白隠・衆生本来仏なり

000■白隠の生涯

▶神童のめばえ(一〜七歳) 

 駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

 これは、白隠の故郷の駿河(現在の静岡県)には、天下に誇るものが二つあり、一つは富士の霊峰でもう一つは白隠であるという俗謡(民間にはやる通俗的なうたいもの)である。白隠と富士が並び立つほど、江戸中期に臨済宗を再興した白隠は存在の巨大であり、その功徳が長く人々の間に親しみをもって語り継がれてきたといえる。

 白隠は貞享二年(一六八五)十二月二十五日、駿河国駿東郡原宿(現・静岡県沼津市原)の長沢家に生まれた。二女三男の末っ子で幼名を岩次郎といった。生家は沢潟屋(おもだかや)という問屋で、街道を行き来する人馬の取り次ぎなどをする富裕な家柄だった。

 父は伊豆の杉山氏から長沢家の婿養子となった人で、父の叔父は原の松蔭寺を中興(一度衰えていたり途絶えた物を復興させる)した大瑞宗育(だいずいそういく)であり、母は日蓮宗の熱心な信者であった。この母は日ごろから慈悲深く、慈善を好んだ人で、岩次郎を身ごもったときと生まれる前の晩に、同じ霊夢を見たと伝えられている。岩次郎、後の白隠はこのように信仰心篤い家庭で生まれ育った。

 岩次郎はなぜか数え年の三歳まで立つことができず、幼な心にも恥ずかしく、自ら立つ練習に励むうち、ある日突然に立ち上がり、使用人の一人がそれを見て驚いて叫んだという。後年になっても白隠はこの出来事を記憶していて、人々に語っていた逸話もある。

 四歳になると、備わった記憶力が目立つようになり、「狭夜(さよ)の中山」 というという村歌を暗記して村人を驚かしたという。

 五歳のとき、原宿の海岸で空を眺めると、そこかしこから浮雲が出たり消えたりする様子に心をとらえられ、「いかさま変わったものじゃ」とつぶやき、世の中に常ならぬものはないことを悟ったとされる。そのように感受性の強い子供であった岩次郎は、七歳になると好んで寺参りをして『法華経』の「提婆品(だいばぼん)」の講義を聞くと、それを暗記して語って聞かせ、周囲を驚かしたそうである。この頃、休心房(きゅうしんぼう)という念仏行者が村にいて、長沢家をたびたび訪れていたが、岩次郎のことを才能のある人間と見込んで 「お前は世の人々を救う者になれ。お釈迦様は六年間、達磨大師は九年間刻苦精進している。よく身をまもって修行せよ」と教示し、後々までも強い影響を与えている。

▶地獄への恐怖と発心(八〜十四歳)

 八、九歳のとき(『策進幼稚(さくしんおさな)物語』による。『年譜』では十一歳とある)、母と連れ立って出かけた村の昌原寺(しょうげんじ)で、日厳上人(にちごんしょうにん)の『摩詞止観(まかしかん)』の講義を聞いたことが、その後の人生を左右する出来事となった。この席で上人が語った地獄の諸相の恐ろしさに岩次郎は震え、決定的な衝撃を受けた。それ以来身の置き所もないように感じ、「昼夜、悲傷(ひしょう)して止まず。懊々(おうおう)として楽しまず、両眼、常に涙を帯ぶ」(『策進幼稚物語』)という状態で泣き暮らしていたという。

 そしてある日、母と風呂に入ったときのこと。母が薪をどんどんくべさせると、炎が噴き出て、釜がゴウゴウと音を立てた。その音が、まさに地獄の業火を思い起こさせ、あまりの恐ろしさに大声で泣き出した。家人が集まってきて、なだめすかせてもいっこうに泣き止まなかったという。

 その頃、上方から浄瑠璃の一座が村にやってきて、「日親上人鍋かぶり」 という操り芝居を興行した。芝居の中で、鎌倉の将軍が 「法華経の行者は火も熱くないというが、まことか」と尋ねると、日親上人(下図)は 「火に入っても焼けず、水に入っても溺れず」と答えた。すると将軍は真っ赤に焼いた大鍋を上人の頭からかぶせ、焼いた鍬を上人の両脇にさしはさんだが、上人は動ぜず、ほほ笑んだという話であった。この芝居を見た岩次郎は上人の意志の強さ、仏力の功徳に感じ入り、自分も出家する決意を固めた。十三歳・元禄十年(1697)の時である。

