年譜

777■河井寛次郎年譜

■本年諸は主として、「河井寛次郎年譜」(「河井寛次郎と仕事」河井寛次郎記念館、1976年)、水尾比呂志篇「河井寛次郎年譜」(「近代の美術No.38河井寛次郎」、至文堂、1977年)を参考とし、茨城県陶芸美肯盤古市敏夫が作成した。


■1913 大正2年 23■1914 大正3年 24■1916 大正5年 26■1917 大正6年 27■1919 大正8年 29■1920 大正9年 30■1921 大正10年 31■1922 大正11年 32■1923 大正12年 33t1924 大正13年 34150


■1890 明治23年 0歳

 8月24日、島根県能義郡安来町(現、安来市)に、建築業の父大三郎、母ユキの次男として生まれる。

■1894 明治27年 4歳

 寛次郎の生母ユキ、没する。継母カタに育てられる。

■1901 明治34年 11歳

 安来町尋常小学校卒業、高等小学校に進む。

■1905 明治38年 15歳

 島根県立第一中学校(後の松江中学、現在は松江北高校)入学。中学2年在学中に叔父足立健三郎の勧めで陶芸の道に進む決心をする。

■1910 明治43年 20歳

 松江中学校を卒業。東京高等工業学校(現、東京工業大学)窯業科に校長の推薦により無試験入学する。板谷波山が窯業実習を担当した。

■1911 明治44年 21歳

 赤坂、三会堂でバーナード・リーチの新作展を見て感激し、会場で壷を買約、数日後リーチを上野、桜木町に訪問する。

 溝田庄司を知り、以後生涯にわたり親交をもつ。腸チフスにかかり、1年間休学する。静養中は郷里で詩作にふける。7月、東京高等工業学校を卒業、京都市立陶磁器試験場に技師として入る0平野耕輔、小森忍らの指導を受け、軸薬の研究、実験に従事するとともに、自らの作陶も企てた。濱田庄司が京都市立陶磁器試験場に入る。以後、ともに研究に励む0試験場を辞め、2年間清水六兵衛工房の顧問となり、各種の粕薬を作る。濱田と沖縄、九州の諸窯を訪れる。3月、父大三郎死去。濱田と朝鮮半島を経て中国東北部に入り、帰途大連で満鉄研究所に小森忍を訪ねる。1916年以来、知遇を得ていた山岡千太郎の好意により、京都市五条坂に住居を構え、清水六兵衛窯を譲り受け、鐘渓窯と名づける。この年、濱田はリーチと渡英(セントアイヴスで築窯・制作)する。12月12日京の宮大工の娘三上やす(後につねと改名)と結婚する。2月、第1回創作陶磁展(5月東京高島屋、11月大阪高島屋)開催のため上京、東京高島屋の宣伝部長であった川勝堅一と出会う。以後、生涯親交を結ぶ。この第1回展では宋、元、明、李朝など中国、朝鮮の古陶磁研究の成果を発表し、一躍注目を集め、陶磁史学者奥田誠一が「陶界の一角に突如彗星が出現した。」と絶賛した。また、この個展会期中に神田、流逸荘で開かれていた「李朝陶磁展」を見て、李朝陶磁の神髄に触れる。前年の自信作10点を集め、写真集「鐘渓窯第一輯」を刊行する。5月、東京高島屋で第2回創作陶磁展開催し、好評を博す。5月、東京高島屋で第3回創作陶磁展開催。黒板勝美博士(史学・東京帝国大学教授)、大阪毎日新聞京都支局長の岩井武俊を知る。この頃から、名声の高まりに反し、自らの作陶に疑問をいだき煩悶し、渡英していた濱田の帰国を待ち望む。3月末、濱田帰国。河井宅に3カ月滞在する。これを契機として、作家生活の300点により還暦記念特別展開催される。この頃、木彫を始める。以後10年余りに100種を制作。下彫りは京仏師松久武雄(後、宗琳)が手伝う。

■1952 昭和27年 62■1953 昭和28年 63■1954 昭和29年 64●1955 昭和30年 65●1956 昭和31年 66■1957 昭和32年 67■1958 昭和33年 68■1959 昭和34年 69■1960 昭和35年 70■1961 昭和36年 71■1962 昭和37年 72■1965 昭和40年 75■1966 昭和41年 76■1968 昭和43年

■1951 昭和26年 61歳

 フランスでの陶器展に出品。作陶30周年記念展覧会を東京・大阪高島屋で開催。仏人クロード・ラルーが1年余り弟子入りし作陶を学ぶ。東京高島屋で、富本、濱田と三人展を開催する。朝日新聞社「火の誓い」出版。「いのちの窓」英訳刊行。東京高島屋主催作陶40周年記念展を作品700点により東京の芝・光論閣、大阪高島屋で開催する。5月、東京高島屋で富本、濱田と3人展開催。6月、大丸神戸店でリーチ、濱田と3人展開催。同月、東京高島屋で吉本、リーチ、演田と4人展開催。10月、東京東急東横店でリーチ、濱田と3人展開催。11月、東京・大阪高島屋で新作陶磁器展開催。この頃から、真魚煙管などのデザインの仕事を始める。安来の金田勝造が制作協力。日本民蛮館修理のため、濱田と抹茶椀50個を民糞館に寄贈、初の書を加え、頒布会を開く。10月、名古屋於坂屋で河井、濱田新作陶芸展開催。東京・大阪高島屋で新作陶磁器と陶硯の展覧会開催。20年ぶりに新作陶硯を出品。朝日新聞社主催「陶業40年展」を京都高島屋、東京高島屋、名古屋オリエンタル中村で開催。日録として「河井寛次郎陶業」が刊行される。「沖縄伝統工芸使節団」の団長として、沖縄に渡る。米人アーウインが弟子入りし作陶を学ぶ。川勝の計らいで出品した「白地草花絵扁壷」(昭和14年作)がミラノ・トリエンナーレ展でグランプリ受賞。木彫が手から人物に発展し、さらに動く手、足へと進む。また、次第に「面」に興味を持つようになる。6月、腸閉塞と腸癒着のため大手術を受け、約2ケ月間京都市交通局病院で入院生活を送る。11月、東京・大阪高島屋で新作陶磁器展開催。見るものすべてが「面」に見え、木彫を盛んに行う。11月、東京・大阪高島屋で新作陶磁器展開催、木彫の面も多数出品する。札幌民蛮協会設立を記念し音盤舎主催による、柳、河井、濱田の3人展開催のため、北海道へ行く。10月、大阪阪急百貨店で濱田、河井、棟方、黒田辰秋、芹澤鍾介の工芸5人展開催。東京・大阪高島屋で新作陶磁器展開催。木彫の面から陶彫を制作する。5月3日、柳宗悦逝去。大原美術館は、リーチ、富本、河井、濱田の4人の作品を常設展示する「陶器館」を開設する。雑誌「民蛮」の1月号より「六十年前の今」を掲載。以後、没年まで59回続く。10月、東京高島屋、11月、大阪高島屋で作陶展開催。以後、1966年まで秋に開催する。妻を同伴し郷里安来市を訪れ、これが最後の遠出の旅となる。11月18日永眠。京都国立近代美術館へ川勝氏より415点が寄贈される。以前に寄贈されていた3点と合わせ418点となる。以後、7点を加えた425点が「川勝コレクション」となる。135