森村泰昌

■森村泰昌二自画像の美術史−「私」と「わたし」が出会うとき

植松由佳(国立国際美術館主任研究員)

 大阪出身で同地在住の美術家・森村泰昌(1951−)にとって、地元大阪の美術館では初となる個展が、国立国際美術館で開催される。

 森村は、有名なゴッホの自画像をモデルに自らゴッホに扮した写真作品《肖像(ゴッホ)》(下図左右)1985年34歳に発表して以来、多数の泰西名画を模し自らがその登場人物に扮する写真作品を発表してきた。美術史を作品のテーマの大きな柱として活動を行ってきた。さらにもう一つの柱は、女優シリーズや「なにものかへのレクイエム」シリーズに代表される20世紀史上の人物たちであり、森村が生きる時代の在り様を露わにしようとした。

 「自画像の美術史」と「『私』と「わたし」が出会うとき」の二部からなる今回の展覧会では、森村は自画像の美術史に焦点を当て、それに真っ向から挑んでいる。展覧会に際して森村は、自ら幼少時のプライウエート写真などを含む、そして森村にとっては初の長編映像作品を出品を構成した。これによって、森村は美術史に触れるまでの森村の個人史を「わたし」とし、そして、美術の歴史を獲得した「私」を、自らが作品の登場人物に扮する(なる)ことに批評性をこめて自画像の美術史という軸上に交差し展開させようと試みている。

 今回の森村の個展を構成する第I部の各章の解題を試みることを中心に「わたし」と「私」がクロスオーバーする地点の先に作家が見ようとしている光景を本論では探りたい。

  第I部「自画像の美術史」の第0章では、「美術史を知らなかったころの『わたし』がいる」と題して、森村の幼少時のプライウエート写真の展示と1985年の京都、ギャラリー16で開催された「ラデカルな意志のスマイル」展の再現がなされ、展覧会はスタートする。

 まだ美術などという知識を得ていない頃の、あどけない笑顔を見せる幼少時や学生服に学帽姿の「わたし」(=森村)のプライウエート写真を見ていると、《なにものかへのレクイエム(思わぬ来客/1945年日本)≫(2010年)という森村の作品が脳裏を過る。彼の父親がかつて営んでいた戦前からのお茶の卸店の内部を舞台に、マッカーサーと昭和天皇の2人の邂逅(かいこう・思いがけなく会うこと。めぐりあい)の場面を表すという作品である。1945年9月27日に昭和天皇がマッカーサーをアメリカ大使館公邸に訪ねた時に撮影され、敗戦後の日本に衝撃をもたらした歴史的な一場面を、自らの歴史の−コマでもある父親の店舗で作品化することにより、日本の象徴である昭和天皇、そして戦後の日本に大いなる影響を与えたアメリカの象徴としてのマッカーサーの並列という戦後日本社会の表出のみならず、森村自身の個人史そして精神史をも重ね合わせている。

 森村は1985年、京都のギャラリー16で開催された石原友明、木村浩との3人による写真展「ラデカルな意志のスマイル」で《肖像(ゴッホ)》《肖像(カミーユ・ルーラン)》(上図)を含め合計6点の作品を発表した。初めて森村が西洋美術史上の名画であるゴッホ作品の登場人物に扮し一躍耳目を集めたのである。森村が言うところの「私」の、その作品に見られる意識的な表出は、この時が初だと言えるだろう。もっとも高校時代の作品に、ワシリー・カンディンスキーとの類似が見られるようなペン画が制作2されているなど、85年以前に制作された作品にも様々な芸術家からの直接、間接的な感化を受けた作品例を挙げることも出来、美術史に対する萌芽はこれよりも早くから見受けることはできる。ただし「意識的」に美術史を受容し引用し、作品を制作したということになれば、このゴッホに「なった」作品がそれだ、と言える。84年、森村は木村が企画した写真展「『オレ達は寡黙じやない、わかりますか」写真です、写真。』展にモノクロ写真6点を出品。そのうち3点は組写真で、それは初めて発表したセルフ・ポートレイトでもあった。そして翌年の、森村によるゴッホの登場である。次なる展覧会への作品制作のために、森村は数々の西洋美術の巨匠たちの画集を調べたという。そこで選ばれたのがゴッホの《包帯をしてパイプをくわえた自画像》上図・であった。石原や椿昇、中原浩大、松井智恵等「関西ニューウエーブ」と呼ばれる同世代の仲間達の活躍を目にしながら当時の森村が抱えていた苦悩は、美術に対する愛憎としても見え隠れしている。その美術と美術の歴史に対する愛情と憎悪をぶつけるようにゴッホが自らの耳を切り落とした後の自画像の構図を引用して、そこに自らの身体を使いゴッホに扮して没入することで彼自身の自画像は成立した。以後の何ものかに「なる」(扮する)という制作方法はここにスタートした。

