桃山の美術

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■桃山文化・天下人の世界

林屋辰三郎

▶桃山という時代

 桃山文化はひとくちにいうならば,天下人(てんかびと)の世界が生み出した文化である。この桃山の時代に生きて,『慶長見聞集』を書きのこした三浦浄心は,「さてもさても目出度(めでた)き御時代かな,わがごどき土民まで安楽にさかえ,美々しきことどもを見聞く事のありがたさよ,今が弥勤の世なるべしという,実に土民のいい出せる詞(し)なれども,まったく私言にあるべからず」と書いたが,ここで弥勤の世界と評されたのは,すなわち現実的には天下人たちがつくり上げた世界なのである。天下人とは,いうまでもなく安土桃山時代に天下を一統した織田信長*豊臣秀吉*徳川家康*の三傑ともいうべき人々である。信長を倒した明智光秀も,天下人を目指していわゆる3日天下に終った人である。誰もが天下人となろうとして,戦国時代をたたかい抜いたのだが,結局,天下人は3人にとどまった。

11 2 豊臣秀吉像画稿光信筆

 そのように魅力的であった時代をあらわすのに,「桃山」という呼称はいかにもふさわしく,ユートピアとしての桃源郷をも思わせるのだが,実は,天下人の時代も終って,秀吉が築城し,関ケ原役後に修築された伏見城も廃城となってから,その城山に桃樹がうえられてかくも名付けられたのである。延宝のころ伏見は桃花の名所となって,京都からも桃花見物の人々があり,芭蕉も,「野ざらし紀行」にこの地を訪れて,「我衣にふしみの桃の雫(しずく)せよ」と詠んだ。いうならば,桃山という呼称のなかに,天下人たちのおおらかで,豊かな世界を追慕する気持も宿っていたであろう。学界の一部には,桃山文化を伏見文化と云いかえる意見も出たことがあるが、やはり桃山であることが,天下人にも弥勒の世(仏教で、弥勒菩薩がこの世にくだって衆生を救うとされる未来の世)にも通ずる呼称であろう。

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 ここで桃山という時代の特徴を,簡単にいうならば,第一は,天下人という絶対的な専制権力者の出現したことであった。この人々は長い戦乱の世を克服して,日本に平和をもたらした点で待望の英雄であったが,信長は鉄砲*という新兵器によって,長篠合戦*に代表されるように馬と弓矢の戦争を圧倒したのであり,同時に農民に対しては刀狩りによって武器をとりあげ,検地によって土地への緊縛をはかったのである。専制的権力による平和である。しかし,そのような幻想的な平和であっても,大きな歓呼をもって迎えられたことはまちがいなかった。

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 第二は,「金銀涌出」といわれるような黄金の産出によって,天下人は弊制の統一をはかり,権力を黄金をもって荘厳したものだが,同時にこの黄金は領国産業(戦国大名が自分の力で作り上げた支配地を領国(分国)と呼び富国強兵をはかり、積極的に銀山などの鉱山開発を行った)と都市商業の発展を象徴するものでもあった。

金

 さきの三浦争心が「若き此ハ一両二両,道具の外し金をみても,まれ事のように思ひ,五枚,三枚持たる人をば,世にもなき長者・有徳老などといひしが」と往時を述懐しながら,「今は,いかやうなる民・百姓に至る迄も,金を五両・十両持,さてまた分限者といわれる町人連は,五百両・六百両もてり」と書いている。こうした経済成長のなかで町人の世界もひらかれはじめているのである

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 第三は,鉄砲もその一つであった南蛮文物の渡来によって,人々に国際的視野がひらかれてきたことである。彼らは「南蛮人交易図」*が示すように,その交易を通してさまぎまな珍奇な文物をもたらした。世界図といわれるものももたらされて,これまでの日本・中国(唐)・インドてんじく(天竺)の三国的世界観は終止符をうち,世界を知るようになったのである。なかでもキリシタン(切支丹)の伝来は,日本人のものの考え方の上にも,封建的倫理とは異なった人間平等,一夫一婦制などの新鮮な思想をもたらしたが,その普及の間には,能・浄瑠璃などの日本の芸能にも影響を与えたのである。逆にいえば,外国文化をも新しい創造に役立てるところに,桃山文化の一つの特徴があったといえるであろう。