 

 岩次郎は一人で静かに瞑想できる場所を探し、近くの柳沢山に登り、その奇岩で坐禅を組んでいたその岩に観音菩薩聖像をノミで刻んで祈ったという。現在、沼津市原の松蔭寺の近くにある「白隠禅師産湯井(上図右)の史跡産湯につかった水を汲んだ井戸の跡と伝わる

▶修行と迷いの時代(十五〜十九歳)

 両親に出家したいと訴えていたが、なかなか許可はおりなかった。しかし岩次郎の決心は揺るがず、観念した父母はようやくこれを許した。

 元禄十二年(一六九九)、十五歳のとき、原の松蔭寺の単嶺(たんれい)和尚について得度し、岩次郎の名を改めて慧鶴(えかく)と名付けられた。慧鶴は『法華経』二十八品を読了したが、「このような因縁誓喩(たとえ話)ばかりのものにもし功徳があるというなら、諸子百家の詩書文芸にも功徳があるというものだ」と、『法華経』に失望を覚えた。迷う心を抱えたまま日々を送る中、師である単嶺和尚が遷化(せんげ)した。十五歳になった慧鶴は沼津の大聖寺の息道(そくどう)和尚のもとへ行くが、十九歳で大聖寺を辞し、清水の禅叢寺の衆寮に掛錫(かしゃく・行脚の禅僧が禅堂に滞在して修行すること)した。ここでは住持の千英祚円(せんえいそえん)が『江湖風月集(ごうこふうげつしゅう)』を講じていた。その中に唐末の高僧巌頭全豁(がんとうぜんかつ)の話(わ)があった。

 巌頭が盗賊に首を斬られて絶叫して死んだ、その叫び声は数里先まで聞こえたというものである。慧鶴はこれを聞くと「巌頭和尚ほどの禅僧がそのように賊に殺されてしまうのなら、自分は地獄からどうして逃れられようか」と落胆し、禅の修行に疑問を抱いた。この頃から詩文にふけり、書に親しむようになるが、この時期が後に書画に堪能な腕を発揮する礎となったのである。

諸国行脚と人生の転機(二十〜三十一歳)

 宝永元年(一七〇四)、二十歳になった慧鶴は美濃大垣(現岐阜県大垣市)瑞雲寺の馬翁宗竹(ばおうそうちく)に師事した。馬翁は「美濃の荒馬」と称された峻厳(非常にきびしいこと)な僧であり、詩文の大家でもあった。あるとき、書物の虫干しがされ、慧鶴は広げられた書物の中から「南無十方一切の諸仏、わが進むべき道あらば、願わくは教えたまえ」と念じて一冊の本を手に取った。それは『禅関策進(ぜんかんさくしん)という書物であり、その中の一章「引錐自刺(いんすいじし)の章」に慧鶴は衝撃を受けた。慈明和尚が夜を徹して坐禅をし、股に錐を突き刺して眠気を覚ましたという故事に触れ、慧鶴はこれまでの自分を恥じて修行に励むようになった。

 この年の五月二十七日、母の死の知らせを受けたが、慧鶴は国元に帰らなかった。翌年春、慧鶴は瑞雲寺を辞し、洞戸(ほらど)の保福寺、岩崎の霊松(れいしょう)院、伊自良(いじら)の東光寺と行脚し、二十二歳の年に若狭の常高(じょうこう)寺、さらに伊予の正宗寺(しょうじゅうじ)へと、諸国に行脚を続けた。

 宝永四年(一七〇七)、二十三歳の慧鶴は海を渡り、備後福山(現広島県福山市)の正寿(しょうじゅ)寺に行き、正宗賛会(しょうじゅうさんえ)に参じた。伊勢(現三重県)まで来たとき、師の馬翁宗竹が重病に罹っていると聞いて看病に向かい、馬翁が回復すると、慧鶴は故郷の原へ戻った。国元の親族や村の人々が、慧鶴が五年間にわたり諸国を旅した見聞を聞こうと集まってきても、慧鶴は一切何も語らず、周囲を憤然とさせた。そしてその年の十一月二十二日、宝永山(富士山の側火山)が大噴火した。このとき大地は鳴動し、松蔭寺の堂屋も大震動に揺れ、砂石が雨のように降り注いだ。寺の者はみな逃げたが、慧鶴は独り堂内に残って坐禅を組んでいた。この世の地獄のような有様の中で、慧鶴の心は狂おしいほどの求道心に燃えさかっていた。