 何故ゴッホだったのか。それは、今回の大阪での展覧会で自画像の美術史に正面から取り組んだ時、第1部第1章の「『私」の美術史」がレオナルド・ダ・ウインチを始まり置かれて展開していることにも繋がるだろう。そもそも自画像=セルフ・ポートレイト西洋美術由来のものに他ならない。その成立は15世紀に遡り、それ以前、例えば中世にあっては、正視する正面を向いた肖像はキリストや聖人に限られるのがキリスト教社会における定形でもあった。15世紀に入るとイタリア・ルネサンス期の画家たちが自らの姿を大画面の一部に描き込む例が見られるようになる。西洋美術史において、自画像画家としてまず指折られるのはアルブレヒトデューラーであろう。

 

 しかし森村にとっては、デューラーよりもレオナルド・ダ・ウインチこそが自画像を考える上で重要な画家としてとらえている。森村は次のように述べている。「昭和26年の日本に生まれた私が受けた美術教育というのは、知識的(=教科書)にも技術的(=画材や写生技法)にも明治以降に輸入された西洋美術が基本」であり「最初に教えられる「美術』といえば、ゴッホでありレオナルド・ダ・ウインチの《モナ・リザ≫であった」と言い、さらには「1985年当時の私にとっては、まだまだゴッホの糸杉や夜空や室内を描いた絵が、私の美術体験における原風景であった。私が表現活動のはじまりの時期に、自分自身とゴッホの自画像を重ねあわせてみたくなったのも、今から思えばゆえなきことではなかった」つまり昭和天皇とマッカーサーの元に生まれた「わたし」=森村にとっては、戦後教育下での美術とは西洋美術であり、それはゴッホ、レオナルド・ダ・ウインチだったのである。

 日本人芸術家がいかに西洋の美術と向かい合うのか。それは明治期以降の課題でもあった。それは21世紀になり先達が西洋美術を受容してから150年近くたった現在の日本の現代美術の状況下でも同様である。植木野衣は「森村の登場によってわたしたちは、西洋から遠く離れた異人種がなぜ、わざわざ「美術』をやっているのかという主体形成の問題に引き合わせられた」と述べている。つまり森村は、その西洋美術の受容を否定することなく、いわゆる西洋美術史上の自画像の巨匠たちに正面から向き合い自らの身体を用いて作品内に没入することで、戦後日本教育の中で形成されてきた「わたし」の上に積み重ねられた美術史による「私」を経由し、その「私」そして「わたし」が何ものであるかというアイデンティティの脱構築も果たそうとしている。

 西洋美術に真正面から向き合い、その中に「私」を見出してもいた森村だが、第5章「時代が青春だったときの自画像は美しい」では、青木繁、需鉄五郎、村山椀多、松本竣介等、日本の近代洋画の作家、作品をとりあげている。

 

 森村は次のように述べている。「むろん日本の花鳥風月も美しいとは理解するのだが、戦後美術教育で育てられた私には、それはいささか異国の風景のようで、なにかしら遠い存在だった。私の心の中で、日本の風景はどこかでぶち切られ、忘れられた歴史の風景の記憶となっていて、それとの出会いは、初対面のぎこちなさをともなわずにはおれなかった。(略)私はいまだにゴッホをひきずっている。あの『男をつらいよ』の主題歌がテネシー州にまでルーツが辿られていってしまったように、自分自身の美術の心の原風景を辿ると、日本から渡航して西洋のゴッホにまで至つてしまう。日本文化は、私を引き止めてはくれなかったようなのだ」。

 自らを「引き止めてくれなかった」と日本文化に対する感情を吐露しているが、2011年の東日本大震災後の森村の展覧会を巡る一連の出来事が大きな影響を与えて、今回の展覧会での構成にもつながった。岩手県立美術館に巡回が予定されていた「モリエンナーレ まねぶ美術史」展は震災の影響を受け中止が決定した。それに代わる個展の開催を森村は提案し、そのため同美術館が所蔵する作品などを見る機会を得た。そこで松本竣介や寓鉄五郎といった近代日本美術の画家たちの作品に強い衝撃を受ける。

 大正期から昭和にかけての時代が大きな変動を遂げる中、例えば黒田清輝に代表される明治期からの近代日本美術を形成した外光派と呼ばれる言わばメインストリームとは一線を画し前衛的な自身の画風を確立していった画家たち。彼らの作品に見え隠れする海外由来の文化の受容に対する闘争、また作家たちが生き抜いた激動の時代を背景にして、いったい私は芸術に対して何ができうるのかという探求を、ときに社会や時代に抗いながら彼らがカンバス上に刻んだ苦悩や相克という痕跡に、森村が見出したシンパシーは計り知れないものだっただろう。

 当時の画家たちが自分自身の表現を模索したように、森村も昭和天皇とマッカーサーに象徴される文化受容の下で獲得した言わば逃れられない西洋美術史の下で「私」を獲得しながら制作を行ってきた森村が、「私」を深慮すればするほど愛情と憎悪を抱く西洋美術に決着をつけ、そこからいかに旅立ち次のステージヘと進むべきなのか。その回答が第10章で呈示される。「さよなら『私」と、「わたし』はつぶやく」。つまり、これはいわば森村の西洋美術へのある種の訣別のマニフェストともとらえることができるのではないだろうか。

