法華宗寺院の本顕寺で描かれたものである。また作品の伝来はわからないが、信春時代に描いた「善女龍王像」(下作品右)は、『法華経』 に基づくもので、成仏を願う女性の法華経信仰者のために描かれたものではないかといわれている。さらに「日乗上人像」(下作品左)といった僧侶の肖像画も、法華宗寺院からの依頼によって制作されたものである。

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 また大法寺に伝わる信春作品は、日恵上人という僧侶の依頼により制作されたものであり、その日恵という名は、「法華経本尊曼荼羅図」(上作品) にもあらわれている。さらに、「鬼子母神十羅剰女像」(上作品)富山・妙伝寺の日敬上人の依頼によるも(参考例)のであり、この人物は石川・妙成寺の日乗上人の肖像画制作にも関わっている。これらの制作に関わる事情は、日恵や日敬という法華宗の僧侶が、能登を中心とした北陸地方において『法華経』を広めるなかで、各寺院の什宝(じゅうほう・家宝として秘蔵する器物)を充実させるために等伯に仏画制作を依頼したと考えられている。このように等伯は、法華宗寺院とその信徒のなかに活動基盤を置いて仏画を専門的に描く絵仏師として活動していたのである。

 しかしながら等伯がいつごろから絵を描くことを生業としたのか明らかではない。現在知られている最初期の作例は、永禄七年(一五六四)二十六歳のときに描いた「釈迦多宝如来像」(上作品)などが数点ある。その完成度は極めて高く、すでに一人前の絵仏師として最前線で活動していたことがわかるもので、これ以前から、仏画制作に携わり、絵筆に習熟していたことは想像に難くない。では、等伯はいかにして、そうした画技を学んだのであろうか。等伯はおそらく養祖父、養父から絵の手ほどきを受けたのだろう。近年、彼らもまた絵を描いでいたとする見方が強まっている。

 まずは、養祖父の活動についてみてみよう。等伯は後年、上洛してから京都・本法寺の第十世住職の日通上人と深く交誼(こうぎ・心が通い合った交際)を結んだ。二人が絵について語りあった内容を上人が綴った『等伯画説』(下作品)の中に、義祖父・法淳と養父・宗清(法名道浄)の名が出てくる。次の一説は、養祖父・法淳の京都での出来事を、等伯が上人に語った部分である。

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一、能カ鳴鶴事、七条ノ道場二有之キ、慈照院ヲ御申ノ時、此鶴ヲ事外御称歎被成テ、今ヨリハ鶴不可書卜云々、此鶴ヲ等伯祖父ハ被見タリト、今ハ無之

 室町時代に唐物(書画)の鑑定や管理を行って、将軍足利義教、義政に仕えた能阿弥が鶴図を描き、それをみた義政が感歎したという内容で、等伯の養祖父は、その鶴の絵を時宗の七条道場(金光寺)において、目にする機会があったという。

 このことによって、養祖父が能登と京都を行き来して、名画を鑑賞できる立場にあり、富裕な階層であったことを想定できる。養祖父、養父の活動した時期は、能登をおさめた畠山家の第七代当主・義総(よしふさ・一四九一~一五四五)の時代で、七尾の地がもっとも栄えた時でもあった。京都からは文芸に秀でた公家たちが能登訪れ、文化的な水準が高まっていた。文化教養と経済的な豊かさを備えた養祖父から、等伯は名画についての教育を受けていたのであろう。さらにその養祖父が長谷川家の菩提寺、長寿寺の「仏涅槃図」を描いた「無分」という絵師であった可能性が指摘されている。同図は、等伯が描いた「仏涅槃図」(上作品)の手本となった作品だとされているが、『等伯画説』の画系図に「無文」という絵師の名が記されており近年、この「無文」と「無分」が同一人物とみなされ、無分こそが養祖父法淳の画名であると考えられるにいたっている。

