ピカソの作品(9~25歳)

 

■女性頭部石膏像のデッサン

<1894~1895年 おかぎき世界子ども美術博物館>

 1891年10歳、ピカソの父ホセ・ルイス・ブラスコはスペイン北西部の大西洋に面した港湾都市ラ・コルーニヤのダ・グアルダ美術学校に職を得て、10月に地中海に面したマラガを一家で離れる。翌1892年11歳9月にピカソは当地の美術学校に入学し、素描と装飾クラス、人体素描と古代彫刻の石膏模造素描のクラスで、画家になるための基礎的な技術を杓う年にわたって学んだ。1895年14歳には父親がバルセロナの美術学校(通称ラ・リョツジャ)の教員になったために、再び一家で転居し、ピカソはこの年の9月にラ・リョッジャに入学した。

 ピカソの場合、一般的にいう石膏デッサンの類は30点ほどしか残されていない。《女性頭部石膏像のデッサン》と《男性頭部石膏像のデッサン》は、ラ・コルーニヤ時代の末からバルセロナ時代の初めにかけて、13歳から14歳の時期の作品である。前者では女性の顔を4分のう正面になる角度から描いており、この角度がピカソにとってこの像がもっとも魅力的に見えたのであろう。石膏像の形を正確かつ緻密に再現していることはもちろんのこと、背景は明暗をほとんどつけてはいないが石膏像が置かれている空間も十分感じられる。あごの下から左耳にかけての部分に典型的に見られるような、影の中の明るい部分も正確に再現されている。このデッサンに特徴的なのは、現実には存在しない輪郭線をかなりはっきりと引いていることである。また、頭髪や瞼、鼻頭には白のハイライトを加えている。

■長いひげの裸体男性像

<1895ー1896年14-15歳油彩/キャンバス 東郷育児記念 損保ジャパン美術館>

 ピカソの父ホセ・ルイス・ブラスコがバルセロナに新たな職を得たスペイン北西部のラ・コルーニヤから地中海沿岸のバルセロナに一家が移ってきたのは、1895年14歳9月のことであった。ピカソは早速、当地の美術学校ラ・リョッジャの古典美術と静物画の上級クラスの入学試験を受けて合格する。

 美術学校では、石膏デッサンからモデルを使ったデッサンヘと進むのが一般的である。この作品に描かれたモデルの足元には円弧状の線が見られることから、このモデルは円盤状の台に乗っていると想像される。この時期ピカソが美術学校で描いたと思われる裸体習作には同様な円盤状の台が描かれている。ひげを生やし額の広いモデルはうつむき加減で、右手にハンマーを担ぎ、左手には楔らしきものを持つ。モデルは左足に重心をかけることで、腰の線と肩の線が平行にならないコントラストの姿勢をとり、身体に動きを与えている。背景が暗いため、肌の明るさがいっそう際立って見える。それほど時間をかけて描いたようには見えないにもかかわらず、肋骨の微妙な起伏までも正確に再現されており、肌の下の骨や筋肉の存在までも感じさせる。同じモデルを描いたと思われる作品は、少なくとも素描と油彩画それぞれ1点ずつ確認されている。

■科学と慈愛

<1897年16歳 上原近代美術館>

 この作品は初期のアカデミックな大作(科学と慈愛)のための習作の一つである。この完成作のための油彩習作は4点知られているが、その中で本作品は最もサイズが大きく、最も完成作に近い構図になっている。

 黒いカーテンで仕切られた薄暗い部屋の片隅。ベッドには、左手を胸の上に置いて息も絶え絶えな蒼白な女性が横たわる。傍らに座る身なりの立派なひげの男性(医者)は時計を見ながら彼女の右腕の脈拍を診ている。ベッドの向こう側には白い頭巾と胸当てを着けた女性(修道女)が、横たわる女性を心配そうに見つめる小さな子供を左腕に抱え、皿にのせたカップに入る末期の水を右手でベッドの女性に差し出しでいる。