 こうしてみると,天下人のもとに黄金がみちあふれ,珍奇な文物がとりいれられた桃山という時代は,56億7千万年のちに到来するという仏説の弥勒世界が,いままさに現実になったように人々に映ったのも,決して無理ではなかったのである

▶天下人の周辺

 その天下人たちが,すべて尾張・三河の土地の出身であり,三日天下といわれた人も美濃を故郷としていたという事実は,一体どのように考えられるであろうか。このいわゆる中部日本が,天下人の郷土であったことには,これまでも幾つか理由を挙げられていた。

 その一は,日本の東と西との情報交涜の中継点であったということ,

 その二は,豊沃な濃尾平野を擁して,農業生産力が極めて高かったこ

 その三は,商品の生産・流通のかなめに当っていたこと,等である

 いかにももっともな理由であって,この地の地理的条件からいえば,美濃・尾張・三河を一地域として日本列島の中心部を占めていたのだから,日本の首都の地としても十分可能性をもっていたと考えられる。しかしこの地に欠けていたのは,公武双方の伝統であった。王朝の首都=京都からも,幕府の故地=鎌倉からも一定の距離があった。従って天下人が伝統を求めるとすれば,京都か関東かを選択せねばならなかったのである。秀吉は京都を,家康は関東を選ぶことになるのだが,信長の場合は,この地が近江に隣接していたことが,最も重要な天下人の要因となったと思う。

 信長は決して公武何れの伝統にも拘泥する人ではなかった。その意味で,最初の天下人となった彼は,たぶん統一の段階で,京都をも鎌倉をも彼の首府とは考えてはいなかったと思う。ましてや石山(大坂)の一向一揆の故地などは,問題にもしていなかったろう。信長の首都は,最終的にも近江安土であったのではなかろうか。信長が近江を注目したにっいては,まず天下一統の新兵器である鉄砲を,近江の国友村で生産させ,はじめてこれを積極的に武力として採用したことが考えられる。つぎに近江の統一のためには,妹お市の方を小谷城の浅井長政のもとに遣わした。政略結婚といえばそれまでだが,それは並々ならぬ決意であったにちがいない。さらに天正4年(1576)に安土城*を築いた

安土城 安土城レプリカ

 その全貌は,一昨年12月,内藤昌氏によってはじめて明らかにされた。その壮策で奇抜な設計は,決して単なる近江支配の城ではなく,まさに天下人の城にふさわしいものであった。

 このようにみると,信長の統一は中途で挫折したけれども,全国支配が完成しても,安土城をすてることはなかったように思われる。これは一つの仮説であって,本能寺の変がなければ,秀吉も家康もどのようになったかも知れないのだから,余り意味のあることではない。しかしけっきょく三傑の存在も,信長によって決定づけられたといえよう。

 その点で最初の天下人が,尾張織田氏から生れたということが,いっそう重要である。そしてその地位が,守護斯波氏の守護代であったこと,さらにその家は尾張上四郡と下四郡の二家に分れ,しかも信長は上四部を支配する清州城主の三家老の一つの家に生れた。いわば伝統的な名家ではあるが,半国守護代の家の三家老の一という地位からみれば,まず尾張一国を支配することが,下剋上の風潮に乗ったともいえる。その場合,父信秀の勤王によってはやく京都からも認められていたことは,有利にはたらいたのである。

 もう一ついえば,信長には天下人という存在と矛盾するような,「かぶき者」ともいうべき一面があった。『信長記』には信長が父信秀の葬儀の時,その出立(いでたち)を「長つかの太刀,わきさしを三五(みど)なわにてまかせられ,髪ハちゃせんに春立,袴もめし候はず」と叙しているが,こうした異風こそかぶきの魅力であった。信長のかぶき的性格は,若い時から死の直前の御馬揃の時まで,一向にかわらないところがある。そういえば,かぶき者の典型で出雲阿国(おくに)の相手役,名古屋山三郎も織田の一族であり,『当代記」のかぶき者,織田左馬助も織田有楽の息子であった。山三郎に至ってはその名も名古屋である。

 天下人の周辺をめぐって,濃尾に隣接する近江を考え,織田氏を通じて伝統と下剋上の接点を見、信長のかぶき的性格に思い至ると,どうやら尾張の国のせいか織田氏の家のせいかは別として,かぶき者が天下人と同居していたことも判ってくる。