 また養父宗清(法名道浄)については、大法寺に伝わる「釈迦多宝如来像」(上作品)「鬼子母神十羅刹女像」(上作品)「日蓮聖人像」(上作品)「道浄」の墨書があり「宗清」印が捺されている。等伯の落款印章とともにあらわれる養父の名前については、さまざまな意見が出ているが、等伯と養父との合作であるという見方もあげられている。さらに近年の研究では、来迎寺(石川・穴水町)の「仏涅槃図」や石川・田鶴浜の悦叟寺に伝わる「十六羅漢図」は宗清が描いた可能性があると指摘されている。等伯自身が日通に語った『等伯画説』の中では、絵師として養父「宗清」の名が記されている。これらのことより、等伯は養父から直接、絵を学んだとみることができよう。

 以上のことから、『画説』に記される「雪舟・等春・無文(養祖父・法淳)・・・宗清(養父・道浄)等伯」という画系の蓋然性は高まり、後年、等伯が自ら作品に記した「自雪舟五代」の落款の整合性も指摘されるにいたっている。このように、等伯の一族は絵仏師として仏画を描いた法華衆であった。等伯の生きた時代は、政治、経済、文化のさまざまな場面で、それまでの歴史から大きく変革していった時代であった。戦乱の世が長引くなかで、下の区別なく人々は何かに祈りを捧げていただろう。人々の心に法華宗がより広まった時代でもある。そのような時代のなかで、等伯は「南無妙法蓮華経」の七字の題目を唱える法華信仰を心の拠り所としながら、絵筆を握っていた。等伯は、同じ信仰を持った養祖父、養父に手ほどきを受けて、能登地方に数々の仏画作品を残したのである。

 しかし、この時代に『法華経』に帰依した絵師は等伯だけでなかった。等伯が終生、ライバルとしてみなしでいた狩野永徳とその一族もまた法華宗徒であり、京都・妙覚寺の檀越(だんおち・だんな)であった。彼らもまた法華宗寺院から依頼を受け作品を制作していた。しかし等伯ほど終生変わらず多くの作品を法華宗寺院のために描いた絵師はいない。等伯のように自らの信仰と画業の活動が密接であった絵師は、日本絵画史のなかでも特筆できることであろう。

魂魄(こんぱく)をとどめる極微(ごくみ)の世界

 等伯が描いた仏画をみると、その華麗な色彩に思わず息を呑む。しかし、その色調の鮮やかさ以上に、これら仏画にはさらに大きな特徴がある。それは画面にあらわされた仏たちが極めて細かく装飾されていることである。

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 宝塔の両脇に釈迦如来と多宝如来を配した「一塔両尊」という安置形式をとる。本図では二仏とその下方に描かれた四菩薩は、金色に輝く肉身を金泥の均質な線で輪郭づけられ、まばゆいほどに荘厳されている。さらに二仏の頭上に描かれた、宝冠もまた内部を極めて微小な金泥の線で飾り、宝冠から肩へ垂れる宝飾も、赤や線に区画をなして彩られている。

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 こうした金泥と色彩の細密な装飾は、「日蓮聖人像」(上作品左・中)では、衣服の紋様だけでなく、天蓋から垂れる装飾である理洛の玉にも施されている。高座机や前机に掛けられた卓布にみられる龍紋なども精警細かい。画面上部中央に「南無妙法蓮華経」と記した色紙形には、雲がたなびくなかに松と日、梅と月が描かれているが、それらをあらわす金泥の描線は麗しいほどに柔らかい。極めで狭い画面の中に描かれているその線は、筆の中のたった一本の毛で引かれたかのような極細の線なのである。これらの描写は、極めて狭い画面のなかに描かれているので、どれほど細い筆で線を引いたのか想像もできないほどである。等伯は、諸尊のあらゆる部分のひとつひとつをゆるがせにせず、緻密に描き込んでいるのである。

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 極小の世界に執着するこのような表現の特色は、信春時代に描かれた仏画以外の画題においてもみられる。等伯と同時代に生きた武将の肖像画とされる「伝名和長年像」(上作品)には、この特色が端的にあらわれている。像主の髭の一本一本から、画面右にある刀の拵(こしら)えや、小姓が差し出す天目台に乗せた茶碗の紋様まで細密な装飾がなされている。さらには像主の右手に持つ扇は、こしら金地の画面に墨梅図が描かれている。今回、作品解説においてはじめて指摘されることであるが、その絵には壷形印が捺されている。もちろん判が捺されたわけではなく、非常に小さな画面に印の形が極細の架線によっであらわされているのである。実際に画面をみても、その印をみつけることは難しいだろう。