 この作品では、脈を取るしかない医者の姿で「科学」を表し、末期の水を与える修道女の姿でキリスト教的「慈愛」を表現している。社会派的な主題は当時の画壇で流行していたものだったが、見る人に悲哀の感情を起こさせるような題材は、後の「青の時代」を先取りしているともいえる。

 

■カンカン

  <1900年19歳、財団法人ひろしま美術館>

 スカートを捲りながら踊る二人の女性が大きく描かれ、その奥には正面向きでスカートのようなものを持って立つ女性がいる。画面は床、背景、人物の三つの部分で構成されており、人物の部分においてはスカートの中が占める割合が多い。1830年49歳頃のパリで生まれたとされるカンカンは、世紀末に大流行し、脚を高く上げながらスカートの裾を捲り上げるその挑発的な動きに特徴があった。膝上に付けられた赤や緑のリボンは、この作品に華やかさを添えている。ピカソはこのパステル画において、広げられたスカートの輪郭と、黒のストッキングを履いた4本の脚、踊り子の体勢によって、カンカンの素早い動きを表現した。画面左下から右上へと向かう対角線による構図は、同じ年の《宿屋の前のスペインの男女〉にも見られるものだが、この構図をもとに、床から暗い背景への濃淡の違いと踊り子の背景の緑から暗い背景への色調の変化によって、奥行きのある空間を生み出している。

 

 新印象主義のスーラ1890年31歳に《シャユ踊り》(クレラー=ミュラー美術館蔵)で、一列に並んで卿を高々と上げる踊り子たちを描いた。また、トゥールーズ=ロートレックは、その翌年に最初のポスター《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》で片脚を上げて踊る踊り子ラ・グーリュを描き、その後も踊り子をテーマにした数々の絵画や多数のポスターを描いた。このパステル画は、ピカソの作品の中でもトウールーズ=ロートレックの影響が強く感じられる1点である画面右下に“-PRPicasso-’’のサインがある

■母と子

 <1901年20歳 ベルン美術館>

 ピカソは身近な日常の光景を描いた初期の素描の中で子供を抱く母裏見の姿を描いていた。パリ時代の初期には、おそらく画商のベルト・ヴェイユから一般受けする主題を扱うよう助言され、やがて「青の時代」になるとこの母子像の主題を頻繁に取り上げるようになっていく。

 この作品では説明的な要素を排し、聖母子像を思わせる母親と赤子の姿だけを大きく描いている。画面の外を見ている子供に母親は視線を向けている。背景の黄色と子供の服の青が画面の色彩を支配し、母親の顔や左手にはっきりと見られるように、直線的な輪郭線が支配的である。この黄色の背景と直線的な輪郭は、フアン・ゴッホの《オーギエスタン・ルーラン夫人と赤子マルセル》(1888年、フィラデルフィア美術館蔵)に見られるものであり、両者の構図も非常によく似ている。当時このフアン・ゴッホの作品を所有していたのは、1901年6月にパリで初めてのピカソの個展を開いた画商ヴオラールなので、ピカソが実際にフアン・ゴッホのこの作品を目にしていた可能性も高い。

 

■道化役者と子供

  <1905年24歳 国立国際美術館>

 青いレオタードを着た少年は前で手を組み、うつむき加減で右下を向いている。傍らに立つ成人男性は羽根のついた丸い帽子を被り、赤のタイツとマントに身を包み、左前方を向きながら少年の両肩に手を置く。背景は画面下で二分され、彼らが舞台のようなところに立っていることを暗示している。成人男性の左脚にはっきりと見られるような、正確かつ生き生きとした輪郭線は、対象の実在性を見事に再現しており、ピカソの卓越した描写力をよく示している。