 《少年カフカ》(上図)と題された作品は、森村が小説家のカフカの5歳当時のポートレイトをモチーフとしてカフカに「なった」ものである。当時のオーストリア=ハンガリー帝国のプラハ出身のユダヤ人家庭に生まれ言語も文化も複雑な背景を持つカフカに、自らを重ねた森村。その《少年カフカ≫の足元には、森村が幼少時より大切にしていたクマのぬいぐるみが象徴的に配置されている。両親に挟まれ、クマのぬいぐるみを大切に抱く森村の幸せそうな家族写真とともに、ここではクマが「わたし」時代の隠喩としての存在であることが示され、西洋美術を獲得する前の「わたし」への回帰を暗示する。

 またレンブラントの《屠殺された牛》に構想を得て制作された《白い闇》(cat.120)は、ルンプラントの部屋』において発表された作品である。解体された牛に並んで、ハイヒールを履きほぼ全裸に近い姿で何ものかに挑むかのようにすっくと立つ姿を見せる森村は、「目に見えるものから目に見えぬ何かに向かう」と語つている。「見えるもの」と「見えないもの」の関係。森村は同じくレンブラントによる《トゥルプ博士の解剖学講義》という集団肖像画で描かれた解剖学にも関心を示す。それは解剖学が、「死」を恐怖から解き放ち何も特別視するものではないと知らしめていることにあるという。そうしたレンブラントヘの関心の中で作られた「光」の系譜とも称されるこの《白い闇》に、森村は原子爆弾の炸裂の光をも重ねている。美術史の引用からの逸脱を示すこの作品は、「印象派の絵から光画=写真へ、写真から映画の銀幕へ、そしてTVモニターヘ、ついには原子爆弾となって炸裂して世界を真っ白にしてしまう」。レンブラントに始まった光の時代は行き着くところまで到達し、その終焉に立ち会っているのだと森村は言う。可視の限界にたどりつき、不可視な領域へと向かって行く末来では、この白い闇の空間が広がると彼は考えるのだ。

 同じく生と死が色濃く見え隠れする《セルフポートレイト 駒場のマリリン》(上図)。森村は女優マリリン・モンローをテーマとした作品を数点制作しているが、そのうちの一点である本作は、1994年4月に東京大学の駒場キャンパスの900番教室で撮影された作品であり、森村がモンローに扮してパフォーマンスを行い撮影された。900番教室と言えば、森村の撮影から25年前の1969年に「三島由紀夫vs.東京全共闘」(下図)と題された討論会が開催された講堂型教室である。そして翌年、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地で激を飛ばした後に自害する。森村は、三島が〈オトコ〉であったがために日本という〈オンナ〉の国に殺されマリリンは、〈オンナ〉を通し続けたがゆえにアメリカという〈オトコ〉の国に殺された、と考察する。三島とマリリン。森村の身体を通してこの2人を重ね、性を交差させることで「死」を離れて軽やかな「生」を詠い上げる。モンローと三島の過剰生にまつわる性差混乱(ジェンダー・パニック)の類似性をスバリ見抜いた森村」と評されているこの作品を、未来への賞賛すべき形としてとりあげているのである。

 森村は第8章と第9章において、「不在」についても考察している。近年、この「不在」というキーワードが森村の作品において重要度を増しているように感じられる。森村がアーティスティックディレクターを務めた2014年横浜トリエンナーレのコンセプトでも示されていたが、スペインの巨匠ベラスケスの名画《ラス・メニーナス》を基にした「侍女たちは夜に起る」シリーズしかり、第2次世界大戦中エルミタージュ美術館で実際にあったエピソードから「Hermitage1941−2014」シリーズなど、この2章で取り上げている作品である。「見る/見られる」そして「可視/不可視」という関係性の中から、画家、モチーフ、鑑賞者が往還し複雑な構図が展開する「侍女たち」のシリーズ最後の作品は、登場人物全員が不在となるシーンである。またエルミタージュのシリーズも主人公である「私」が消滅するというもの。ただしいずれも登場人物たちは「不在」となるのだが、美術館の空間は残り、作品が展示されていたという記憶、その作品が保持する歴史、人々が鑑賞したという体験、それらは「不在」となった空間に永遠に漂い続けることを森村は指摘する。

 第二部の森村にとっての初の長編映像作品となった《「私」と「わたし」が出会うとき−自画像のシンポシオンー》(cat.125)のラストシーンでこの「不在」が暗示される。それは森村による西洋美術史への決着の一つであるとも言えよう。登場する自画像画家12人がそれぞれに「私」とは何者であるのかを語るが、モリムラは彼らにピストルを向けることで映像を終わらせている。画家たちは消え去ってもそこに、モリムラが獲得した記憶、体験は漂い続けるのである。

 「私」を不在なものとして抹消することで、「わたし」いわば無垢なモリムラ時代への往還を遂げ、「わたし」へのより大きな世界への移行につながる。我々はこの展覧会を観覧するとき、その勝利とも言える瞬間の目撃者としての位置を与えられる。