 ここで、さらに付け加えておくべきことは、『長谷川家系譜』(仲家)にみられるように等伯の養家・長谷川家が染物屋を営んでいたと伝わることである。このことによって、信春時代の作品と同時代に盛行した「辻が花染」との関連が指摘されている。確かに着物の柄に秋草や小鳥などを筆で描いて装飾する「描き絵」の表現は、等伯の仏画にみられる繊細な線を彷彿させる。

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 信春時代の作品は極めて細かな装飾を丹念にあらわそうとする等伯の執念のようなものまで感じさせる。前掲した作例に加えて画面全体に筆を入れて構成する「三十番神図」(上作品中)や「仏捏磐図」(上作品右)、そして「法華経本尊曼荼羅図」(上作品)のような作例にも、等伯は同じ姿勢を示している。たとえば「三十番神図」では三十柱の神々すべての背景となる背障(屏風)に紅葉や猿猴といったさまざまな絵を描いているし、「仏涅槃図」では入滅する釈迦だけでなく諸衆の衣服を彩り豊かに着色し、その紋様を、細かな金泥で装飾している。集まった動物たちの体表の模様もすべて同じ緊張感をもって筆を入れている。

 さらに「法華本尊曼荼羅図」では多くの神仏が描かれているが、その諸神、諸仏各々にも、これまでみた仏画と同じく細かな装飾が施され、背景となる碁盤目にも丹念に筆を入れている。

 このような装飾表現から、等伯が生命をもって感情や意識を有する諸尊や人、動物たちーすなわち有情-だけを装飾で強調しようとしたのではなく、物質の最小単位である極微の小さな世界、さらには事物の装飾そのものーすなわち無情-にまで魂魄(こんぱく・霊魂)をとどめようとしているかのようにみてとれる。このことは等伯の描く仏画における最大の造形的特質であるといえよう      

▶奥行きを放下(ときはなつ)−やまと絵師・等伯

 画面を細かな描写で彩ることによって、等伯は極小の世界に魂を込めようとしたのであるが、同時にそれは『法華経』に説かれる光り輝く仏たちを画面上で荘厳しょうとしたともいえよう。さらに、等伯が仏画を描いていくなかで、培われたであろうもうひとつの造形的特質が画業全体に関わる特徴的な表現としてあらわれることとなった。その特徴とは等伯が画面空間のなかに奥行きを強くあらわそうとしない、ということにある。つまり等伯は、画面のなかで、事物(モティーフ)の前後の位置関係をあらわすことにこだわらないーすなわち放下(ほうげ・心身共に一物にも執着せず俗世を解脱(げだつ)すること)しているかのようにみてとれるのである。

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 信春時代に描いた「釈迦多宝如来像」(上作品左)や「鬼子母神十羅剃女傑」(上作品右)などでは諸尊が虚空に浮かんでいるようにみえる。背景描写がなく、仏が存在している具体的な場面状況を画面のなかで説明していないのである。ただ上位の仏が画面上部に配置され、それに従う諸尊や従者たちが下方に置かれている。等伯の描く仏画には無背景の作品が多いが、それは信仰を集める諸尊を描いた画像の前で、信者たちはその仏に対して祈るのであるから、仏そのものを強調するために必然的な表現ともいえよう。

 背景描写がなされた作例である「法華経本尊曼荼羅図」(上作品)では、画面全体に金泥で区画された緑の石畳地が引かれている。この背景は諸尊や神々が立っでいる床なのか、背後の壁なのか判然としない。あくまで神々を彩る装飾的効果を高めるものとなっている。