 グワッシュとパステルによるこの作品と同じ構図で描かれた油彩画は存在しないので、ある完成作のための習作の一つというわけではない。とはいえ、この作品は幾つかの油彩画と関連がある。人物配置の点で最も近いのは、《犬を連れた二人の曲芸師》(1905年、ニューヨーク近代美術館蔵)で、背景や犬といった付加的なモチーフがあるとはいえ、基本的な構図は共通している。より親近性があるのは《二人のアルルカン(道化師と若きアルルカン)》(1905年、バーンズ財団蔵)である。二人の立ち位置が逆とはいえ、いくつかの共通点が認められる。舞台を思わせる背景、(片手だけだが)肩に手を置く姿勢、画面の外側に向けられた二人の視線などである。

 このグワッシュ作品の習作とされるペン画がスケッチブック(パリ国立ピカソ美術館蔵)の中にある。この素描では少年はレオタードではなくアルルカンの服装をしており、傍らの成人男性は丸帽子ではなくクラウン・ハット(道化師帽)を被っている。身なりとしてはペン画の方がバーンズ財団の油彩画に近い。

 このグワッシュ作品に描かれた右側に立つ男性の羽根つきの帽子は、それまでのピカソの作品には登場してこなかった。やがて《ピエレットの婚礼》(1905年)のための習作素描《旅芸人》に同じ帽子を被り剣を持つ人物が後ろ姿で描かれることとなり、同じ人物は単独の素描でも描かれる。

 このグワッシュ作品の二人の姿は、「バラ色の時代」の最高傑作である《サルタンバンクの家族》の中央に描かれた二人の軽業師の姿を連想させる

 

■扇子を持つ女1905年24歳 

 <ワシントン・ナショナル・ギャラリー>

 顔は真横から捉えられているが、上体はわずかな角度がついている。肩の高さで前に出した右腕は、肘から下をほぼ直角に上げ、指を立てて掌を見せている。左腕は肘をほぼ直角に曲げて前に出し、閉じた扇子を持つ手は、手首から約4う度下に曲げられている。日常生活において、このような腕の形をとることはないため、一種異様な印象をもたらす。日本人には、右手を上げて左手を下げた仏像の印相を連想させる。この油彩画のための習作素描は3点(4図像)知られており、そのうちのう図像では右手を左手首の上に交差するようにのせて脱力している。別の図では扇子を握る右手を左肘につけ、左腕を上に曲げた姿勢がとられている。後者のポーズは、《扇子を持つ女≫と様式が最も似ている作品《パイプを持つ少年》のための習作素描にも見られる。つまり《扇子を持つ女》と同じ手のポーズをとるピカソの習作は残されておらず、習作では座って休息する姿であった女性が、完成作では動きのある姿に、いわば静から動に変化している。この作品をめぐっては、エジプトをはじめとする古代地中海世界のプリミティヴな美術の影響が指摘されてきた。片手を上げるポーズは古代イベリアのブロンズ彫刻の定型と言われている。また、アングルの《お前がマルケルスになるのだ》(1819年、ベルギー王立美術館蔵)との類似も指摘されている。さらに、モデルの無表情な顔に、1897年にスペイン南部エルチェで発掘され、1906年にルーヴル美術館で展示されたという《エルチェ婦人像》(紀元前4世紀、マドリード考古学博物館蔵)との共通性を見る向きもある。

 女性の顔は真横から描かれ、極度なまでに表情を見せていないため、硬直した、静的で冷たい印象を生んでいる。この女性に見られる、ぼんやりと遠くを見つめる眼差しは、傑作《サルタンバンクの家族》(1905年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)に描かれた人物たちのそれに共通する。

 色彩は女性の服の青緑が一番強く、背景もグレーの中に苦味がかなり入っているため、全体的に青っぽい印象を受ける。それゆえに「青の時代」の作品と見紛(みまが)いかねない。しかし同じ女性像であっても、描かれる対象は青の時代を特徴づけていた社会の下層に生きる女性ではない。また、その時代の作品がもっていた一種の陰鬱さからも脱却しており、手のポーズに典型的に見られるように、むしろ造形的な側面に対する関心の高まりを感じさせる。「バラ色の時代」の特徴である赤系の色が使われているのは、髪の毛の飾りとスカート、さらに肌になるが、背景にも赤味が入っている。