 二十四歳のとき、慧鶴は越後高田の英巌寺に置き、生鉄(さんてつ)和尚の『人天眼目(にんてんがんもく)』の講座に参じた。ある夜、坐禅するうちに朝を迎え、遠くの寺の鐘が鳴るのを聞いた。このとき、忽然と大悟した。慧鶴は叫んだ、「やれやれ、巌頭和尚はまめ息災であったわい、巌頭和尚はまめ息災であったわい」と。

 大悟した慧鶴は慢心した。しかし信州から英巌寺に来ていた宗覚(そうかく)から一流の禅者である正受(しょうじゅ)老人(道鏡慧端・どうきょうえたん)の存在を教えられ、連れ立って信州飯山に行き、正受老人を訪ねた。

 慧鶴の大我慢(うぬぼれ)を見抜いた正受老人は、「この鬼窟裏(きくつり)の死禅和(しぜんな・はたらきのない死人の禅坊主)め!」と痛罵し、突き飛ばした。その日から正受老人の厳しい教えに堪え、慧鶴は修行を続けた。あるとき、町で托鉢をしていると、老婆が出てきて立ち去るようにと怒鳴ったが、よく聞こえずに立ったままでいると、いきなり老婆が帚(ほうき)で撲(なぐ)り、慧鶴は気を失った。気が付いてみると、不意に悟りが開けた。寺に戻ると、慧鶴が敷居をまたがぬうちに正受老人は「汝、悟れり」と認めたという。

 その後、松蔭寺にいったん戻ったが、またさらに行脚を続けているうち、過度の修行がたたって、心身を患うようになった。「禅病」 と自ら語っているが、うつ病のようになっていたのである。美濃の霊松院に滞在したとき、ある人から京都の白河山中にいる白幽真人が治療してくれると聞き、白河に向かった慧鶴は白幽真人から「内観の法」授かり、病を癒すことができた。この経緯を後に書き著した著作が『夜船閑話』である。しかし、白幽子はかなり前に亡くなっており、実際には会っていない。その部分がフィクションであることを白隠自身も認めており、その書名も「白河夜船」の諺をふまえたもので、そのことを示している。

 難病を克服した慧鶴は、正徳元年(一七一一)の冬大聖寺息道和尚の看病に赴き、翌年の夏に息道和尚を看取った。それからも遍歴を続け、正徳五年(一七一五)の春、巌滝山(岐阜県美濃加茂市)<上図>に籠山し、独り坐禅に打ち込んだ。このとき慧鶴が坐禅をしていた岩が今も残っている巌滝山で刻苦修行を続けていたが、国元から来た使者に、父が重い病に罹(かか)っているのですぐ帰るように請われ、修行の場を離れて故郷の原へと戻った。

▶松蔭寺住職となり、自隠と称する(三十二〜四十二歳)

 享保元年(一七一六)、三十二歳になっていた慧鶴が原に戻ったとき、松蔭寺は無住寺となっていて荒廃していた。病床の父は、自分の叔父である大瑞老師が再興した寺の立て直しを息子に託すため、慧鶴を探させて呼び戻したのである。翌年の正月十日、得度の師・単嶺和尚の十七回忌法要にあわせて、慧鶴は松蔭寺の住持となった。この年の十月二十一日に父の宗葬瞑目した。

 白隠のもとには、次第に参禅する在家の居士が集まり、幾人かの弟子もできるようになった。享保六年(一七二一)三十七歳には二十人の雲水がとどまり、白隠は『大慧書』を提唱している。そしてこの年の十月、信州飯山の正受老人が示寂(じじゃく・菩薩(ぼさつ)や有徳(うとく)の僧の死)した。恩師の死に際し、白隠は原を動かなかった。白隠の厳格な禅修行に共鳴し、遠方からも熱意のある禅僧がやってくるようになった。

 当時の松蔭寺の凄まじい窮乏生活を伝える逸話がある。

 あるとき、典座(てんぞ・食事の係をする僧)の弁的蔵司(ぞうす)が出した冷汁を飲もうとすると、汁の中に虫がうごめいている。白隠が失態を叱ると弁的は、商家が捨てた醤油をもらってきて使ったので虫が生じたが、しばらくすれば虫は出ていくので、その後に呑んでくださいと答えたという。松蔭寺にはほとんど食料の蓄えがないまま、峻厳(非常にきびしいこと)な修行が積まれていた。