 このような造形的特質は、信春時代の作品のなかで仏画以外にもあらわれている。たとえば「伝名和長年像」(上作品)では、画面右に描かれた太刀の表現に端的に見出せる。像主の脇に太刀を寝かせているともみえるが、素襖の袖に太刀の一部分がかかっているために刀懸(かたなかけ)は描かれていないのに立っているようにもみえる。あたかも画面の右枠にもたれかけているような不思議な描写となっているのだ。これは仏画でみたことと同じく、太刀そのものが武将の象徴として、像主の重要な持ち物であることを明確にあらわすためになされたと思われる。拵(こしら)えの装飾を丹念に描写することの方が、太刀がどのような位置にあるのかを示すことより優先されているともいえる。さらには、茶を差し出す小姓や馬を引く馬丁が像主と比べて小さい。小姓、馬丁ともに小さくあらわすのは、像主を際立たせるための手法としてつとに指摘されている。そのために、画面のなかで三人の人物たちの位置関係が明確に示されないこととなった。

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 さらに信春時代の「牧馬図屏風」(上作品)でも、モティーフ相互の前後関係は不明瞭で、画面のなかに奥行きが感じられない。ここでは山野の水辺に遊ぶ野馬とそれを捕らえる武士たちが画面全体にわたって描かれて、背景に水流や木々が置かれているが、それらモティーフは、未整理な状態で配置されて描かれている。

 当時の山水風景を描く画面構成方法は、通例、画面下方の事物を大きく描き、画面上部に小さく描く初歩的な透視遠近法を用いることで奥行きをもたせようとしている。しかし等伯の「牧馬図屏風」では画面の上下で事物の大小を区別していない。背景として地面の起伏や木々も無秩序に配置されているといえる。等伯の主眼はあくまで馬やそれを捕獲しょうとする武士の描写にあったようで、馬の毛並みや武士の表情、彩り鮮やかな衣服の描写に力を注いでいるのである。

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 そしてこのような造形的特質は、後年等伯が描いた金碧画の畢生の作品である智積院障壁画「構図壁貼付」(上作品 )においても指摘できる。

 狩野一門の作品では、着色画である金碧障壁画でもモティーフの配置や重なりによって、事物の前後関係を生み出し、画面に奥行きと遠近感をあらわそうとする。

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 たとえば、狩野永徳の「檜図屏風」(東京国立博物館 上図) では、みるものにとって近景として日に映る櫓の大樹と、画面上部にある遠景としての岩屋の間に輪郭を円弧で明確にくくった金雲をはさむことで、画面に奥行きを生み出している。遠中近に位置しているそれぞれのモティーフを描き込んで、画面のなかに擬似的な地景−シチュエーションを構成しょうとしているのである。

 対して等伯の「楓図壁貼付」では、赤と緑で華やかに彩られた楓の木と、絢爛に咲き誇る秋草が画面を充填している。等伯は、画面のなかに主要なモティーフを巨大に描く永徳の生み出した「大画様式」をここで取り入れて、巨大な楓の木を描き出している。しかし、それぞれのモティーフを並列させて前後関係を明確にしないため、背景となる金箔地は、木々の存在する空間を示していない。草木の生える地面なのか、あるいは木々の背景となる空間なのか判然としないのである。永徳の「槍図屏風」では、金雲の上部に岩崖をみせて、鑑賞者の近くに位置するものが檜であり、遠くにあるものが岩であると理解できるようにモティーフを並べている。それに対して等伯の金雲は、楓の背後の上方にあらわれて、水流をその雲の下にのぞかせているので、それらの位置関係が判然としなくなってみえるのである。

 さらに楓の木の向かって左側に優美に流れる水流は、画面上部に、水平に措かれた水流と画面中央にある楕円の水流であらわされているが、いったい水は画面奥に流れでいくのか、あるいは、奥から事前に流れでくるものなのかよくわからない。このように「楓図壁貼付」では画面空間のなかで奥行きをあらわすことに一切のこだわりがないかのようにみえる。現在の「楓囲壁貼付」は、切り詰められた画面であるので、当初に描かれたものより小さな画面となっているが、等伯のこうした造形的特質は明確にあらわれているのである。