 

 ピカソの友人でコレクターであったレオとガートルードのスタイン兄妹は、この作品を購入して最初の所有者となった。購入の年は確定できないが、1905年11月末から1913年の間であることは間違いないようである。ちなみにピカソは1906年に有名な《ガートルード・スタインの肖像≫(メトロポリタン美術館蔵)を描いている。《扇子を持つ女》は、ガートルードが1931年に手放すまで、少なくとも15年以上は彼女の元にあった作品である。

 ■裸の少年1906年

 <油彩/キャンバス パリ国立ピカソ美術館>

 1906年夏のゴゾルでの制作を通じて、ピカソの作品に裸の青年という新しい主題が生まれたが、この作品はパリに戻ってから描かれたものである。この作品のペン画習作が残っており、この絵と同じポーズをとる男を背面や両側面から描いた図や、頭部だけを様々な角度から描いた図が1枚の紙にびっしりと描かれている。このペン画から判断すると、描かれているのは若い少年ではなく、25歳のピカソ自身である。背が低くて棒形の体型、大きな眼と立派な鼻、さらには短い髪(当時の髪形)はピカソの身体的特徴である

 油彩画では胴体に比べ、腕や脚といった四肢が異常に太く描かれ、重々しさが感じられる。顔にはあどけなさが残るが、目や耳や鼻は大きく表されている。こうしたヴォリューム感のある人体表現は、キュビスムを経た後の1920年代の作品に再び表れることになる。丹念に描きこまれた作品ではなく、基本的には黒い輪郭線によって全体が形作られ、その輪郭線を境界に背景と床と体の三つの似通った色彩によって彩色されている。顔に見られるプリミティヴな表現は、ゴゾルでの制作を通じて展開してきたもので、パリに戻ってからさらなる展開を見せることになる。鼻梁(びりょう・眉間(みけん)から鼻の先端までの線)に白のイライトの線を引くことで鼻に立体感を出しているとはいえ、片方の眉(まゆ)と鼻の輪郭線を一本の線で描くやり方は、翌年の《アヴィニョンの娘たち》における正面を向いた二人の女性の顔の表現へとつながっていく。右頬、首、わき腹、腕、右ふくらはぎには、斜めの線で簡単に陰影づけされており、とりわけ左腕の陰影表現にはキュビスムの萌芽さえも見られる。

■頭部1909年

 <油彩/キャンバス  公益財団法人日動美術財団> 

 1909年5月、ピカソはフエルナンド・オリヴイエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。本作もフエルナンドを描いた作品のうちの1点である。

 奥行きが曖昧な褐色の空間の中に、首を傾けたフェルナンドの頭部が太く明瞭な輪郭線で描かれている。黒い輪郭線を境界にして置かれた、鼻や頬骨のハイライトや、額や頬、顎の陰影によって頭部の立体感とヴォリューム感が出ている。フエルナンドをモデルとしつつも実際の彼女の容貌とは異なり、面長の顔にアーモンド形の目、くっきりとしたアーチ形の鼻梁、小さな口、三角形の鼻といった顔の各部分の捉え方には、1907年頃にピカソが触発された、アフリカやオセアニアなど非西洋圏の彫刻がもつ力強い造形表現からの影響がうかがえる。

 1907年の《アヴィニョンの娘たち》(ニューヨーク近代美術館蔵)の制作前後から、ピカソは三次元の物体をいかにして二次元の平面上に表すかという造形的な探求に専念していく。その過程で、人物の身体は頭、胴、腕、脚と単純化した各部の組み合わせとして表現されていった。対象や空間を立方体や幾何学的に単純化した形態で捉え直す手法は、自然を単純化し、幾何学的な形態に還元して捉えることで対象の本質的な構造に迫ろうとしたセザンヌの絵画からも強い影響を受けている。