▶有徳の芸術

 すでにのべた桃山時代の性格から,その文化の特質も,権力を象徴し,黄金を横溢させ,珍奇にみちたものになったことは,周知のとおりである。そうしたものを一堂に集中させたものが,桃山の城館である。それは安土城に代表されるものであり,空高くそびえ立つ天主閣は,四周を金箔をもってかざり,その権力を誇示していた。城館の内部は金碧の襖絵をもって飾られ,そこにも王者の威を示す唐獅子*龍虎の図が飾られたものである。

唐獅子図狩野永徳

 この時代を代表する画家は,狩野永徳*・山楽*といった室町幕府いらい権力者の御用を果して来た流派が中心になり,雪舟の伝統をうける長谷川等伯*や雲谷等顔*,武家出身の気骨をもった海北友松*などがならぶ。こうした巨匠たちが,城館を飾ったのだが,これらの作品の枠鮎ミすべて襖絵であり,屏風であった乙とが注意される。さらにこの時代には蒔絵*などの工芸品も多くつくられたが,それらもすべて効用性を尊重した。陶器はいうまでもなく茶碗*であり花生*であって,生活用品にしぼられていた。

松林図

 このように芸術が,すべて生活のための調度として作製されるのは,東山時代からしだいに顕著になった事実である。それはその前後に芸術品の質的な転換があったと見ることが出来よう。すなわち宗教から人間への主体の変革である。そして人間のための芸術となった時に,作品の効用が問題になってきたのである。当時「徳」又は「有徳」とよばれたのは,儒教的倫理としての徳望の意味ではなく,経済的収入を意味する所得のことで,有徳とは富裕のことであった徳政といえば金銭の貸借関係を無効として,借人の所得をはかることであった。そのように得をするということは役立つことにも通ずる。こうして室町時代には徳には効用の意味が生れていたのである。和歌の徳とか管絃の徳とかいわれるもので,和歌も管絃も知っていれば得をするという意味の効用である。現在の御徳用品というのと同じである。

 桃山文化は,黄金を基礎としてこうした効用に裏打ちされており,その意味では「有徳の芸術」であった。実は城館という芸術の集約点が,最も効用を重んずる場所であったのである。それとともに黄金に対照的なわびの世界である茶室にしても,同じように効用の意味が大きかった。信長・秀吉の側近に侍して,茶道をうちたてた千利休は,天下人たちと並ぶ桃山の代表的人物であるが,利休を茶堂として活用された茶室は,しばしば政治的にも利用されたのである。一碗の茶を主客相共に味わうところに,協和の実を挙げることが出来たのである。これも茶の効用である。

茶碗-1

 茶道においては,東山時代の唐物の尊重から備前,信楽の国焼*が進出し,さらに利休の門下の古田織部によって,瀬戸焼*が重視されるようになった。古い陶窯であるが,瀬戸は桃山の時点において飛躍的に発展した。それは当時における濃尾の主要産業でもあった。織部は瀬戸の今焼のしかも「ひずみたる」ものをよろ乙んだという。いわば見すてられたものにも美を見出したのだが,それはわびに通ずるとともに,また効用の美でもあったのである。

 利休と織部は,茶匠としてきわめて対照的な存在であって,利休のわびは織部においてひずみであった。円いもののひずみは,直ぐなるものの傾きに通ずる。この傾きが「かぶき」の語原であった。

▶かぶきの世界

 かぶきは,家康のもとで朱子学を封建教学として樹立した林羅山(道春)によって,「歌舞妓」と書かれるようになった。阿国という男装の女性が主人公であったところから,当初は女偏であったが,のちには演侵そのものをさして人偏で書くようになった。道春は,この巧みな当て字を考えた点でも,なかなかの学者だと知られるが,その彼がこの歌舞妓を「出雲の淫婦九二の始めた卑喜区性舞」と称して,口を極めて罵倒した。その意味でも歌舞伎の世界は,反封建的な換言すれば自由で,解放的な世界を現出したといえる。

 それは秀吉も没し,関ケ原も終って,家康が征夷大将軍となった,慶長8年(1603)の春のことであった。桃山時代はいかにも遊楽ずくめの時代のようにいわれるが,信長時代の御馬揃でも,秀吉時代の北野大茶湯でも,民衆を主体とするものではなかった。それに比べると,慶長のこの春は,北野社頭に四條河原に,これまでの賑わいの上にかぶき踊が加わって,民衆の春を現出した。それはかぶき者の風俗が一つの芸能として定着した姿であったと云ってもよい。