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 また、水墨画においてもやはり奥行きや遠近感に固執しない等伯の造形的特質はあらわれる。もっとも明らかなのは「枯木猿猴図(こぼくえんこうず)」(作品・上図) である。本図は牧谿の「観音・猿鶴図」(大徳寺 山下論文 ・下図)を等伯が実際に鑑賞した体験から生まれた作品とされでいる。猿と枯木の形態は牧硲作品を忠実に学んでいるが、等伯の作品には、牧籍作品にみられる猿や鶴と木々の背後に示された湿った大気を感じさせる空気の存在感がまったくない。等伯は、極めて細かく柔らかい筆触で猿を生き生きと描き、大胆なブラツシュワークで枯木を激しく描きなぐつたようにあらわしている。

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 その筆の動きは画面に躍動感を生み出しているが、それぞれのモティーフの間には、白い紙という質感が強くあらわれることとなり、そこには奥行きをあらわす大気を描こうとする意図をみてとることはできない。

 一般的な絵画においては、花鳥図なども含めた山水風景が、画面の四角い枠で描かれた空間を切り取ってあらわされる。そこでは上下左右が枠組みされて、画面に物理的な大きさの制限が生まれることとなる。しかし、表現方法次第では、奥行きは無制限に設定できるともいえる。奥行きをもっとも有効にあらわすことのできる表現技術のひとつが水墨画といえるだろう。

 永徳をはじめ狩野一門の描く水墨画では、室町時代以来、山水図や花鳥図を描く際に培われたモティーフの前後関係や遠近感をあらわす常套的な手段が用いられている。鑑賞者に近くに位置する対象物を濃い墨で大きく描き、遠くに位置する対象物を薄く描く、一種の空気遠近法によって画面に奥行きを生じさせるのである。狩野一門が描く水墨画には、常に奥行きが求められ、彼らの描く画面空間は常に二次元の擬似的遠近感を生み出そうとする姿勢がうかがえる。

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 もちろん等伯は、画面から奥行きや遠近感を一切排除したわけではない。等伯は、上洛後の一時期に、狩野一門の下で学んだことが指摘される。狩野一門の方法論を学んだ等伯は、いくつかの水墨画作品でこのような奥行き表現を試みている。また、牧谿の観音・猿鶴図」にみられる大気の表現にも学び、「竹林猿猴図屏風(作品下図)や「竹鶴図屏風」(下作品)などのように二次元の画面に擬似的な遠近感を感じさせる作品を残している。その最大の成果のひとつが「松林図屏風」(下作品)であるといえよう。

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 そこでは墨の濃淡によって、冷たく湿った大気があらわされ、無限大の奥行きが生まれることにもなった。しかし等伯は水墨の表現を極めていく道程のなかで、「松林図屏風」を終着点としなかったようだ。

 等伯が水墨画であらわそうとしたことは「禅宗祖師図襖」(下作品)や「商山四略図襖」、そして晩年作となる「竹林七賢囲屏風」(下作品) のような、画面に大きな人物を描いたものに端的にあらわれている。これらの作品は、等伯と同時代に活躍した海北友松の人物表現に学んだとされるが、これまでみてきた等伯の造形的特質が強く打ち出されていると思われる。

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 これらの作品では人物が力強い筆線で大きく強調されている。そして場面状況を説明する地面や背景の樹木は人物の周囲に配置されるが、人物と樹木の大きさの関連には気をとめず並列的に描かれている。画面の下方には岩などのモティーフと人物が重なる形で描かれるので、その部分ではモティーフの前後関係は示されている。しかし、画面上部は、遠景となるべき遠山などの描写がなく余白のまま残されている場合が多く、筆が入れられていない白い紙地は、人物の周囲の空気など背景となる余韻を生み出していないようにみえる。

 以上のように等伯が描いた金碧画や水墨画にみられる奥行き表現にこだわらない造形的特質は、信春時代の仏画の表現が淵源となっているといえないだろうか。つまり、仏画で試みられた空間処理が等伯の画業全体にあらわれていると考えられるのである。