 

 ブラックはピカソに先駆けて、1907年からセザンヌに影響を受けた風景画を南仏レスタックで描いていた。1908年、ブラックはアポリネールに連れられて〈洗濯船〉を訪れ、ピカソと出会う。同年、彼は幾何学的な要素に還元された風景画《レスタックの家》(ベルン美術館蔵)を描いた。そして、彼がそれをその年のサロン・ドートンヌに出品しようとした際、マティスが「立方体(キューブ)」という言葉を使って評したことが「キュビスム」という名称の由来となった。

 ■裸婦

 <1909-1910年油彩/キャンバス>

 持ち上げた腕を頭の後ろで組んで立つ裸婦。本作では裸婦の頭部、胴、腕、脚といった人体各部は認識できるものの、オルタ・デ・エブロ滞在時に描いた人物像と比べると、もはや表情は読み取れなくなり、肉体の丸みを帯びたフォルムも割合を減らし、頭部や腕、強調された腎部などのほかは、分析と解体が進んで、線と幾何学的な面の集積として表現されている。1909年9月にオルタからパリへ戻って間もなく、ピカソは〈洗濯船〉のアトリエを出てフエルナンドとともにクリシー大通りのアパートヘ居を移した。同年の後半から、画面に描かれる対象は次第に小さな面に分割されていく。本作は、いわゆる「分析的キュビスム」の特徴がよく表れている作品であり、ピカソのキュビスムの展開をたどる際の重要な1点と言えるだろう。

 「分析的キュビスム」に本格的に突入した1910年後半から1911年にかけて、ピカソの対象の分析はさらに進む。三次元の空間にある対象はクリスタルやカットグラスの切子面を思わせる形態に細かく解体され、線と、グレー・褐色・緑といった比較的暗い色の濃淡とともに二次元の画面上に再構成されていった。この時期、キュビスムの初期段階に描かれていた風景画はピカソの作品にほとんど登場しなくなり、人物や静物が解体の対象となっていく対象が徹底的に解体された結果、人物の頭や脚、テーブル上の果物など、描かれたものを暗示する断片はどんどん小さくなっていき、ついには何が描かれているのか識別できないところにまで到達することになる。

■ポスターのある風景

 <1912年油彩、エナメル/キャンバス 国立国際美術館>

 1912年31歳5月半ばから、ピカソは新しい恋人エヴァ・グェル(本名マルセル・アンベール)とともに南仏のセレ、アヴィニョンに滞在したのち、占月末にアヴィニョンの北にある小さな町ソルグに落ち着く。ピカソとエヴァは、前年にスタイン兄妹を介して知り合っていた。7月にはブラック夫妻もソルグに合流した。

 本作はソルグ滞在が始まって間もない時期に描かれた。直線と、白とグレーの幾何学的図形の重なりで構成された画面の中で、ピンク、緑、黄の明るい色が目を引く。それぞれの色面の中に“Lcon’’、“PERNODFiL5”、“KUblOc’’の文字が読み取れる。これらの中でもとくにべルノーの酒瓶が目を引くために、本作を静物画と捉える人もいるだろう。実際は、アヴィニョンーソルグ間を走る路面電車から見たソルグの街並みを描いたものであり、“Leon’’、‘‘PERNODFiLS”、‘KUb”(10サンチームで売られていたスープの素の名前)と書かれた部分は、道路沿いに立つ看板に貼られたポスターを意味している。“KUb”の文字の上に「キューブ(立方体)」の輪郭を重ぬているところは、ピカソの遊び心だろうか。