 そうした中で、白隠は人生を大きく変える体験をすることになる

 享保十一年(一七二六三十二歳の秋のある夜、白隠が『法華経』の譬喩品(ひゆぼん)を読んでいたとき、庭でコオロギの鳴く音がした。それを聞いたとき、豁然(かつねん・突然迷いや疑いが晴れるさま)と『法華経』の真理が開け、思わず声を放って号泣した。このとき初めて正受老人の平常の境地を徹見(見通すこと)し、大自在(思いのままに自利他利の行を行えること)を得ることができた、という。1727年白隠四十二歳であった。後に弟子となった東嶺(とうれい・江戸中・後期の臨済宗の僧。伊豆龍沢寺二世。古月禅材・翠巌従真・大道文可に謁し、更に白隠慧鶴に参じた)が記した『年譜』によると、これを白隠の因行格(いんぎょうかく・自己究明の修行の自利行の時代)から果行格への転機としている。つまり四十二歳までが人生前半の修行段階で、この大悟から後半が指導を中心とする教化の時期となる。この局面に「菩提心とは四弘誓願(しぐせいがん・すべての菩薩が修行の初めに起す4つの願いで総願ともいわれ,次の4つをさす。 (1) 誓ってすべてのものを悟らせようという願い (衆生無辺誓願度) ,(2) 誓ってすべての迷いを断とうという願い (煩悩無量誓願断) ,(3) 誓って仏の教えをすべて学び知ろうという願い (法門無尽誓願学〈知〉) ,(4) 誓ってこのうえない悟りにいたろうという願い (仏道無上誓願成〈証〉) )の実践にほかならない」ということを確認し悟った白隠は、これを永遠に実践することを決意する。

坐禅和讃』個人蔵 撮影=掘出恒夫
白隠の著作の中でもっとも知られたもので、臨済宗の寺院では日課のように唱えられるしゅじょうほんらいはとけ「衆生本来仏なり」(草稿では仏ニテと記される)より始まる44の章句は、仏は外に求めるものなどではなく、生きとし生けるものには皆仏性が備わっており、自身の心の中にこそ仏があるのだという教えであり、庶民に向けてわかりやすく七五調で綴られている。

▶白隠の教団の形成(四十三〜五十六歳)

 前期の修行時代の終わり頃から、純禅の道を求めて集まった修行僧たちと一般の参禅者たちの数は次第に増えて、白隠の教団が形成されていった。享保十七年(一七三二)、四十八歳のときに『臨済録』、『碧巌録(へきがんろく)』を講じたときは住庵した雲水二十人余りと信者四十人が参じたとあり、五十三歳のときに伊豆(静岡県賀茂郡河津町)の林際寺で『碧巌録』を提唱した際は二百余人が参じたという元文五年(一七四〇)56歳春、『虚堂録』を講じたときは四百人余の聴衆が集った。白隠の名声は天下に響き、そのもとに集まる修行者は年々増えていった。

▶日本各地巡錫と著述活動(五十七〜七十五歳)

 寛保三年(一七四三)59歳、後に第一の高弟と謳われた東嶺円慈が弟子となる。この頃から白隠の著述活動も活発になっていった。元文五年に提唱した『虚堂録』開講の序論を『息耕録開廷普説』として上梓(じょうし・図書を出版すること)、これは公案禅再興のため、禅宗に一石を投じた破格の著述であった。

 寛延元年(一七四八)64歳には『遠羅天釜(おらてがま)』が上梓された。これは青年時代の「禅病」を克服した経験を記したものである。さらに翌年、『槐安国語(かいあんこくご)』を上梓。大燈国師『大燈語録』に対して評唱などを加えたものであり、白隠の仏教思想の根本を示した重要な著作である。

 

 宝暦元年(一七五一)、六十七歳のときには備州(岡山県岡山市)の少林寺まで接化(せっけ・師家が学人を親しく教化し指導すること)の旅に出て、『川老金剛経(せんろうこんごうきょう)』を講じた。このとき備前岡山の太守・池田継政(いけだ つぐまさ)はこれを聴講した。白隠に心酔した池田侯は、参勤交代のときには必ず松蔭寺に立ち寄ったといい、両者の親睦を伝える逸話が残っている

