アバンギャルドの時代1914-1917

000111■アヴァンギャルドの時代1914年−1917年 

 フォルトゥナート・デペロがイタリア未来派に所属することが正式に承認されたのは、1915年24歳の春、ウンベルト・ボッチョーニ、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッテイ、ルイジ・ルッソロ、そしてカルロ・カッラの署名のあるジャコモ・バッラに宛てた手紙によってである

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 未来派が運動を開始したのが1910年17歳であったとすれば、この承認はいささか遅すぎるきらいはある。しかし1916年23歳以降、すなわちアントニオ・サンテリアとボッチョーニ亡き後の未来派運動の展開に彼が与えた展望を考えれば、デペロが未来派の理論的展開に参画したことは本質的に重要なことだった。

 実際1915年22歳の初めの数カ月に、彼がバッラとともに作成した「未来派による宇宙の再構築宣言」の草稿は、未来派運動の第二の波動の出発点としてとらえねばならない。その波は1920年27歳代末になっても衰えることなく広がり、ことにデペロにとっては1960年67歳のその死にいたるまで、彼のすべての芸術作品を貫くこととなった。

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 デペロは、ボッチョーニ、カッラ、ジーノ・セヴェリーニ、そしてルッソロよりも少なくとも10歳、またバッラよりは20歳も若かった。こうした同胞たちは皆、19世紀末最良のイタリア絵画、ことにジュゼッペ・ペリッツア・ダ・ヴォルペード、ガエターノ・フレヴィアーティ、ジョヴァンニ・セガンティーニといった画家たちの中から生み出された分割主義の伝統を引き継いでいたが、デペロは彼らとはまったく異なる文化的背景によって未来派に到達したのである。

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 よく知られているように、分割主義はその科学的寄与と精神的、象徴的な色彩の両面で未来派の展開には決定的な重みを持っていた。それはきわめて有名な1911年18歳のボッチョーニの作品《立ち上がる都市》上図左から、同じ年にカッラが制作した《アナーキストガッリの埋葬》、さらにセヴェリーニの<青いバレリーナ》(1912)、そしてバッラが1912年に描いた《バルコニーの娘》下図左《ヴァイオリニストの腕》《鎖につながれた犬のダイナミズム》下右といった、イタリア前衛芸術の最初の偉大なる時期を代表する作品にはっきりと見て取れる。

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 一方、1913年末にローマに赴いたデペロが携えていたのは、中央ヨーロッパの確固たる文化的伝統だった。彼が受けたアカデミックな教育は、フェリシアン・ロッブスやアルベルト・マルティーニらの象徴主義的影響が強かったが、それと同時にユーゲントシュティールの生命力がかなり深くまで浸透していたものだった。このような文化的背景の上に、『ラ・ヴォーチエ・トレンティーナ』紙の発行者だったトゥッリオ・ガルバリとアルフレード・デガスぺ−リという知性によって養われた、揺るぎなき併合主義(訳註:オーストリア支配下のアルト・アーディジェ地方などをイタリアに併合しようとする運動)の信念が加わっていた。ちなみにこの新聞は、当時の地方政治をめぐる思潮の中でも反主流派の声を反映した、プレッツオリーニの有名な『ラ・ヴォーチェ』誌を模範として生まれたものである。デペロが象徴主義に傾倒していたよい例として、1913年20歳に彼が自費で出版した小冊子『スペッツァトゥーレ』に発表したデッサン《印象・しるし・リズム》がある。それはこの本の序文に彼自身「奇怪なダンス、矛盾に満ちた精神錯乱の中にある狂おしい力」と書いているように、グロテスクなイメージを並べたものである。この小冊子は挿絵のほかに詩や散文を含んでおり、それらは自伝的な内容を暗示しながら、現代芸術と芸術家の役割についての理論的考察を展開しようとする最初の試みを表している。

 そこにはニーチェの思想的影響がはっきりと見て取れるが、同時にすでにふれたロッブスのほか、クピーン、フォン・シュトウック、アルピン・エッガー・リンツなど、象徴主義の画家たちの作品との関連も明らかである。彼らは、例えばケーテ・コルヴィッツの《バウエンクリーク(農民戦争)》のシリーズがよく物語っているように、現実を告発する表現へと向かった芸術家たちだった。