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 信春時代の「釈迦多宝如来像」(作品左)では、藍地の画面に各尊が配置され、瑞雲が描写されるほかは、背景の描写はほとんどなく、「十二天像」や法華宗の僧侶を措く肖像画でも同様である。仏画制作にあたっでは、仏神が今そこに存在することを示すことがもっとも重要なことであり、絵画にあらわされる擬似的な遠近感や画面にあらわれる奥行きは、仏に祈りを捧げる人びとには必須のものではない。山水などの描写によって具体的な場面を示さなくとも、祈るべき仏を華麗な装飾で荘厳し、その存在感をあらわすことが第一義とされるのである。

 さらに加えるならば、等伯が能登で活動していたころに描いた仏画や、長谷川家が営んでいたという染物屋の描き絵というものは、やまと絵の範疇に入る。やまと絵(大和絵)は元来、「唐絵」と対となった絵画概念で、もともとは日本の和歌など文芸に関わる主題、画題をあらわした絵であり、中国に関わる人物、事物を描いた「唐絵」と区別されていた。そしで鎌倉時代以降、中国から水墨画という新たな表現手法が日本に伝わったころから、もっぱら「やまと絵」は平安時代以来の伝統的な表現である華やかな着色で彩られた絵画に細かな装飾を施す表現技法に関わることばとして用いられるようになった。

 等伯が信春時代に描いた仏画は、敏密な装飾を施した濃彩の着色画のやまと絵である。等伯の造形的特質である画面に奥行きを強調しない表現は、やまと絵のひとつの特質であるともいえよう。さらにいえば家業である染物屋で等伯が平面的な紋様装飾である描き絵を行っていたとすれば、もとより奥行き表現が必要とされないやまと絵を描いていたこととなる。

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 「楓図壁貼付」(上図)では、紅葉が型で描かれたかのような一定のかたちで、絵模様としで繰り返されている。このことは等伯が染物屋を生業とする家に育ったことや、能登で絵仏師として活躍したことと無縁ではないだろう。「楓図壁貼付」に描かれた空間は、信春時代の仏画でみられた虚空−奥行きや大きさを感じることのない極楽浄土の空間を示しているのである。等伯が描いた智積院障壁画(松に秋草図屏風・上図)は、秀吉の嫡子鶴松の菩提を弔う寺院を飾るものであった。現実的な空間を感じさせる狩野一門の描く山水図や花鳥図よりも、菩提を弔う仏画−やまと絵として描くことで、いっそう目的に適った表現となったといえる。

 等伯が描く多くの水墨画は奥行きがなく遠近感の希薄なものであった。そこでは中国の禅宗祖師たちや猿や鵜といった登場人物たちが、画面のなかで人々の尊崇の対象となるべきイコン(買主となり、象徴的モティーフであるアイコン(icon)としであらわされ、仏画と同様にその存在感を強調されることとなった。つまり、奥行きという二次元の画面に感じる遠近感や立体感などの三次元的な錯覚−幻影を求めていないのである。このように等伯は中国から伝わった水墨画という唐絵(漢画)においても、やまと絵の造形手法によっで描いたとみることができよう

▶大涅槃図

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 信春時代には、もっぱら法華宗寺院の関連で仏画を描いた等伯であった、が、上洛して等伯と号した後、そうした注文を受けて制作したと思われる作品が見当たらない。しかし菩提寺、本法寺に関わるものは別であった。そのなかで特筆すべきものが「仏涅槃図」(上作品)である。天下人秀吉の命を受けて祥雲寺の障壁画(現・智積院障壁画)を描き、大絵師としての地位を揺るぎないものとした等伯が、本法寺の大檀越(だんおつ・檀家)となって、本法寺に多大な寄進を行ったなかのひとつが、この「仏涅槃図」である。等伯は本堂など、本法寺に多くの堂宇(どうう・殿堂)を寄進している。天明の大火によって、惜しくも灰燼(かいじん)に帰したが、それらはこの長さ十メートルにおよぶ大画面を掛けるだけの壮大なものであっただろう。

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 『御湯殿上日記』によれば、この「仏捏柴図」は、慶長四年(一五九九)閏三月二十六日に天覧に召されることとなったという。この宮中での披露によって、さらに等伯は京中での評判を得るとともに、天覧に召されたことで大きな箔付けとなったであろう。