 キュビスムの初期の段階には、しばしば風景を描いていたピカソだったが、次第に対象を人物や静物に絞っていく。広がりと奥行きをもつ風景は、奥行きの浅い空間に対象を構成するキュビスムの様式に馴染(なじ)まず、ピカソやブラックは、より身近にあって様々な視点からの観察が容易な対象へと関心を移していった。それゆえに、この時期の風景画の作例は極めて珍しいと言える。また、それまで徹底的に対象を解体し、小さな面へと分割していたピカソだったが、この頃から次第に構成要素を大きくまとめ上げていくようになる。文字の導入や明るい色の使用にも見られるように、本作は「分析的キュビスム」から「綜合的キュビスム」への移行期の特徴をよく示している。

■ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙

<1913年油彩、砂、新聞紙/キャンバス  石橋財団ブリヂストン美術館>

 「分析的キュビスム」を突き詰め徹底的に対象を解体していくと、画面上に現れるものは、もはや何を描いたものか判別がつかない、線と小さな幾何学的形態の集積と化していく。ここで注意したいのは、ピカソとブラックが追求していたのは、あくまで目の前にある三次元の現実を造形的に解体して二次元の画面上に表現することであって、実在する対象を描いている点で絵画と現実世界との間につながりを持たせていた点である。1911年、ピカソとブラックの分析的キュビスムは最高潮に達する。しかし、分析的キュビスムを徹底した結果、対象が難解な構築物に成り果て、現実との接点を失っていくことは彼らの目的とするところではなかった。この頃から、ピカソとブラックは絵画と現実との接点を取り戻そうと試み始める。この時期の作品に見られる文字の導入や明るい色の使用も、そうした試みの一端である。さらに、新聞紙や紙、布の断片といった現実に存在する素材を貼り付け、画面に取り込むようになる。コラージュやパピエ・コレと呼ばれるこうした手法をピカソが初めて使ったのは《藤椅子のある静物画》(1912年、パリ国立ピカソ美術館蔵)と言われている。彼はここで、藤細工の網目が印刷された油布を貼り付けて椅子の藤編み部分を表し、その上や周辺に絵具を重ねて静物を描いた。

 本作では新聞紙片が貼り付けられている。画面中央の瓶の一部を成している新聞紙には、彩色が施された上に“MAR”の文字があり、マール(ブドウの搾りかすを蒸留した酒)の酒瓶であることを示す。その左右の紙片には”JOURNAL”の文字の一部が見え、新聞を表している。タイトルにもあるグラスは画面右側に描かれている。コラージュによって現実の断片が取り込まれるとともに、「分析的キュビスム」の段階では小さく分割されていた形態も、ここでは大きな面の集合として捉えられ、まとめられている。この時期、キュビスムは「分析的キュビスム」から「綜合的キュビスム」と呼ばれる段階へと至る

 ■読書をするコルセットの女

 <1914-1917年油彩、砂/キャンバストリトン・コレクション財団>

 座って読書をしている女性。女性の視線は膝上あたりに置かれた本のページヘと向けられている。胴部には女性が身に着けるコルセットの留め具が見られる。その左右の曲線は、コルセットによって強調された女性の腰のくびれを表しているのだろうか。モデルを解体した形態は大きくまとめ上げられ、それぞれの境界を示す線が強調されている。画面に配された色は、グレートーンとまではいかないものの、全体的な色調は暗い三次元の立体を二次元の平面上に表すキュビスムの手法では、幾何学的形態の集積や重なりによって対象が再構成されているが、ここでは各形態が平面上に並置されたような構成となっている。

 

■肘かけ椅子のベルベット帽の女と鳩

 <1915ー1916年油彩/キャンバス  宮崎県立美術館>

 本作は、キュビスムの共同作業者ブラックが第一次世界大戦のために召集されたあと、ピカソがキュビスムの探究を続けてtlた時期に制作された。人物や静物を描いた1914年から1915年にかけての作品の中には、落ち着いた色調もあいまって、どこか陰鬱な調子が認められるものがある。それらは、大戦による友人や支援者の不在、戦争に対する不安、父ホセや恋人エヴァの死など、経済的、精神的に不安定な状況にあったといえる当時のピカソの心境が表れているかのようである