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 この小冊子にはデペロの三つの性格がよく表れている。彼は世紀末以降の思潮にのって、社会的、人道主義的問題に深い興味を示しているが、その一方で、地方の疎外された環境の中で生きる知性の困惑を表明している。そして最後に彼は、社会における芸術の推進者的役割と、過去の芸術的模範からの解放の必要性を熱心に語っている。この最後の問題をデペロは、未来派による初期の宣言を視野に入れて解決しようとした。したがって小冊子『スペッツァトゥーレ』は、伝統と革新とを分かつ一種の分水嶺的作品ととらえることができる。そしてこの革新を、彼はすぐ後に未来派という名前で呼ぶことになる。

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 こうした中で、1913年20歳の春にガルバリとともに行ったフィレンツェへの旅は決定的な意味を持った。その短い滞在期間にデペロは、『ラチェルバ』誌を中心として活動していた未来派の面々と会うことができ、特にトレント出身のジジョッテイ・ザニーニとは親交を持った。それは同13年の秋にロヴェレートで彼が組織したデベロの個展に結実した。

 展示された作品は私たちにははとんど知られていないが、分離派後期の流れを引き継いだ作品には、ことにデペロの造形的な問題に最も近かった芸術家であるリンツの、ドラマチックな造形性がはっきりとどめられている。その一方、《造形的抽象〉、《キュビスムの試み〉、〈総合とリズム》、あるいは(カッラとルッソロを想起させる未来派絵画の試み》という題名から容易に推測されるように、すでに未来派の造形的実験に結びついた作品もある。

 デペロは1913年12月にローマに着くとすぐにスプロヴィエーリ画廊におけるボッチョーニの展覧会を訪れ、その印象を書きとめている。そこに反映されている熱のこもった言葉は、彼の感性が未来派に向かって開かれてゆく、まさにこうした状況の中でこそ理解できるのである。そこには次のように記されている。

 「ローマに着いて1週間たつ。私が最初にしたことの一つは、未来派彫刻家のボッチョーニの展覧会を訪れることだった。(中略)個々の作品をぐるりと回り、鑑賞し、じっくりと観察し、爪先立ちになったり、かがみこんだり、新鮮な興味を覚えつつ、新しい衝撃が体に走るのを感じ、あらゆる神経がぴりぴりとした。瓶や皿、テーブルなどの線、手の神経を駆使した視覚的記憶の切子面的表現、人物と環境との融合……純粋な抽象芸術、線・・速度、量塊・・悪夢、思わせぶな角の作りだす音楽性や心の状態の造形表現・主題と芸術でも、装飾と芸術でも、肖像と芸術でも、写真と芸術でもなく、むしろ線・・色彩・・形態による調和感覚の純粋な追求によって、視覚・・聴覚・・嗅覚・・味覚・・触覚を生み出す芸術、主題を物語るのではなく、大脳の緊張をめざした彫刻・・絵画、彫刻・・音楽

 1913年末と翌14年の最初の数カ月の間に、ボッチョーニを発見したことや、バッラをはじめ、スプロヴィエーリ画廊をめぐる一群の芸術家、特にマリネッティとフランチェスコ・カンジュッロとの親交のおかげで、デペロは未来派的な造形の実験に大いなる情熱を傾けるようになった。彼がことさら興味をいだいたのは、空間の中で動く形を無限に組み合わせることのできる造形的ダイナミズムの革新性だった。彼は量塊を遊戯のように解体することに躊躇することなく着手すると、次に視覚の同時性の理論へと進み、痕跡としての光」を用いた運動表現に取り組んだ

 1914年4月13日・21歳に、デペロはローマのスプロヴィエーリ画廊で開催された「国際自由未来派展」に参加する。そこには彼とともに、イタリアにおける展覧会はこれが初めてというカンディンスキーや、アーキペンコ、アレクサンドラ・エクスターなどすぐれた芸術家をはじめ、もちろん未来派からもボッチョーニ、マリネッテイ、バッラ、カンジュッロ、エンリコ・プランポリーニなど、ほとんどみなが出品した。

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 《電気のための習作》やMARTコレクション所蔵の習作のおかげで私たちに知られている絵画作品《カフェ・シャンクンのダイナミズム》は、このスプロヴィエーリ画廊の展覧会に出品された作品である。上記2点の素描は、デペロの未来派としての出発点をよく表している。この時期、彼はボッチヨーニに影響された造形表現と、あらゆる細部を引力によってまとめるバッラの造形的実験との間を揺れ動いていた。しかしこの対照を通じて、彼は未来派の理論的基礎をきわめて独創的に作り上げる糸口を見出した。結局デペロは、いわば感覚的な美を求める方向をとり、形態の相互浸透と造形的ダイナミズムというボッチョーニの造形志向をあまり重視しなかった。このような事情から、運動している形は全体的なヴィジョンを回復し、遠近法的ダイナミズムよりもむしろ平面的な表現がはっきりと打ち出されたのである。