 等伯にとって大きな意味を持つこのプロジェクトは、等伯一人で考えたわけではないだろう。そこには等伯が深く帰依して、篤く交誼を結んだ日通上人からのさまざな示唆があったのではないだろうか。天覧という晴れの舞台を得る機会など、簡単にめぐつ つでてくるものではなかろう。何らかの伝手や宮中への工作によって成し遂げられたはずである。日通は、学問、文芸に通じた僧で、すす後に中山法華経寺の第十四世に晋んだ本法寺中興の視であり、茶もよくした人物であった。あるいは茶の湯を通した日通の人脈で、この天覧の機会を得たのかも知れない。

 またこの「仏捏柴図」には、日通の手によって「願主 白雪舟五代長谷川藤原等伯 六十一歳 謹書」と記されている。「白雪舟五代」と記される等伯作品のもっと基い時期のものである。「白雪舟五代」と唱えることは、長谷川索絵師の名門の家柄であることをあらわす言葉にほかならない。『等伯画説』(下作品)には、等伯が日通に語った「雪舟基春益文去清−等伯」という師承関係をあらわす画系図が記されている。

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 室町時代の画僧雪舟は、等伯が活動したころから人気が高まり、江戸時代には、徳川幕府を中心とした1流武家やその周辺の商人たちに雪舟画の流行が生まれ、絵師として神格化されるまでにいたった。そうした状況は茶の湯を通じて日通もよく承知与いたことであろう。等伯の「白雪舟五代」という標傍は、中国名画や室町時代の絵画に造詣の深い日通との共同作業のひとつであり、等伯作品にそのように記すことを日通が勧めたのではないだろうか。

 当時の画壇の中心に君臨する狩野喪室町時代から続く絵師の名門である。妄の等伯は大絵師の地位を奮築きあげた。そのことを考えれば、「白雪舟五代」は、単に等伯自身の間警はなく、このとき六↑奮数える等伯が、絵師香しての長谷川家のさらなる葦と継続を望み、狩野南に対抗する孟己て、家系ではなく画系法師の正統な流れを高らかに唱えたのであろう。

 また、この「仏涅槃図」は等伯が絵師としての立場だけでなく、等伯自身の信仰を込めたものでもあった。この絵の真には釈迦如来から連なる宗晋蓮聖人と祖師たちの名、本法寺開山の日親1人以↑の歴代住職、日通1人と等伯の養祖父母や養父母、そして二十六歳の若さで先立った息子久蔵たち等伯の一族の名前が記されている。衰菩提を弔うために等伯はこの「仏涅槃図」を措いたのである。等伯は、能登を離れる前後に養父養母を亡くし、1洛後先妻を亡くし、将来を軍した息子久蔵も失っている。能登時代に『法華経』に関わる仏画を描き、自らも法華衆であっ毒伯であるが、この時点でさらに篤く信仰につとめたことは想像に難くない。

 大絵師・等伯にとってこの「仏蛋図」は、さらなる長谷川衰繁栄と同時に、自らの篤い信仰と索の祈りを込めた作品といえるのである。

■おわりに・・・等伯の行方

 『長谷川家系譜』(仲家)によれば、慶長十五年(一六さ)に徳川家康の招きによって、等伯は久蔵の弟、宗宅を伴って江戸に向かったという。その空、病を得て、二月二十買江戸で七十二歳の生警閉じたのである。これより先の慶長↑三年(一六〇八)、日通上人が示寂している。日通と親交の篤かっ毒伯の悲しみの警は計り知賢ものがある。在りし日の日通の姿を措い吉通上人像」(作品望はひかえめな色警描かれて、等伯の鎮痛な心情までもあらわされているかのようである。このときすでに、等伯は後妻も失っており、多くの親族を失っている。しかし等伯には、長谷川一門の将蓄背負う宗宅がいた。すでに等伯は自らの要そのものではなく、一門の行く末美していたはずである。そのことが高齢を押して江戸下向を決心した大きな理由であろう。