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 つづいて翌9年は,秀吉7周忌に相当して,豊国大明神の臨時祭が執行される。それは伝岩佐又兵衛の「豊国祭図屏風」*にうかがわれるように,京都の町々を挙げての祭礼となり,「祭」というものの概念を全く一新してしまった。それはもはや神のものではなく,人々のものになっていた。もっともこの賑わいが,必ずしも素直なものでなく民衆のなかには豊太閤を追慕することによって,幕府の専制支配に抵抗する気分があり,家康の側でも大坂方への配慮から,多少祭を涌きたたせる刺戟を与えた気配も感じとられる。それと同時に敏感な民衆は,平和がそう長くは続かず,大坂方との決戦の其近いことを予感していたのである。しかしそれだけに刹那的な歓楽にひきつけられる側面も,なかなか大きかった。

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 その歓楽の主要な場となった祭や四季の行事につどう民衆の姿は,当時の画題としても最も歓迎されたのであった。「洛中洛外図」*という画題にしても,その成立はすでに戦国時代にあったが,桃山時代に入ってからは東西の政治的対立を背景としつつ,士女遊楽がその中心となっていた。「観能図」*というテーマにしても同様で,南蛮人をも交えた観客の動態に大きな関心がかけられたのであった。

観能図

 そのようにみると,そこに演ぜられる能もまた,幽玄を旨とした古典世界を素材とした室町時代とは異って,劇的趣向を中心とした現実世界を取扱ったものがよろこばれるようになっていた。京都を中心とした産業の発展も加わって,装束*や蒔絵の鼓筒*をみても,当時の現実をそのままに反映するものであった,といえよう。

▶桃山の女性

 歓楽が去ったあと,一抹の寂蓼が訪れるように,桃山の残照のなかにひらかれた元和・寛永の時代は,京都の贋ケ峰を中心に古典の香りの高い,公家と上層町衆の別世界をつくり出していた。贋ケ嘩に庵住したのは,いうまでもなく本阿弥光悦*であるが,光悦を中心としてそこには近衛信尋(後水尾天皇々弟,近衛信伊*養子)や烏丸光広といった公家たち,俵屋宗達*・角倉素庵*といった町衆出身の協力者たちが集っていた。これらの人々がひとしく仰いだ女性は,後水尾天皇の中宮,東福門院であった。

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 桃山時代を考えるものは,天下人にのみ心をうばわれてはならない。その蔭に咲いた女性たちのことも想い起してほしい。その文化が生活を中心とした調度であればなおさら,女性たちによってになわれた側面が大きいのである。最後に寛永の女人を東福門院に考えるなら,桃山時代をきりひらいた女性としてお市の方*を忘れることはできないであろう。彼女の夫,浅井長政の没後,さらに柴田勝家に嫁して,越前北ノ庄に夫と死を共にした。

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 お市の方は,画像によってもうかがわれるように,その美と気品はまさに桃山時代を代表するといってもよかった。小谷城が陥ちた時,信長に引きとられた三人の女は,長女はのちの淀君に,次女は要光院といい,京極高次夫人に,三女は崇源院といい,徳川秀忠夫人となった。いずれも母に劣らぬ美貌であったのであろう。そして淀君の生んだ太閤の一粒種・秀頬のもとに,崇源院が生んだ秀忠の千姫(のちに天樹院)が嫁ぐ。従兄妹(いとこ)の結婚であった。こうした婚姻関係を考えるとき,多くの人々は政略結婚の典型というのがふつうであるが,秀頼・千姫の間は,深い愛情で結ばれていたらしい。千姫はのちに姫路の本多忠刻に再嫁したが,彼女はその時もひそかに秀頼自筆の南無阿弥陀仏の六字名号を身に帯びて冥福を祈っていたという。絶ちきれぬ愛情になやんだのであろう。

 東福門院和子は,その千姫の実妹である。お市の方からいえば,ともに孫女である。その意味でもお市の方とその女系は,桃山の花であった。そして残照のなかにも光り輝いたのである。

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(京都大学人文科学研究所長)(*印は,桃山文化展列品解説参照)