 他方、彼はバッラの複合素材による実験を徹底することに成功し、それに包括的な美学的裏付けを与えながら、彼が若い頃からすでに馴染んでいたヴィーナー・ヴェルクシュテッテ(ウィーン工房)の対理念「芸術と生活」を確立した。要約すれば、デペロの未来主義は、ボッチョーニの厳格な造形主義を経験した後、バッラによって開かれた道を選び、そこから形態の抽象へと向かう展開を準備しながら、ダダイスムの反絵画、とりわけその理論的ヴィジョンにひかれていったということができる

Giacomo_Balla_Planet_Mercury_passing_in_f_14133 ジャコモ・バッラ-≪自画像

 バッラに対する共鳴により、デペロの作品には短期間に、理論と実験に共通する多くの要素が芽生えた。それは1914年21歳の『造形的複合・・未来派自由遊戯・・人工的生』と題された草稿に記された考えに明らかである。「絶対的な詩・彫刻・音楽と対立し、驚嘆すべき造形的複合に対する超越的・電気的・意志的・造形的感性をそなえた、無謀な狂気の若者たち」に捧げられたこの記述は、彼がバッラとともに署名し、1915年22歳から1930年37歳にかけての未来派運動史にとって基本的な典拠となる有名な「未来派による宇宙の再構築宣言」(1915年3月11日)の最初の草稿になった。

 この草稿と宣言は、1910年から1914年にかけての未来派宣言に含まれた理論的訴求や作詩に関する指示をもとにした、真の意味での総合ととらえることができる。その根底には、古代ギリシャの「ポイエイン(作る)」の価値を見直そうとする志向や、世界を再現するのではなく再構築しようとする意欲が存在する。と同時にそこには、未来派の同時性という理念が持つ、美学・・認識論上の本質的な革新の一つ、すなわち現実に直接介入し、それを改変する能力を芸術家に付与しようとする精神が大きく作用している。

 芸術家は言語のあらゆる違いを越えて自由に行き来せねばならない。伝統的な意味論的価値をすべてゼロにすれば、新しい語彙を整備することができる。また日常生活で使われる現実的表現と芸術的表現との間に、言語のエネルギーのやり取りを促進させねばならない。それによってエネルギーはこの二つの領域の内部に重要な変化を生み出し、両者は二つの異なる場ではなく、むしろ一つの枠の中に一体化することができるのである。これこそが「未来派による宇宙の再構築」にほかならない。「宣言」には次のように述べられている。「未来派たるわれわれバッラとデペロが、こうした完全なる混交を実現しようと望むのは、宇宙を再構築すること、すなわち宇宙を活性化し、全体として再創造することである」。

 この宣言はこの数カ月間に二人が「造形複合体」の名のもとに行った、絵画と彫刻を「超越する」実験の理論的な基礎となった。バッラとデペロと同時期に、プランポリーニはこの「造形複合体」を「現実的な何らかの要素が我々に引き起こす感覚や感情を、それと等価な抽象物によって要約し、表現する自動雑音の絶対的な構成」の考えに応用している。20

 もはや絵画でも彫刻でもないこの造形複合体は、針金、厚紙、網、銀紙、布から作られて着色され、最初は緩慢に、そしてしだいに優雅に動く構造をそなえている。それが作品として成立するのは、その見世物的、気晴らし的な要素のためだけでなく、形の持つ強い喚起力のためであり、またその諧謔的な気まぐれのためだけでなく、純粋な造形的抽象というその性質によってである。

 造形複合体は、ボッチョーニが切望していた空間における形態の伸長と膨張を実現した。彼は形態に活力を組み入れるためにそれを切開する必要を感じていたが、そればかりでなく、使用する素材の持つ豊かな可能性をもとにした多様な表現能力をすでに察知していた。こうした造形複合体は、絵画から彫刻、建築からデザイン、そして音楽まで、あらゆる芸術の分野をその中間で結びつけるものだった。