 

 池田侯が松蔭寺で白隠と清談をしていたところ、寺の小僧があやまって、たった一つしかない擂鉢(すりばち)を割ってしまった。池田侯が帰りしなに、「何か差し上げたいが、お望みの物はございませんか」と申し出ると、白隠は 「これといってないが、擂鉢を壊してしまったので、一つくださいませんか」と答えた。池田侯は白隠の無欲に驚き、帰国してから備前焼の大擂鉢を数個、松蔭寺へ送り届けた。その後、境内の松が大風で枝が折れ、痛々しげな切り口に雨風が当たって腐らぬよう、白隠は大擂鉢の一つを懸けたという。この擂鉢は現在も松蔭寺に残っている。

 宝暦四年(一七五四)70歳に記された『辺鄙以知吾(へびいちご)』 は、池田侯に宛てた書状であり、自ら養生につとめ、仁政(じんせい・民衆に恵み深い政治)を行う心得が述べられているが、その一方で、大名の奢侈(しゃし・度を過ぎてぜいたくなこと)な生活を批判し、さらには膨大な費用を要する大名行列を厳しく批判している。この手紙は刊行されたが、そのような内容のため禁書になっている。その前年には、池田侯の侍側である富郷賢瑛(とみさとけんえい)という女性に『薮柑子(やぶこうじ・木陰に自生する常緑低木。)

 宝暦五年(一七五五)、七十一歳の春に、駿河国小島(静岡市清水区)の龍津寺で『維摩経』を講じ、松平昌信が法会(ほうえ)を聴講した。さらに白隠は各所の招きを受け、七十三歳のとき、甲州(山梨県南巨摩郡身延町)の南松院などを経て、さらに開善寺と龍翔寺(共に長野県飯田市)、西岸寺(同上伊那郡飯島町)、木曽福島(同木曽郡木曽町)の興禅寺などの禅刹を訪れて講義し、書画を書き残している。さらに翌年には、美濃(岐阜)・伊勢(三重)・大和〈奈良>尾張(愛知)の諸寺に赴いている。老齢にもかかわらず、大勢の修行者を引き連れ、峻嶮(しゅんけん)なる山路を越え、果敢に行脚を続けるその体力、精神力は驚嘆すべきものがある。

 また、著作の方でも、『宝鑑胎照(ほうかんいしょう)』、『仮名葎(かなむぐら) 附新談議』、『荊叢毒蘂(けいそうどすい)』、『壁訴訟』、『八重葎(やえむぐら・あかね科の二年生植物。茎は四角でとげがあり、一メートル内外に延びる。葉は線形。夏、黄緑色の小花をつける)』などを短期間で続々と刊行した。七十代半ばの精力的な教化活動は、まさに「五百年聞出(五百年間に唯一の僧)」と言われた不世出の巨人像を偲ばせる。

▶画境に遊び、民衆と親しむ(七十六〜八十四歳)

 宝暦十年(一七六〇)76歳、白隠は龍澤寺(りゅうたくじ・静岡県三島市)の開山の儀を行い、住持に弟子の東嶺を任命した。東嶺は翌年、龍澤寺を替地に移転し、白隠派下の中心道場とした。この頃より次第に衰弱するようになった白隠は、明和元年(一七六四)、八十歳のときに松蔭寺の住持を退いて弟子の遂翁(すいおう)にゆずった。

 晩年の白隠は布教活動を画筆に置き換えたようである。白隠は自己の信ずる禅の教えを、親逸な禅画に託してわかりやすく説いて人々に浸透させた。この頃の作品には達磨像の秀作をはじめ墨跡にも名品が集中している。

 明和五年(一七六八)84歳龍澤寺で正月を迎えた白隠は、三月に松蔭寺に帰り、十一月より病に臥した。十二月七日、臨終の枕元に座った医者が脈を診て、「とくにかわったところはありません」と答えると、「三日前に人の死ぬことがわからなければ良医ではない」と叱りつけたという。同月十日、遂翁を病床に呼んで後だいうん事を託し、十一日の早暁に「大畔一声」して遷化した。辞世は残さなかった。享年八十四歳

 「衆生本来仏なり」。幼いときの地獄への恐怖を契機に禅僧となり、その生涯を衆生済度という菩薩道の実践にささげた白隠。その言葉は三百年後の今もなお、多くの人々の心を照らし続けている。(文責・編集部)

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