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せ付かることの第一歩なのである。

 すでに狩野一門は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長八年(一六〇三)に、宗家光信が京都、大坂で徳川家の絵事御用を務めている。そして慶長十三年(一六〇八)に光信は徳川家の御用のため江戸に下向しているが、帰洛の途時に桑名で客死した。このような状況のなかで、等伯は江戸に向かったのである。しかし等伯が江戸に着いたときに家康は大御所として畢肘にいたはずであり、江戸で家康と対面はできない。もちろん江戸で二代将軍秀忠にお目見えできたかも知れないが、この試みが成功したかどうかはわからない。いずれにしろ、等伯は江戸の地で生涯を閉じた。京都に戻った宗宅は、法橋位を得て等伯の跡を継いだが翌慶長十六年(一六…に没する。その後の長谷川一族は等伯の娘婿たちが絵師として活動するが、画壇のなかで往時の勢力を得ることはなかった。

 等伯の一族がその後、画壇の中心に立つことはなかったが、等伯の残した表現は江戸絵画の歴史に確かな足跡を残している。というのは、先にみてきた画面に奥行きをあらわそうとしない造形的特質がさまざまな作品にあらわれていると思われるのである。

 たとえば、「楓図壁貼付」でみられた金箔を画面全体に琴フ表現は、時代を↑って尾形光琳が措く金箔地の屏風絵に連なることがつとに指摘されている。光琳の「燕子花図屏風」(根津美術館)では、金箔を画面全体に敷き詰めているが、燕子花の配置によって地面の位置関係が暗示されるものの、背景のなかで地面と空間との区別が明確ではない。また、「楓図壁貼付」でみた水の流れを動きとして捉えていない表現は、光琳の「紅白梅図屏風」(MOA美術館・上図)などに慧されているとみることもできよう。ともに金箔地で画面が充填されているが、そこでは地面や空気といった意識はなく、楓と梅の木々を強調するために黄金が用いられているといえる。

 光琳は法華衆であり、京都の呉服商「雁金屋」の息子であって、光琳自身も手措きの小袖を手がけた。もちろん光琳が直接等伯の作品を参考にした形跡票すものはないが、等伯と共通した生活背景を有していることは暗示的であろう。江戸時代を通じ、光琳をはじめとする琳派の絵師たちが残した多くの作品は、現在にいたるまで日本絵画における大きな潮流のひとつとなっている。

 さらに水墨画作品の流れのなかでも、新たな時代の画壇に君臨した狩野探幽は、等伯が示した遠近感や奥行きを強調しない水墨表現を引き継いでいるとみることもできる。 探幽は永徳の再来といわれた絵師であるが、その措いた作品は、狩野永納の『本朝画史』(元禄六年〈一六九三〉刊)で「壷狩野氏」と述べられるように、祖先の狩野元信、永徳がつくりあげた狩野家の画風を大きく変容させたと捉えられている。そのような観点で探幽作品(挿図ほ)をみると「浦酒淡白」と評される作品は画面に大きな余白を残すものが多い。その余白はモティーフとの境界があいまいに示され画面に余韻畳み出すものであった。そこで、探幽が措くモティーフは、奥行き表現を深めるものではなく、上下や左右方向に視線を誘導する。さらに後年、探幽は、次第にモティーフと余白を切り離し、余白は白い紙のままに提示していく。この表現は等伯がみせた水墨画の表現と軌を一にするものだといえる。

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 さらにいえば、等伯が「松林図屏風」で生み出した二次元空間のなかで松の木々が立つ地面が、鑑賞者のいる室内の三次元空間にまでつながっでいくような表現は、江戸時代窟に農毒する円山応挙が試みることとなった。応挙は我々の日が捉える現実に存在する立体の山水や花木のかたちを、そのまま絵画平面にあらわそうとした絵師である。自身の画業の到達点と考えていなかったにしろ、等伯は「松林図屏風」を描いた時点で応挙と同じ視覚を持っていたことになる。このように長谷川一族の画壇における命脈は等伯没後に尽きたといえるが、等伯があらわした絵画における造形的特質は、確実に江戸絵画史に足跡を残しているのである。

(まつしま・まさと/東京国立博物館特別展室長)