 これまで明らかにしてきたように、デペロのこの方向性は、彼がはっきりと分離派の美学に向けられたトレントの芸術風土の中で、芸術形成期の数年間をすごしたことからすれば、きわめて自然なことだといえよう。明らかに象徴主義に由来する「芸術のための芸術」の原則に立ち、英国の「アーツ・アンド・クラフツ」の理論を承知していたデペロは、最初の芸術教育を、倫理学と美学とを融合させた総合的経験として受けていたのである。したがって彼は、異なる素材といくつかのジャンルの間に存在する差異をゼロにすることによって、世界とその事物のイメージを追求するプロセスに芸術家が直接介入する可能性を直観していたのだった。

 しかし造形複合体は、当時のマルチメディア的な表現に密接につながる構成要素とならんで究極的な問題、すなわちボッチョーニ以降の未来派の評価につながる問題を投げかけ、また抽象的等価物、言い換えれば現実の感覚的側面を類似の仕方でなぞるという考えを生み出すことになった。それは20世紀初期のヨーロッパ前衛芸術を論ずるなかで、その中心的要素として理解されている抽象の問題の核心に触れるものである。

 エンリコ・クリスポルティは、デペロとローマの未来派周辺との関連を分析した論文の中で、この間題を中核的なものとして扱っている。抽象的な形態との格闘は、もちろんデペロに限ったことではなかったが、しかしその作品に未来派の作詩法への最大の信頼を見せているこのトレントの芸術家にとっては、ことさら意味深いものだった。

 こうした経験を経て、彼の絵画はわずか数年の間に、まったく新しい魔術的・・形而上学的な構成要素を扱うようになる。これは未来派の伝統な作画法から、彼がしだいに遠ざかったことを示している。デペロが1916年の個展に発表した抽象的絵画のシリーズはもとより、1915年の素描に見られる密度の高い総合的な造形性とアナロジー的表現の実験も、この文脈で評価されねばならない。《抽象的輝き》、《バレリーナ・レリン・ズィオ・ズィオ》のような作品では、立体一夫来派にもとづくダイナミックな形態の解体がすでに支配的になっていると同時に、具象表現によってではなくアナロジー的総合という問題を芸術的に扱おうとする努力も見られる。後者はこの時期から「輪郭」による形態の決定だけでなく、むしろヴォリュームの構造的、造形的な表現においていっそう重要性を持つようになる。 50

 この1916年の展覧会に出品された《小鳥の運動〉(上図)について、クリスポルティは次のように述べている。「色彩がまさに歌っており、1915年の絵画作品に見られた色彩効果を想起させる。抽象−アナロジー的総合は、そこでは大きな彩色造形の構築物へと成長し、いくぶん寓話・・・説話的なほのめかしをともないつつ、動物の主人公のダイナミックな動きを包括的に描写している」。

 色彩とともに運動は、デペロのあらゆる他の絵画と同様、ここでも真の主役である。その動きの分析では、空間の中で形相転する効果と、平面に長影されたそれらの像の表現の研究がなされている。この時期の絵画をくわしく見ると、厳密な意味でのボッチヨーニ的な、形態の造形的なダイナミズムの表現とか、ましてや空間にそれらが流動体として広がっていくという印象は受けない。むしろ重なりあう平面の中にしっかりと構築された、新しい形態の登場を目の前にするのである。そこでは求心的な張力と軌道がその内部を横切るが、それらは鳥を囲む空間を支配する色彩の中に広がっていくことはない。

 同じ文脈で解釈されるべきものとして、同じく1915年に制作された形態と数字の《抽象的相互浸透〉(0)というインクによるデッサンがあり、これらはバッラの作品から大きく影響されたものに数えることができる。

 いわゆるデペロの「抽象の時代」は大変短く、彼の芸術的追求はそれで終わることはなかったし、同じ2年間に、彼はむしろドイツ表現主義の版画表現に近く、また時として分離派の装飾的要素に直接依拠するような、ほとんど正反対のモティーフのレパートリーを考案していたことは興味深い。それらはたいていインクによる小さなデッサンの形式をとり、そこに表現されたモティーフであるマネキン、人形、ロボット、玩具、幼児服などは、彼が将来、絵画、演劇、広告、彫刻に用いるイメージの源泉と考えることができる。デペロについて語る時には、主題とモティーフ、創意と暗示が、演劇から絵画、建築、そして20年代の最盛期には応用美術と広告にまで、彼の作品の中を自由に移行することを念頭に置かねばならない。

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