 戦場へ赴くブラックとドランをアヴィニョン駅で見送り、「二度と彼らを見ることはなかった」というピカソの言葉は、戦後、復員した彼らとの関係が戦前ほど親密なものには戻らなかったということを喩えている。この後、ブラックとピカソは互いの動向を注目し合ってはいたものの、以前のような密接な協力関係のもとでキュビスムを研究することはなく、それぞれの進むべき方向を模索していくことになる。

■ オルガ・ピカソの像

 <1918年油彩/キャンバス メナード美術館>

 1915年34歳秋ピカソは音楽家エドガー・ヴァレーズを通じて詩人ジャン・コクトーと知り合う。1916年にはコクトーを介してバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者セルゲイ・ディアギレフや作曲家エリック・サティとも知り合ったピカソは、彼らが計画を進めていたバレエ「バラード」への参加を持ちかけられ、舞台美術と衣装のデザインを引き受けた。そして1917年2月、「バラード」の仕事でバレエ・リエスに合流するためにローマを訪れた際、ピカソはバレエ団のダンサー、オルガ・コクローヴァと出会う。1915年末に恋人エヴァを病で失っていたピカソにとって、オルガは心の空白を埋める存在となり、交際を深めていった二人は、1918年37歳に結婚した。

   

 本作では、正面に真っ直ぐな視線を向けるオルガを、アングルを思わせる写実の傾向を強めた手法で描き出している。キュビスムから一転する写実的な画風への変化については、1914年の《画家とモデル》(パリ国立ピカソ美術館蔵)においてすでに始まっている。当時、1914年8月2日に勃発した第一次世界大戦のために、キュビスムの同志ブラックや友人のドランが徴兵され、キュビスムの擁護者だったアポリネールも戦場へ向かったことで、ピカソはキュビスム探究の共同作業者を失っていった。また、第一次世界大戦の開戦を契機に愛国主義の機運が高まり、芸術分野においてもアヴァンギャルドへの反動として明快と秩序を旨とする伝統へ回帰する傾向がみられるようになっていった。こうした幾つもの要素に加えて、バレエ・リュスとの共同制作や、それに伴う初めてのイタリア旅行で古代の都市や遺跡を訪れ、ルネサンスからバロックまでの名品を目にするといった機会が重なり、ピカソは古典的なものへの憧憬を強めていく。いわゆる「新古典主義」の時代の幕開けである。とはいえ、ピカソがキュビスムを捨て去ってしまったわけではなく、1914年から1920年代前半までの間、作品には「綜合的キュビスム」と「新古典主義」の二つの様式が併存していくことになる。

■泉

 <1921年油彩/板  泉屋博古館分館>

 1921年三月に長男パウロが生まれ父親となったピカソは、産後の妻と幼い息子を気遣い、その年の夏の避暑先として、恒例の南仏ではなくパリ近郊のフォンテーヌブローを選んだ。本作は、フォンテーヌブロー滞在中にピカソが描いた大作《泉のほとりの三人の女》(ニューヨーク近代美術館蔵)のための数多くの習作の中の1点である。ここでは横長の画面に、古代ギリシア風の衣装を身に着けた三人の女性が泉のほとりに集い、岩場から湧き出る清水を汲む様子が描かれている。単純化され、かつ重量感ある身体表現や、衣服の襞の処理などからは、古代ギリシア彫刻の影響を感じさせる。完成作になると、やや縦長の画面いっぱいに、身体のヴォリューム感と存在感を増した三人の女性が、より緊密に構成されて描かれることになる。

 

 フォンテーヌブロー滞在時、ピカソは「泉」と題する作品を何点が制作している。水瓶(アンフォラ)を抱えたニンフを思わせる女性像や、水瓶や泉から流れ出す水といった表現は、自然の豊穣と生命の宿りの象徴であり、ピカソの初めての子を宿したオルガと、彼女との間に生まれたパウロヘの思いが込められている。また、このとき滞在したフォンテーヌブロー(Fontaincbleau)の名称が「美しい水の泉」を語源としていることも無縁ではないだろう。 同じフォンテーヌブロー滞在中に、ピカソは「綜合的キュビスム」による2点の大作《三楽士》(ニューヨーク近代美術館蔵)および《三楽士》(フィラデルフィア美術館蔵)を描いている。この滞在中にピカソは、この時期に併存していた「新古典主義」と「綜合的キュビスム」、それぞれの様式を代表する大作を生み出すこととなった

■母子像(子供を抱く女)

 <1921年油彩/キャンバス  公益財団法人ひろしま美術館>

 1921年三月4日、オルガとの間に長男パウロが誕生する。父親となったこの年、ピカソは精力的に「母と子」をテーマに制作している。《母子像》(下図)はこの時期に描かれた母子像の中でも代表的な作例で、様式的には1ヲ19年以降のピカソの作品において支配的となっていった、いわゆる「新古典主義」の時代に属する。どっしりと安定感のある身体、ふっくらとした手足による彫塑的な立体感は、《母子像(子供を抱く女)》(cat.no.86)を含め、同じ1921年に描かれた他のⅠユ7母子像にも見てとることができる。片手で足を抱え、もう一方の手を差し出す幼子のポーズもまた、「母と子」をテーマにした一連の作品の中で転用されている。

 

 この時期の「母と子」をテーマとした何点もの制作が、ピカソにとって初めての子であるパウロの誕生に触発されていることば想像に難くないが、実際に描かれた母子像を見ると、そこにオルガやパウロの外見的な特徴を見出すことはできない。父親としての個人的感情を抑え、どこか距離を置くかのようにピカソが描いていることに対しては、ピカソの「恥じらい、気後れ」によるものと見る向きもある。ピカソはここで、現実の家庭の風景ではなく、母子の姿を冷静に観察したうえで、普遍的な母子像として描いている。ただ、その一方で、これらの作品に描かれているような、母親が幼子の手を取り柔らかく口づけ、二人が戯れる様子からは、母子の親密さや情愛がにじみ出ているようにも見える。

 ■魚、瓶、コンポート皿(小さなキッチン)

<1922年油彩画/キャンバス 群馬県立近代美術館>

 テーブルの上に置かれた、魚、レモン、パン、瓶、コンポート皿。魚の下には−‘LEJOURNAL’’の文字が見える新聞紙が敷かれている。テーブルの鍵穴付きの引き出しからはスプーンとフォークがのぞいている。

 夏のヴァカンスでは地中海沿岸を訪れることが多かったピカソだが、19年の夏は妻オルガや息子パウロと共にブルターニュ地方の海辺の町ディナールで過ごした。大西洋に面し、突き出した岩の岬が見られる海岸風景は、ピカソが10代前半を過ごしたラ・コルーニヤの海岸を思い出させるものだったという。

  

 「小さなキッチン上図右と題されているように、描かれているのはピカソ一家の滞在先の室内風景なのだろう。鮮やかな色彩による色面で構成された画面は、まるで夏の強い日差しや明るい光を取り込んだかのようである。これはディナール滞在中にピカソが制作した作品に共通する。同じディナール滞在中の制作として知られる作品に、海辺を疾走する二人の女性を量感ある身体表現で描いた《海辺を走る二人の女≫(パリ国立ピカソ美術館蔵)上図左がある。四肢を画面いっぱいに広げて、駆ける女性たちのダイナミックな躍動感が伝わってくる作品だが、その背景の突き抜けるような海と空に用いられている鮮やかな青が、本作にも共通している。